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<東京怪談ウェブゲーム 界鏡現象〜異界〜>


【ホテル・ラビリンス】お茶会と鬼

 ダークスーツの男がロビーにあらわれると、誰もいないはずのロビーに、ひそやかな声なき声がざわざわと充ち始めた――そんな不思議な感覚があった。
 男は、ほの暗い光を瞳にたたえた壮年である。
「お待ちしておりました。田辺さま」
 彼を出迎えたのは、端正な顔だちのボーイと、フロントのカウンターに飾られている花をつけたホウセンカの枝であった。
 呼応するように、ロビーの片隅の古ぼけた柱時計が、ボーンと鳴る。男――田辺聖人は反射的に自分の腕時計を見たが、それは止まっているのだった。

「ようこそ。ホテル・ラビリンスへ――」

   † † †

「あら。田辺さんから?」
 碇麗香は、彼女宛に届いた郵便物の中から、その洋封筒を見つけた。それは他のDM類とともに白王社に届いたものだったはずだが、どこにも消印がなかった。

  ご招待状

  いつもお世話になっております。田辺聖人です。
  このほど、日頃の感謝の意をこめ、
  また、新作の発表もかねて、ティーパーティーを
  開催したいと思っております。
  ふるってご参加ください。

  日時:×月×日 ×時〜
  会場:ホテル・ラビリンス カフェダイニングにて

 それはそっけない招待状だった。
「問題は会場ね」
 麗香は唸るように言う。
「あのホテルのことは応接間の人からも聞いてるけど……。まあ、いいわ。私は行けそうもないし。招待状はいくつかあるから……、あなたたち、行ってきたらどう? 彼のケーキが美味しいことだけは保証するわ。他になにが起こるかは、わからないけれど」
 そう言って、麗香は居合わせたものたちに招待状を投げてよこした。彼女が含みのある笑みを唇に浮かべたのは、なにかあればきっちり取材して原稿にしてこい、という意味だったに違いない。
 そして、素養あるものならば気づいたはずだ。黒衣のパティシェ、田辺聖人から届いたその招待状に、不自然なほどの霊気がまとわりついていることに――。

■序

 ガタガタ、と窓枠が揺さぶられる音に、田辺聖人は部屋の外へと視線を投げた。
 彼の黒い瞳は、窓の外になにものの姿もとらえることはできない。ただそこには、『ホテル・ラビリンス』を取り囲む、鬱蒼とした木立が揺れているばかりだ。
 しかし。
 ばん!と、ガラスが割れんばかりの勢いでその窓が叩かれた。そう……何者かが、外から窓を叩いている。目には見えない何者かが。
 田辺は、ひややかな目でそれを眺めているだけだったが、小刻みに、室内の額や家具類が振動を始めるに及んで、ソファーから腰を浮かせた。
「田辺様」
 ノックの音。
「失礼します」
「これは何だ」
 ドアを開けてボーイがあらわれると、振動はウソのようにぴたりとやんだ。
「どういうことだ。ホテル内には手を出せないはずでは」
「ご安心を。ほんのこけおどしに過ぎません。たかだかポルターガイスト程度」
 ボーイの青年が穏やかに微笑む。
「お客様がお着きでいらっしゃいますよ」
「……。すぐに行く」
 スーツの上着を脱ぎ棄て、シャツの袖をカフスで止める。
 そして、黒いギャルソンエプロンを腰まわりに。
 ……退室前に、もういちど、窓の外に一瞥をくれる。やはりそこには何もなかった。

「フロントのホウセンカだけど」
 ロミオに案内されながら、シュラインは訊ねた。
「珍しいじゃない。ここって、施設にはギリシア風の名前がついてるし。そう……たしか、ダイニングは『ダイダロス』だったかしら」
「左様でございます」
「あの花……あなたが飾っているの。なにか意味があるのかしら」
「お見えになるお客様にふさわしいものを、と、考えております」
「ギリシア神話でホウセンカは、ぬれ衣を着せられた女神が汚名を晴らすために姿を変えたものだというけれど」
 シュラインの瞳が、面白がるようにボーイを眺めた。ボーイのほうは、あいかわらずの、微笑を貼り付けた仮面のような顔だったが。
「ぬれ衣というよりは、『とんだ災難』『逆恨みだ』と、申しておられました」
「……それって田辺さんが?」
「こちらです。どうぞ」
 すっと椅子を引いて、着席を促す。
「お待ちのあいだ、お飲み物をお持ちしましょうか」
「そうね。じゃあ、ペリエを」
「かしこまりました」
「田辺さんも、なにか『秘密』を預けている、ということよね」
 思案顔のシュライン。案内されたのは、午後の日差しが中庭から差し込む、カフェ・ダイニングの窓際の席。お茶会の開始までにはまだ間があるようだった。


■ホウセンカの花言葉

 わたしに触れないで


■不思議なお茶会

「集まってくれたことに感謝する」
 カフェダイニング『ダイダロス』に集まった面々を見回して、田辺は一礼をしてみせた。
「ケーキの前に、軽くサンドイッチとスコーンから楽しんでもらえればと思う。紅茶は一通りのものがあるようなので、希望をロミオに言ってくれ」
 ボーイのロミオ青年が、ワゴンを押してあらわれた。
 テーブルに順々に皿を配ってゆく。
「英国式の、アフタヌーンティーですね」
 ナプキンをとりながら、セレスティ・カーニンガムが言った。異界の狭間に位置するというこの『ホテル・ラビリンス』に、3度までも、泊まることになったセレスティである。「ケーキの前にサンドイッチだって。お腹いっぱいにならない?」
「そんなこと言って。ケーキは別腹でしょ」
 セレスティと同じテーブルについている、藤井百合枝とシュライン・エマは、顔を見合わせて、くすくすと笑い合った。
「でも、なんだって、このホテルでやるのかしら。ここのことは、いろんな人から聞いてるけど……」
 百合枝が意味深な表情を浮かべた。シュラインはそれに応えて、
「そうねぇ……。例によって、なにかの『秘密』が関係しているのかもしれないわね。田辺さんも、謎の多い人だし」
 と、微笑を浮かべた。
 ふたりがそんなことを話しているうちに、ボーイは客たちのカップに紅茶を注いでゆく。部屋中に、豊かな香りが充ちた。
「田辺聖人――、放浪の天才パティシェ。ひとつところにとどまって仕事をせず、お呼びがかかった先で気が乗れば腕をふるうそうだが」
 隣のテーブルにいた人物が、口を開いた。
「碇くんも太鼓判を押したとなれば、ひとかどの人材なのだろうな。……どっちの意味でも」
 背中を過ぎて長く伸びる、ウェーブがかった赤い髪。黒い細身のスーツに身をまとった、羽柴戒那だった。
「あら、それってどういう意味かしら」
 同じテーブルの女が、戒那の言葉を耳に止めて話し掛けてきた。
「……あるいは貴女も同じかもしれません。先月号のアトラス……『霊能力のある女性起業家特集』読みましたよ。黒澤早百合さん」
「まあ、わたくしをご存知。光栄だわ」
 いつにも増してドレスアップした装いの、早百合は、頬杖をついたまま、戒那を見つめ返し、艶然とした笑みを浮かべた。
「羽柴戒那。どうぞよろしく、レディ」
「こちらこそ。……本当にここは素敵なホテルだわ。今日は女性が多いみたいだけれど、それでも、こんな素敵な出会いがあるのですものね。それともこれって、運命か・し・ら」
 戒那をよく知るものであれば、早百合の言葉から、彼女が若干の誤解をしていることがうかがいしれたかもしれない。すなわち、この赤毛の麗人が、そう見えなくとも、れっきとした女性であることに、早百合は気づいていないのだ。
「ねェ、ヒゲ!」
 3つめのテーブルにいた少女が、田辺を呼ばわった。
「このサンドイッチとスコーンも、おまえがつくったの?」
「もちろん」
「ふーん」
 豪奢なレースがふんだんにあしらわれた、深紅のワンピースを着た、アンティークドールめいた少女だった。ウラ・フレンツヒェンである。
「まあまあね」
 サンドイッチをつまみながら、ウラは言った。
 皿の上には、キュウリとツナ、ハム、アンチョビをそれぞれの具にしたサンドイッチ、そして焼きたてのスコーンが並び、クロステッドクリームに、ブルーベリージャム、ストロベリージャム、マーマレードが添えられていた。
「ふふ、たまにはこういうものも、よいものだな」
 静かに、スコーンにクリームを塗りながら言ったのは威伏神羅だった。
 流しの演奏家として、三味線片手に、和装で夜の街を渡り歩く神羅も、今日は気を遣ったか、イブニングドレスである。それでも、かたわらには相棒の三味線を置いてあるのは、あとで一曲披露するつもりなのか、それとも……
「ほんまに。なんやけったいなトコに迷いこんでしもたと思うてたけど、お茶会やなんて嬉しいわぁ」
 隣に坐っていた女が、神羅の独り言に応えた。そして、問う。
「この三味線、あんたはんの?」
「ああ。そちらは」
「うち、妓音ちゃんゆいますのん。よろしゅうお願い申し上げます。三味線弾かはるんやね。うち、こう見えても、踊りやりますのん。よかったら合わせてくれはらへん?」
「ほう。それはそれは。私でよければいつでも」
 どちらかといえばシックな雰囲気の神羅に対して、妓音は、ワンピースの上から白地に牡丹柄の羽織をひっかけ、それもどこかしらしどけなく着崩した妓音は、まさしく牡丹のようにあでやかだった。そんなふたりに加えて、いわゆるゴスロリテイストのウラが同席するそのテーブルの眺めは、いささか奇妙なものだった。
 8名の客の姿を眺め、田辺は満足そうに小さく頷く。
「……それと、ひとつだけ注意があるんだ。皆、聞いてほしい」
 よく通る低い声で、彼は言った。
「今日は、ホテルからは出ないでほしい。ホテル内ならどこに行ってもいいが、中庭は別として、外に出ては駄目だ。以上、よろしく頼む」

■8つのケーキ

 虫抑えのサンドイッチとスコーンが皿の上から消えた頃、どこかへ席を外していた田辺が、再び、姿を見せた。
「では、そろそろ、本題のケーキのほうを味わっていただこうか」
「やっとね。待ちくたびれたわよ。不愛想なおまえがわざわざ発表会なんて開くくらいですもの。さぞ過剰なカロリーと脂肪分の塊なんでしょうねェ。キシシ、わたしの身体がコレステロールに飢えてるわ!」
「……そう聞くと、微妙に躊躇するわね……」
 ウラの身も蓋もないコメントに、苦笑の百合枝。
「でも、百合枝さん……これは、ねえ?」
「そうよ、アトラスの取材でもあるわけだし」
「食べないわけにはいかないわね」
「仕事だからしょうがないってことよね」
 シュラインと、言わなくていいようなことをあえて確認して、自身を納得させる。
 ボーイは手際よくサンドイッチの皿を片づけ、ワゴンに乗せた別の皿を運んでくる。
「これは……なんて美しい」
 セレスティが感嘆の息を漏らす。
「ほう、プチケーキ」
「ひとりずつ、違うケーキじゃないの」
 戒那と早百合が、それぞれの前に置かれた皿の上のものを見比べて、目をしばたかせる。
「何も新作はひとつとは言っていない。独断で、それぞれの一皿目は選ばせてもらった。まだまだ数はあるので、他の人のケーキも食べてみたければ後で味わってほしい」
「もちろん、全種類食べてみたいわぁ」
「器用なものだな、田辺……。解説をうかがおうか?」
 はしゃぐ妓音の姿に満足げに微笑を見せた田辺は、神羅に促されて、ひとつひとつの皿を指し、講釈を始めるのだった。

「まず、セレスティ氏の皿から」
 美貌の財閥総帥の前にあるのは、夏らしい、見目涼しげな一品だった。
 スポンジケーキの薄い土台の上に、ゼリーの層が乗っている。下へゆくほど濃い青緑へと色を変えてゆく微妙なグラデーションのゼリーの中に、濃い青紫色の魚影が泳ぐ。
 くす、とセレスティは笑みを漏らした。田辺は彼の本性が人魚と知って、あえてこの作を用意したのだろうか。
「《鯉魚(りぎょ)》と名づけた。――どうぞ」
 銀のスプーンをゼリーの層に滑り込ませる。すくいあげると、ふるふると揺れるのも涼しげだ。
「さわやかですね。水の部分は抑えた甘味が、魚の部分には酸味があります」
「どちらもブルーキュラソーで色づけをしてあるが、水の部分にはピーチ、魚の部分はレモンの果汁を使ったゼリーだ」
 ほんのり甘味のあるゼリーの中に、はじける酸味のあるゼリーを閉じ込めてあるのだった。

「続いて、こちら」
 シュラインの皿へと、人々の目が移る。
 すきっと立った円錐型のケーキに、うすい紫色をおびた、ふわふわする泡のようなものが、まとわりついている。その上からかけられたオレンジ色のソースが、皿全体を飾っていた。
「これにも名前があるの?」
 というシュラインの問いに田辺は、にやっと笑って、
「《白峯(しらみね)》」
 と答える。
「《鯉魚》に《白峯》ね。ふうん、なるほど。……どうして私が《白峯》なのか、気になるけれど……まあ、いいわ」
 ナイフとフォークでケーキを口に運ぶ。
「ケーキはチョコレートシフォンみたいだけど、この、ふわふわはメレンゲね。メレンゲとソースはオレンジの風味」
「メレンゲは山中にただよう霊気をあらわしている。オレンジは……白峰山のある松山はミカンの産地なので」
 あとで、アトラスにレポートを提出することを意識して、シュラインはメモを取る。
 その隙に、解説は次へと進んだ。

「次は私のね。きれい」
 百合枝の前にあるのは、透き通った飴色の網のようなものに包まれたものだった。
百合枝が飴にナイフを入れると、ぱりぱりと音を立ててそれは崩れた。
「外側の部分は、べっこう飴だ」
「中身は……フルーツのタルトかしら」
 網に包まれていたのは、桃にグレープフルーツ、マスカットなどの、コンポートと思われるものを載せたタルトの器だった。
「おいしい。これはなんていうの?」
「《浅茅ヶ宿》」
「さびれて、雑草が生い茂った小屋を、飴のネットで表現してるのね」
 シュラインが口を挟んだ。
「中にはフルーツ……おどろおどろしい中に、素敵なものが隠れていた、というわけ?」
 田辺はあえてなにも応えず、謎をかけるような微笑を、唇に登らせただけだった。

「黒澤さんのケーキです」
「あら、早百合って呼んでくださらない?」
 早百合は艶めいた表情で言った。
「わたし、田辺さんの大ファンなの。お会いできて光栄だわ」
「こちらこそ。早百合さんにふさわしい一皿を選ばせてもらったので、どうぞ。――名は《蛇性》」
「《蛇性》……」
 なにやら暗示的な名のそれは、円錐に近いタワー型で、皿の上にそびえていた。
 おそらくババロアかムースと思われるそれは、濃いこげ茶色と、やわらかなピンク色との対照的なツートンカラー。ピンクの部分が螺旋状に、茶色いタワーにからみつく様相だった。
「茶色の部分はチョコレート、ピンクの部分はイチゴかしら? あら、中にもイチゴ……?」
 ムースのタワーの中には、赤い果実がひそんでいた。
「それは蛇苺」
「えっ!?」
 ふふふ、と、田辺は笑った。むろんそんなはずもない。赤い果実はラズベリーだった。

「私の番かな」
 戒那は、自分の皿を見下ろした。
 彼女の前にあるのは、一対のプリンのようなものだった。ひとつは黒、ひとつは白。下の皿にはちょうど上に乗るプリンとは逆の色のソースがしかれていて、皿全体がいわゆる陰陽(インヤン)マークのように見える。そして白のプリンの上には、棒状のチョコレート片、黒のプリンの上にはちいさな菊の花が乗っているのである。
「菊と刀、か。意味深だね」
「《菊花》――。黒いほうは黒ゴマプリンでカスタードのソース。白いほうはレアチーズケーキでカラメルソースだ」
「菊花の契り、というわけか。シュラインくんではないが、これが私に選ばれたのが何故か気になるね。……ん、絶品」
「ちなみにその菊は食用なので」
「おやおや、それは気が効いている」

「待ちくたびれたわよ、ヒゲ! だいたいケーキにいちいち能書きたれるのがまだるっこしくていけないのよね。美味しければいいの!」
 ウラが、脚をばたばたさせ、ヒールを絨毯に叩きつけながら言った。
「まあ、そう言うな。ウラのも美味しそうじゃないか」
 迎いに坐る神羅が苦笑まじりに言った。
 ウラの皿にあるのは、こんもりと丸い、パイ生地を焼いたように見えるものだった。
「周囲はパイ。中身は……」
 ウラがナイフを入れると、中にはチョコレート色の、しっとりと濡れたものが詰まっているようだった。
「なんだか地味じゃなァい? ……あら」
 中身を口に運ぶと、少女の目の色が変わった。
「甘いけど苦い。大人の味ね」
「スポンジケーキにたっぷりのブランデーとチョコレートを浸してある。これが《吉備津》だ。見た目はなんだが濃厚な味わいは、お気に召してもらえると思うが?」

「《鯉魚》《白峯》《浅茅ヶ宿》《蛇性》《菊花》《吉備津》……ときて、さて、私のだが」
 神羅は面白そうに、自分の皿に目を落とした。
 軽そうな薄片が無数に積み重なったかたまりの上に、あざやかに青いゼリーのようなものが乗っている。
「私にコレを選ぶのか、田辺」
「名前がわかるか?」
「無論だ。…………《青頭巾》、だな?」
 てっぺんのゼリーを取り本体にナイフを入れると、それはたやすく、ぼろぼろと崩れていってしまう。
「姿はまぼろし、本体は頭巾だけ、というわけかな」
「頭巾はミント風味のゼリー。本体はミルフィーユでつくった。それだけでは食べ応えがないので、底にカスタードのタルトが隠してある。ご批評があれば、承ろうか」
「小癪な芸を」
 神羅は唇の端を吊り上げた。

「うちがとりになってしもたわぁ」
 けらけらと、妓音は笑った。
「待ちくだびれてしもて。あんまり、おなごを待たせたら、あきまへんえ?」
「これは失敬。さて、最後の皿は……」
 大小のフルーツ片が、薄い黄金色のソースの中に散ってる皿だった。
「リンゴ、バナナ、オレンジ、黒ぶとうに白ぶどう」
「いろんな味が楽しめるんやね。お得やわぁ。うちフルーツ大好き」
 嬉しそうに、ナイフとフォークを手にとった妓音を、しかし、田辺は制する。
「待った。これはまだ未完成」
「え?」
 あらかじめ打ち合わせてあったのか、すっと、歩み寄ったロミオが、着火器を皿に近づけると――
「いやあ」
 歓声。皿に敷かれていた、薄い黄金色のソースが、ぽっ、と、青白い炎を発して燃え上がったのだ。
「フランベしてから味わってもらう。香ばしくなるはずだ。これが最後の一品……《仏法僧》」
「『はや修羅の刻にや』――か」
 うたうように、神羅が言った。そして、息をつく。
「見事だ、田辺。見事だよ」

■甘い夕べに

 その後、各自が自分のために選ばれた一皿目を堪能したあと、希望に応じて二皿目、三皿目が運ばれた。
 たっぷりと、ケーキと紅茶のおかわりを皆が楽しんだ頃、ボーイがあらわれて、ひとまずのおひらきを告げるのだった。
「本日はいかがでしたか。中庭のほうにお席を用意しました。お酒もございますので、この後、まだお召し上がりになりたい方はそちらへ。ご休憩なされる方は、遊戯室かお部屋のほうへどうぞ」
 すでに空は暮れている。中庭には、灯りがともされていて、そのあいだに、ちょっとしたガーデンパーティのしつらえがされているのが見てとれた。
 一座は腰をあげ、三々五々、ホテル内に散りはじめるのだった。

「なんだか懐かしいような匂いがしていると思ったら……図書室だわね」
 ウラは、ケーキは充分堪能したのか、一人でふらふらと、ホテルの中をさまよい歩いていた。
「ずいぶん古い本ばかり、集めてあるのねェ」
 革の背表紙を目で追ってゆく。
「あ」
 その中の一冊に目をとめ、棚からひっぱりだす。
「この本って確か……」
 ぱらぱらと捲った頁の中に見つけた、見覚えのある筆跡。本の中に、書き込みがしてあるのだ。
「クヒ、ヒヒヒヒヒッ」
「なんや面白いことがありますのん?」
 いつのまにか、妓音が図書室をのぞきに来ていた。
「アハハハ、ハヒヒッ、面白いも面白くもないもあるもんですか。この本、どうやってこんなところに流れついたのかしら!」
 重たい本を、どさり、と妓音に押し付ける。彼女は困ったように、
「いやぁ、外国語やわ。うち、こんなん、よう読まれへん」
「あら残念ね。その呪文、唱えたらどうなると思う?」
「どうなりますの?」
 そのときだった。それにこたえるように、どこか地の底から聞こえるような、いんいんと響く声を、彼女らは聞いた。
(ダ・マ・シ・タ・ナ)
「キシシシ、騙されるほうが馬鹿なのよ。あたしのイタズラ書きを、イタズラと見抜けない魔術師なんて、灰になってトーゼン」
 ざらざらざら――
 部屋の四隅から、灰が、雨漏りのように零れ落ちてくる。
 それは床の上で、生き物ようにうごめき、しだいに何かの形をとりはじめる。
「なァに? やる気ィ?」
「いややわぁ、ウラはん、おなごがそんなはしたない口をきくもんやおまへんえ」
「だってぇ、うざいんだもの。エイっ」
 タン、とかかとで踏むステップ。ばちん!と空中に紫電がはじけたと思った次の瞬間、しかし、図書室には何の異常も見当たらなかった。
「あら、消えちゃった」
「ほんま。不思議やわぁ……」
「…………なんだったのかしら。まぁいいわ。なんだかまたお腹が減っちゃったわ。ヒゲになにかつくらせようかしら」
「うちもお相伴してよろしい?」
「勝手に来なさいよ。ヒゲ! ちょっと、どこなの?」
 騒がしいふたりの女が去りさえすれば、『ホテル・ラビリンス』はいつものとおり、静謐な空気にまどろむようであった。

 一方、絵画の飾られた回廊を歩いているのは、戒那である。
「これはエッシャーじゃないのか。レプリカか? それにしては……」
 聞いた話では、貴重だが異様な絵があるということだったはずだ。ひそかに楽しみにしていた戒那なのだが。
 並ぶ額の中には、「老婆と娘」の騙し絵や、ルビンの壺、田園風景がいつのまにか白と黒の鳥の錯綜へと変わるエッシャーの「昼と夜」……どこか意図的なセレクトなのだ。
(つまらんな)
 戒那はそんなふうに思った。
 ――と、廊下の向こうから杖をついて歩いてくるセレスティの姿をみとめた。
「やあ。絵画の鑑賞ですか」
「ええ。ここではこれも愉しみのひとつなのです。名も知らぬ画家のものが多いのですが、なかなか趣味がいいですからね」
「そう……ですか?」
 怪訝な顔で、戒那は応えた。世界でも有数の美術品コレクターでもあるリンスター財閥の総帥がエッシャーを知らぬということもあるまいが……
「!」
 ……それでも、戒那の表情はぴくりとしか変わらなかった。
 ほんの一瞬、まだたきさえせぬうちに、廊下の絵がすべて変わっていたことにも。
 あるいは、廊下を向こうから歩いていたセレスティには、最初からこの絵だったというのだろうか。エッシャーの「昼と夜」のように。
 今、ふたりの前にあるのは、一組の少女を描いたものだった。
 まっすぐな長い髪の少女が、もうひとりの少女に、そっと目隠しをしている図柄だった。しかし、奇妙なことに、少女たちの顔は描かれていないのである。
 表題は――
「『姉妹』。不思議な絵ですね」
 セレスティは言った。
「…………」
 戒那は、一見して顔つきは変わらなかったけれども、もし彼女をよく知るものがいたなら、「難しい顔をしているな」と思われたかもしれない。ややあって、隣の絵に視線を移す。
 そこにはひとりの少年が描かれていた。少年は、崖っぷちのようなところに立っているが、平然とたたずんでいる。しかし崖の下は……燃え盛る山や、血の池が沸き立つ、地獄のような風景なのだ。
「これは……『弟』? 男の子ひとりの絵なのに『弟』か」
「この少年……、田辺さんに似ていませんか?」
「ん? そういえば……」
 ごう――
 ふいに、かれらの耳を奪ったのは、窓の外の風の音だ。

 中庭には、田辺をはじめ、残りの面々が集っていた。
 すこし離れた木陰の席に、神羅が坐って、遠目に田辺の姿を見遣っている。
「素敵よねぇ、田辺さん」
 声にふりむけば、早百合が傍らに立っている。
「そうか? 菓子職人の腕はみとめてやってもよいが……それをのぞくと、ただの中年ではないのか」
「あら」
 意外なことを聞いたとでもいうように、早百合は目をしばたかせた。
「そんなこと言うわりには、あなた、田辺さんを見る視線が熱いんじゃない?」
「な……、なにを言うんだ。私はなにも――」
「それはそうと」
 はぐらかすように、早百合は続けた。
「あの招待状の霊気。何だったのかしら」
「……気づいていたか」
「すこしでも感覚のある人なら誰でも気づくわ。でもここは……いつも妙な空気だからどうもよくわからないのよねぇ」
「それは私も思っていた。あるいは、あやつの身になにか、とも思っていたのだが」
「ん……、まあ、その予想は」
「当たらずとも遠からず、か――」
 ごう、と風が鳴った。
 神羅の動きが、見えたものはいただろうか。そよ、とも動いたとは見えぬのに、彼女の手はがっしりと、風に乗って空を駆けるその異形の存在を掴んでいたのだ。
 ずばん、と、早百合の手の中にいつのまにかあらわれていた霊剣――大鉈が包丁じみた凶悪な刃――が、それをなぐと、それは血のかわりにけがれた気をまきちらし、それさえも、霧散して消えうせるのだった。
「お見事」
「いやだわ、私ったら」
 恥らったように、早百合は霊剣を消した。
「穢れから自然発生する下級の幽鬼だな。陰の気がこの建物を包んでいる。そういえばさっき、ここから出るなと言っていたな。まさかお茶会など口実ということは……」
「こんな言葉知ってる?」
 早百合は言った。
「『愛とは信じること』」
「……だからそれはどういう意味だ!」
「さぁねぇ」

 当の田辺は、そんな騒動にも気づいた風もなく、シュライン、百合枝と話に興じていた。
「ところで、田辺さん。気になることがあるんだけど。今日のケーキ。シリーズはあれで終わりじゃないんでしょう?」
「どういう意味かな」
 あくまで今日はホスト役である田辺は、クラッカーにフィッシュディップを塗ると、オリーブを乗せて、シュラインに渡しながら問い返した。
「どうって、言葉通りの意味よ。『雨月物語』の見立てなら、物語は9つあるはずよ。でも8品だったわ」
「お客が8人だったろう?」
「んー。なんか納得いかないわ」
「そういえば、田辺さん」
 シャンパングラスについた口紅の跡をふきながら、百合枝が口を開く。
「あの招待状、もしかしてこのホテルから出したの」
「そう。ここのレターセットだ」
「ふーん。じゃあ、そのせいだったのかしら」
「何か?」
「なんか妙な感じだったから……」
 百合枝の皿が空いているのを目ざとく見つけて、田辺がキッシュを一切れ、そこに盛った。
「ちょっと、もう食べれな――」
 刹那。
 ゆらり、と揺れた炎の向こうに、彼女は、その光景を見る。
 すなわち、田辺が誰かと話している姿である。相手はわからない。
(冗談じゃない。たしかにあれの捕縛のためにこっちの霊能者や退魔師に情報を流したのは俺だ。だからって、俺が狙われるいわれはないぞ。……身を隠せ、ってそんな簡単に…………なに、『ホテル・ラビリンス』……?)
「…………」
「……? どうかしたか」
「え。あ、いや。なんでもない……の」
 百合枝はまばたきをした。
 なるほど。
 宿泊客は誰でもひとつ、『秘密』を抱いてやってくる――。

 そして今夜も、『ホテル・ラビリンス』の夜は、数々の謎を残したまま、更けてゆくのであった。

■結尾

「本日は、おつかれさまでした」
 誰もいないダイニングに、ひとり、田辺の姿があった。
 シャツの襟も開けた、くつろいだ様子である。
「世話になったな」
「当ホテルを、お気に召していただけましたか」
「異界の狭間に建つ、時のないホテル、か――。俺のようなものが日々、ここに匿われているのか」
「みなさま、ご滞在を楽しむために、いらしていただいております」
「ふん」
 ことり、と、皿を一枚、ロミオに差し出す。
「……これは」
「組ケーキ『雨月』、最後の一品、《貧福論》。このホテルそのもののために」
 四角く切ったブラウニーの上に、散った金箔。
「ありがたく頂戴します」
 ボーイは、謎めいた笑みを浮かべた。
 そのとき、いつもなら動いていないはずの、ロビーの時計が、真夜中の十二時を刻む音が聞こえてきた。田辺は大きく息をつく。
「やれやれ、ようやく時間か。これで俺を追っていたあの鬼も、黄泉に送還されている頃だろう。吉備津の釜や、牡丹灯篭よろしく、騙されて食われることもなくなった」
「ええ。チェックアウトされれば、田辺さまは安心してお帰りいただくことができます」
「それでおまえたちは何を得た。あいつらを俺に集めさせたのは、単にもしもに備えてホテルを護らせただけではないのだろう?」
「……ご存知のはずです。当ホテルでは、金品による宿泊代は頂戴いたしません。ただ、お泊りいただいた方の『秘密』をいただくだけだと。田辺様は特別なお客様でございます。田辺様お一人だけの『秘密』では、いささか、つり合いませんので」
「俺のケーキは客寄せか」
「そういった類は、いずれのホテルでも行うことです」
「言いやがる」
 田辺は笑った。
「また当ホテルがお役に立てることがあれば、どうぞまたご利用下さい」
 そしてボーイは、優雅に一礼するのだった。
「またのお越しを、お待ち申し上げております」

(了)

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■   登場人物(この物語に登場した人物の一覧)  ■
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【0086/シュライン・エマ/女/26歳/翻訳家&幽霊作家+草間興信所事務員】
【0121/羽柴・戒那/女/35歳/大学助教授】
【1873/藤井・百合枝/女/25歳/派遣社員】
【1883/セレスティ・カーニンガム/男/725歳/財閥総帥・占い師・水霊使い】
【2098/黒澤・早百合/女/29歳/暗殺組織の首領】
【3427/ウラ・フレンツヒェン/女/14歳/魔術師見習にして助手】
【4790/威伏・神羅/女/623歳/流しの演奏家】
【5151/繰唐・妓音/女/27歳/人畜有害な遊び人】

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■         ライター通信          ■
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お待たせしました。『【ホテル・ラビリンス】お茶会と鬼』をお届けします。
いつにも増してミステリアスな内容になっております。すべての謎をあきらかにはしておりませんが、そこはそれ、真相は迷宮の果て、ということで。

今回のゲスト、田辺聖人氏に、素敵なケーキの数々をつくっていただきました。本ノベルの目玉は、田辺氏にのりうつったリッキー2号が頭を振り絞って空想したケーキにあります。まったくの空想なので、類似品があっても偶然です。そしてこんなふうにつくってみても、美味しいかどうかは知りません(笑)。以下、おさらい。

■組ケーキ『雨月』
《鯉魚》ブルーキュラソーのゼリー、ピーチとレモンの風味
《白峯》チョコレートシフォンケーキ、オレンジ風味のメレンゲ添え
《浅茅ヶ宿》フルーツのコンポート・タルト、飴細工包み
《蛇性》イチゴとチョコレートのババロア、ラズベリー入り
《菊花》黒ごまプリン&レアチーズケーキ、カスタードとカラメル、二種のソースで
《吉備津》洋酒とチョコレートのケーキ、パイ生地包み
《青頭巾》ミルフィーユに隠れたカスタードタルト、ミントのゼリー乗せ
《仏法僧》各種フルーツのフランベ
《貧福論》チョコレートブラウニー、金箔乗せ

それぞれの名称は、もちろん『雨月物語』に収められた怪異譚からいただいており、形状もなんとなくそれらをイメージしております。

>シュライン・エマさま
いつもありがとうございます。
そういえば、前回は、せっかくお越しいただいたのにゆっくりできませんでしたものね。今回は、ゆったりとご宿泊をお楽しみいただけたのではないでしょうか。
さて、シュラインさまが何ゆえ《白峯》かと申しまするに、魔王に果敢に論戦を挑む西行法師の知力・胆力がシュラインさまにぴったりだからです。……ホントですヨ?

このたびは、ご宿泊ありがとうございました。
またのお越しを、お待ち申し上げております。