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<PCシチュエーションノベル(ツイン)>


忘れ水と微笑を

 午前中の日差しはまだ良い方だった。晴れた中にもそれなりに雲が残っていて、時折強く涼しげな風が吹き、セレスティ・カーニンガムの自室、そしてその下に広がる庭園の花々を揺らし、甘い香りをカーテンの揺れと共に運んできたのだから。

「こうも連日暑いと外に出ている者達の体力がある意味、羨ましくなりますね…」
 先日書斎から持ってきた稀覯本の数冊かをセレスティは自室に持ち帰り読んでいたのだが、流石の暑さに参ってきたのか長い銀髪を首元に触れぬ様肩の方に流すと、袖にスリットが入った黒い服から白い腕の肘が少しだけ覗かせ、熱に参った肌を見てため息をつく。
 そもそも黒い服を着ている時点で暑いようなものであるが、セレスティはこういう時外には出ず、屋敷で寛ぎながら過ごしている為、材質と風通りの良さを追求した服装が一番適してい、色などは二の次なのだ。

(そろそろ読書も終わりにして何処かで涼むとしましょうか…)
 少しでもいつより暑ければセレスティの本性である種族は干からびてしまいそうな気分にもなる。あくまで気分であるが、そんな気持ちで過ごしていては何も楽しくないというもので、先程部下であるモーリス・ラジアルが持ってきたアイスティーを最後まで飲み干すとみずみずしい音を立てながら浮いていた氷が割れ、中からカモミールの花が顔を出す。
「外に近いなら屋内プールですかね…いえ、でも一番近いなら……」
 モーリスの心遣いを嬉しく感じながらも、涼む場所を先に言葉に出してしまうのは昼の刺すような暑さのせいだろうか。爽やかに咲くカモミールの白と黄色に一度は屋内プールの窓のある場所で目の前に広がる花々を覗きながらの涼みも良いかとは思ったのだが。
「日差しが…入りますね」
 ふと、一番嫌な対象である日の光を苦く感じ、セレスティは苦笑しながら車椅子の向きを変える。考えていても仕方ないというより、この場合は早く涼みに行かなければ身体が暑くて考える事すら間々ならないからだ。

(結局浴室という判断に落ち着きましたが…窓が小窓なのが少し惜しいでしょうか…)
 寝室の隣に併設された浴室は自らの部屋には劣るもののかなりの広さで、実際浴槽という言葉より水槽という言葉の方が理解しやすいだろう。セレスティにとって水のある場所は何をとっても必要不可欠。大抵どの屋敷、どの別荘にも備え付けられている憩いの場である。



「水の中で音が無いのは寂しいですね。 ええと…」
 浴室では音楽をかけるという設備も整っていて、特に響きの良いこの環境で聴く音楽は生の演奏までとはいかないものの、随分と迫力のある音質を楽しむ事ができた。
 セレスティの寝室の隣である筈がその大きさゆえに少しだけ車椅子を歩ませ、その先で杖を持ち替え、服を軽いパレオのみにしてしまえば今一度自分が元々人魚であると再認識できたし、浴槽に近づくにつれ、車椅子も、杖さえも必要は無くなる。兎に角、水の中に入ってしまえば自分は自由そのものなのだから。

「日差しの強い日に大音量というのは少し暑苦しいかもしれません。 そうですね、最初はアヴェ・マリアから…」
 音楽機器を物色するわけでもなく、ただ数度手を鳴らしただけでシューベルト作のアヴェ・マリアが静かに浴室を満たしていく。
 それは外に部下が待機しているわけではなく、この部屋を作った時に元々つけた機能であり、セレスティの手の叩く音やその加減、回数によって気に入った数曲が自動的に流れる仕組みになる、つまり音のセンサーだ。
(人の間では水風呂…とでも言うのでしょうか…私にとっては当たり前の空間なのですけれども)
 勿論、この暑さで湯につかるわけではなく、入ったのは水の透き通った涼しい中。通常の人間なら少し寒いと言うところだろうか。考えてみれば随分と人より違った物を楽しむものだと、自らの事だというのに考えてしまう。

「案外暇、という言葉がそうさせるのでしょうか?」
 いつも趣味を仕事としているようなもので暇という時間を過ごすという気分をしっかり感じていなかった、そうセレスティは思い、投げ出すようにした肢体を水に浸しながら頭を顔だけ出すようにして宙を見た。
 天窓はあるが開いてはいない。日差しの強い光が入ってきては元も子もないのが一番の理由だ。なのだが、それにしてもこのままでは随分味気ない時間を過ごしてしまうのではないか。

「モーリス。 居りますか? ええ、少し遊びの相手でも…」
 流れる雲のように泳いだセレスティは一度跳ねるように水飛沫を上げ、携帯機器のある浴槽の側まで寄った。足のせいでもあり、屋敷をより効率的に使う為、大抵手の届く場所に携帯機器や音楽設備、はたまた空調管理機器も置いてあるのは正解と言えるだろう。
 今もこうして自分の役に立っているのだから、これを歩く事を拒否している、怠惰だ、というのは多分少し、置いてある器具に失礼だ。

 携帯で話すモーリスの声はいつもの凛とした口調と寸分の乱れも無く、寧ろ清々しい程にこの暑さをなんともないと笑ってのけてしまうような声でセレスティのチェスの相手をしに来ると声色だけで礼をとり回線を切る。
「チェスというのも久々でしようか。 本ばかり読んでいたので果たして…」
 あのモーリスに勝てるでしょうか、などという口は随分と軽く。はたから聞けば全くそんな事を考えていないであろう響きであった。



「チェスは濡れても平気な物をお持ちしましょうか。 後は…ミントの葉を乗せたアイスでも…そうですね少しシンプルな方が暑さには良いでしょう」
 セレスティから連絡を受けたモーリスは庭園の仕事も早々に屋敷内を転々と移動する。
 同じチェスと言っても芸術品という付属詞の付く物がもう数百以上は存在するのだから、主の好みや思考をある程度読み取れる人物ではないと遊び相手すら務まらない。携帯機器の置き場所から察するに水気の多い浴室からの連絡であり、こういう時には美術、芸術よりも多少新しいが機能と見目すら涼しい硝子製のチェスが好ましいのだ。
(アイスティーは先程お持ちしましたし、少し涼む程度が一番でしょうね)
 いくら美味なアイスティーも飲みすぎればただ具合の悪くなる一品でしかない。ならば小さく盛ったバニラアイスにまた庭園のハーブを乗せて口元の冷気を楽しむほうが良いだろう。ここでいつも自分が世話をする庭園のものが出てくるのは単にセレスティに喜んでもらいたいという念もあるが、少しでも太陽の当たる場所の品を楽しんでもらいたいという気持ちもある。

 何より太陽、そしてその光が強ければ強いほど身体のいう事が聞かなくなるセレスティなのだ。逆に太陽を好む植物を美しいとその場で見られないのはきっと主も寂しいであろうと。
(それにしても浴室ですか…。 この格好では不味いかもしれません)
 全てを整え、いざお持ちしようとした時、自分が今までスーツのまま移動していた事に気付く。仕事中であり、舞踏会や社交会とは違うのだ、スーツで居て当たり前なのだが如何せん、このまま浴室に入れば確実に変な湿気で布質が悪くなってしまうだろう。

「仕方ありません」
 主の前で正装をしないのもどうかとは思ったが、入って逆に暑苦しいと言われては遊び相手の意味もない。
 モーリスはとりあえずスーツのジャケットとタイを外し、白いシャツの袖を濡れぬように捲くる形でもう一度チェスとアイスを持ち直す。これ以上どう服装を変えようにもアイスは溶けてしまうだろうし、何より主を待たせてしまうのは良くない。

「失礼致します」
 浴室の扉は二重になっていて、一度目の木製の扉はそのまま、二度目の扉で何度かノックをすれば、待っていましたよとセレスティの、この季節にしては弾んだ声が耳に入った。
「モーリス。 もう少し涼しい格好は出来ないのですか?」
 矢張り思った通りである。いくら腕が見えているとはいえ、スーツの下を穿いたままというのはまだ暑苦しかっただろうか。
「しかし、手持ちのアイスが溶けてしまうので…」
 良い訳に過ぎないのは承知でモーリスは苦笑する。涼しい格好、考えれば私服の下は大抵長いものだし、ここで上だけでも軽く胸の開いたような物を着てきても逆に主は貴方らしくないと笑いながら目を見開くのではないだろうか。

「ふふ…そうですね。 そういう所が案外モーリスらしいのかもしれません」
 含みのある微笑で、セレスティはアイスの入った銀の容器を開けると嬉しそうに微笑んだ。
「ミントももうここまで育つ時期でしたか…茶会で庭園にはよく行っているつもりでしたが、見ていない所にもまだ緑が沢山あるのですね」
 バニラの甘い香りを口にしつつ、チェス板を広げ駒を配置する手は相変わらず慣れていて、浴槽に浸かっているその指から滴る水滴も硝子の板に星のように散らばり、主と同じように美しい。
 だが本人は添えてあるミントの葉で香りを楽しむように目を細めた後、少し寂しげに微笑んだ。

「季節折々の花々は私がお持ちいたします。 さ、セレスティ様の番ですよ」
 儚い笑顔もまだ見て居たい気にもなるのだが、永久に続く時の中でいつもこの時期を憂い気に見つめている主の姿はあまり嬉しいものではなく、モーリスは早々に先手を打つと今度こそは勝ち星を手に入れて見せます。と、不敵に微笑む。

「怖いですね。 暫くチェスもお休みしていたのですから、主に勝ちを譲るという気にはなれませんか?」
 悪戯のように言葉を発すれば、また主から同じように口の端だけで言うような軽い口調が返ってくる。
「いつも譲っているではありませんか。 それに、本気を出して挑まなければ決してセレスティ様には勝てない」
 チェスの板の上で繰り広げられるのはある意味での国とり合戦。なのだが、そのゲームを楽しむ二人はどちらかというとじゃれ合いながら今まで何年も続いた言葉のゲームの再開を楽しんでいる、といったところだろうか。

 しかし、どう言葉で繕おうとも、どんどんモーリスの手はセレスティの駒に追いつかなくなり、これで勝ちを譲ってくれ、というのはどの口だろうと苦笑した。
「相変わらずお強い。 ここは可愛い部下にも花を持たせてくれませんか?」
 あと2、3手あればセレスティの駒はモーリスの駒にとどめをさしてしまうだろう。そもそもこの状態から勝ちを持たせる方が難しいのだが、冗談で口走った言葉は主にどう届いたのか、一度目を丸くされ。
「モーリスのそんな顔をまた見られるのなら譲ってあげてもいいかもしれませんね」
 逆に屈託の無いように見せかけた、一番怖く甘い毒である笑顔を向けられ、最後にはモーリスが目を丸くしそうになってしまう。

「貴方という方は…」
 一番長く側に居て、一番勝てない相手。そして、一番モーリスの調子が狂う言葉や仕草を心得ている。それが主であるセレスティ・カーニンガムなのだともう何百回も認識させられてきた事を改めて理解した。
 と、同時にまだ2手は動かせた筈の駒があっという間にチェックメイトゾーンを奪う。白く濁った駒が浴槽の水に濡れ透き通ってい、主そのものだ。
「よそ見をしているから早く手を決められてしまうのですよ?」
 子供のように笑うセレスティは、モーリスの漆黒のキングをまるで自分と同じ透き通った駒のような白い指で摘む。
「どこを見ていても貴方に勝てた試しはありません」
 いつも真剣そのものだというのに、どうしてこうも多彩な知識的遊戯を全てこなしてしまうのか。少しくらい自分の方に理があってもいいものを、なんなく先へと行ってしまうのがセレスティなのだから仕方が無い。
「おや、それでも案外続けていけばもしや…という事もあると思いますけれど」
 口に出す言葉は、それでも更々負ける気はしないと公言されているようで、ここに別の部下や使用人が居なくて本当に良かったとモーリスは思う。
 本来プライドは高い方なのだと自負してい、少しでも別の人間の前で、いや、多分この主以外の人間に負ける所などは見られたくは無いし見せたくも無い。

「ではお暇があれば、また相手をしてくれると?」
 続けていく、という事は即ちまたの機会があるという事だ。
 しかもこういったゲームをする事は多く、近くに居るのならば尚更相手をモーリスに絞ってくれるという意味合いもこめて、新緑の瞳を細める。
「ええ、暇さえあればいつでも」
 案外軽く答えたセレスティはドライアイスの保護でまだ冷たさや形を保持しているバニラを口に運び、満足そうに微笑んだ。

「ですが、あまり暇ですと遊びもただの怠惰になりかねませんけれどね」
 つまり、また趣味に目をむけ、暫くチェスはお預けという事だ。

 いつも読む書物、集める絵画やテディベア、アンティークドール等全てが主を欲している。結局の所、セレスティはそういった愛する嗜好、趣味に走っていってしまうわけで、遊びとされるものは時々するからこそ楽しいのであり、続けていればただ自分自身に目を向けないだけの怠惰だと。
「了解しました。 ではいつかまたの時期を、首を長くしてお待ちしております」
 いつか、というのはセレスティにもモーリスにも何時の話になるのだろう。明日かもしれないし、はたまた何世紀後かもしれない。ただ、いつも主は一定の周期で暇に見舞われる人物であるから、きっと今度またゲームの相手をしてくれるのはそう遠くない未来であろう。

「ではもう一回。 今度は本気で動いてくださいね、モーリス」
 微笑したセレスティは浴槽の水を跳ねさせ、また少し気持ちの良い涼みがあたりに散らばった。
「ですから、いつも私は本気です」
 知能戦には長けているというのに、本気で言っている言葉すらしっかり受け取ってもらえない。それが今のセレスティとモーリスのゲームの結果なのである。

 いつか、本当にセレスティの言う通り、あと数年。いや、数世紀でも良い。時間が経てば勝つ事が出来るものなのだろうか。
 とりあえず、ドライアイスの淡い煙と共に冷え切ったアイスが溶け切るか、セレスティの涼みの最後の一口になるその時までの勝負では全く勝てそうに無いモーリスなのであった。


END