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<東京怪談ノベル(シングル)>


ゆったりと、ゆっくりと。〜或る心理士の午後〜


 都内某所。
 まるで隠れることを臨むかの如き小さなビルの一角に、門屋心理相談所は存在していた。
 よもやこんなところに心理相談所があろうとは思うまい、と言いたげでさえもある。まだまだカウンセリングという言葉にネガティブな印象をするきらいのある日本では、一目をさほど気にすることなく、却って訪れやすいのかもしれないが。
 以前に仕事場を構えていたビルと、立地条件は大して違わないはずである。やはり見るからに古臭かったのがいけなかったのか、と住居も兼ねる様になった新しい仕事場で、主である門屋将太郎は思案した。
 したところで、過ぎた事なのだが。
 新しい仕事場は目立たぬが小奇麗なビルで、使い勝手もなかなかに良い。入るのに躊躇する様な胡散臭さも以前より遥かに軽減されたと己でも感じる。
 とは言え、劇的にクライアントの数が増える訳でもなかった。病んだ人間が訪れる場所、という認識も未だ拭いきれぬ現状、悩み、病んだ人間があちこちに転がっているなどという事はないのだから。
 ただでさえ広くなった仕事場に、この前までいた助手の姿はない。
 就職が決まったと報告に来た時の、嬉しさと、少しの寂しさを漂わせた顔をはっきりと覚えている。門屋は何の餞別も出せないぞ、と背中を叩いて送り出したのだ。少しは寂しい、と思いはしたが。
 人一人欠けた仕事場は、それでもいつもと変わらない。
 そして門屋自身も。
「コーヒーでも淹れるかね」
 今日は飛び入りでなければクライアントは来ない。継続して訪れるクライアントは来談の最後に次回の予約を入れるのが常だ。もしくは、決まった曜日・時間に来談するか。
 故に、立て続けに重なる時もあれば今日の様にぽっかりと穴が空くこともある。
 つまり、暇なのだ。
 着ていても暑いだけの白衣を脱ぎ捨て、門屋は鼻歌混じりにコーヒーを淹れ始めた。多少音が外れようとも、カラオケのメドレー以上に目まぐるしく曲が変わろうとも、口出しする者は誰もいない。
 コーヒーを片手にソファへ向かう途中、ふと思い立って南側の窓に掛かっているブラインドを上げた。
 数日続いていた雨が嘘の様に、外は眩しすぎる程の光が溢れている。日本の夏独特の湿気に包まれてはいるが、いい天気だ。
 こんな日にはどこかへ出かけるのもいいだろう。少し足を伸ばせば、ちょっとした遠足気分ぐらいには浸れそうだ。
「っても、先立つモノがなけりゃ無理なんだよね」
 己の懐具合を省みてぼそりと呟く。せっかくの暇があれども、どこかへ出かけるだけの資金がない。あったとしても、使うかどうかに悩んでしまう。
 上げたブラインドを下ろし、光が差し込むように調節してから、門屋は少しばかり名残惜しそうに窓際を離れた。
「そう言えばあの人の新刊、まだ読んでなかったか……」
 新刊、と言っても門屋が読むようなカウンセリング関係の専門書の場合はそれに数年の時間間隔が付与される。入門書や一般向けの書籍とは出る本数も期間も違うからだ。
 己の専門領域だからと購入したものの、まだ手をつけていなかった一冊を書棚から取り出し、門屋はコーヒーを傍らにソファへ身を投げ出した。
 調節を施したブラインド越しに、外の光が程よい加減で室内に陰影を描く。緩めの冷房で整えられた室内は、外とは違って睡魔が発生しやすい環境になっている。
 分厚い書籍のページを繰り出した門屋も睡魔からは逃れられず、徐々に緩やかな眠りに落ちてゆきそうになる。それでもぱらりぱらりと捲られていた書物も、コーヒーが碌に手もつけられずに湯気を失くした頃に音を立てなくなった。
「……まぁ、こんな過ごし方も……いっか」
 欠伸と共に吐き出された声音が、睡魔へのささやかな抵抗だった。
 書物自身の重みに引きずられ、いくらか進んでいたページが逆に繰られ出す。
 ぱらりぱらり。
 ――ぱたん。
 やがて堅い表紙までもが門屋に続いて睡魔に陥落し、沈黙する。
 後に残ったのは門屋の寝息と冷めていくコーヒー、そ知らぬふりで門屋の腹に乗る書物。
 そして穏やかに過ぎてゆく、午後。



[終幕]