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<東京怪談ノベル(シングル)>


千尋忌景

 土の匂いを色濃く残す風が其処に籠もる熱と共に、静謐を宿し流れる河の水面を撫でる。
 夏特有の厚みを帯びた積雲が朱に染まり、翳り行く情景に何処からとも無く揺蕩う螢達の燈りが夕闇を切り取っては、秘めやかに瞬いた。

 ――チリン……――

 ――一つ。
 軽やかに響く鈴の音から、老舗――琳琅亭は、古来在るべき姿に向かい開店の意を現す。
 今宵、琳琅亭の店主――フェンドは、客人とも風鈴の音とも異なる者の存在を逸早く察し、仄かに燈された店先まで其の足を赴けた。
 何処か緩慢な歩調の儘、表へと顔を覗かせるなり視界に認めた者に、フェンドの面持ちが僅かに翳る。

 ――其処に在る者は、妖であった。
 傍らに文を携え、何物にも目もくれず唯フェンドだけを窺う様に見据えて居る。
「中々に盛況している様だな」
「…………」
 其れは“どちら”の事を取ってか……どちらにせよフェンドに言葉は無く、妖は其の反応すら心得ているかの様に何事無く文に手を掛け、フェンドの胸先へと差し出した。
「――約束を、違えるなよ」
「……――ああ……」
 妖の主旨の抜け落ちた言葉にも、御座成りの答えを返し文を受け取ると――間も無く妖は身を翻し、静やかに拡がる闇へと其の姿を溶け込ませていった。
「破るかってンだ。――くそっ」
 消え行く後姿に吐き捨てる様に呟き、フェンドは文を懐へ深く仕舞い込む。――同時に、背後から齎された今や聴き慣れた来訪者の音に、自身の纏っていた先までの、一切の険相を其処から掻き消した。

「あの……あ、あたし……――」
「ようこそ、琳琅亭へ。――まぁ、こんな処じゃ何だ……入るだろ?」

 ――逢う魔が時――

 今時分この場所に辿り着ける者が居るとするならば、其れは唯一つ。
 此度の来訪者は、場に不釣合いな茶の制服を身に纏い、烏の濡れ羽を思わせる漆黒の髪を惜し気も無く晒した年端も行かぬ少女だった。
 フェンドは店内へ其の少女を招き入れると、流れの儘畳張りの長椅子へと導く。
 幾多と吊るされた多様な風鈴が珍しいのか、スキンヘッドとサングラスという、変わらずのフェンドの容姿に畏怖を抱いているのか……。未だ彼方此方へと視線を散らし、挙動の整わぬ少女に内心苦笑を漏らしながらフェンドは淹れ立てのお茶を一つ、彼女の前へ差し出した。
「あ、有り難うございます……」
「礼には及ばねぇさ、何せ此処は茶屋だからな」
 湯呑みに手を掛けぎこちなく礼を述べる少女に向かいそう返せば、強張っていた少女の面持ちが心無しか僅かに解れた気がした。
「――で、お前さんはどんな用向きで此処に?」
「……あたしの、お母さんに……」
 フェンドが促す儘に、少女は一言、一言……。其れは自身へも語り掛ける様、ゆっくりと其の身の内を話し始めた。

「あたし、孤児だったんです」
「――孤児?」
「はい。実際、“其の時”までは……――」
 のっけからの少女の意味深な言葉に、思わずフェンドは其の言葉を反芻する。
 孤児、だった。けれど、今はそうでは無い。
 単純に考えれば、近年稀に見る佳話の内とも思えるが……――。
 そんなフェンドの思惟を余所に、彼女は続ける。
「あたし、物心付く前から孤児院で育てられて。……これからもずっと、そう在るんだろうなぁって、何処かでずっと思ってました」
「でも、其れでも良かったんです。皆、お義母さん達も、何時だってとても優しかったから……――」
 “お義母さん”とは、孤児院の職員達の事なのであろう。俯きながらも、孤児院の始終を語る少女の表情は揺るぎ無い、確かな幸せに満ちていた。
「それで?――お前さんの周りで、一体何が起きた?」
「………………」
 ひくりと――。少女の喉が引き攣り、其の瞬間の音を奪う。
「私……今は、本当のお父さんの下で暮らしているんです」
「引き取られたの、本当に突然で――。……でも結局は、どんな事にもやっぱり意味が有るんですね……」
 然うして齎された暫くの沈黙の後、少女は覆う湯呑みを両の手で強く握り締め――。
 残る、其の一言を搾り出した。
「……お義母さん――お母さんだったんです。一番大好きだった……」
「お前さん……――」
 瞬時言葉の意味を量りかね、空を呑み込んだフェンドの一言と重なる様に、少女は“――でも”と呟いた。

「もう、居ないの……――」

 ――今。
 どんなに手を伸ばしても、どんなに渇望した其の名を呼ぼうとも。
 彼女はもう居ない。

 誠の絆は、在るべき儘其処に潰え――



「――過労、だったんです……」
 暫し、自らの顔を両手で覆い嗚咽を繰り返していた彼女であったが、漸くに落ち着いたのか再び、今度は痛ましく色の褪せた唇を小さく開く。
「元から、身体の弱い人で……あたし、亡くなったってお義爺ちゃんから聞いた時も、全然気付かなくて――」
「お父さんが、教えてくれたんです……。お義母さん達、皆知っていた筈なのに……。もう居ないのに、今更……」
「――お前さんは余っ程、其のお袋さんの事が大好きだったんだな」
 フェンドの言葉に、少女は休み無く込み上げる嗚咽を堪え、其れでもはっきりと頷いた。
「嘘、吐かれてたんだって……。今までの触れ合いも全部嘘だったんだって、思うと、凄く苦しくて……」
「でも、でも……!あの家で、“お義母さん”として居てくれたお母さんは、とっても暖かかったから……っ――」

 ――ちり、ん……――

「ああ、其の温もりは、確かに其処に在ったんだろうさ」
 其の、瞬きの間。巻き起こった風と共に一斉に店内の風鈴が揺られ、奏でられる様々な音色の中少女の視界は瞼の内に納められる。
 次いで、過ぎ去った風に少女が恐る恐る瞳を開くと……。何時の事か、フェンドの手には一つの風鈴が、慎ましやかに其の存在を主張していた。
「――其れは……?」
 其の風鈴はサファイアの下地に、包み込む様に幾重もの波紋の模様が折り重り涼やかな風に揺られている。
 フェンドは唯笑みを湛え、次の瞬間――二人の境に、一人の女性の姿が浮かび上がった。
「……っ?!お、おか……――」

『――ごめんね……――』

 突如目の前に現れた、今はもう瞳に映す事すら叶わない筈の姿。其の――母親の姿に惑い、驚愕に長椅子を乱し身を起こす少女を余所に、其の姿は真摯に空へと言葉を紡いでいる。

『出来れば、ずっと私一人で。貴女が綺麗なお嫁さんになるまで、ずぅっと一緒に居てあげたかった……』

『けれど……。まさか、そんな細やかな生活さえ……叶わない身体だったなんてね……?』

 静まる店の中仄かに、少女に良く似通う艶やかな髪がさらりと其の胸元に落ち。床へと辿り着く事の無い涙が、幾度と母親の頬を伝う。

『貴女の母さんの儘で、貴女を独りぼっちにするのが怖くて……』

『……今まで、貴女だけのお母さんで居られなくてごめんね……?弱虫の母さんを、許してね……』

『……でも――』

『――ずっと、ずっと、貴女を見守っているから……――』

「……お母さん――――!!」
 其処まで、発して……。軈て罅入り、砕け散る風鈴の儚い音色と共に――。間際、淡い微笑みを浮かべた女性の姿が最後……跡形も無く消え失せた。
 少女は、咄嗟に伸ばされた、空へ浮かぶ儘であった手を所在無く降ろし……。新たに伝う暖かな涙と共に、笑みに飾られた瞳は秘めやかなる契りを思わせた。
「あたし……頑張るから……。お母さんみたいに、立派な……――」



「――本当に、有り難うございました……」
 其の後、少女を見送りに店先へ立つフェンドへ、今は臆する事無く向かい合う少女が深々と頭を下げた。
「なに、礼には及ばねぇさ」
 当初のぎこちなさは消えても、変わらずに慎ましい少女に笑みを浮かべながら、フェンドは何時か聞いた言葉を今再び繰り返す。

「――何せ此処は、其の為の茶屋だからな」

 然うして去って行った少女が浮かべた、最後の笑みは。
 今迄フェンドが収めて来た其れの何よりも、遥かに輝かしく思えた――。



【完】