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<東京怪談ノベル(シングル)>


「三籟の、その理は」



六月の空梅雨は結果的に七月の大豪雨を招く事と成った。
柔な木々は薙ぎ倒され、川の水は溢れ、農家は仕方無く急遽刈り入れを早めた。
幾ら水不足の気があったとは謂え、此れだけ降られては干天の慈雨とは言えど迷惑千万、有り難迷惑である。
矢の如く降り注ぐ強雨から蛇の目傘で身を隠し、神居・美籟は着物の袖を手繰り寄せた。
じとりと指先に布の湿った厭な感触を感じて、陰鬱とした気分で濃紺から黒へと変色してしまった袂を見止める。
―――――雨羽織を纏って来るべきだったか。
傘骨を伝って滴り落ちて来る雨雫を親の敵とばかりに睨み付け、一向に弱まらない雨脚に思わず嘆息を零した。

雨音は母の胎動に似ている。

そんな事を偶然耳にして、本当にそうなのかと妙な好奇心が産声を上げてしまい、余りに泣き止まないものだから何の考えも持たずに傘だけ持って屋敷の外へ飛び出した。
至極軽率だったと美籟は今更になって追悔の念に襲われた。
只管叩き付けるだけの攻撃的な淫雨はコンクリートを満遍無く染め上げ、地面を抉るのに夢中だ。
此の侭では蛇の目の傘紙も危うい。加えて体が浮き上がってしまいそうな強風である。
此れが胎動ならば赤ん坊は生まれる前に心臓発作で引き付けを起こしてしまう。
湿気を吸って重たくなった黒髪を肩の後ろに追いやって、吾妻下駄を引き摺った。
何時もなら軽快に鳴る下駄の音も今日ばかりは自己主張の激しい雨音に呑み込まれてしまった。
首筋に絡み付く髪の束を払い除けながら黙々と歩き続けると二股の分かれ道に辿り着く。
右は繁華街に、左は未だ見知らぬ未知の世界へと繋がっている。帰るという項目も加えれば、選択肢は三つである。
態々来た道を引き返すのは何だか癪だし、この鬱陶しい空気の中人通りの多い道に出るのも厭だ。
消去法の結果、美籟は左の道を選んだ。
其の道は行けども行けども細い脇道で、コンクリート塀の向こうに幾つも民家の屋根が並んでいる。
此の侭歩き続けても何も得るものは無かろうと帰宅を決意し身を翻した、其の時だった。

リン。

先ず鈴の音。次いで幼い子供の声が轟音の中で微かに聞こえた気がした。
常人ならば聞こえる筈も無い本当に僅かな声を美籟の鋭敏な聴覚は確かに聞き分けていたのだ。
胸騒ぎを感じて美籟は音の聞こえる方に駆け出した。
蹴返しが翻らぬよう片手で裾を合わせ持ち、雨を浴びるのも意に介さず兎に角急ぐ。
そして、音の出所である二つ目の角の向こうに身を躍らせた。
次の瞬間美籟の、碧海を溶かしたような青い眼に映し出されたのは一人の少女が宙に向かって大きく手を差し伸べている姿だった。
―――――否、違う。
少女の手は宙では無く、塀の上で丸まった小さな黒い毛玉に差し伸べられていたのだ。
良く見れば毛玉には足も有り、耳も有る。あれは仔猫なのだと美籟は漸く気が付いた。
少女は自分がずぶ濡れになっているのも気に掛けず、懸命に小さな両手を伸ばして仔猫に向かって喚き続けていた。
美籟は引き寄せられるように少女の方へ歩みを進めると手に持っていた蛇の目傘を少女へと差し出した。
「持っていろ」
ぶっきらぼうにそう言い捨てると少女よりも遥かに長い手を仔猫へと伸ばす。
余程飼い慣らされているのか、仔猫は震えながらも人に慣れた仕草で美籟の手に擦り寄り大人しく腕の中に納まった。
「ほら」
「ありがとうお姉ちゃん!」
震える仔猫を少女に手渡すと少女は満面の笑顔で美籟に礼を言い、仔猫を抱き締めた。
仔猫の首で小さな鈴が揺れている。音源は此れだったのか。
美籟が再び鈴から少女へと視線を移すと、少女は眉尻を下げて申し訳無さそうに美籟を見上げている。
「ゴメンね。綺麗なお着物濡れちゃった…」
「気にするな。着物の代えなら未だ有る。―――可愛い猫だな」
「うん。ママに沢山お願いしたら飼って良いって言ってくれたの。名前はね」

―――――ミライって言うのよ。

全く似ていない筈の拙い、幼い声が遠き日の母の声と重なる。
雨が木の葉を打つ音、雨が瓦を打つ音、雨が肌を打つ音、雨が地面を打つ音、雨が傘紙を打つ音。
凡て遠退いて行く。
酷く近くで母の声と笛の音だけが響いていた。

―――――美籟。
―――――数多の音を聞きなさい。
―――――数多の香を聞きなさい。
―――――此の世に存在する有りと有らゆる音と香を知りなさい。
―――――そうすれば貴女にしか聞けない声が自ずと聞こえて来る筈よ。
―――――其の声は決して貴女を裏切りはしない。
―――――悩める時も健やかなる時も貴女を絶えず見守り、導いてくれる。
―――――そうして導かれ、歩んだ先には貴女の本当に望む「未来」が待っているわ。

―――――みらい。貴女の名には二つの意味が有るのだから。

「お姉ちゃん、大丈夫?」
甲高い声に突如現世に引き戻され、幼き日の母の温もりは巻き戻しのレコードのように再び過去へと帰って行った。
何でも無い、上手く回らない舌で漸く其の一言を紡ぐ。何時の間にか雨脚は弱まり、小雨へと変わっていた。
髪に染み着いていた真那伽の香が、雨に眠りを妨げられた草木の香と混じり合い、えも言われぬ極上の芳香を醸し出す。

嗚呼、もしかしたらこの香に夢を見せられていたのだろうか。

「良かったあ。あ、お姉ちゃん。傘」
「良い。其れはやる。…本当は雨に濡れるのもそんなに嫌いじゃないんだ」
硬い頬の筋肉が珍しく和らいで、容易く口角が持ち上がる。此れもあの香の効果なのだろうか。
ニィ。仔猫が小さく鳴いた。
有り難う。其れともまたね、とでも言っていたのかも知れない。
美籟は少女と、自分と同じ名を持つ仔猫に別れを告げて再び長い一路を歩き出した。

―――――美籟。愛しているわ。

私もだよ。

浅く張った水溜りの上で、カランコロンと下駄が笑う。
この曇り空の向こうにはきっと、青空のように晴れやかで、虹のように鮮やかな、果てない「未来」が待っている。


天籟。地籟。人籟。
天が与え、地が育み、人が生み出す。
その理は母の胎動にこそ在りと我は見つけたり。







初めまして。神居美籟様。
発注有難う御座いました。
此れが私の初仕事だったのですが、美籟様の魅力的なキャラクター設定やPCバストアップのお蔭で大変楽しく書かせて頂きました。
実は納品の際にお名前の漢字を間違えると謂う犯してはならないミスを犯し、テラネッツ様に無理を言って改めて修正させて頂きました。
私の見直しが甘かった所為だと心より反省しております。本当に申し訳御座いませんでした。
以後この様な事が無きよう努めて参りますので此れからもどうぞ宜しくお願い致します。

         典花