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<東京怪談ノベル(シングル)>


君の名は



 草枕旅行く人も行き触ればにほひぬべくも咲ける萩かも

 笠金村(かさのかなむら)の歌に誘われ、槻島綾は湖北へとやって来ていた。
 歌が読まれた地へと実際に足を運びたくなって、そのままふらふらと旅に出てしまったのだ。
 いつものごとく、一人で。

 綾がまず訪れたのは、伊香具(いかぐ)神社だった。道路脇の参道入り口から、鬱蒼と木々の生い茂る聖地へと足を踏み入れる。
 単なる森のはずであるのに、独特の清清しさを感じる。神社、という場のせいだろうか。
 古びた鳥居、拝殿、そして社殿。
 賽銭を放り込み拍手を打つ。目を閉じた綾の耳に、木々のざわめきが一際大きく響いた。
 訪れる人はまばらで、年若い綾はその中でも浮いているように思えた。下手に賑わう神社よりも、こちらの方が綾には好都合だ。静かにこの場所に、歴史に、思いを馳せる事が出来る。
 至極ゆったりとした足取りで、綾は歩を進めた。境内の右手に、澄んだ色彩を湛えた池がある。
 蓮池、というらしいそれは、案内板によると弘法大師が大蛇をこの地に伏せ込めたという逸話の残る場所だという。
 水辺でしばし佇み、綾はその逸話へと心を飛ばした。
 ただそこに居ただけならば、大蛇にとってはさぞ迷惑だっただろうに。案内板には弘法大師が大蛇を封じた経緯は書いておらず、綾はついつい勝手な想像を膨らませた。
 どの程度の大きさだったのかは分からないが、大蛇というだけの大きさだったのならば存在だけで充分脅威と成り得る。現代のように獣に対抗する術をほとんど持ち得なかった昔の住民には、それは生死に関わるものだったのかもしれない。
 だからといって一方的な言い分で封じられても、大蛇からすれば理不尽だろう。
 一通り思考を遊ばせた後、綾は来たときと変わらぬ足取りで神社を出た。
 池を見て、ここからそう遠くない場所にもう一つ名所があることを思い出したのだ。
「近江の鏡湖、是非見ておかないとね」
 池の側で呟き、微かに木々がざわめいたのにも気づかずに綾は愛車に乗り込んだ。
 賤ヶ岳を横目にぐるりと東側から回り込む様にして車を走らせる。琵琶湖の北端からぽつんと切り離された様にして、余呉湖はその身に湖水を抱えていた。
 天女の羽衣伝説でも有名な湖である。晴れた日には湖面が凪ぎ、さながら鏡の様相を呈することから「鏡湖」とも呼ばれている。
 折りしも天気は良く、風もない。
 期待を胸に湖畔へと近づいた綾は、その目に広がる景色に思わず足を止めた。
 正に鏡。
 僅かな漣もなかろうかと思われる程に凪いだ湖面に、周囲の木々や前方の山が見事に映りこんでいる。
「すごい……」
 弾けるはずの日の光も、ここでは大人しく映されるだけだ。
 今のように真っ青な空を映す昼も、靄かかる朝も、そして暮れて行く夕景色も、どれをとっても素晴らしいに違いない。
 一日、この場所で色が移り変わってゆく様を眺めていたい。そんな気にもさせられる。
 ほぅ、とため息をついた綾の背後で、不意に小さな悲鳴が上がった。
 弾かれる様に振り向く。
「――大丈夫、ですか?」
 車道から少し傾斜している部分に足を取られたものか、蹲っている少女が決まり悪げに綾を見ていた。
 夏らしく、紺地にトンボ柄の浴衣を着ている。おかっぱの髪も真っ直ぐに綾を見る瞳も、濡れた様な深い黒をしていた。
 年はどう見積もっても、まだ小学生だ。
「どうしたの?」
「……立てん」
 ぼそりとそっぽを向いて言う。態度も口調も生意気としか言いようがなかったが、綾はふわりと笑みを零していた。
 精一杯の意地を張っているのが、何とも可愛らしいではないか。
「一人? 家族の人とかは?」
 手を貸してやりながら、綾は少女の周囲を見渡した。どこにも、少女の家族らしき人影はない。
 地元の子どもならば、一人で出歩いていてもおかしくはないが。少なくとも少女は、この近辺に住んでいる風には見えなかった。古風なスタイルをしている、とは思ったけれども。
「お婆さまとはぐれた。悪いが、そこまで連れて行ってほしい」
 祖母と出かけている最中に迷子になった、という。相手が老人ならばそれほど遠くに行ってはいないだろうと、綾は軽く請け負った。
「で、どの辺りではぐれたの?」
「伊香具神社」
「え」
 絶句した。
 つい先程までそこに自分がいたというだけでなく、徒歩で子どもが容易く来れる距離ではないからだ。
 明らかに嘘か――本当だとしたら、何かがある。
「嘘ではない。一人では帰れないのだ」
 綾が行ってしまうとでも思ったのか、少女は俄に必死の形相で綾の腕を掴んだ。思いがけない程の強さで縋りつかれ、綾は目を瞠った。
 その必死さに、ある意味ほだされたのかもしれない。
「わかった。神社まで行けばいいんだね」
「本当か!? 恩に着るぞ、綾」
 名乗ったばかりの綾に対して、さも当然といった感じに名を呼び捨てにした少女は、続いて歩けないと宣った。足を挫いたとおんぶをせがんでくる。
 仕方なしに苦笑しながら、綾は少女を背負った。拍子抜けするほど、軽い。子どもというのはそういうものか、と綾は苦笑を深める。
「お祖母さんの服装とか、覚えてる?」
「揃いの浴衣を着ている。お婆さまが作ってくれた」
 成る程、今の子どもにしては昔風の柄だと思ったが、彼女の祖母とお揃いだというならそれも頷ける。おそらくは孫のために一針一針縫ったのだろう老女の姿を思い描き、綾は少女を背負いなおした。
「あの、すみません」
 止めていた車への道すがら、通りかかった地元の住民らしき人影を呼び止める。中年女性の二人組みは、訝しそうにしながらも足を止めて綾を見た。
 が、綾が少女の祖母の特徴を口にする前に、朗らかに笑って再び歩き始める。
「可愛らしい妹さんねぇ」
「ほんま、えぇお兄さんやこと」
 手ぬぐいで汗を拭きつつ通り過ぎていく女性達を、綾は引き止める事が出来なかった。
 彼女達は何故か、綾を見ていなかった。
「これは……困った、かな」
 どうやら自分はちょっとばかり現実とはずれた場所に足を突っ込んでしまったものらしい。ぼんやりと思いながら、綾は助手席に少女を座らせた。
「――すまん。綾」
 俯いた少女が噛み締めた唇の下からぼそりと呟いた言葉は、ドアを閉める音にかき消されて綾の耳には届かなかった。

 来た道を反対になぞり、綾の車は再び伊香具神社へと戻った。
 少しずつ夕暮れが迫ってくるせいか、先程にも増して境内には人影が少ない。
 少女を背負って鳥居を潜りながら、綾ははたとある事に気が付いた。
「ねぇ」
 呼ぶと、背中に少女がびくりと震える様子が伝わってきた。
 おそらく綾が気づいたことに、少女も気づいている。
「……足、痛くない?」
 結局、綾が口にしたのはそんな当たり障りのないことで。
 息を呑んだ少女は、さっきよりも強く綾にしがみついてきた。
「うん。平気だ」
 それきり、少女は何も言わず。
 綾も沈黙を守ったまま、参道を抜けた。拝殿も社殿も無視して、脇目もふらずに境内の右手を目指す。
 蓮池は、数時間前と変わらぬ姿で、そこにあった。
「ここで、いいのかな」
 そろそろと少女が首を伸ばして池を見る。そして、小さく頷いた。
 ゆっくりと、少女を下ろす。
 少女はしっかりと自分の両足で立ち、池の淵まで真っ直ぐに進んだ。
 綾は少し離れた場所で、それを見ている。全部、少女が言った事は嘘だったのだけれど、それを責める気持ちは少しも湧いて来ない。
「お婆さま。ただいま、参りました」
 遅くなり申した、と続けて。
 少女は池の水に小さな手を浸した。
 ざわ、と木々がざわめく。ひそひそと囁き交わすようなそれは、次第に大きくなって綾と少女を包んだ。
「ご苦労。間に合って何よりじゃ」
 と。
 しん、と辺りが静まり返る。
 いつの間にか、池の真上に、一人の老女が立っていた。人ではない。かといって、悪しき物でもない。
 静かな生物だ。
 その老女は、少女と同じ浴衣に身を包んでいた。
「儂の力ではそろそろ不足しておった。来てくれて感謝するぞ」
 老女の招きに応じ、少女は躊躇いもせずに池の上へ足を滑らせた。軽快に水の上を歩く少女が素足であったことに、綾はたった今気づいた。
「綾とやら。この者を運んでくれたこと、感謝する」
「綾。恩は忘れぬ。琵琶湖の水が及ぶ限り、綾の身を案じておるぞ」
 同時に綾へと頭を垂れた姿は、仲の良い老人と孫にしか見えない。
 綾は思わず足を踏み出したが、それはシャツの裾に引っかかった草木のせいで叶わなかった。
「綾が、我らを優しく想ってくれたのが嬉しかった」
 あ、と声を上げる。
 その時には既に、少女も老女も、綺麗に消えていた。
「あ……」
 引っかかった草木を払うと、シャツの裾に染みが浮いているのが目についた。
 一体いつの間につけたものか、と目を凝らせば、それは小さな蛇がうねっている紋様の様にも見えた。
 鮮やかな萩色で刻印された。
 その瞬間、綾の鼻腔を、嗅いだこともない琵琶湖の匂いが満たした気がした。



[終]