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<東京怪談ノベル(シングル)>


ゆめ喰らう幻


 そう、
 総てが幻であるのなら。


 高校の通学路にある、大きくは無い公園。緑が多く、都会ではあまり感じられない爽やかな空気が流れる場所である。この近辺は自然が少ないので、植物たちのやわらかい香を聞きたいと思ったとき、美籟はよくここに来る。だからその日もただ何気無く、帰宅途中に緑を愛でに来ただけだった。
 さざめく木々は何時もと変わらず、ひとを落ち着かせる素直で控えめな香をふうわり、あたりに撒いている。からりと晴れた陽光の香と相俟って、それは美籟のこころを安らげてくれる―――――筈、だった。
「…………、」
 僅かに、……ほんの僅かだが、何時もの香と違う匂いが、公園の空気を異としていた。のたりと重く、粘ったような香。それでいて不快感を催すわけではなく、むしろこころの底の何かを喚起するような―――――
 これは何だ、と思う間も無く、美籟の視線は公園の中のひとりの人物にゆきあたる。
 絵描き、だった。
 キャスケット帽を目深にかぶり、鼻歌なぞを歌いながら、公園の一角(恐らく遊具の辺りだろう)を向いてぺたぺたと絵を描いている。美籟はよくこの公園を利用しているが、見かけたことは無い貌だった。それが物珍しくて、そっと気付かれぬよう自然に近づき、美籟は彼の描いている絵を覗き込んでみた。……しかし、どうであろう。彼は青のジャングル・ジムを更に複雑怪奇な形にして真黄色に塗り、空は紫色で雲も無く、青々としていた木々が薄灰色の枯れ木へ変貌し、遊んでいる子供などは灰蘇芳に描かれ、その上触角のようなものが額から生えている。色彩を理解せず絵に疎い美籟であったが、しかし美術の授業などで世界の名だたる絵画たちを見てはいる。それに比べ―――――幾ら自由画であると言っても―――――おかしな絵である。
「……何だこれは、」
 思わず見たままの困惑を口に出してしまった美籟を、絵描きはおや、と言いながら振り返った。
「やあ、初めまして、お嬢さん。……僕の絵に何か?」
 振り向いてにこりと笑った貌はあどけなかったが、どこか年齢を感じさせない雰囲気を持つ男だった。見方次第でティーン・エイジャにも見えるし、三十路を過ぎていると言われても信じてしまいそうだ。
「……。風変わりな絵を描かれる、と思っただけだ。」
 そうだろうね、と絵描きは笑う。僕の描いてる絵は変なんだよ―――――。彼は座っていた折り畳み式のディレクタァズ・チェアをこちらに向けて、美籟と向き合うようにした。そうして奥の見えぬ深い眼で以って美籟の眼をじッ、と見たあと、お嬢さん、と呼び。

「……お嬢さんは世界を信じるかい、」

 と、それが必然であり自然のように、何気なくさらりと問うた。
「?」
 行き成り哲学的に過ぎる質問を浴びせられ、美籟はたじろいだ。
「信じる……?世界、を?」
「そう、世界を。お嬢さんは世界の全てがほんとうにここにあると―――――信じる?」
 美籟のこころの何処かが、しくり、と反応する。
 そんな事は、考えたことも無かった。世界はずっと変わらず美籟のまわりに在り、香を通して、その確固とした存在をひしひしと感じることが出来たから。疑うべくも無い、それは美籟にとって、当たり前のことだった。
「信じるも信じないも……、全て確固として、ここに在る。」
「そう思うかい、お嬢さん。羨ましいことだ。……あぁ、眼をみれば解るよ。お嬢さんは何かきちんと、こころの中に、真実を教えてくれるものを持っているんだろうね、」
 言いながら、彼は変わらず美籟の目を見詰めている。けれどこころを見透かされているようでは無く、かわりにこちらが深いふかい湖を覗き込んでいるような、不安と好奇心を喚起させる不思議な感覚にとらわれた。……こちらが深淵を覗き込んでいるとき、深淵もこちらを覗き込んでいるのだ。訳も無く、昔誰かが言ったことばを思い出す。
 まるで酩酊したような美籟の周りの空気を、瞬間、ざわりと一陣の風が抜けた。緑葉と木肌と砂塵の香が、絵の具の香をすこしの間だけ空間から洗い流してゆく。
「僕にはね、世界が信じられないんだ。虚ろばかり、誤りばかり、穢ればかり、嘘ばかり……、ほんとうの事なんて、在ったものじゃあ無い。僕にとっては、須らくが、幻さ。」
 彼はキャンバスに向き直って、再び絵の具を乗せ始めた。空の紫が濃さを増し、キャンバスのなかではまるで滅紫色の空が世界を押し潰そうとしているようだった。崩壊の危機を孕んだ世界で、緑青色の悪魔の仔だけが無邪気に遊んでいる。
「だから僕は幻なんて描かない。僕が感じた事を見えた色ですきなように描く。皆を騙す現実なんて幻は、キャンバスの奥に塗りこめてしまった。僕が描くのは僕の夢。現実から一番遠くはなれた、僕の夢の中身を描き続けたい。……そう考えて描いてる内に、こんなのが沢山出来ちゃった訳。」
 そう言ってはにかむように笑い、足元を指す。見ればビニルシィトの上に数枚の絵が並べてある。やはり総ておかしな色彩で描かれており、値段を書いた小さな付箋を貼って値札の代わりにしているようだった。
「売れてないでしょう。」
 おどけたように肩を竦める仕草に、思わず美籟の口元へ笑みがうかぶ。美籟はしゃがみ込み、絵をひとつひとつ手にとって眺めた。淡青の杉の木が鬱蒼と茂る森、鬱金色のアスファルトが何処までも続く道。喧しい四十雀たちの羽は猩々緋に染まり、伸ばした鴉漆色の手に暗灰の蜻蛉が留まる。極彩色の楽園たちは、キャンバスの上へその夢まぼろしを一杯にひろげ、現実に住まう人間たちを宴へと誘っているようだった。
「……私にはこれが信じられないのだ。」
「僕の絵?」
「いいや、違う。私の世界には―――――色が、無い。」
 絵描きは黙り、チェアをまたこちらへ向けると、美籟の話に耳を傾ける体勢をとった。乾いたキャンバスのふちを指でなぞりながら、美籟はぽつりぽつりと話し出す。とても見ず知らずの人間に話す内容では無いと思ったが、彼の不思議な瞳のひかりが、美籟のこころの奥をふわりとゆるやかな気持ちにさせていた。
「私の眼は、盲いているようなものだ。」

 美籟の世界には、色彩が無い。
 色盲という訳では無い。視覚はきちんと機能しているし、色としての認識も出来る。けれどただ、そこに『色』が在るということだけ。神居一族を護り導くものとして生きることを強いられてきた美籟には、幼い頃からそれだけが感覚の拠り所であった。美籟の視る世界には『香』はあるが、『色彩』は無いのだ。……動物の保護色やトリック・アートを引き合いに出すまでも無く、動物である以上、眼という感覚器官はいとも容易く誤ることを美籟は知っていた。神居一族を背負うべき護に、誤りは赦されぬ。ただひとつ信ずるべきは、ものの本質を疑い無く、確かに知ることが出来る「香」だけ。だから美籟は、視覚を信じることを已めた。喩え眼にあざやかな彩りが映っても、それをうつくしいと認められるこころを、美籟はいつからか失くしてしまったのだ。

「……唯物論的還元主義。」
 美籟の話を聞いたあと絵描きは暫く何かを考えているようだったが、不意にぽつりと、そう呟いた。
「何だ、それは?」
「頭のイカレたロジックさ。この世において人が五感で感覚するもの総ては、脳の造りだした幻である、っていうような。」
 曰く、人間の感覚というものは総て大脳が造りだした幻である―――――と。例えば、いま目の前に蝶が居たとする。それが蝶だと視認されるためには、網膜で受け取った情報を信号に変え、視神経を通ってそれが脳に入り、大脳のどこかで像が結ばれ情報として認識される。外界から入ってきた信号を情報に組み立て直すのは大脳であるから、そこで大脳が信号をどのように組み立てたかによって、造られる情報は違うのである。
 だから目の前のものが蝶だと思っているのは本人だけであって、若しかしたらそれは蜻蛉かも知れない。若しかしたらそれは木の葉かも知れない。若しかしたらそれは塵かも知れない。若しかしたらそれは―――――虚無かも知れない。

 美籟の生きているこの世界は、総て、幻なのかも、知れない。

「……貴方はそれを信じているのか、」
「いいや、信じちゃいないけど、否定する積もりも無い。よく聞けば理には適ってる。ただ、」
「?」
「総てが幻だとしたら、僕らは何を信じれば良いんだろう。……それが解らないんだ。」
 そう言って彼は笑う。右手に持った絵筆を、くるくると器用に回しながら。
 ……世界の総ては、幻。
 もし真実そうで在るならば―――――と考えようとしたが、そもそもそんな問い自体が莫迦莫迦しいのだと、直ぐに思い至る。逃れることの出来ぬ現実に対しての、これは逃避であろう。彼の言う論理を否定する気は美籟にも無いが、けれど自分の世界には幻など無い。至る所至る季節に流れる香が、美籟の世界を形作るものの総てであるからだ。
「幻、ね。まぼろし、まぼろし、まぼろし……、」
 ぶつぶつと呟きながら、絵描きはパレットの上の絵の具をペインティングナイフで混ぜ始めた。柿渋、韓紅花、琥珀、青朽葉、紫苑。できあがった色たちをつぎつぎキャンバスの上に乗せると、より複雑化した構図が出来上がってゆく。
「―――――色ってのは、不思議だね。ただの光の反射、吸収率、屈折の具合、それがどう網膜に映ってるか。ただそれだけの筈なのに、どうしてこんなにひとのこころを惹き付けるのかな、」
 美籟には見得ない世界を眺めて、彼は絵筆を操り続ける。全体の色味は変わっていないのに、キャンバスに映し出される世界は段々と暖かさを持ち始めた。灰色の林は懐古的なモノクロォムの写真に似て、紫の空は夜藍色に淡緋を溶かし込んだ黎明の色、悪魔のようだった子供は曙光に照らされて微笑んでいるようにも見えた。
 深さを増してゆく色彩は確かにここにある存在なのに、けれど美籟にとっては遠く遠く、まるで鏡の向こうを覗き込んでいるようにさえ感じた。多分うつくしいものなのだろうなと思うのに、美籟のこころはその表に氷を張り付かせたまま動こうとはしてくれなかった。
「……色、か。」
 幼い頃には私も、こんな景色が見えていたのだろうか―――――。自嘲のように自虐のように、美籟はこころの薄氷の上で呟く。足元に広がる氷は薄いようでも、降らせて続けてきた氷粒がしずかに積もりゆき、何時の間にか果てしない質量の壁を築いてしまっていた。気付いた今では、もう遅い。いつか確かに抱えていた筈の宝石は、取り帰せぬほど深くふかくへ閉じ込められてしまった。
 美籟は眼を閉じる。昏い闇の天鵞絨が延べられた世界は、底の見えぬ安住の世界。眼を開く。飛び込んでくるうつくしいはずの色彩も、美籟の眼にはただ『映る』だけだった。
「……信じられないものなど、いっそ総て消えてしまえば良かったのに、」
 おや、と絵描きがまた呟いた。
「信じられないものを総て捨てていったら、最後には何も残らなくなってしまうよ?人間が、ほんとうのほんとうに信じるべき事なんて、ひとつしか無いんだから。」
 絵描きはキャンバスから絵筆を離す。絵が出来上がったようだ。ぎしぎし唸るディレクタァズ・チェアの向きを変えて、美籟と正面から向き合うかたちを取る。

「信じるべきは―――――僕らがここにこうしているという、こと。それ以外はなにも要らない。尤もらしいことばも、無責任な概念も、なにも要らないよ。現実なんてクソ喰らえ、幻なんてシカト決め込め、この僕らの存在、僕らのみる夢だけが、世界の総てだ。」

 国ひとつ分の聴衆を向こうに回し大演説を打ちかます王のように、彼は威風堂々と言い放った。ともすれば不遜にも見える態度に、美籟はしばし呆気に取られる。
「……なんてね。格好付けちゃったかな。」
 そうして、さてと、と絵筆やらパレットやらを仕舞い込み始めた。
「お嬢さん、僕はそろそろ次の場所を探すよ。ここではもう、夢をひとつ写し取ったから。」
 言いながら絵描きが、イーゼルの上のキャンバスに手を掛ける。夜明け前の公園の風景を、巧緻な筆致で描きだした絵。
「―――――待ってくれ、」
「?」
「この絵を、私に譲っては頂けないか?」
「この絵を?」
 絵描きはきょとんとしながら美籟の眼を見、それから、あぁ、と納得したように肯いた。
「そうか、お嬢さん。何か大事なものを、見つけようとしてるんだね。」
「そう―――――なのかも知れないし、そうで無いかも知れない。何れにせよ私は、きっと切っ掛けになるものを欲しているのだろう。」
 だからこの絵を譲って頂きたい、といった美籟へ、絵描きは祝福するような笑顔をみせる。良かったね。良くなれば、いいね。……願っているよ。彼は仕舞い掛けていた絵筆を取り出し、キャンバスの裏に日付を書き込んだ。
「お金は要らない。あなたに捧げるよ、お嬢さん。」
「有難う。……大切にする。」
「じゃあね、僕は行くよ。願わくば―――――お嬢さん。あなたの道行きに、ひかり多からん事を。」
 絵描きはまるで道化師のように、大仰な仕草で頭を下げる。美籟もそれに応じ、もう一度、有難うと呟いた。聞こえているかは解らなかったけれど、言っておきたかったのだ。

 そうして美籟の部屋には、一枚の風変わりな絵画が飾られた。無機質な色味の奥に、芯をあたためるような雰囲気を孕んでいる絵だ。それは今しも昇ろうとしている太陽に似て、この先に果てしない温もりと陽光が約束されているようで、色というものは斯くもあたたかなものなのだと美籟は思えるようになった。未だ色彩を理解するには至らぬが、美籟の胸を占めていたつめたい感触は段々とゆるやかになってきている。
 ―――――黎明の曙光は、美籟のこころの奥の氷を、溶かしてはくれるだろうか。