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<東京怪談ノベル(シングル)>


照日残影




 ちり……ん。
 ちりん。


 ごくごく微かに、鈴の音が空気を打つ。
 暑さで視界の歪む様な夕映えの中、凛としたそれは確かな質量を持って耳朶を打つ。
 汗の滲んだ額を拭う頃、彼女はその店の前に立っていた。
 耳の奥に残る音に誘われ、店の敷居を跨ぐ。
 琳琅亭――『蛍の風鈴屋』の。
 ふぅわりと、その背中を包む様に幻の蛍が飛んだ。


 時を同じくして、フェンドはぴくりと眉を跳ね上げた。スキンヘッドを巡らせ、サングラス越しに店の風鈴を眺めやる。
 そうして一つの風鈴に目を留め、フェンドは小さく唇を歪めた。
「そうか。お前さんの番か」
 オパールにも似た下地色の、柄の無い風鈴だった。微妙な色合いそれ自体が、柄の様な。
 一目見る限りでは、心休まるイメージを受けるだろうか。
「そら。お前さんの家族が来たぜ」
 店の入り口を見やり、フェンドは風鈴をそっと押し出した。
 店の真中にぼんやりと、ホログラフィの様に男の形が浮かびあがる。年の頃は30代後半に差し掛かろうかというところだろう。これからが働き盛り、それを象徴するかのごとく身につけているのは仕立ての良さそうなダークスーツだ。
 誠実で真面目、そんな顔立ちをしている。
 敷居を跨いだばかりの中年女性は、手に持ったハンカチで額を押さえていて男に気づかない。
 ふくよかな身体をシックな色調のスーツに包み、暑さに参ったとばかりため息をつく。
 そうしておいてからハンカチを持った手を首筋にずらし、前を見て――女はそのまま動きを止めた。
「…………!」
 おそらくは男の名を呼んだのだろう。喉の奥で潰れて言葉にならない声を上げ、女は忙しなく目を瞬いた。
 男はどこか薄暗い目で、女を見ている。
『母さん』
 そしてぽつりと、呟いた。
 母と呼ばれた女は汗の染みたハンカチを口元に当て、ただただ男を凝視している。
 そんな女の様子などおかまいなしに、男は俄に恨みのこもった目つきで己の母親を見据えた。
『あんたのせいで、俺の人生台無しだよ。大学も会社も、あんたの言う通りにしたせいで、したい勉強もできなかったし。面白くもない仕事やらされて、上司からは怒られて。その癖、俺が相談したら何にも言っちゃくれないし。全部、あんたのせいだよ』
 ぽとり、と女の手からハンカチが落ちた。
 わなわなと唇を震わせた顔は青ざめている。
 何かを言おうとするのだが、肝心の声が出ない。そんな様子で女はただ男の恨み言を聞いていた。
 その間にも男は母親への恨み言を次々と連ねていく。
 曰く、あんたの振る舞いのせいで彼女と別れた。
 曰く、あんたが言ったから転職を諦めた。そしたら人事異動で残業の多い部署に回された。
 曰く、あんたの言うとおりの大学に行ったら鬱になった。
 等。
 あんたのせいだ、を十回以上も繰り返し、延々と母親への文句を吐き出して、男は漸く満足したかのように口を閉ざした。
 微かな破砕音と共に、風鈴が砕け散る。
「これはまた、衝撃のご対面だったようだな」
 呟き、フェンドは呆然と立ち尽くす女に椅子を勧めた。ふらふらと覚束ない足取りで椅子に身を預けた女は、心ここにあらずといった体で、男のいた場所を見つめている。
 フェンドは長身を屈めてハンカチを拾い、テーブルに茶と共に差し出した。
「息子さんかい」
 勧められるままに茶を一口啜り、女はこくりと頷いた。
 ほぅ、と今度は暑さのせいでないため息をつき、顔を両手で包み込む様にして項垂れる。
「長男です。小さい時から少し癇の強い子で」
 厳しくしつけたのが裏目に出たか、年を経るごとに親の言う事を聞かなくなってきたのだと言う。その癖、何かを決める時には親の意見を求めるという気の小ささも併せ持っていた。
「最初は、やはり親を頼るものなのだと、口出しをしたりしていました。けれど、そうして決めた後で何かにつまづくと、決まって私のせいだと罵る様になってきて……。あの子が大学を出てからは、何か言ってきても具体的な事は言わないように気をつけていたんです」
 単なるアドバイスのつもりで言って、その挙句に「お前のせいだ」と罵られてはたまらない。それがいくら我が子でも、度重なれば耐え難い。
「最初の内に、気づくべきだったんですね。大人になってからでは、あの子が自分の中に責任を持つということが難しいと、私は気づいてやることができなかった。そういった事を教えてやれないまま、突き放してしまったんです」
 責任転嫁する癖だけを、子どもに植え付けて。
 フェンドはただじっと、女の話に耳を傾けていた。サングラスに隠れた瞳が何を想っているのか、それは見えない。
「他の子はそんなことはないのに、どうして。そう思いました。長男だからと言っていたのが悪かったのか。その他に特別分け隔てをした覚えもないのに」
 左手首を右の手で捕らえ、女は唇を噛み締めた。
「私が、逃げたんです。あの子から」
 どれだけ恨み言を受けても、それは仕方のないことだ。
 滔々と語った末に、女は目尻から一滴だけ、涙を落とした。
 おそらくは男がこの世を去ってから、ずっと考え続けてきたのだろう。そうして己の中で一つの区切りをつけ、それからここへとやってきた。
「私もあの子の話を聞かなかったけれど、あの子も私の話を聞いてはくれなかった。最後まで」
 フェンドを見上げ、女は小さく苦笑した。
「何か、言ってやりたいことでも?」
 えぇ。
 女は頷き、そうして先程まで男が立っていた場所へと視線を投げた。
「ごめんね。――そう、言いたかった」
 何に向かっての謝罪なのか、定かではない言葉だった。色々な思いが錯綜し、言葉が混ざり合って、その結果に落ち着いた、そんな感じのする四文字であった。
 たとえ生きていた男には届かなくとも、男が消える前に口に出来ていたならば、女の胸に残るしこりも軽くなっただろうに。
「この言葉は、私が彼岸へ行くまで取っておくしかなさそうだわ」
 三度、女はため息をついた。
 少し疲れた様なため息だった。
 フェンドは何も言わず、立ち上がって店を出て行く女の背中を見送る。
 薄暗い空気を払おうとするかのごとく、蛍が女の周りを舞っていた。




[終幕]