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<PCシチュエーションノベル(ツイン)>


遣らず雨に君遣らず

 明け方の天気など信じるのではなかった。
 びしょ濡れの着物が重くなっていくのを感じ、それでも書道の道具だけは濡らさないようにと急に降り出した通り雨から逃げるように高峯・弧呂丸は書の師である八束・楼明のアパートの先へ駆け込んだ。
 今まで、いや今も空だけは晴れているのに降るこの雨は、家の中で見るのならば、さぞ美しいだろうが今の弧呂丸にとっては邪魔なものでしかない。



 本来すぐにでもこのアパートと語る長屋の延長、現代に未だ残る歴史の博物館か、或いはただの幽霊屋敷か、兎に角そこに住む楼明の部屋の戸を叩きたいところだが濡れて、滴る雫をその身につけ、師の部屋を濡らすわけにも行かず、その一歩手前で雨を凌ぎながら紫陽花色の着物の端を絞るように何度か捻る。
(ああ、八束さんを待たせてしまう…)
 自分ではそう思わないがよく硬いと言われる性格は、書の練習に行くという約束の時間を破りそうになっている弧呂丸自身を酷く苛み、絞る着物の皺の深さでどれだけ思いつめているかが理解できた。


「弧呂丸さん、そんなに着物を手荒く扱っては折角の良いものが台無しになってしまいますよ」

 ふいに、手元ばかりを見、水気を落とす事ばかりに集中していた弧呂丸の少し上から消え入りそうではあるが優しい、そして幾分か聴きなれた声がかかってくる。
 同時に、頭に被せられるのは畳の香りがかすかに鼻をくすぐる手ぬぐいであり、
「八束さん…すみません。 もう少し着物が乾いてからお邪魔致しますので…どうか、待っていて頂けないでしょうか…」
 タオルというものではなく、綿の少し硬い手ぬぐいの感触を楼明が気を遣って落としてくれたのだと嬉しく思いながら振り向けば、案の定、弧呂丸が入れずにいた師の部屋の戸が開き中から土色の着物を纏った自分より背の高い赤い瞳が少し落ちた眼鏡をかけなおし、さっさと入りなさいと言わんばかりに自分を見ていた。

「構いませんが、その濡れようだと半日はそこを動かずに待つしかないと思いますよ?」
 あまり他の人間に慣れないのか楼明は弧呂丸が自分の姿を確認したかと思うとすぐさま弟子の腕を掴み、有無を言わさず部屋の中へ引っぱっていく。

「八束さん! …ああ、だから乾くまで待ってくださいと…」
 どうして他の人間を避けるようにするのかわからなかったが、あまり人の目に留まる所に居たくないのだろう。楼明は弧呂丸を部屋に上げるなり下駄を脱ぐのを確認、すぐさま書道をたしなむ者の少し骨ばった手で弟子の頭を拭き始める。

 弧呂丸の方といえば、子供のように頭を拭かれるという仕草からか、雨に濡れた着物が思ったとおりに師の部屋を汚していくのが堪えられぬからか、顔が赤く黒曜石の瞳が艶を持って伏せられた。
「気にしなくて良いですよ。 私の部屋はこうですし、弧呂丸さんの着物は絹だ。 下手に絞ろうとするよりは自然に乾かした方が長持ちしますよ?」
 私の着物は綿だからなんとかなりますけれど。と、自らの着物の袖をわざとらしく振ってみせれば確かに、弧呂丸の物より硬い生地で出来たそれはくるくると楼明の腕を軸にし、回っている。

「すみません、傘くらい持って歩けば良かったものを…」
 楼明は自らの部屋が汚れる事に全く興味が無いといった風で弧呂丸の頭やら肩の水気を手ぬぐいで吸い取っていたが、当のずぶ濡れた本人の心境は極めて重く、長屋とボロアパート、ついでに楼明の書いた画で多少お化け屋敷と化している部屋はひっぱってこられた跡と共に何かが這って来たかのように見えなくもなく、何とかしなければと切羽詰った思いでため息が漏れた。

「気にしたければ気にするのも良いかもしれません。 ですがその『気』が書にありありと出てしまうのは…まぁ、いただけないですね」
 これから書を嗜むのだからそれ相応に気を保ってくださいと言う楼明は、いつもこうしていれば人が集まる良い先生であるのに何処か、弧呂丸の知らないところで正体を見せない何者かが住んでいるようで、そこが怖くて尊敬できて、そして心が温かくなるような気持ちにさせられる、そんな師である。

「八束さんのおっしゃる通りです…。 そうですね、書は教えていただくだけではなく楽しむものでした」
 あらかた、水分を抜き取った手ぬぐいから解放されて弧呂丸は師に微笑み、教えを頼んである日にはいつも二つ並んでいる文机に書道の道具を並べていく。ここでなるべく楼明に顔を合わせないようにしているのは何故なのか、自分にもあまりそれはわからないが、冷たい雨にやられてきたというのに顔が酷く熱い。

「…ふむ、楽しむついでに今の状況も楽しんでみましょうか」
 部屋の畳はそのうち乾くからと後回しにした楼明は、弧呂丸の座る文机と丁度向かい合わせにある同じ物の前に座り、元々用意されてある道具で墨をすり始めた。
「楽しむ…のですか?」
 雨にやられて、大切な師の部屋を汚して、今まで塞いでいた弧呂丸は理解が出来ないと目を丸くし、そして師の考えがわからぬと首を捻る。
「まぁ、見ていて下さい。 簡単ですが今から二つ手本を書くので…今日はそれを課題にしましょう」

 弧呂丸の表情に口の端を上げ、面白いという風に微笑んで見せた楼明は一枚の和紙に硬く、そして読み取りやすい文字で『天泣』と書く。同じく、すぐにもと、取り出した和紙にも『天泣』と今度は流れる水の如き早業で強い筆と弱い筆の重なった芸術的な一枚を書き上げた。

「てんきゅう…ですか?」
 天が泣く、と書いて天泣。普段の生活ではあまり聞く事の無い言葉を何処かで聞いたことがあると判断した弧呂丸は、名の通りだがそれが今降っている雨の事だと頭の中で理解する。
「弧呂丸さんは『通り雨』に降られて濡れてしまいましたが、『天の涙』で濡れたと思えば少しは素敵だと思えるでしょう」
 二枚の書を書き上げた楼明はそれを弟子に見せると微笑む。
「一枚は小学校の書道でも教えるような基礎です。 読みやすく全てに対して丁寧親切に読み取る事ができます。 …が、もう一方は水のように柔らかく掴みどころが無い」
 墨をすっている弧呂丸にその二枚の解説をしながら立ち上がった楼明は障子のような窓を開け、暫く黙ったまま空を見つめた。

「それでは今日はこの二枚を練習するという事で宜しいのでしょうか?」
 ただの水が墨で黒くなった頃、師の書いた書を一通り眺めた後、弧呂丸は何処を見つめるでもなく血色の瞳を外へ向ける楼明に問う。
「ああ、いえ。 どちらか一方で構いませんよ」
 窓から入る風に少し長めの赤毛を流しながら、楼明は二枚の書を持ち。
「流るる水の如き精神も必要ですが、これは達筆と落書きの境界線を学ぶのにも近いですからね。 まずは基礎から行きましょう」
 いつも弧呂丸さんに教えているのとは大分簡単ですが、と付け加えた楼明に弧呂丸は頭を何度も降り否定する。
「いえ、基礎も大切ですから。 それに、私の筆では、まだまだ八束さんの書に敵わない」
「そうですか? 敵う、敵わないではなく、気持ちの問題だと思いますが。 まぁ、この二枚の書の性質を考えると矢張り、今回の書の方が弧呂丸さんに似合って良いのかもしれません」
 どうして、と目で問う弧呂丸に楼明は何も答える事は無かったが、一つだけ。

「誰にでも理解できる、親切な所が弧呂丸さんの良い所ですね。 という事ですよ」

 弧呂丸の側に寄り、もう少しで息のかかりそうな程まで近づいて弟子の筆運びを見ながら楼明は少し可笑しそうに、笑いに似た息を漏らしながら告げた。
「や、八束さん! もっと真剣に教えて…下さい…」
 少し癖のある髪を柔らかく撫でる息に驚き、反面顔を赤く染めながら、最後には消え入りそうな声で教えを乞う。その姿はまだ少し雨にやられた跡があってなんと艶のある事か。
「私はいつも真剣ですよ? それに、まだ弧呂丸さんの髪が濡れていてちょっと気になるだけです」
 楼明の行動に肩を縮ませながら筆を進ませる弧呂丸を、まだからかうようにして口走られるそれはとても甘美で、本当に真剣なのか、それとも言葉半分でからかっているのかと疑いたくなる。

「ですが、まぁ。 天泣と言ってもどちらかと言えば狐の嫁入りという言い方の方が世俗では通っているのかもしれませんね。 そう…、弧呂丸さんはどちらを頻繁に使用します?」
 耳元からふわりと離れた楼明は何やら自室にある一枚の画を壁から引き剥がし、書の合間で良いから見て下さいとばかりに置く。
「私の場合。 矢張り、狐の嫁入りでしょうか。 …八束さん? これは…」
「狐の嫁入りです。 尤も、ただの魑魅魍魎と言われてしまえば頷く他ありませんが」
 目の前の画は天気で言う狐の嫁入りとは正反対の、鬼火の行列とそれに続く醜悪な妖怪達の行列が描かれている、他の人間から見れば気味が悪いの一言ばかりがかえってきそうな画だ。

「空は晴れているのに摩訶不思議な雨、それを妖の類のせいにするのは人間の常ですが。 狐の嫁入りとはそもそも鬼火が嫁入りをする狐の行列に舞う提灯を見てそう言う事が元、とも言われていて…こう考えると水に火。 なんだか両極端ですね」
 弧呂丸の筆がそこで丁度『天』の文字を書き、一息をつく。
「確かに、妖のせいにするのは人の常でもありますが…。 それでは初めて通り雨を狐の嫁入りと言ったのは…?」
 筆を墨に浸し、必要な分だけを含ませるように動かした弧呂丸は立ち上がったまま何かを考えるように歩く楼明に問う。物を書く、或いは描くという人間は大抵いつも何かしらを考えているのだろう、部屋の隅に行っては資料を探し、また戻ってきてはふと天を見上げている。
「そこまではわかりませんが…案外たまたま、弧呂丸さんのように可愛い我が子が嫁に行ってしまう親の元に、これもたまたま、通り雨が降って『我が子よ、行かないでおくれ』という気持ちを『嫁入り』つまり雨という妖が大切な子を持っていってしまった。 という風に解釈したのかもしれません」
 さらり、と言ってしまう言葉に何か考える事はあるものの、その始めの方にはとんでもない一言が隠れていて。
「八束さん! 私は嫁になど行きません!」
 筆を進めるのを忘れ、冷静に返したつもりが何故か声色高く、焦った一言のように聞こえなくもない。
「おや、それは喜んで良いのか、悲しんだ方が良いのか?」
 さて、私はどうしましょうとなにやら意味ありげに首をかしげて見せる楼明に弧呂丸は顔を赤くしながら肩を震わせる。全く、この師はどこまで自分を困らせるような事を言うのだろう。それに何故困る必要があるのだろうと。
「どちらでも良いです…」
 半ば消え入りそうになった声を落とし、弧呂丸はふうとため息をつく。
 困る、驚く、そんな感情が出入りしてもこの師といる時間が自分の大切な心休まる時間だと認識だけはしているのだ。

「弧呂丸さん、私の気持ちに言葉で返してくれるのは嬉しいのですが。 筆が…」
「はい?」
「筆が泣いていますよ?」
 今まで自由気ままな会話をしていたと思えば楼明は弧呂丸の方に目を向け、少しその瞳を丸くして指を指す。勿論、師の姿を追っていた弧呂丸はその指摘に何の事だかと自らの筆を見て。
「墨が…。 書きなおします…」
 書いていた筈の『泣』という文字。その最後の線で止まっていた筆はついに墨を筆先から垂らし、この書に限ってはある意味丁度良い造語で『墨泣』とでも言えてしまいそうだった。

「肩に力が入りすぎなんですよ。 ほら、もっと力を抜いて…」
 弧呂丸がなんとか和紙を換えようと手を伸ばした隙に、いつの間にか背後をとった楼明がその肩を叩く。
「や、八束さん…!」
 少し筋張った指で肩を叩かれるのは確かに気持ち良い、が弧呂丸にとってはそれどころではなく、ゆっくりと暖かい振動共に自らの顔はまた赤くなり和紙がずれ、筆も小刻みに揺れる。これでは書どころではないではないか、そう思いつつも何故かこうした時間も嬉しく思えるのだから仕方が無い。


「楼明で良い。 そう言った筈だがね?」
 背後の声がいきなり普段とは違う口調になり、ああまたか。と弧呂丸は今まで自分の心が乱されている理由を知る。
「楼明さん…あの…書が…」
 これでは書けませんという弧呂丸の言葉は、さも面白いというような楼明の笑い声で掻き消える。こうやって時折出る師の顔はなんなのか、一弟子である自分にはわからなかったが、唯一つ。この自信に満ちた物言いや普段見せない師としてではない言葉が思慕にも似た憧れ、心の温かさを起こさせるのだ。

「弧呂丸くんは習い事の時間を気にしているのかね?」

 肩たたきをやめずに楼明はまた窓の方を見やり、くくっと声を漏らす。それもそうだ、弧呂丸がここに来て書を書き、話をしているうちに随分と時間が過ぎている筈。
「は、はい。 そろそろ帰りませんと…楼明さんのお時間が私のせいで…」
 無駄になってしまうのではないか。そう弧呂丸は言いかける。なにしろ自らの絵で忙しく描いている楼明、それが売れずとも好きな事に対する時間は貴重であり、出来ればその邪魔はしたくない。

「―――ふむ、だが見てごらん。 …この雨で帰るのかね?」
「えっ…」
 今まで楼明だけが窓を開け、覗いていたせいで弧呂丸は外の天気などさっぱり頭に無かった。元々来た時の雨は空が晴れ渡った上での天気雨。しかし、顎だけで師が指す窓の風景の空は曇り、横倒しとまではいかないが傘無しで歩くには非常に宜しくない量の雨が降り注いでいる。
「あまり濡れ鼠になって帰らせたというのは私としても気分が宜しくないな…、弧呂丸くん、あと何枚か書いて雨が小降りになるまで待つというのは出来ない事かな」
 仕草としては口元に手を置き、さも困ったという顔をして見せるが、楼明の声はどことなく楽しげで弧呂丸の次の反応を待っているようだ。

「いいの、でしょうか…?」
 見上げるように楼明の真紅の瞳を見上げる仕草ににこりと笑い。
「折角の遣らずの雨だ、暫くはこの時間を楽しもうじゃないか」
 立ち上がり、また弧呂丸と対になっている文机に座ると今度は大胆かつ勢いのある筆遣いで『留客雨』としたためる。
「この書き方にはあまり適切な言葉とは言わないが、客に留まってほしいという気持ちがこの書のように薙倒す雨を降らせてくれると願うよ」
 二枚の『天泣』と一枚の『留客雨』が見事に一つの雨の形として書に留まっている。その美しさに見惚れるべきなのか、そこはかとない気障な言い回しを気にするべきなのか。

(でも、客が留まりたいと思って降る雨は…どうなのでしょう…)
 師の言う留客雨とは客に留まってほしい、帰らせたくないという思い。ならば、少しでも側で言葉を交わしていたいと思う弧呂丸の気持ちは客が留まりたい、帰りたくないという別の雨なのではないだろうか。正座し、見上げた窓から少しだけ入ってくる雨の香りを楼明の部屋で楽しみつつ師の顔を見やれば。

「ほうら、また筆が泣いている」
「すみませ…!」
 眼鏡の下で笑う瞳にまた肩を浮かせ翻弄されつつも、留客についてのこの考えだけは、言えば確実に笑われてしまうと、口にしない弧呂丸であった。