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<東京怪談ウェブゲーム 界鏡現象〜異界〜>


赤の物語



プロローグ


あなたの中には赤に纏わる思い出があるでしょう?
それは彼岸花の赤かもしれないし、夕焼けの赤かもしれない。
もしかしたら滴り落ちる血の色かも知れないし、空に浮かぶ風船や、呪われた靴の色が赤だったのかもしれません。
あなたの記憶に鮮明に残る「赤」の話をお聞かせ下さい。
あなたの「赤」の物語を。
あなたはそのために、この部屋を訪れたのです。



第一話 
 引き戸から姿を現した青年はその面に戸惑いを浮かべながらも、室内に足を踏み入れた。
 薄汚れた木目の天井、部屋の隅の文机、どっしりとした構えの和箪笥へと視線を向けながら、しきりに首を捻っていたが、私の姿に気づくと小さく会釈をしてみせた。
 彼は突然の出来事に驚いてはいるようだったが、怯えてはいなかった。
 端正ながらもどこか幼さの残る面立ちと異なり、肝が据わっているようだ。それともこういった不可思議な事象に対して、それなりの場数を踏んでいるのかもしれない。
「こちらへどうぞ」
 縁側に腰掛けたまま私の傍らを指し示すと青年の顔に花の蕾が綻ぶような微笑が浮かんだ。
「こんにちは」
 青年の柔らかな声音が静かな部屋の中で淡く、長く、響く。
 その残響に驚いたのか、彼は私と周囲を不可思議そうに見回した。
「ここは」
 私の声に青年の視線が戻ってくる。
「物語る場所。あなたの内に沈んだ物語が、あなたをこの部屋へ招きよせました。ここから抜け出すにはその物語を私とこの部屋にどうぞ聴かせてやって下さい」
 そうすれば、おのずと帰り道も見えてくることでしょう。
 青年は私の言葉の意味を咀嚼するように瞼を伏せ、しばらくの間部屋の中に流れる空気に身を委ねていたが、やがてゆっくりと口を開いた。

 
 思い出の中の祖母の家は、昼間でもどこか薄暗く、暗鬱としていました。
 昔ながらの日本家屋という印象が強かったせいもあるのでしょう。
 けれどこの部屋を訪れて分かりました。
 大きく開けたこの窓から見える外の景色があまりに鮮やかだったのだと。
 その鮮やかさに比べて部屋の薄暗さが強調されてしまっただけにすぎなかったのだと、唐突に理解しました。
 ……ここは、祖母の家でしょう? 正確に言うなら僕の記憶の中にある家だ。
 空は海の青を映したような深い青、力強い日差しの中で花咲く向日葵の黄色、風にそよぐ鮮やかな緑……眩しい色彩がこの部屋の窓の外にはあった。そう、確かに、ありました。
 
 
 赤。赤い記憶。
 祖母の家の庭には赤い花はなかったけれども、忘れられない夏の「赤」が僕の中にはあります。
 僕にとって夏の花とは緋衣草なのです。
 緋衣草と聞いて、あなたにはどんな花か思い浮かべることが出来ますか。
 実はこの名はサルビアの和名なんです。
 小振りで愛らしく、けれども鮮烈な赤を纏う花です。
 
 あれは祖母が亡くなる少し前、僕がまだ小学生の頃のことでした。
 その年も両親に連れられてこの家を訪れたのですが、同年代の子供がいるでもなし、家の中に何があるという訳でもなしで、退屈に任せて外にふらりと出かけたんです。
 家々の間に田畑があるというよりは、田畑の中に家が点在するような田舎です。
 舗装されていない道は白く輝き、両脇を埋める瑞々しい稲穂の蒼が美しかった。
 途中、農具のある家の軒先を覗いては犬に吠えかけられたりしました。
 その生け垣の向こうの小径を十五分ほど歩いていくと、小さな学校があります。そこに行けば子供もいるだろうと、幼いながらもあたりをつけて向かったんですが、これが校庭には誰もいない。
 こっそりと校舎の中に入ったものの、見知らぬ校舎を一人歩くのは心細かった。
 気持ちを鼓舞して冒険者になった気分で探索をしたんですが、建物の中でも全く人にあわない。
 校舎はこじんまりとした学校だったんですが、校庭ばかりが広くて……いや、あれは半分山だったのかもしれません。校庭を突き抜け、裏庭の方に回ってみたんです。
 そこに、緋衣草が群れるように咲いていました。花壇が緋色の帯になっていたんです。
 夏の日差しの中でも色あせない赤の群生。
 その赤に酔ったのか、それとも水もとらずに日の下を歩いたのがいけなかったのか、僕はそこで倒れてしまったようでした。
 目覚めた時には木陰に横たわり、額には濡れタオルが置かれていました。
 人の気配に傍らに目をやると同い年くらいの少年が座っていました。
 彼は気づいた僕に向かってすっと水の入った水筒を差し出してくれました。それから緋衣草を。
 戸惑った僕に彼は蜜の吸い方を教えてくれました。
 初めて口にしたその蜜は、爽やかな甘さを備えていて、どこかぼんやりとした頭の中をすっきりさせてくれたのを覚えています。 
 彼はこんな雲一つない日の、日差しの強い時間に帽子もかぶらず出歩いてはいけないと僕に向かって云いました。田舎の少年にしては野暮ったさがなく、大人びた少年でした。

 それからその夏の間、僕は彼と遊ぶようになったのです。
 山の中にある小さな神社や祠、学校の図書室、川縁での水遊び。
 どれもたわいもない遊びだったのに楽しかった。
 祖母がその年の暮れに亡くならなければ、もしかしたら彼とは今も続く友情を育めたかもしれない。そんなふうに思うのは……僕の感傷でしょうか。

 緋衣草の花を見ると今もあの夏を思い出します。彼を思い出します。
 名前さえ忘れてしまったのに。それでも僕の中に残る日々を懐かしく思います。
 
 僕は実は物書きの端くれなんです。それで今回、雑誌に旅と花を題材にエッセイのようなものを書くことになって。真っ先に浮かんだのが緋衣草でした。

 もう一度あの花を見たいと、今は廃校となってしまった小学校を訪れ、昔のように咲き誇る紅の花に見入っているうちにこの場所にたどり着いてしまったのです。

「これは僕の見ている夢でしょうか」
 青年は困ったように微笑みながら私を見つめる。
「もしかしたら彼に会えるのではないか、そんなふうに願った僕の」
 あなたは少しあの少年に似ている気がします、と付け加えた。
 私はただ静かに微笑む。
「また会えたね」
 その言葉に青年は目を丸くし、それから口元に笑みを讃えた。
 そのまま視線を青い空に向ける。
「今年の夏も暑くなりそうですね」
 そういって懐かしげに目を細めた。
 
 
第二話
その青年からは花の匂いとともに血の香りが微かに漂ってきた。
けがでもしているのかと尋ねた私に、額に大きな傷を持つ青年は「ちょっとな」といって、傷ついた指先を子供のように広げてみせた。成人はとうに超えているだろうに少年のように笑う。
彼の明るい表情とよく回る口は軽薄な印象を人に与えそうなものだったが、瞳にやどる優しげな光と会話の間に感じ取れる気配りがそれを打ち消していた。それは花屋の店主という商売柄というよりは、彼のもともとの資質のように感じた。
「赤い話ねえ……」
 物語りを促した私の言葉に青年の表情がわずかに曇る。
 己の細かい傷跡が残る指先に目線をやり、その指先を額の傷跡にあてた。
 
 
 同じ夢を子供の頃から繰り返しみるんだ。これって珍しいことか。
 いや、あんたみたいな奴に訊いたって、よくあることだって応えるに違いないな。
 俺にとって赤といったら血の赤なんだ。薔薇の赤とかいえたら格好よかったかもな。
 血を見るとな、なぜだかこの額の傷が疼くことがある。まるで傷口が開いたかのように熱をもって、脈打つように痛むんだ。
 それでな、そんなことのあった日の夜には必ずといって見る夢がある。
 暗闇の中で白い雪が月の明かりを受けてきらきらと輝いているんだ。肌寒い夜でさ。吐く息も微かに白い。
 遠くから獣の鳴くような、うなり声も聞こえてくる。
 俺はさ、そんな雪の上に片膝ついてある男を抱きかかえてるんだ。
 雪の上に落ちる赤。雪を溶かす血の色が俺とそいつを取り囲んでいた。
 俺もそいつも侍のような格好をしている。刀を腰に帯びてるんだ。もっとも俺のものは近くに放り投げられているんだが。
 そいつは俺の親友で、ずっと隣を走っていけるって思ってたくらい信頼してた奴なんだけどさ、だけど……いつからか目指す場所が違っちまって……袂を分かって、再び俺の前に姿を現したそいつは瀕死の状態だった。そんな奴を俺が介錯してやったんだ。そういう場面なんだ。
 夢の中で、どうしてこんなことになってしまったんだ、どこで何を間違えてしまったのか、って俺は繰り返してる。
 そこで毎回気づくんだ、獣の声だと思っていたのが自分の声だったってことに。
 地を這うようなうめき声、血を吐くような苦悶の声をあげてるのは俺だった。
 そいつをこう、ぎゅっと抱きしめながら、何のはばかりもなく泣いて、泣きまくってる俺の声だったんだよ。
 次第に失われていく体温が悲しくってさ。そいつがもう俺に笑いかけることもないんだってことが、悔しくってさ。声も殺さずに泣いてたんだ。
 どれくらい泣いていたのかなんて俺には分からない。時間的感覚はないんだ。
 だけどさ、いつのまにか抱きしめてたはずの身体が軽いんだ。
 さらさらと柔らかな音が鼓膜を振るわせる。
 何事かと思って目を開けたら、奴の身体は徐々に花びらに……桜の花びらに変わっていた。
 足の先から、手の先から薄紅色の欠片になった身体は風にのって闇に散る。砂のように土にかえる。
 しまいには俺の腕の中から失われてしまうんだ。
 俺は闇のなかで叫んでる。言葉じゃなくてさ、獣の咆吼に近い。
 残された俺は闇の中で一人、自分の身体を抱きしめて泣いているんだ。
 
 そこで唐突に夢は終わる。必ずそこで終わる。
 その夢から目覚めた時の胸苦しさったらないぜ。
 泣きながら起きることもあるし……悲鳴を上げているのか従姉妹がさ、心配して起こしにくることもある。
 あいつ、まるで自分が俺を苦しめているような辛そうな顔をするんだ。
 泣いてたんじゃないかって思うくらい目を真っ赤にして俺のことを見てたりするんだ。
 あいつのせいじゃないのにな。
 
 そこで青年は再び私に自らの指を見せた。
「花屋っていう職業柄手先に怪我はつきものなんだ。近頃はそう大きな傷をつけるようなこともないけどさ、修業時代はひどかった。薔薇の棘の処理に失敗してザックリ。傷自体はたいしたことなかったんだが、血の量が思いの外多くて、師匠の方が少しあわててたかな。俺は指の傷の痛みより額の傷跡の方が痛んで動けなかった」
 何でなんだろうな、と首をかしげ、淋しげに笑う。
「俺にとっての赤は血の赤。淋しい、悲しい緋色だ。……好きにはなれねえなあ」
 遠い夢を見つめるように宙に視線を投げ、呟いた。
 
  
第三話
 窓を開けると涼やかな風が室内に吹き込む。
 青年というよりは少年という印象の強いその人は私の正面の椅子に腰掛け、チョコレートを頬張りながら、その風に目を細めた。
「高原を渡る風だな」
 懐かしさを滲ませた声。一瞬見せた横顔は二十四歳という歳相応の、大人の男のものだった。
「合宿とかで高原に行く機会があるんだよね」
 窓の外に視線を投げたまま、見えないだろうけど俺これでも学校の先生なんだ、と淡々とした口調で告げる。
「故郷に似ているなあ、とは思うんだけど、やっぱり全然違うなあとも思うんだ。空の高さも空気の匂いも緑の色も。東京で思い出す時と違って、似ている場所にいくと妙に感傷的に故郷を思ってしまうのはなぜなんだろう」
 おまえ、故郷は? と話を振られ、私は首を左右に振る。
「悪い。こういう場所にいる奴にする質問じゃなかったな」
 彼は云いながらチョコレートをまた一つ口のなかに放り込む。
「アルペンローゼ」
 愛しい者の名前を呼ぶように、青年が花の名を呟いた。
「?」
「俺の中の「赤」の思い出。アルペンローゼの赤い花と故郷の……スイスの国旗が俺にとって印象深い「赤」だよ」


 こう見えても俺、四分の一はスイス人の血が流れてるんだ。
 高校一年までスイスのダヴォスで暮らしていた。
 冬場はスキー場として観光客がわんさかと、夏場はハイカーがやってくるような街だった。
 ダヴォス周辺の山はさほど高くてなくて、登山というよりはハイキングを楽しむ人々が多く訪れるような街だった。ハイキングコースもたくさんある。ゴッチナグラートからパルセン小屋を経て、シュトレーラ峠に至るヴァイスフルー山腹の道はパノラマヴェークって云われてて、ダヴォスのあたりじゃ一番メジャーなコースだった。やっぱり見晴らしがいいんだよな。俺も好きだった。
 自然と緑が無理しすぎずに共存してる、そんなところだったよ。
 俺はそんな場所で育ったんだ。
 アルペンローゼはエーデルワイスと同じように高山植物でさ、真っ赤というよりは濃いピンクという感じの花なんだ。そういえば、ツツジに似てるかな。
 俺はアルペンローゼに助けてもらったことがあるんだよ。
 チビの時って云っても、今もチビっていえばチビだけど。まあ、ガキの頃だ。
 街中を離れて一人ふらふら雪の残る山の中に入ったんだ。長い冬が終わったのが嬉しかったのかもしれない。溶けていく雪が名残惜しかったのかもしれない。
 今となってはどうして一人であんな場所に行ったのかは分からないんだけどさ。
 ただ調子に乗って普段入り込まないような山の中に入り込んでしまった。
 迷子っていうよりは遭難、だな。一歩間違ってたら俺死んでたし。
 街の明かりも届かない場所で、周囲がどんどん暗くなっていった。空と大地の区別が付かなくなる、そんな闇だった。
 星の瞬きと足下に雪と草の感触がなければ自分が本当に地上にいるのかどうか分からなくなるくらいの孤独だった。
 歩くと鳴るシャリシャリとした雪の音が救いだった。
 ふらふら歩いていても人家は全然見えてこない。次第に腹は減ってくるし、心細くなってくるし、どうしたものかとしゃがみこむと、鼻先にアルペンローゼの花があった。
 やっと気づいたわねって笑われた気がしたのは、俺の気のせいかもしれないけれど。
 視線を地面にやると、ぼんやりと闇の中でアルペンローゼの花がまるで俺を導くように灯りのように点々と浮かび上がっていた。
 月もない夜だった。
 それなのに不思議なことに赤い花が帰り道を照らすように光って見えたんだ。
 もしかしたら女王が……女王ってアルペンローゼのこと。エーデルワイスは王女でアルペンローゼは女王って呼ばれているんだ……俺のことを可哀想に思って帰り道を示してくれてるんじゃないかと思った。
 で、その花の道を辿っていくと、俺は俺を探す両親と出会えたんだ。
 
 俺はね、と彼が言う。
「日本が好きだよ。でもスイスも好きだ。故郷はといわれたらあの国の名を告げるよ」
 風が再び窓から室内に入り込み、青年の髪をなでていく。
「スイスの国旗の赤は「盾」を示してるだってさ。心優しい女王の花咲く国にふさわしい国旗だよね。守るための盾。決意の盾を掲げてるんだ、あの国は。俺はそういう国に生まれたことを嬉しく思うし、誇りに思う。俺にとって赤は誇りの色かな」
 そういってあでやかに微笑んだ。
 
 
第四話
 どこで何かを間違えたんでしょうか。私には分かりません。
 大切な人がいます。子供の頃から、いいえ、それ以前からずっと大切な人でした。
 あなたは前世というものを信じていらっしゃいますか。
 私とその人には前世からの縁、いいえ、縁という言葉で言い表すには少し強すぎる絆があるのです。
 江戸が終わりを告げ新しい世界が東の海から押し寄せてきた時代。
 かつてその人と私は道を同じくする同志でした。親友と呼んでいい間柄でした。
 けれどいつしか道は分かれ……私は死の淵に立ち、そんな私の介錯をしたのが彼でした。
 今も覚えています。桜の花が舞っていました。
 美しかった。悲しくなるほど美しい桜でした。
 
 最期に見たのは、いえ、見た気がするのは、朱に染まった世界の中で、私を抱きしめて号泣している彼の姿でした。
 誰よりも笑顔の似合う男だったのに、身も世もなく泣いている。
 いつでもどんな時でも笑っていろといったのに。笑っていると約束をしたのに。
 彼の笑顔は疲れた人々に安らぎをもたらしました。まだ大丈夫、なんとかなると思わせる笑顔でした。
 私はそんな彼の笑顔が大好きでした。
 そんな彼の表情を曇らせてしまったことが悲しかった。


 今生、生まれてからずっとその記憶を抱えていたわけではありません。
 はじめにその夢を見たのは、従兄弟の家族や私の家族とともにお花見にいった日の夜でした。
 桜と血が怖くて、泣きながら目が覚めました。
 その時はただただ、怖い夢だとしか思わなかった。
 それからは、桜の花、満月の光、滲む血、そういったものを目にすると、夢を必ず見ました。
 泣く私を彼は……彼の生まれ変わりである従兄弟はいつも慰めてくれました。おちゃらけたところのある人なんですけれど、本当はとても優しい人なんです。
 そうしてある日、何の前触れもなく、すとんと思い出してしまったんです。
 夢が夢でないことを。あれは確かにあった出来事なのだということを。
 ……それもやはり春でした。
 
 従姉妹として昔とは違った形で彼の笑顔を見つめることが出来て、とても幸せだと思います。
 幸せなのに。
 彼の額には傷があります。その傷は……私のためにある傷です。
 あの日と同じような満月になるとその傷は熱を持ち、痛みだし、彼を苦しめる。
 その度に私は思い出さずにはいられません。
 あの赤い、朱い、記憶。血の記憶。
 私の身体を抱きしめた腕の暖かさや、涙の熱さを。
 苦しむ必要などないのにあのときと同じように苦しむ彼に心が痛むのです。
 私は。
 あの人の傍らにいていいんでしょうか。本当は消えてしまった方がいいのではないでしょうか。

 花の香を纏った和装の少女はそう云って一粒涙を闇の中に落とした。
 
 
第五話
 その人は部屋に入ってくるなり、辛気くさいわねえ、と呟いた。
 華やかな印象の女性だが、涙を流す目の前の少女とは違った意味で闇の匂いする女性だった。
 いや、闇というよりは人を超越したとでも云えばいいのか。
 経てきた時の重みを瞳の奥深くに隠し持っているような、そんな人だった。
「あなたのような方がいらっしゃる場所ではないような気がいたしますが」
 私の言葉に彼女は長い髪を掻きあげながら鼻で小さく笑う。
「私だって来たくて来たわけじゃないわ。このお嬢さんを捜して欲しいって依頼があったのよ。あなた、巳影さんでしょう? 従兄弟君が必死の形相で探してるわ」
「お兄ちゃんが……?」
 女性は少女の頬を流れる涙を指で拭いながら、にっこりと微笑んで頷く。
「ドアの外で聞かせてもらったけれど。あなたの従兄弟君には額の傷の痛みよりあなたがいなくなってしまうことの方がよっぽどの痛手のようよ? 大切な大切な、実の妹のように思っている子なんですって。ちょっと惚気のように聞こえないでもなかったわ」
 くすりと笑みを漏らす女性に対して、少女は目を伏せ、新たな涙を流す。
 その様子にあらあらと呟きながら、大輪の花を思わせる笑みを浮かべ女性が私に向き直る。
「この子は連れて帰ってもいいわね?」
 許可など与えなくとも連れて帰るに違いない女性の口調に、私は肩を竦めつつも頷く。
「彼女は語るべきことを語りました。彼女の行く手を阻むものは何もありません」
「ですって」
 女性の言葉に巳影嬢は躊躇する。
「帰って、いいのでしょうか」
「当然でしょう。帰る場所がある、待ってくれている人がいる、それならばあなたは帰らなくては駄目よ」
 そういって少女の赤らんだ鼻を白い優美な指先でつまんで見せる。
「辛いこと悲しいことに身を浸すのは楽なことよ。私にはあなたたちの詳しい事情は分からないわ。けれどね、生まれ変わったのは前世の悲しみを引きずるためではないはずよ。もう一度ともに生きたいと願ったからでしょう。生きるためでしょう。あなた一人が楽になるために逃げたら、彼が可哀想だわ。……また置いていくの?」
 女性の言葉に少女は首を振った。何度も。何度も。
 部屋を満たしていた闇が薄れ、徐々に青みを帯びたものになっていく。
 窓の外に広がる空が徐々に明るくなり、白く四角い箱のような部屋の中に朝を呼び込む。
「東天紅」
 それを目にした女性がぽつりと呟いた。
 その声音に今までのような力強さはなく、何かを懐かしむような、淋しさが含まれているような気がしたのは私の気のせいではないだろう。
「黄昏時を逢魔が時と呼ぶように、夜明けのこの瞬間を言い表す言葉があるの。それが東天紅。人ならざる者が在るべき場所へ帰る時刻だと云われているわ」
 独白のような言葉。
「人は土に、闇の住人は闇に、神は天に、いずれは還る」
 赤みを帯びた陽の光が私たちを照らす。優しく柔らかな、許しの光のような朝の光。
「それなのに私は還る場所が分からない。私にははじめから還る場所なんてないのかしら。……なんてね」
 だから、と女性はその面に穏やかな笑みを少女に向け、手を差し出した。
「帰りましょう。あなたにはあるわ」
 女性の手を少女がとる。
「だから私、夜明けってあんまり好きじゃないの。みんな還っていくのに置いて行かれる気分になるんだもの。……これが私の赤の物語よ。よければとっておいて」
 笑った女性に、有り難うございます、と私も微笑んだ。



 去りゆく二人の背がドアの向こうに消えるのを見送り、私は窓の外に視線を向けた。
 空を朝焼けが広がっていた。
 美しい夜明けだった。





 
 END




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■   登場人物(この物語に登場した人物の一覧)  ■
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【整理番号 / PC名 / 性別 / 年齢 / 職業】

第一話 / 2226 / 槻島綾 / 男性 / 27 / エッセイスト
第二話 / 2936 / 高台寺孔志 / 男性 / 27 / 花屋
第三話 / 2227 / 嘉神真輝 / 男性 / 24 / 神聖都学園高等部教師
第四話 / 2842 / 橘巳影 / 女性 / 22 / 花屋従業員
第五話 / 1891 / 風祭真 / 女性 / 987 / 特捜本部指令付秘書・古神


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■         ライター通信          ■
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初めましての皆様も、いつも有り難うございますの皆様も、
大変お待たせいたしました。ライターの津島ちひろです。
一風変わったウェブゲームをさせていただきたいなあ、
と思い試みた「異界」、海のものとも山のものとも判断のつかぬというのに、
にご参加下さいまして、誠に有り難うございました。
今回は自分の未熟さを痛感しましたが、少しでも楽しんで頂ければ幸いです。
本当に申し訳ございませんでした。そして有り難うございました。