|
或る午後の出来事
「亮一兄さん」
神崎美桜は、飲んでいたカップをそっとテーブルの上に置いて尋ねる。どことなく、責めるような感じの口調だ。
美桜の向かい側に腰掛けていた青年は眉をあげた。
「なんですか?」
「……この間の遊園地の件なんですけど」
もじもじとする美桜は、意を決して言う。
「ど、どうしてあんなことを?」
「簡単ですよ」
ふふっと軽く笑う都築亮一は優雅にカップを持って紅茶を飲んだ。
「最近美桜はなんだかしきりに誰かを気にしているみたいでしたからね」
「そ、そんなことは……」
「滅多に外に出ないのに、やれ美味い蕎麦の店を知らないかだの、美味い食べ物でおすすめはあるかだのと訊かれれば……誰だってなにかあると勘繰るものでしょう?」
「…………」
うっとなって美桜は肩を落とす。
「だ、だからって! なにも住所まで調べなくても……!」
そのせいでとんでもない光景を見てしまったのだ。美桜にとっては大問題である。
真っ赤になる美桜を見て、亮一はくすくすと笑う。
「兄さん! どうして笑うんですかっ」
「いやいや……美桜はくるくると表情が変わるようになったなあと思いまして」
「なっ、えっ、だっ」
「…………ふむ。美桜の想い人のせいですかね」
「兄さんっ!」
耳まで赤くしてしまう美桜は唇を尖らせた。
亮一としては、美桜の想い人の少年が実際どういう性格なのかまでは知らないのだ。ただ妹がここまで心を揺らすというのだから、興味はある。
「苦労したんですから、少しは労ってくれてもいいでしょうに」
「苦労?」
「美桜の彼氏はどうも気配を消すのが上手いし、腕がたつみたいですからね。式神を数体使っても、住居を見つけだせたのは一体だけ」
「あ、だ、だって……その、事情があるんです」
「写真すら撮らせてもらえないなんて、兄さんはかなしい」
よよよと泣き真似をする兄を見て、美桜は困ったように眉をさげた。
亮一はポケットから一枚の写真を取り出す。
「これを見てください。ほら、ピンボケ写真です」
「…………」
「すぐにフレームから外れるんですよ。上手いですね、かわし方が」
「兄さん、写真なんて撮ってどうするつもりだったんですか」
美桜が軽く睨んでくるので亮一は写真をおさめた。
「美桜にプレゼントしてあげようと思ったんですよ。いつでも会える人というタイプではないようなので、せめて写真でもと思いまして」
笑顔の兄を、むううっ、と美桜は睨みつける。
「そんなことしないでくださいっ」
「実物のほうがいいのはわかってますよ」
「そっ、そういう意味じゃな……! もうっ、からかうのはやめて!」
「遊園地を、彼は気に入ってくれましたか?」
その言葉に、怒っていた美桜はゆっくりと肩を落とす。失敗したのかと亮一は不安がよぎった。おとなしい性格の美桜では、一歩は踏み出せないかもしれない。どれだけお膳立てをしても、だ。
美桜は、ゆっくりと微笑した。蕾が花を開くような、可憐で美しい笑みだ。
「はい。お仕事では来たことがあるけど、遊びに来たことはないって…………言ってました」
「…………」
美桜がこういう表情をするようになったのは、その少年の力なのだ。悔しさを少しだけ感じるが、同時に嬉しい。
恋は人を変えるというが……まさにその言葉のとおり。
(いい傾向ですね)
亮一は紅茶の入ったカップを見遣る。その水面に映る自分に向けて微笑んでみせたのだ。
*
(兄さんは、私を心配している)
それはいつも感じていることだ。この家にしても、そう。
美桜のために結界を強固に作っている。
彼は、負い目もあるのかもしれない。美桜を、救うのが……遅くなったことを。
(私の家族はダメだったけれど)
それでも、憧れてしまう。笑い合う家族を。その、暖かな場所を。
この広い家も、温室も、亮一のおかげで手に入った。もっとも、自分の能力で財を築いた美桜の両親のものも……使ってはいる。
それでも感謝しても、したりない。
お礼の気持ちは、『言葉』では足りない。
美桜は紅茶を飲み、微笑んだ。
こうして今の自分が在るのは、兄のおかげだ。
だから今日はその感謝の言葉を言おうと思っていた。……遊園地でのデートの件も含めて。
それなのに。
目の前に座る青年に視線を戻し、恨めしげに見遣った。
テーブルの上には、用意されたクッキーの乗った皿をどけて亮一が写真を広げている。どれも遠くからのもので、はっきり写っていない。
「美桜の彼氏くんはどういう感じの子なんですか? 顔はわからなくても、兄として知っておきたいですからね」
「………………」
こうもからかわれていては、お礼を言う機会がない。
美桜は嘆息した。
と、そこで亮一の後ろに鎮座しているグランドピアノを見遣り、顔を輝かせる。そうだ。忘れていた。このテラスにはピアノがあるのだ!
(ピアノ! そうです、ピアノなら……!)
だが兄に気づかれないようにしなければ。ありがたいことに、兄は広げている写真を食い入るように見つめている。
美桜はそっと自分の能力を広げた。
温室内にあるこの家の周囲へと伸ばしたその力で、自分の『お願い』を伝える。
「……うーん。どうも遠くてはっきり見えないんですよねえ」
写真を持ち上げて見る亮一は、目の前に美桜がいないのに気づいて「あれ?」と呟く。
と。
ポーン、とピアノの鍵盤を指で軽く押す音が響いた。
振り向く亮一。
テラスにあるピアノには、美桜が座っている。彼女の座るイスの足もとには、温室の中にいる小動物たちが集まっていた。
(これは……美桜の能力で?)
使いたがらないのに。
亮一は驚いていると、美桜のしなやかな指が鍵盤の上を滑った。彼女はすっと息を吸う。
鍵盤を滑らかに弾く美桜のその曲に、亮一が唖然としてしまった。
曲名は『愛の夢』。亮一が好きなものだ。
温室の植物が揺らいだ。風もないのに。
動物たちの鳴き声。それは絶妙に合わさって『音楽』となっていた。
まるでこの場所がコンサートホールのようだ。
美桜の小さな背中を見ていた亮一は、ふいに小さく笑った。
ありがとう。
いつもありがとう、兄さん。
(いいのに)
礼なんて。
小さな背中が言うその感謝の言葉に、亮一は苦笑してしまう。
演奏が終わると、亮一がパチパチと拍手した。
美桜は立ち上がり、亮一のほうを向いてぺこりと頭をさげる。なんだか照れ臭かった。
「俺の好きな曲ですね」
「……嫌いな曲なんて、弾かないです」
「ふふっ。まあ、そういうことにしておきましょうか」
朗らかに笑う亮一。
美桜は自分の席に戻ってから小さく息を吐く。
(……亮一兄さんは、まだ許していない)
きっと。
時間が解決してくれるかもしれない。それに、美桜が「許してあげて」と懇願したところで、この兄がそう易々と受け入れるとは思えなかった。
(私も……兄さんも……傷ついて、傷ついて………………いつか、その傷が癒えることはあるんでしょうか)
晴れない心。
確かにこの家は安全だ。美桜にとっては。
だがそれは閉じられた空間でもある。
だからかもしれない。『外』へ興味を美桜が持ったのを、亮一が喜んでいるのは。
広大な家。鳥かごのような、美桜の部屋。
飛び立てば、撃ち落とされるかもしれない。亮一はそれが心配なのだ。
「美桜」
ハッとして美桜は亮一を見遣る。
「ご、ごめんなさい兄さん。少しぼんやりしてしまって……」
「いや、気にしてないですよ? どうせ彼氏のことで頭がいっぱいだったんでしょう?」
その言葉に美桜の口元が引きつった。
「ちがいます!」
「素直じゃないですねえ。別に反対はしてませんよ? どんなブサイクでも、根性悪でも俺は美桜が幸せになるなら応援します!」
なんなら応援グッズを作りましょうか。
そう言いながらごそごそとふところから取り出そうとしているのを美桜は慌てて止めた。
この兄なら、やりかねない。
「ぶっ、不細工って! ひどいです、兄さん! あの人はとってもいい人なのに!」
「知ってますよ。遠目ですけど、すらっとしててかっこいい子みたいじゃないですか」
しげしげと写真を見る亮一の言葉に、美桜はややあってからぐったりとしてしまった。
普段はこれほどからかわれないのだ。穏やかに会話して、微笑み合って……終わりなのに。
(私……なにか変わったんでしょうか)
なにか変化があったのかもしれない。だがそれは――。
美桜は微笑む。
(きっと、悪いことではないはず……)
いい方向にむかっていくのなら、それはとても喜ばしいことだ。
「美桜、夕食はどうしましょう?」
「え? そ……そういえばもうあまり冷蔵庫になかったはず……」
思い出して美桜は渋い表情をした。
すると亮一は一瞬だけニヤリと笑う。美桜が視線を向けるといつもの穏やかな微笑に戻ってしまったが。
「そうだ。外に食べに行きますか?」
「え……外食? 珍しいですね、兄さんが外食をしようなんて言うの」
きょとんとしている美桜の前で、亮一は広げた写真を集めている。一枚欲しいと思う美桜であったが、口にはしない。本人に会った時にこっそりお願いしてみよう。
「ん? いや、次のデートのためにいい場所を調べておこうかと思っただけですよ」
「……でっ」
デート!?
赤くなって小刻みに震える美桜は、がたんと立ち上がる。
「に・い・さ・ん……?」
「そ、そんなに怒らなくても……」
はははと軽く笑う亮一の頬には、一滴の汗。まさか美桜がここまで怒るとは思わなかったからだろう。
「そんなこと考えなくてもいいです! それから、あの人の周囲をうろうろするのはやめてください!」
「安心しなさい。放った式神は全滅させられてしまったから」
「そういうことじゃなくて! あの人は大変なんです! 忙しいんですっ」
だから迷惑になるようなことはやめてくださいっ。
必死に言う美桜を見て、亮一は目を丸くしたあと…………盛大に笑った。
「なんで笑うの、兄さんっ!」
赤くなって焦る妹と。
嬉しくて笑う兄と。
そこは小さな楽園とも呼べる、二人の安全な場所――――。
|
|
|