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<東京怪談ノベル(シングル)>


穏やかな午後



 夏の色が一番濃くなる頃、骨董屋『神影』の軒先に風鈴が取り付けられた。
 、ちりん。
 風の中を水が流れていくような音が店内に響く。
 一人で―― 一体で、というべきかもしれないが――店番を任された灯火は、無言で風鈴を眺めた。
 花の形を模したそのガラスは、風に乗せてその身を僅かに揺らしている。その都度、中央に描かれた藍色の朝顔が涼しげに啼いていた。
 、ちりん。
 ――客がおらず薄暗い店内と、骨董たちの囁きと、風鈴の音。
 ひんやりとした椅子に座って、時を仰ぐように風鈴へ目をやる。心なしか、青い瞳は嬉しそうだ――灯火はこの時間を気に入っていた。

 、ちりん。

 良い音だと、灯火は思う。店内に置かれたモノたちの声を遮ることなく、それでいて篭ったところがない。カラリとした音である。そして、優しげであった。
(包み込むような音――)

 風鈴がここにくる迄の話を、灯火は聞いたことがある。風鈴自身が、普段よりか細い声で、呟いたからだ。
「ここにくるまでに、哀しいことが二つあった」
 ある職人が、病に倒れた幼い娘のために手作りした品物――それが“自分”だった。
 娘はガラスが好きだったから、親はあれこれとガラス製品を与えたのだが――夏が近づいて、父親が自分を作った頃に、娘は亡くなってしまった。
 それが哀しかった。
 ――残された自分を見ていることは、親にとって辛かったようだ。他のガラスたちと違って、自分は娘の手元にいけなかったからだろうと、風鈴は思った。だから死んだ娘と一緒に葬られることも、売りにも出されることも、かといって使われることもなく、納戸で浅い眠りを数年間繰り返していた。
 それが哀しかった。
 だがそれも過去のこと――と風鈴は言った。
 ここで、自分の身体を揺らし、揺らされ、音を奏でることが――啼けることが――気持ちを満たしてくれるそうだ。綿毛になって空を飛んでいる気分で、こうして日々を過ごしていきたいのだと言う。
 ――あくまで、風鈴の独り言である。

 灯火は確かにその声を聞いたが、あえて黙っていた。単なる独り言として流したのだ。
 その方が良い気がしたから。
 翌日。風鈴は心地よさそうに音を出し、灯火は時に見上げ、時に瞳を閉じて聴き惚れた。
 、ちりん。
 時間は緩やかに流れていく。

「あ…………」
 一瞬の後に眼を開いた灯火は、小さく声をあげた。
 自分がいた筈の店が跡形もなく消えて、眼前には草原が広がっていたからだ。
 細長い若草色の葉の先には、水がついていた。丸く透明なそれは、覗き込んだ灯火の黒い髪を映し出している。
 右隣には大きな樹があった。夏だというのに葉はついておらず、枝という枝に水滴がつき、それどころか――ああ、何故この樹は半透明な藍色をしている?
「あの樹は……ガラス……? それとも……」
 、ちりん。
 枝が、勢い良くしなる。
 次の瞬間、水風船を割ったかのような音がして、水滴たちが宙を舞った。
 樹は静かにその身を震わせる。
「…………」
 みるみるうちに水滴が枝へついてくる。雨など降っていないのに、枝自体が水を作り出しているのか、それとも――灯火は地面へと眼を落とし、合点がいったように頷いた。
 目の前にあった小さな水溜りが、徐々に土の中へと飲まれていく――樹が吸い取っているみたいだ。
 水を飲み、枝からそれを飛ばして、再び吸い込むのか。
 ――落ちてくる水滴を、灯火は手で受け止めてみた。
 色白の掌の中で水滴は形を崩し、掌に爪先ほどの池を作り出している。その池が映し出しているのは、灯火の青い瞳だ。
 、ちりん。
 風鈴の音を合図に、池は揺れて掌から零れ落ちていく――中心を泳いでいた青色も、若草色の草の上へと消えていった。

 、ちりん。
 この音は不思議だ。
 今見えている世界が、風鈴の音と一緒に歪むから。
 、ちりん。
 ――ほら、また。
 一瞬だけ、緑色と藍色が視界の中で混ざり合う。ぐんにゃりと柔らかく曲がるのだ。
 まるで映写機とスクリーンに映し出された映像の関係のように、風鈴が目の前の世界を支配している。

 空からは強い光が注がれていた。真っ白の、太陽の光とは思えない色で草たちを包み込んでいる。
 ――現世ではないのですね。
 抽象的な、けれど確信に近いものがある。
 草を踏みしめて歩いていけば、ほらやはり、いた。

 そこにあるのは大きな湖。
 中央に、身体を前に折って、顔と手を水の中へと突っ込んでいる子供がいる。藍色の布きれをあわせたものを羽織っている子だ。
 ――あの職人の娘。
 、ちりん。
 子供の姿がバネのように大きく歪んだ。
 日の光が強くなる。
 、ちりん、ちりーん。
 ――既に子供は湖の奥へと潜っている。
「声を……お掛けしようと……思いましたのに……」
 湖の底は光が届かず、闇に包まれている。子供の姿どころか、一筋の光さえ探せない。
 ――おそらく、自分はこの奥へ行くことは出来ない。
 そんな気がする。
 、ちりん。
 湖のすぐ隣の草の上――フラスコのような形をした、薄青い物体に灯火は眼をとめた。
 近寄って拾いあげる。繊細に作られたビードロだ。あの子がまだ生きているときに、父親が作ってあげたのだろう。
 灯火は人間の子供がするように、このガラスで音を出してみようかと考えたが――思いなおしたように、湖の上で手をゆっくりと放し、この玩具があの娘の元へ戻るように願った。
 何故なら、掌の中で聞こえてきたビードロの言葉――。
 持ち主の手の中へ帰りたがる、その想いの強さは、灯火自身、よく知っていた。

 、ちりん、ちりりん――……。
 今は心地よく、視界を震わせる音だ。
 
 幻からさめるように、灯火が再び眼を開くと、ああやっぱり、そこはいつもの『神影』である。
 水滴が跳ねる音の代りに、右斜め前にある壺からささやき声が聞こえてくる。
 ……どうしたの?
 ……ねてたの、ねてたの? おにんぎょうさん。
 ……おにんぎょうさんも、ねるの?
 、ちりん。
 先程と変わらないのは、風鈴の音。
 壁にかかっているアンティーク時計を見るに、時間はそれほど経っていないらしい。
 相変わらず客はいない。

 時刻は昼の一時半。
 灯火は風鈴を静かに見つめている。
 人のいないこの場所で、たくさんの物に囲まれながら、夏の音に耳を傾けるのだ。
 焦ることはない。何せ、時間はゆっくりと坂を下り始めたばかりなのだから。
 、ちりん。



終。