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<白銀の姫・PCクエストノベル>


灰色の霧

 午後の穏やかさを、けたたましくかき消す音があった。
 やれ……と読書を中断し、ゆったりとしおりを挟んでから、座っていた椅子から腰を上げた青年は、ユリウス・アレッサンドロ枢機卿。この教会に住まう、教皇庁公認エクソシストであった。
 彼は、自分のいた部屋から、音のする部屋まで本を持ったまま移動すると、鳴り響く電話前の椅子に腰掛けてから、静かに受話器を取った。
 途端、気まぐれに、ラテン語で挨拶を投げかけてみる――、
「Pax domini?〈主の平和〉」
〈暢気にそんな挨拶を交わしている場合ではないのだよ〉
 帰ってきたのは、予想通りの声音であった。この電話の向こう、遥々、ヴァチカンから、イタリア語で電話をかけてきているのは、ユリウスの同僚でもあるマルクス枢機卿であった。
 マルクスは、相も変わらず不機嫌そうにユリウスの愛想を一蹴すると、挨拶も抜きに、唐突に本題を切り出してくる。
〈『アヴァロン』が見つかりそうだ。ようやくこれで、事態の進展が望める〉

「そういうわけで」
 あの電話から数日後、所は変わり、『アスガルド』の世界、『知恵の環』にて。
 ユリウスは集まった人々を前にして、長かった他愛の無い話の後、ようやく本題を切り出していた。
 その隣には、一人のシスター姿の少女が立っている。アンナと呼ばれる少女は、のほほんと微笑むユリウスとは対照的に、じっと暗い床を見つめてばかりいた。
「先日聖庁から、連絡がありましてね。IO2からの情報提供によって、いよいよ『アヴァロン』の場所がわかったようなんですよ」
 ユリウスの言葉を受け、アンナがぴくり、と肩を震わせる。ユリウスの話を聞いている一同の視線から逃げるかのようにして、彼女は更に深く視線を落とした。
 アヴァロン。『東京』と、この世界とが繋がっているという場所。同時に、今回の事件の元凶でもある、アンナの想い人が――ジェロニモ・フラウィウスという名の司祭が、必死になって探している場所でもあった。
 ジェロニモは、『現実世界』、つまりは東京へ対する復讐と、この世界が消滅してしまえば共に消えてしまう自分達が、なおも生き残る方法を探している。ジェロニモは東京によって、自分の一番大切な人を奪われたのだと考えていた。ゆえに、アヴァロンを見つけ出し、このアスガルドを現実世界として具現化させようと試みている、らしい。詳しいところは、本人にしかわからないのであろうが、そうすることによって、東京はアスガルド内の魔物で溢れかえることになる。その上アスガルドが現実となってしまえば、自分達も消滅するという運命を免れることができるはずなのだ。
 ジェロニモが奪われた大切な人とは、アンナ・響(ひびき)という名の少女であった。そうして、ここに立つシスター・アンナは、彼女の生まれ変わりのようなものなのだ。ジェロニモの意思によって、この世界に造られた存在。アンナ・響と同様、ジェロニモを愛し、また、ジェロニモからも愛される、本来ならばここにいるはずのない存在であった。
「まあ、こちらの地図をご覧くださいな」
 アンナの内心にある複雑な想いを知っているのかいないのか、椅子から立ち上がったユリウスは相変わらずの気楽な調子で、机の上に長いパピルスの巻物を広げ、一同を呼び寄せた。
 その巻物に描いてあったものは、古い地図のようなものであった。そこにはいくつか、あまり世間には知られていない単語が書き付け加えられている。
 『霧の湖』、『ダム・ド・ラック――湖の貴婦人』……。
 ユリウスは、必要に応じて地図を指で示しながら、説明を始める。
「これはとある湖の地図なのですけれどもね。この湖は、比較的ここ――ジャンゴから、近い所にあるみたいです。と、申しましても、ゆうに歩いて二日くらいはかかってしまうようですけれどもね。まあ、馬車か何かを使って行く方が、利口であるとは思うのですが……、」
 それは、ともあれ、
「とにもかくにも、ここが、アヴァロンと繋がっているのではないか……ということなんですよね。情報の信憑性については、聖庁側が結構な自信を持っているようではありますが、私としても、行ってみる価値はあるのではないかと」
 アヴァロンへの道は、沢山あるとされている。しかしその一つですら、なかなか見つけることはできないのだ。
「このままでいても、八方塞ですしね」
 今まで散々探しても、アヴァロンへの道は見つからなかったわけですから……。
 ジェロニモは、おそらくアヴァロンにいる。ユリウスとしては、ジェロニモを見つけ次第、彼の行動を止めなくてはならない。それが、今回の、教皇庁公認エクソシストとしての、ユリウスの仕事であるのだから。
「先ほどアンナさんには私からお話致しましたが、今回は、アンナさんもご同行くださるそうです――ね?」
 確認されるかのように見据えられ、アンナは慌てて首を縦に振った。しかし、その後でふと後悔のような感情に苛まれる。
 私これから、どうすればいいのかな……。
 ジェロニモを説得するために、とのことで、ユリウス達によって、ジェロニモを探す旅に連れ出されたアンナ。しかしアンナの目的は、ユリウスのそれとは違うのだ。
 ――アンナの目的は、ジェロニモに幸せになってもらう、というところにあるのだから。あわよくば、ジェロニモと二人で、ずっと幸せに生きていきたい、というところに。


I

「……はぁ、」
 ユリウスの話が終わるなり。
 煮え切らない声音で応えたのは、田中 裕介(たなか ゆうすけ)であった。
 長い黒髪を一つに纏める白いリボンの印象的なその青年は、ユリウスとしてもお馴染みな青年であった。
「まあ、状況はわかりました。要するに、それでアヴァロンにジェロニモさんがいれば話がとんとん拍子で先に進みそうだ、ということ……ですよね」
「そうですね。実際にジェロニモ神父にお会いしてみないとわからないことも、沢山ありますしね」
 頷いたのは、セレスティ・カーニンガム――銀髪の美しい、青い瞳の青年であった。
 セレスはちらり、と、アンナに意識を遣ると、それに、と心の中で付け加える。
 ……おそらく、アンナさんがジェロニモ神父に会ったところで、ジェロニモ神父の気持ちは、変わらないような気も致しますが。
 しかし、アンナの正直な気持ちを、ジェロニモに伝えてもらうことは、決して悪いことではないであろう。
「ジェロニモさん、話の通じる相手であれば良いのだけれど」
 ふ、と、思いついたかのように口にしたのは、シュライン・エマであった。切れ目の瞳に、優しさの色を宿した女性は、溜息混じりに呟いた。
「例え私達との利害が一致しても、彼が応じてくれるかどうか……私は少し、疑問なのよね」
 例えば、自分達がアンナやジェロニモを助ける方法を見つけたとして。そのために、手を引け、協力しよう――とジェロニモに持ちかけたとしても、果たして彼は応じてくれるのであろうか。
 シュラインとしては、実のところ、この異界を東京の中に存在する異界の一つとして安定させたいと考えていた。シュラインも、アンナを含めたこの世界の人々を良く知ってしまっているのだ。彼等が消滅するのを、黙って見ていたいとは決して思わなかった。
 しかし、二人の存在のみを安定させる方法が見つかったとしても、或いは、この異界を安定させる方法が見つかったとしても、
「人は、一度何かを憎み始めると、最後には自分や親しい人まで憎く思ってしまうそうですからね」
 茶色の髪と瞳。眼鏡をかけた神父服姿の青年――十ヶ崎 正(じゅうがさき ただし)の言う通りであった。
 正は、シュラインの言葉を受けて、声音に祈るかのような気持ちを強く滲ませると、
「出来ればそうなる前に……」
「わたくしもそう思います」
 そこで声をあげたのは、ふわふわと波を描く金髪の美しい女性、リーザ・サフィーネであった。
「間に合えば良いと……そう、思います」
 リーザとしても、憎しみや怒りに支配された人間の末路を多く知っているのだ。
 ……でも。
 もし間に合うのであれば、ここにアンナがいる以上、まだどうにかすることができるかも知れない。
 或いは、アンナさんからジェロニモさんに、説得をしてもらうことができれば――。
 彼の心を、動かすことができるかも知れない。
「まあ、とりあえずやってみないと、色々わかりませんからね。それに……私達の身の振り方も、まだ決まっていないわけですし」
 隣にいたアンナがその言葉にぴくり、と反応したことには気づかないふりで、ユリウスは今まで広げていたパピルスの巻物をするりするすると巻き始める。
「私としては、その辺りは、アンナさんや、ジェロニモ神父と直接お会いして、話し合って、最善の方法をとりたいと考えているのですけれどもね。まあ……、」
 確かに色々と、無理かも知れませんが。
 心の中で付け加えた時、ふ、と裕介が言う。
「それについては、義母に、」
 尤も、義母としては、今回の件に裕介をあまり関わらせたくないようではあったが、それは、ともあれ、
「あの二人を助ける方法は無いか――とですね、調べてもらっているのですが」
「厳しい、ですか?」
「ええ」
 裕介に頷かれ、ユリウスはやはり、と、静かに息を吐いた。
 それは、そうでしょうね。
 そのような方法があるのであれば、最初から事件の解決をその方向に求めている。しかし、簡単にそうはできないからこそ、今回の件は、こんなにも混乱してしまっているのだ。
 尤も、おそらく無理ではあるまい。二人だけを具現化させる方法を、考えることは。或いはこの異界を、バグの無い世界にして、安定させることは。しかし、その方法が見つかるまでに、東京が滅亡してしまっていてはもともこもない。
「見つかるにしても、時間がかかるでしょうね」
 それでは意味が、無いんですよ。
 付け加え、裕介もユリウスと同様に息を吐くと、静かに空の彼方を見上げた。
 ――この空の、遥か向こう。この世界を突っ切った先には、あの人がいる。
 麗花(れいか)さん。
 ユリウスの教会のシスターにして、裕介の想い人でもある、星月(ほしづく) 麗花。
 俺は、麗花さんを護りたい。麗花さんのいるあの世界を、必ず、護らなくてはならない。
 もし、と裕介は考える。
 もし東京を護るために、あの二人を殺さなくてはならないとしたら。
「……でも、もしもの方向に事が進んでも、俺は、やります」
 決意の篭った裕介の声音に、ユリウスは彼の考えを把握する。
「東京が、……いいえ、麗花さんが、大切だから、ですか?」
「当たり前です」
 もう、あの時のような思いをするのは、御免だ。両親や、恋人を殺された、あの時のような。
 大切な者を喪った者の気持ちは、だから裕介にもわかるのだ。ジェロニモの気持ちも、決してわからないわけではない。だが、
 それでも――。
「必ず、護ります」
 間髪置かずに返されて、思わずユリウスはくすり、と忍び笑いを漏らしていた。
 全くね、裕介君にしても、麗花さんにしても、
「麗花さんは、幸せ者でいらっしゃるのですねえ。そんなに一途に想われたら、嬉しくて、たまらないのではありませんか?」
 いつの間にか、そんなに強い絆で結ばれてしまって……そう、まるで、親の居ぬ間に、というような気分ですよ。
 微笑みかけられて、しかし裕介は、簡単に頷こうとはしなかった。
 少しだけ視線を落し、気まずさと恥ずかしさとを薄く交えて、呟くように言う。
 麗花との関係に、自信が無いわけではない。
 ただ、一つの事実として、
「愛されたら愛された分だけ、愛さなくてはならないという決まりはありませんよ」
「いいえ……たとえそうだとしても、麗花さんは本当に嬉しく思っていらっしゃるに違いありません。彼女を見ていれば、わかります」
 ユリウスの手が、励ますかのように、裕介の肩をぽむぽむ、と叩いていた。
「あの子は、照れ屋さんなんですよ」
 それをひっくるめて、愛してあげてくださいね。
 それから、さて、話が逸れましたが……と、ユリウスはその他の一同をぐるり、と見回すと、
「それで、これからどうするか、ということにつきましてですけれどもね」
「まず、調査と、それから、話し合いとが必要でしょうね」
 セレスの言葉に、全員が頷いた。


II

 話を終えると、一同は街へと繰り出した。
 シュラインとセレスは、女神達から話を聞くために。正と裕介、リーザとは、いずれ来るであろう旅立ちの時に必要な物を、予め購入しておくために。
 知恵の環を出、大通りに出た所で、各々は行くべき場所へ向けて別れて行った。
 そうして、今。
「あとは……シュラインさんからの頼まれ物、よね」
『それじゃあリーザさんは、回復アイテムを、いくつかお願いね』
 シュラインの言葉を思い返し、リーザがうーん、と小さく唸る。
 回復アイテムって、
 ――どのようなものが、あるのかしらね。
 リーザはこの世界に来てから、まだ日が浅いのだ。瓶詰めの謎めいた薬が、傷を回復させるポーションだと言われても、
 なかなかピンと来ないのよ……。
 きっとこの世界の事情については、あの枢機卿の方が詳しいに違い無い。何せあの人は、何度かこの世界に来ているはずなのだから。
 それなのに、
 ……こういう仕事は人にまかせっきりで……!
 仕事の役割分担を決める時、私には肉体労働は向いていないのですよ、と、伸びをしながらあの枢機卿は言ってのけたのだ。今彼は、知恵の環に残って何かをやっているはずであった。
 何か。
 ――一人きりになったからといって、寝てなければ、良いのだけれど。
 まあ、セレスティさんがチョコレートで餌付けしていらっしゃったし……しっかりと、必要最低限のことだけは調べていらっしゃると思うのだけど。
 はぁ、とリーザは大きく溜息を吐いて、すっくと空を見上げた。
 アスガルドの、空。東京の空とは違い、抜けるような青空。
 もう。
 帰ったら、説教ですわね、説教。
 確かに、あの人はあの人なりに仕事をしているのであろうが、いかにもあの、まるで全てを人任せにしているかのような態度は宜しくない。
 少しはやる気というものを、見せてくださっても宜しいでしょうに……。
 諦めたように俯き、薬屋を目指して歩き始めようとした、その時。
「ちょっと肩がぶつかっただけじゃないかっ! そんなんで因縁つけてくるなんて、絶対大人気無いよ!」
「あぁん? このガキ、生意気だな!」
「どうしてほしいんだい? この可愛いオニイチャンは……?」
 リーザの耳に、争いの気配が飛び込んでくる。
 ふと、店と店との間の暗い場所を見れば、そこには、数人の男に絡まれる、まだ小さな少年の姿があった。
 つかつかと、無言のままでリーザが歩き出す。
 足の速さが、一番に達した頃。
「弱い者いじめはいけないわね」
 凛、と男と少年との間に割って入り、片腕を広げ、後ろに少年をかばうリーザが言う。
「この子が何をしたのか、わたくしは知りませんけれど、どちらにしましても、」
「お姉ちゃん……!」
 新緑色の瞳を注意深く男達に向けるリーザのスカートの裾を、少年がきゅっと掴んで目を瞑る。
 少年の恐怖は、その様子を見ることのできないリーザへも、震えとなって伝わっていた。
「へ……」
「何ができるってーんだ」
 大柄な男が、リーザの行動を笑い飛ばす。
「女一人で何ができるってーんだ?」
「争い事は、好きませんわね」
 断言したリーザへと、
「だから?」
 鼻先に嘲笑を集めた男は、別の男を指で近くに呼び寄せる。
「それにしても、どう思う? あの女、中々じゃねーか」
「中々どころか、かなりのべっぴんさんじゃあないかい……」
「どうする?」
「どうするって……? そりゃあ、こうなりゃあ――」
「お姉ちゃん……」
 何やら相談を始めた男達を一瞥して、少年がぽつり、と心配の声を漏らす。
 丁度その時、男達の視線が再びリーザに向けられた。
「大丈夫よ」
 小声で短く答えると、リーザは逃げることも無く、瞳を男達に向けたままで少年の手を握る。
「じゃあ、ねーちゃんが俺達に付き合ってくれるっていうんだったら、その子は勘弁してやるぜ?」
「あら」
 リーザは手をきゅっと引き、少年を傍へと引き寄せる。
 そうして、一言。
「わたくし、今忙しいものですから。そのような暇はありませんの……ごめんなさいね」
 無垢なる天の御使いのような笑顔と共に言葉を返した。
 リーザの、笑顔。曇り無い穏やかさが、まるで一瞬、時を止めたかのようであった。
 ――暫く。
 大通りから聞こえてくる街の雑踏が、彼女達の間に流れた沈黙を埋め。
「おい」
 一人の男が短く呟き、リーザの方へと向かって歩き出す。その後に、別の男達がぞろぞろ続いていた。
「来るっ?!」
 もうダメだよ! と身構えた少年と、笑顔のリーザへと、男達は、
 ――何をするわけでもなかった。
 リーザの微笑によって見事に戦意を喪失した男達は、そのまま彼女と少年の横を去って行く。
「……え?」
 あまりにも意外な展開に、目を点にしている少年の頭を、
「言ったじゃないの、ね? 大丈夫よ、って」
 ふわふわと優しく撫で、リーザはその笑顔を深くした。

 徐々に帰ってき始めた一同と話しつつ、広げた資料を読みつつ。ようやくシュラインとセレスとが帰ってきた頃、ユリウスが眼鏡のブリッジを押し上げた。
「おかえりなさい、シュラインさん、セレスティさん。お待ちしておりましたよ……私も調査が行き詰って、暇で暇で仕方なかったものですから」
「だからって、世界の名菓子屋ガイド引っ張り出してきて読んでる先生もどうかと思いますけどね」
 呆れた裕介の言葉を、ユリウスはさらっと横に流すと、
「それで、どのような感じでした?」
「話を聞くことはできましたよ。尤も、お城にいらっしゃらない女神さんもいましたが」
 けれど、情報の量としては、概ね満足できるでしょうね。
 付け加えて、セレスが微笑する。
「それにしても、本当に美しいお城でした。――通してもらえるかどうかは賭けでしたけれどもね。割とあっさりと、女神さんにはお会いすることができました」
 まあ、尤も、
「……正直、あのような場所には、花の方が似つかわしいと思うのですけれどもね」
 しかし、あの城にあるのは、砲門やミサイル発射筒等といった物なのだ。その重武装が、この世界が決して平和で美しいだけのものではないということを、如実に示しているかのようで。
 少し、寂しいような気がしますね。
 少しだけ微笑みに憂いの色を交え、手に持つ細工の美しい十字架の錫杖を一つきすると、セレスは近くにあった椅子に腰掛ける。
「そのようなことよりも、本題に入りましょうか」
 テーブルの上で手を組み、気分を入れ替える。
 いつまでもこのようなことを考えていても、先には進めませんからね。
 そうね、と一つ、頷いたシュラインが、周囲をぐるりと見回し――、
「あれ、リーザさんは?」
「まだお帰りになっていらっしゃりませんよ? まあ……彼女のことです。また街中で、人助けでもなさっているのではないでしょうかねえ」
 ですから、心配することもありませんでしょう。
 付け加えて、ユリウスが微笑む。
「ですから、先に話を始めてくださって結構ですよ。リーザさんには、後から私から申し伝えておきますから」
「そうですか? それでは、お言葉に甘えて」
 尤も、面倒くさい……とか言われて、リーザさんには伝わらなさそうだけれどね。
 この話は、私からも後でリーザさんに伝えておきましょ、と心の中で付け加え、シュラインは話を始める。
「どの女神の所に行っても、口を揃えて言うのよ。『そんなものは必要無い――』」
 シュラインとしては、女神達から、アヴァロンへの通行手形のような物を貰うことができれば、と考えていたのだが。
 ダム・ド・ラックとはおそらく、どちらかと言えば、魔物側ではなく、女神側の陣営にいるNPCであろう。この世界が人の手によって造られたゲームである以上、創造主が相当な捻くれ者でもない限り、ダム・ド・ラックはただの敵にはなり得ないのだ。
 ……ケルト神話での役割を考える限り、そうよね。
 ケルト神話によれば、ダム・ド・ラックは、瀕死の英雄・アーサー王を、常若の島アヴァロンに運んだ存在であるとされる。そのような、神話において特別な立場に置かれた存在を、果たして創造主は、ただの魔物として扱うであろうか。
 この世界は、よくできた世界よ。
 全てが全て、現実に存在する神話に則っているわけではないにしろ、白銀の姫の世界は、それらが実に上手く取り入れられて構築されているのだ。つまりこのゲームの製作者は、ただ闇雲にこの世界を組み立てたわけではない、ということになる。
 まあ、色々と、憶測でしかないわけだけれど……。
 しかし、シュラインのこの憶測は、女神達の反応によっても、確実性の高いものである、ということが証明されている。シュラインが女神の所に行った時、女神達はダム・ド・ラックに対して、むしろ好意的な反応を示していたのだから。勿論女神達は、ダム・ド・ラックの存在も、そうしておそらく、その存在の意味も知っているようであった。
「必要無い、ですか」
「ええ」
 正に問い返され、頷いたシュラインは更に言葉を続ける。
「その理由は、行ってみればわかる、の一点張りよ。むしろ、行かないとわからない、って」
「……なるほど」
 正はさらさらとメモ帳にペンを走らせた後、ほっと一息を吐き、たった今書いたばかりの覚え書を眺めた。
 そんなものは、必要無い。行けばわかる、の一点張り。むしろ、行かないとわからない……、
「湖に行っても、ダム・ド・ラックがいない、というわけではないですよね?」
 もしそうであれば、ある意味、女神達の言うことは正しいのだ。
 しかし、否定形で問うた正の言葉を、シュラインはあっけなく肯定した。尤も、それは正の予想通りの反応であったが。
「多分ね。女神達が、ダム・ド・ラックが湖にいないことを前提に話しているようには見えなかったし……ねえ、セレスティさん?」
「そうですね。むしろ、私達が直接ダム・ド・ラックにお会いしてみなければわからないのだと、そのように仰っているように見えましたから」
「なるほど」
 セレスの言葉を受け、正はぱたんっ、とメモ帳を閉じる。
「そうなると、僕達はやっぱり湖に行って、ダム・ド・ラックに直接会わなきゃならないのか……」
 一同としては、それを前提に準備をしてきてもいたが、現実的に方法がそれしか無いとなれば、それなりのことを考えなくてはならない。
 直接会って、ダム・ド・ラックを説得する。
 一筋縄で、いく相手じゃあないかも知れないな……。
 ぼんやりと、正が考え始める一方で、セレスが話を先に進めてゆく。
「おそらく、の話にはなってしまいますが……。確かこのゲームをお造りになったのは、かの神聖都学園の大学院生の方でしたね。そのような方が、ダム・ド・ラックという神話上でも有名な存在を、ただの魔物として扱うようにも思えません」
 この件に関わるようになってから、セレスとしても個人的に、いくつかの調査を進めて来ていた。その内に、この世界の創造主――ゲームの製作者についても、いくつかのことがわかり始めていた。
 確か、このゲームの製作者は、今口にした通り、私立神聖都学園の生徒であった。都内最大の学園の大学院生、ともなれば、このゲームの創造主が、安易な創作で満足するような人物であったとも考え難い。
 さて……。
 もしこの憶測が正しいとして、ダム・ド・ラックがただの魔物ではない、という事実が、こちらにとっては、吉と出るのか、凶と出るのか。
「ダム・ド・ラックが、説得できるような相手であることを、祈りましょう」
 温和な話し合いで、全てが済めば良い。
 一息吐いて、セレスはするりと話題を入れ替える。
「それでは、どのように湖まで向かうか、ということですが……」
「ねえ、お兄ちゃん達!」
 ――と、唐突に。
 空間に、朗々と響く甲高い声音があった。
 一同が振り返れば、そこにはリーザと、彼女によって手を引かれる小さな少年の姿とがあった。
 少年はリーザの手を離れ、ぱたぱたとセレスの方へ駆け寄ると、
「湖って、霧の湖?」
「……ええ、そうですよ」
 元気な、お子さんですね。
 初めまして、の少年の登場にも驚きを見せることなく、セレスは少年に、にっこりと微笑んで見せた。
 その一方で、ユリウスがリーザへと問いかける。
「リーザさん。いつの間にお帰りになっていらっしゃったので?」
「つい先ほどですわ。――それから、あの子は先ほど、街中で出会ったんです。知恵の環って凄い場所なんでしょ? って、どうしても見たいからって、付いて来てしまって……」
 ユリウスに向かって苦笑いを浮かべるリーザの服が、急に何度か引っ張られる。
 犯人は、あの少年であった。
「じゃあお姉ちゃんも、霧の湖に行くんでしょ?」
「ええ、そうだけれど……、」
 にっぱりと向日葵のような笑顔で問いかけられ、わけもわからず、リーザが頷く。
 少年はぴっと人差し指をおっ立てると、
「僕を誰だと思ってるの!」
「誰、って……」
 街の市民さん、じゃあないのかしら?
 小首を傾げたリーザへと、少年はわざとらしく、甘いなぁ、お姉ちゃんは……と呆れて見せる。
 ませた様子で、えへんと胸を張ると、
「僕コレでも商人なんだけど! しかも、これから、『霧の湖』の向こうに向かう予定なんだよ……一人でね!」
「……はいぃ?」
 あなたは、何を言っているのよ……?
 あまりにも予測不可能であった展開に、リーザは、否、その場にいた一同は、ただただ沈黙を守ることしかできなかった。


III

「しゅっぱーつ!!」
 朝霧の中、少年の元気な声音が響き渡る。
 そうして馬車は、霧を掻き分け、走り出した。ジャンゴから遠く、霧の湖へと向けて。
 馬を操るのは、あの少年。その隣には、二人の少女。そうして荷台には、荷物とその他の人間とが乗せられていた。
 ご案内いただく代わりに、私達は護衛をさせていただきましょう。
 あの時。
 それでどうですか? とセレスに提案され、少年は二つ頷いて事を承諾してくれた。大勢での旅は楽しいからねっ! と、大喜びさえしながら。
 まだ小さな体で、少年は華麗に車に繋がれた馬を操っていた。馬車自体は、車内に人間五人と荷物とを積んで少し狭いくらいの大きさしかなかったが、それでも決して、小さいものではない。
 一同の収集した情報と、少年の話からすれば、ジャンゴから湖までは、馬車を使って大体半日ほどかかるとのことであった。事が全て上手く運べば、夕方までには湖に着くことであろう。
「……それにしても、」
 かたかたとしきりに揺れる車内の壁に身を寄りかからせ、セレスは薄く目を開く。
 朝早い空気は、浜辺の砂のように細かな水を沢山抱きこんでいる。その水達は、セレスに対してお喋りを止めようとはしなかった。
 美しい景色。純粋な世界。現実においては、人間がその多くを失ってしまったものが、この世界には当たり前のように存在している。
 ――ねえ、セレスティ様? 美しい世界でしょう? ここが創造主様の愛する、『アスガルド』の世界ですわ……。
「こうして見れば、平和な世界、ですのにね」
 このような状況にさえなければ、静かに夢を見ていたいくらいに、平和な朝。
 ……ああ、
 あの方の隣でまどろむ……それが一番、良いかも知れませんね。
 隣に、彼女がいてくれたら。いつものように、甘い子守唄を、
 歌って、くだされば……。
「そうね」
 しかし今は、彼女のいる、いないに関わらず、いつもの朝とは違う朝なのだ。
 自分の前に屈み込んでいたシュラインに頷かれ、セレスの意識は、再び現実に近くなる。
「東京じゃあ、なかなかお目にかかれない光景だわ……それにしてもセレスティさん、もう少し、寝ていらっしゃってはいかがです?」
 馬車に開けられた小さな窓から外を一瞥したシュラインが、何かあったら起こしますから、と、やわらかく告げる。
 セレスは思わず苦笑を浮かべると、
「そんなに、眠そうに見えますか?」
「ええ……無理はしなくて、良いと思うの。きっとまだ、大丈夫ですから」
 さすがにもう、シュラインさんには行動パターンを読まれてしまっているようですね。
 微笑を向けられて、セレスはそれ以上、何も言おうとはしなかった。
 私は、朝は苦手なのですよ、お嬢様方……。
 しきりに、まるで自分達の住み、愛する世界を自慢しようとするかのごとくに話しかけてくる朝靄へと、セレスは高貴な微笑をもって頭を下げる。
 そうしてセレスは、静かに瞳を閉じた。
 暫く、馬車の揺れる音が、規則正しく車内に響き渡り――、
 ……穏やかな寝息聞いて、シュラインが静かに息を吐く。
 できればこのまま、セレスティさんを起こす必要が無ければ良いのだけれど。
 このまま馬車が、無事に湖に着けば良いと、願うばかりであった。
 シュラインは立ち上がると、重そうな荷物を一つ選び、そこに腰掛ける。
 手に持っていた、モバイルに視線を遣った。
 それには今、自分の頭に咲く花飾りから伸びた植物の蔓が挿し込まれている。その液晶画面に映し出されているのは、ウェブ画面などではなく、例えるならば敵の位置を示すレーダーのようなものであった。
 『妖精の花飾り』は、シュラインの能力を増幅する物であった。聴覚に反応し、周辺の敵の位置を明確に示してくれる。そうしてこのモバイルは、今、シュラインと花飾りとが掴んだ情報を、視覚的に映し出しているのだ。
「リーザさん」
「はい?」
「この先の道は真っ直ぐ行くべきではないと伝えてもらえます? どうやら植物のモンスターの巣窟らしいのよ」
「……わかりました」
 敵の位置を察し、指示を出したシュラインを振り返り頷いた後、リーザは隣へと目を向ける。
 そこには、車に繋がれた馬を操る、あの少年の姿があった。今、リーザと、そうしてアンナとは、少年を挟むようにして馬車の先頭に腰掛けている。
「この先、真っ直ぐ進まないで先に行くことはできるかしら?」
「もっちろんだよ! 僕はこの辺の地理に関しては、それはもうぷろふぇっしょなるなんだから。ちょっと遠回りになるけどね……でも、どうして?」
「あまり良い予感がしないようね。シュラインさんが、そう仰っていますから」
 リーザも、シュラインが敵の位置を常に確かめていることは知っている。そうして、シュラインの言葉が今までに何度も自分達を救っているであろうこともわかっていた。何せジャンゴを出発してからというもの、この馬車はどのような敵にも出会ってはいないのだから。
「――シュラインのお姉ちゃんは、魔法使いさんなの?」
「そうね。そのような感じかしら」
 くすり、と微笑んで、リーザは少年の頭をふわり、と撫でる。
 自分と同じ、金色の糸のような髪。やわらかくて、色素の薄い……、
 ……そういえば。
 ふと。
 少年の青い瞳に微笑みかけられたところで、リーザの微笑が、唐突に一瞬凍り付く。
 我ながら、
 思い出さなきゃあ、良かったのかも知れませんけれど――。
「どうしたの? お姉ちゃん?」
「いいえ……、ちょっとだけ、」
 そう、ちょっとだけ、
「あなたのような働き者さんを見ていると、わたくし、溜息を吐きたくなりますの……」
「え?」
 っと、そろそろ、曲がらなきゃ。
 リーザがすっくと椅子から腰を上げた頃、少年は慌てて、馬の進行方向を右へと変えていた。
 かたんことんっ、と先ほどよりも激しく揺れる馬車の中に、リーザが乗り込む。
「……どうしたんですか? リーザさん?」
「いいえ、ちょっとわたくし、」
 一つ仕事をしなくてはならなかったようね。
 荷物の上に腰掛け、何やらメモ帳を広げていた正の横をすり抜けると、リーザは腰を折り、
「いつまで寝ているつもりなのよっ!! もう朝の聖務日課の時間は過ぎているんですよっ!」
 一喝と共に、ばさり、と大きな音をたてて、一枚の毛布が宙に舞う。
「わっ……!」
 毛布が翻った瞬間、ペンを手に持つ正がその靡きに巻き込まれていたのだが、
「ユリウスさんは! 自分を何だと思っているんですか!」
「私はユリウスですよ……、ユリウス・アレッサンドロです――それ以外の何者でも……、」
 正が毛布の海でもがいている事にも気づかずに、リーザは遠慮無く怒鳴り声を散らせていた――金髪碧眼の駄目枢機卿へと、怒りをぶつけるべく。
「自覚を持ってください! ユリウスさんは枢機卿なんですよ! す・う・き・き・ょ・う・げ・い・か! カトリックの高位聖職者なんですよ! もっとしっかりしてください!!」
「ちょっ……寒っ――、私朝は低血圧なんですから……、」
 毛布を取り上げられたユリウスは、半分眠ったままの頭でぽつり、ぽつりと言葉を続ける。
「朝は……寒いんですから……、」
「いい加減にしてくださいっ!」
「毛布返してください……それから――、あと一時間一五分は起こさないでくださいね……、」
「ちょっ、」
 はたはたと周囲に手を伸ばし、ようやく毛布の感覚を手に感じたユリウスが、それを握ってぐいと引き寄せる。
 途端、
「きゃっ!」「うわっ!」
 二つの悲鳴が、馬車の中に響き渡った。
「ゆっ、ユリウスさんっ?!」
「眼鏡! 眼鏡っ!」
 片手で毛布を握っていたため、結局ユリウスの上に倒れこむことになってしまったリーザと、毛布に眼鏡を攫われた正と。
 二人の混乱も知らずに、毛布を取り返したことで満足したユリウスは、更なる眠りの中へと入り込んでゆく。――ただし今度は、リーザと正の眼鏡とを引き連れて、であったが。
「ユリウスさんっ! 放してくださいっ! というか起きてください! 朝なんだから起きるのよ!」
「あの……僕の眼鏡を返してほしいんですけれど……、それにユリウスさん、嫌がる女性をそのように扱うのはどうかと思いますよ。第一、あなたはリーザさんの言う通り聖職者なんですから――」
 何やらいつもより疲れていたのか、そのまま本当に眠ってしまったユリウスの耳には、リーザの苦情も、正の説教も届いてはいなかった。
「……全く、先生は」
 その光景を遠巻きに見つめながら、重く溜息を吐いたのは裕介であった。
 樽のような物の上に腰掛けた裕介は、手元のトランクの取っ手に――その取っ手にぶら下がる、以前麗花から貰った苺のストラップへと触れながら、
「でもずっと、」
 こうしていられれば、良いのですけれど。
 平和なままで、湖まで辿り着ければ良い。ふと、そう考える。
 きっと湖に辿り着けば、その先からは、こうものんびりしていられないに違い無いのだから。
 直感的に、そう思うのだ。
「平和ね」
 今だけは、かも知れないけれど。
 唐突に上から降ってきたシュラインの声音に、裕介が顔を上げる。
「……そうですね」
「アンナちゃんも、少し、楽しそう」
 言ってシュラインは、視線で車の屋根の外を指した。そこには、馬車を操る少年の隣で、彼に向かって何かを話す、アンナの姿があった。

 シュラインの指示と、そうして、正が馬車の周囲に巡らせた結界とのおかげで、一同はすんなりと、湖の傍までやって来ていた。
「……けれど、そういえば、ユリウスさん」
 昼も過ぎ、夕暮れ近くの涼しくなり始めた頃。ふとセレスが、思いついたかのように顔を上げた。
 ――そういえば。
 馬車に揺られながら、ずっと色々と考えていた。あれやこれや、この件については、考えておくべきことが沢山ある。
 しかし、
「こう、考えたことは、ありませんでしたか?」
「こう、とは?」
 馬車は、細い崖のような道を、湖に向かって降りて行く。世界が沈めば沈むほど、光はその力を失っていた。
 霧掛かる、闇の世界。
「ふと、考えていたのですよ。……でもそういえば、ジェロニモ神父は、なぜこの世界について、こんなにも詳しくご存知なのでしょう、と」
 思えば、おかしい点は、沢山あるではありませんか。
 どうしてジェロニモは、アヴァロンの存在を知っているのか。それは良い、或いは知恵の環で調べただけの話かも知れないのだから。しかし、ではどうしてジェロニモは、
 この世界の、裏の事情をご存知でいらっしゃるのでしょう。
 例えば、この世界が白銀の姫というゲームの世界であるということ。不正終了のこと、バグのこと――。
 或いは彼は、それを女神達から聞いているのかも知れない。
 しかし、
「生前、彼はエクソシストでいらっしゃったそうですね。当然異界や異境現象についての知識も、豊富でいらっしゃったのでしょう。しかし、ですよ」
 あまりにも、
「あまりにも、彼のこの世界に対する知識は豊富すぎると思いませんか? 私達が、あれだけかかって調べ上げた情報を、彼はまるで全て知っているかのように行動しているんです……もし私達が今日、アヴァロンに行けたとして、そこに彼がいらっしゃったとすれば……、」
 セレスは、一つ息を置いてから、
「そのような保障はどこにもありませんが、もし、彼がいらっしゃったとすれば、です。彼は私達がなかなか知り得なかった場所を、こんなにも早く発見していた、ということになります。――しかし、彼がこの異界に取り込まれてから、それだけの情報をたった一人で調べ上げる時間があったと思いますか? 少なくとも最初の内は、彼はアンナさんと一緒に、アルカナにいらっしゃったはずですのに」
 ジェロニモがこの異界に取り込まれた理由等については、不明瞭な点があまりにも多すぎる。ゆえに、あまり大きな憶測を立てるのは、危険なことこの上無いのだが、
「背後に何かの力が、働いているのではないか……と」
 ふと、そんなことを考えていたのですよ。
 セレスの言葉を受け、ユリウスが腕を組む。
「その可能性は、無きにしも非ず、ではないかと」
 頷いて、
「ただ、いずれにしましても、」
 ユリウスは、少年とリーザとの三人で話し込む、楽しそうなアンナの横顔へと視線を遣った。
 セレスもつられて、そちらに気配を巡らせる。
「……アンナさんにとっても、幸せな方向に。事を、持っていけるような状況であれば、良いのですが」
 アンナ以外の者は、ジェロニモに直接会ったことが無いのだ。だからどうとも言えないが、――全ては、憶測でしかないが、
 例えば、ジェロニモさん自身が存在しないという可能性もありますしね。
 東京に恨みを持つなり、この世界に執着する何らかの力が、ジェロニモの魂を媒介にしている、という可能性もある。
 その他には、何らかの力が、ジェロニモを操っている。或いは本当に、彼がジェロニモそのものであるのか……。
 色々な可能性が、ありますけれど。
 今はまだ、憶測をすることしかできないのだ。
 ただ、
「珍しく、幸せそう、ですね」
 ユリウスの言う通りであった。
 このアンナの影の無い笑顔が、いつでも見られるようになれば……。
 そのような、セレス達の心内には気づかずに、
「そうしたら神父様ったら、アトラクションのチケット落しちゃって。観覧車は、最後のお楽しみにねって、折角最後にとってあったのに……」
「カンランシャって、何? お姉ちゃん?」
「あ、観覧車っていうのはね、なんかこう……こんな風におっきくてまぁるい骨組みに、小さなお部屋みたいなのが沢山ついててね。その骨組みが回るから、段々高くなってく景色を楽しめるのよ。夜景なんて見ると、とっても綺麗なの」
「へぇ! それって凄いんだね! 水車にお部屋が沢山ついてるよーな感じだねっ!」
「そうそう、そういう感じっ。それでね、結局ロッカーにお財布を取りに行って、アトラクションチケットを買って乗ったの! 一番最後だった……丁度私達で、締め切りだったんだって」
 ほんっとうに、楽しかったけれど。
 くすくすと笑いながら、ジェロニモと遊園地に行ってきた時の想い出を語るアンナに、
「美しい想い出、ですのね」
 リーザもつられて、微笑を浮かべる。
 その、途端。
「でも」
 やおら笑顔を沈ませながら、俯いてアンナが、ぽつりと呟いた。
「でもこれは、私の想い出じゃあない」
 顔を上げ、霧の向こうを見据えるかのような遠い視線で、アンナが語る。
「時々ね、想うことがあるんです。――私が、『アンナ』だったら、って」
「アンナさん……」
 そういえば、そうだったわね――。
 ふと、リーザが、ユリウスから聞いた話を思い出す。
 ……あのアンナさんは、アンナさんであって、『アンナ・響』嬢ではないのですよ。アンナさんは、『アンナ』さんの記憶を引き継いではいるようですが、アスガルドに新たに生み出された¢カ在なんです。
 リーザも、思わず黙り込む。
 今アンナが話してくれた記憶は、『アンナ』のものでありながら、アンナのものではないのだ。だが、間違いなく、アンナの記憶でもあるのだ。
 その微妙過ぎる違いが、どれほど彼女を苦しめていることか。
「僕にはよくわかんないけど、でも、元気出して!」
 お姉ちゃんには、笑顔が似合うよ! と。
 不意に、笑顔を咲かせた少年が、アンナの手を取り上げる。
「そうだっ、お姉ちゃんに、これあげる!」
「……え?」
 戸惑うアンナの手の中へと、
「がんばって」
 会話の流れにはあまりそぐわない言葉と共に、少年は大きく、丸い物を手渡した。
 赤い、林檎。
 大きな果実を、アンナは驚いた瞳で見つめると、
「これ……?」
 どういう、コト?
 問おうとした、その瞬間。
 まるで、巨大な攻撃魔術が降り注いだかのような轟音と共に、馬車が激しく揺れて止まった。
 リーザとアンナとの悲鳴が、車内に響き渡る。
「何っ?!」
 シュラインが慌てて馬車から顔を出し、――そうして、そこに見てしまった。
 切立った崖の道。その下には、例の湖がある。だが、その霧の下から見える影は、
「一体、何だ……?!」
 シュラインに続いて外を覗き込んだ正が、声を上げる。
 湖から、首を長く伸ばしているもの。
 一瞬、動けずにいたリーザが、声をあげる。
「竜……?!」
 再び馬車が、大きな音をたてて揺れる。
 リーザの視界の中で、それは――首の長い竜のようなものは、その大きな頭を、馬車の横に擦り付けていた。まるで珍しいものを見つけ、じゃれついているかのように。
「僕の結界を、破った……?!」
 破られた気配も、無かったのに?!
 正が、胸元の十字架を握りしめる。しかしやはり、自分の張っていた結界が破られているような気配は感じられなかった。
 しかし、あの竜は、紛れも無く馬車に触れているのだ。結界にではなく、馬車そのものに。
「どうして……! そんな反応は、今までここに無かったはずよ!」
 シュラインの疑問に、しかし誰もが明確な答えを返すことができなかった、
 魔物の動向は、シュラインの手元にあるモバイルで、全てわかるはずであった。しかもここには、そのような気配に敏感な人物も多くいる。
 その、全員が、
 こんなに大きな力に、気づかなかっただなんて……!!
 動揺する一同が、それでも比較的冷静に、己の行うべきことを分析してゆく。
「ここからじゃあ、意識が届きませんね……」
 馬車の壁に手をついたセレスが、そっと瞳を閉ざす。
 或いは、相手が意思のある存在でさえあれば、
 会話によって、どうにかできるかも知れないと思ったのですが――。
 ――と。
 混乱の中に聞こえる、暢気な会話があった。
「そーだ、もう一つ、お姉ちゃんに教えてあげる!」
 恐怖に震えるアンナを捕まえて、なおも少年のみが、楽しそうな笑顔を浮かべていた。
「危ない、伏せろっ!!」
 裕介の叫び声に、しかし少年は応じることも無く、
「僕の名前!」
「駄目よ、伏せて!!」
 無邪気に笑う少年を伏せさせようと、動くことのできないアンナの代わりに、リーザが思い切り手を伸ばす。
 その手が、彼の頭に触れた。思った瞬間、リーザの手は、ぱしんっ、と馬車の椅子を打っていた。少年の体をすり抜け、少年が座っている、その場所を。
 見ていた皆が、一斉に驚きを隠せずにいた。しかし、素直に驚いていられる暇も無かった。
 リーザの視界の中で、竜が顔を上げる。
 不思議なものを見るかのように、馬車を凝視した。
「来る!」
「結界をっ! 急いで!」
「駄目です、防げません……! 力が、大きすぎるっ?!」
「重複させて――!」
「間に合わないっ!」
 様々な声が錯綜する中で、ついに竜の口が、馬車に向かって大きく開いた。
 そこから何かが、こちらに向かい来る。
 そのあまりの速さに、各々がそれぞれの覚悟を決めた瞬間。
「僕の名前はね、……テウタテス、って言うの」
 太陽のごとき光が、全てを包み込み。
 水流の轟が、馬車の全てを打ち砕いた。


IV

 次の瞬間、一同の前に広がっていた光景は、あまりにも唐突過ぎるものであった。
 湖。そこには、あまりにも大きすぎる湖があった。その蒼と白の世界を、光の道が音も立てずに伸びて行く。
 一同は気がつけば、岸辺でその幻想光景を眺めていた。
「どういうことですか……?」
 確か私達は、何かに、襲われて……。
 セレスが、ゆっくりと思考を巡らせる。
 体に痛みは、感じなかった。むしろゆったりとした安らぎが、ここにはあるような気がした。
「あの子がいないの! どこに……!」
 唐突に。
 その空間に響き渡る、女性の声音があった。
 アンナは、追い詰められた表情で周囲を見回し、傍にいたリーザに助けを求める。
「どうしよう……! 私っ!」
 どうしてあの子の手を、ずっと取っていなかったの――?!
「大丈夫ですわよ」
 リーザはふっと微笑を浮かべると、
「あの子は……テウタテスは、無事なはずですわ。だって彼は、神様だもの」
「神様……?」
「そう、テウタテスは、ケルト神話に出てくる神様の名前。技術、発明の神 旅する者の守護神」
 だから、大丈夫ですわ。
 アンナをしっかりと抱きしめて、彼女をゆっくりと安堵させてゆく。
「そうですね。彼はおそらく、大丈夫でしょう」
 少年の他の七人全員の存在を確認して、セレスが一瞬、安堵に身を任せる。
 しかし、すぐに気を引き締めると、
「それにしても、私達は今どこにいるのです? 第一、無傷で……」
 けれど、何かがおかしい。
 セレスは何と無しに錫杖をつきなおそうと手を挙げようとして――そこで、気がついた。
 少し、体が重い?
 何か、覚えのある感覚が、セレスの傍で静かに揺れていた。風のような、そうではないものが。
 ――と、その時。
「え……?」
 光の道に、揺らめいて、何かが現れた。
 光を踏むのは、一人の青年。ひとつ纏めの長い黒髪の、神父姿の、
 ……ジェロニモ、神父?
 誰かがそう、声をあげた。
 彼が、振り返る。
 紫色の瞳が、どこか力無く巡らされた。
「神父……様?」
 驚くアンナに、しかし彼は応えない。
 口元に沈黙を宿し、無表情にこちらを見つめる彼の背後から、白い光が現れる。
 その光は、徐々に姿を大きくし、ゆったりと彼のみを包み込んでいった。
 思わず。
 セレスは一歩、前へと踏み出していた。
「あなたは……、」
 ふと、言葉が口をついて出た。
 ジェロニモに会って、問うてみたかったことがある。
「あなたは……この世界のアンナさんを――いいえ、シスター・アンナをシスター・アンナとして、考えたことがあるのですか……?」
 ここにいるアンナさんを、『アンナ』さんとしてではなく、アンナさんとして見たことがあるのですか?
 セレスの問いにも、男は応えを返そうとはしなかった。
「……いいんです」
 ふと。
 その後ろから、アンナが声をあげる。
「いいんです……私が『アンナ・響』の代わりになれないのは、わかっているから……」
 それは、ずっと自分の中で誤魔化してきた、本心であった。
 でも、と。
 アンナは胸元の十字架に手を乗せると、
「でも私は、神父様のことを大切に想ってる……例えこれが私の記憶じゃないとしても、……それでも私は、神父様と一緒にいたい……」
 アンナの言葉にすら無言を守るジェロニモの姿が、白い光の中へと埋没して行く。
「待ってください! まだ話は終わっていませんよ……!」
 駆け出した裕介に続き、シュラインが、正が、ジェロニモを引き戻すべく、光の上へと駆け出した。
 リーザとユリウスも、その後に続こうとする。
 セレスも動き出そうとして――そうして、ようやく気がついた。
「待ってください、皆さん! ここは、」
 えっ、と。
 一同が、慌ててセレスを振り返る。
 セレスは、気がついてしまった。体に何かが、絡み付いている。包み込むように、抱き込むように、この空間を支配している存在がある。
 絡み付く何かは、セレスに必死に訴えている――聞いて、セレスティ様。ここは現実じゃあない。ここは、
「ここは……もしかして……、」
 霧の、湖。
 湖の中では、ありませんか……?
 思った瞬間、セレスは流れるような動作で、錫杖を突き上げた。その腕に、反発する力が絡みつく。まるで水をかきあげるかのような、感覚。
 水の揺れる音が、聞こえたような気がした。
 セレスティ様、ここは……、ここは、
 そうです、
「湖の、中ですよ……皆さん、ここは湖の中なんです」
 セレスが確かなこととして、認識したその途端。
『――っ?!』
 ジェロニモを包み込んでいたあの白い光が、全員に向かって弾け飛んだ。
 そこで、目が醒めた。
 目が、覚めた。
 聞こえてくる、水の音。手に触れる、湿った地面の感触。
 ――倒れて、いたのだ。一同は、湖に浮かぶ小さな島の岸辺に、眠るかのようにして。
 ようやく、七人の意識が、アスガルドにおける現実へと、引き戻される。
 見回せば、場所はあの、先ほどまで見ていたのと同じ湖。ただしそこに、光の道は見受けられなかった。
「あら、目が覚めたの?」
 そこで初めて降り注いできたのは、優しい声であった。甘やかな女性の、艶っぽい声音。
「ダメよ、湖で泳いじゃあ。あそこは遊泳禁止なのよ? 見えるはずの無いものが、見えてしまうから……例えば、この湖の記憶とか、ね」
 あなた達も見ていたのでしょう? と、女性はくすくすと忍び笑いを漏らす。
 言葉とは裏腹に、深刻さに欠いた口調。
「あなたは……誰です?」
 体を起こした正の瞳に一番最初に映ったのは、純白色をしたドレスの裾であった。
 そのまま、ドレスの線に沿って顔を上げれば、微笑を浮かべる女性の顔がそこにはあった。ただし、女性の肌は、ドレスの色と同じ純白であったが。
 人では……ない?
 水を吸い込んだ神父服の裾を持ち上げ、正はその場に立ち上がる。
 少し体が、重い。張り付いた服も、あまり心地の良いものではなかった。
「あらあら。そういえば、そうですわね。わたくし、自己紹介を忘れておりましたわ」
 女性はすっと膝を折り、正と同じように立ち上がったばかりの一同へ向けて、スカートを広げて一礼すると、
「ごきげんよう、皆さん。――ようこそいらっしゃりました、『霧の湖』へ。わたくしは……、そうね、名前は名乗らないでおこうかしら、意味の無いことですものね」
 一息置いて、こう告げた。
「わたくしはダム・ド・ラックと呼ばれる者ですわ」
「あなたが、ダム・ド・ラック……?」
「そう、わたくしは、この湖を護る者」
 正の言葉に、貴婦人が付け加える。
 それからすぐに、思いついたかのように、
「ああ、そうそう、先ほどはこの子が乱暴をしたようで、すみませんでしたわ。……ちょっとした悪戯をしていたら、どうやらあなたたちを巻き込んでしまったようですの。御勘弁遊ばせ、ね?」
 貴婦人の微笑みに応じるかのように、島のすぐ傍の水面が盛り上がる。そこから出てきたのは、大きな恐竜の顔であった。
 湖の、首長竜。それは貴婦人に頭を撫でられて、甘えたように、瞳を細めて見せた。

 水にぐっしょりと濡れたはずのそれぞれの服は、既に完全に乾ききっていた。セレスが一人一人に触れるだけで、各々に纏わりついていた水を全て空気に還してしまったのだ。
 そうして、早速。
 一同は、貴婦人と真正面から向かい合っていた。
 いくつかの会話を交わした後――、
「どうしてジェロニモさんを通したのですか。あの人は、東京の滅亡を目論んでいるんですよ……!」
 一つの世界を滅ぼそうとしていることが、正しいことなんですか?
 正の台詞に、
「あら、わたくしは、万人に対して平等ですのよ? その目的がどうであれ、その意思が強ければ、ここをお通しすることに決めておりますの。――わたくしは強いヒトが好き」
 微笑みを深くして囁くと、貴婦人はくるり、とアンナの方を振り返る。
「それで、そこのお嬢さんは、どうしてそんなに落ち込んでいらっしゃるのかしら」
 さらり、と話を摩り替えた貴婦人に対して、しかし、誰一人として苦情を言おうとはしなかった。
 確かに。
 そこには貴婦人が指摘した通り、俯いて落ち込むアンナの姿があったのだから。
「どうしたんですか?」
 心配を言葉にしたリーザへと、
「会えたと、思ったのに……」
 アンナはただ、そう口にするのみであった。
 その言葉に一瞬息を止めたリーザは、静かにアンナから視線を逸らす。
 そのまま、後ろに並ぶ一同へと視線を向けた。
 そうよね。
 会いたいという想いがあったに、違い無いのだ。例え彼が何を考えているにしても、ジェロニモは、アンナにとっては特別な存在であるのだから。
 もし。
 ふと、リーザも考える。
 もし自分の大切な存在が、ある日突然、別人のように変化してしまったとしたら?
 きっと、わたくしなら、――いいえ、普通の人であれば、
 すぐにその人のことを、嫌いになることなど、忘れることなど、
 できるはずがないわ……。
『確かに、何が正しいのかなんて、私にはわからない。神父様の気持ちだってわかる、でも、そのために東京を犠牲にしていいのかどうかなんて、わからない』
 リーザはユリウスから、アンナは『ジェロニモが正しい』とは一言も言っていないのだということを聞かされていた。そうして、アンナがジェロニモの行動に対して、疑問を抱いているのだ、ということも。
『東京には、滅ぶべき時が来たんだ、って。私だって、そんなの、……いけないことなのかも知れないなって、ずっと思ってた』
 そんなの、神父様らしいことじゃあない。
 アンナはそれを理解していても、簡単に彼から離れる気にはなれないに違い無い。むしろ彼女は、彼をずっと気にかけているに違い無い。
「私は……、」
 アンナが、小さく口を開く。
「神父様に、会いたい」
 会って、色々と確かめてみたい……。
 付け加えて、アンナは静かに貴婦人を見上げる。
「神父様は、この先にいるんですか?」
「ええ、そうね、そうなるかしら。あの神父は今、アヴァロンにいるはずですものね」
「通して、ください」
「あら」
 貴婦人は、くすりくすくすと口元に手を当てると、
「行って、どうするおつもりなのです? あなたには、何もお出来にならないでしょう?」
 アンナが、言葉を詰まらせる。
「あの神父の意思は、相当強かったわよ? だってわたくしが、認めるほどですもの」
 わたくしは、強い人が好き。
 囁いて、
「アヴァロンへの扉を開くのも、楽な仕事ではありませんのよ。わたくしは、面倒なだけのことは、やらない主義ですの」
「……何の話ですか」
 誰かさんに、そっくりね、と。
 貴婦人の言葉に何を感じたのか、じと、とこちらを見つめてきたリーザへと、視線を逸らしたユリウスが小さく言葉を返す。
 ユリウスは、リーザの催促染みた無言の圧力を受けて苦笑を浮かべつつ、
「私達も、ここを通していただきたいんですよ。私達はジェロニモ神父を止めなくてはなりませんでしてね」
 私もできれば、面倒な仕事はしたくないのですが。
 溜息混じりに、言葉を続ける。
「東京は、私達にとって、大切な場所なんです」
 静かに詠い紡ぐかのように、セレスがユリウスの言葉を引き継ぐ。
「私達は東京を、守りたいと思っています。そうして、できれば……アンナさんと、ジェロニモ神父のことも」
「そのために、アヴァロンへ行くと仰るの?」
「そのための方法は、アヴァロンにあると思うのです。アスガルドで調べがつかないのであれば、その先にあるアヴァロンへ行ってみれば良い――そう考えておりますが」
 じっとしているだけでは、答えはやってきませんから。
 貴婦人が、ぐるり一同を見渡す。
 懇願するかのような視線が、自分の方へと一つに集められていた。無言のままに、説得されているかのような気分。
 やれ、
 ……面倒なことに、なりましたわね。
「まあ、」
 貴婦人は頭に手をつき、溜息を吐くと、
「宜しいでしょう。これ以上話し合いをしても、どうせあなた方は、わたくしを説得し続けるのでしょうしね。でしたら、時間の無駄というものですわ」
「それじゃあ……!」
 アンナの笑顔に、しかし、貴婦人は微笑を返そうとはしなかった。
 むしろ、表情を堅く引き締めると、
「現実は、厳しくてよ」
 針のような言葉を、容赦無く突きつける。
 でも、と。
 アンナが俯いた頃に、貴婦人は慈悲深さを滲ませた声音で付け加えた。
「でも、テウタテスは、あなたのことが気に入っているようね」
 貴婦人が、瞳を細めたその瞬間。
 アンナの手の中で、先ほどの林檎が、淡く輝き始める。
「……あ……」
 その光は、霧に拡散されながら、徐々に形を変えてゆく。一度は消えかかった光は、やがて小さく、圧縮されるかのように細く集まり、一つの形を形成した。
 冷たい、感触。金属でできた、見目装飾品のような物。
「鍵……?」
「そう、『テウタテスの聖鍵』よ」
 アンナの呟きに答えて、貴婦人が説明を付け加える。
「あなたも、幸運な娘ね。どうテウタテスと知り合ったのかは知らないけれど、……いいわ、大切に持っていなさい。きっとその鍵は、あなたを助けるものとなるでしょう」
 セレスから視線を受けても、貴婦人は首を横に振るのみであった。その鍵について説明を求められても、自分からこれ以上の解説を加える気は無い――そういうことであろう。
「道は、自分で切り開くものよ。……わたくしは、それができない人には、力を貸さないことに決めておりますの」
 やおら、貴婦人は湖に向かって歩み寄ると、天に向かって両の腕を高く伸ばす。
 刹那。
 光が、降る。霧が、割れる。
 そうして音も無く、湖の上に降り注ぐ光によって道が造られた。どこへとも無く続く、揺らぐ水の上に浮かぶ、光の道。
 光は、闇へと続く。
「進みなさい。この先に望むものがあると、信じるのであれば」
 風が湖を、そっと波立たせていた。


V

 光の道を、抜けた――その先に広がっていたのは、先ほどの薄暗い湖とは打って変わって長閑に明るい、緑に包まれた世界であった。
 さながら、果ての無い草原。一同は、その中を彷徨うかのようにして歩き続け、そうしてようやく、自然の物とは違う物を見つけるに至った。
 城。何も無い場所に、ぽつり、と建つ、大きな城。
 一同はようやくそこまで辿り着き、そうして、あまりの手がかりの無さに、疲れの色を隠しきれずにいた。
「……何ですかねぇ、これは……」
 やれ、疲れました……と言わんばかりに溜息を吐いて、ユリウスが城壁へと手を付いた。
 全く、もう――。
 アヴァロンへ来た。そこまでは良かったのだが、その先がどうにも進まない。
 まあ、
 当たり前と言えば、当たり前かも知れませんけれど……。
「それでも、何かありそうな場所が見つかって良かったですね。あのまま延々と草原を歩かされるのは……私も少し、疲れてしまいましたから」
 そもそもここへは、先ほどセレスが言っていた通り、事件に対する何らかの解決策を探しに来ているのだから。アヴァロンがどのような場所であるのかといった事前情報は、ほとんど一切と言って良いほど、収集することができなかったと言うのにも関わらず。
 ……藁をも、掴む想いで。
 ある意味では、このような感じであるのかも知れない。
 セレスは一つ息を吐くと、
「それにしても、大きなお城ですね。……人の気配が、一切感じられませんが」
「魔物の気配もありませんしね。――廃墟になっているのかしら」
 シュラインが、城の入り口へと視線を遣った、その時。
「当たり前だろう。ここは、廟なんだから……この世界の、創造主のね」
 唐突に、上から降り来る、聞き慣れない声音が響き渡った。
「それにしても、なぁんだ、やっぱりダム・ド・ラックのヤツは、あんた達を通してしまった、か」
「……誰?!」
 逸早く反応したリーザが、周囲をぐるり見回した。
 そうして、見つける。
 廟を取り囲む塀の上に座る、僧衣姿の一人の男。どこかで見たことのあるはずの、神父。
「まあ、その方が俺にとっても都合が良かったわけだけど、な」
「都合が良かった、ですって……?!」
 語調を強めるリーザの前に、男はふわり、と降りてくる。
 ゆったりと地面に着地すると、
「アンナ、」
 名前を呼ばれたアンナが、ぎくり、と身を竦ませる。
「君は随分と良い物を持ってきてくれたね。テウタテスの聖鍵……俺はずっと、それが欲しかったわけだからね」
 君の方から、テウタテスの力を感じるんだよ、と。
 付け加えて、そこではっとする。
 そういえば、
 自己紹介が、まだだったかな。
 ジェロニモは、一同へ向けて恭しく一礼をすると、
「こんにちは、皆さん。っと、そうじゃあなくて、はじめまして、かな。ああ、アンナには、お久しぶり」
「し……、」
 立ち尽くしたまま、両手で口を塞いだアンナが思わず、悲鳴のような声をあげる。
 やだ――、
 立っていられるのが、不思議なくらいであった。震える足は、今にも崩れ落ちそうになっていた。
 声音にまで、震えが移る。
「神父様……?!」
 ついに崩れたアンナを、正がしっかりと抱きとめる。
 正は視線を上げ、堂々と立つ男を眼鏡越しに真っ直ぐ見据えた。
 そこにいたのは、先ほど湖の中で見ていた幻影と、同じ男であった。
「あなたが、ジェロニモさん……!」
「そう、俺がジェロニモですよ――同業者サン。尤も、この世界においてのみ、だろうけどね」
 現実においては正が司祭ではないのであろう、ということをあっさりと指摘すると、さて、とジェロニモは、前置きも無しに早速本題へと入る。
「テウタテスのヤツも、気まぐれなんだね。俺がテウタテスを探した時には、全く手がかりすら無かったくせに……」
 忌むように言うと、
「ま、でも、アンナ。君がその鍵を持ってきてくれるだなんて、予想外ではあったけどね。丁度それは、俺が探していたもので……って、説明は面倒だから、後でしてあげるよ。だから、」
 ジェロニモは、アンナに向かって手を差し伸べると、
「さあアンナ、その聖鍵を、こちらに渡しなさい」
 アンナは俯いたまま、沈黙を守っていた。
「いけませんよ、アンナさん」
 正の言葉に、ぴくり、と震える。
 正はジェロニモをじっと見据えたままで、
「あなたがその鍵を使って何を、どうしようとしているのかは知りませんけれど。少なくとも、その説明をしてもらうまでは、鍵は渡しません」
「それはアンナが決めることだろう? それにアンナは、俺の味方でいてくれるはずだからね。ねえ、アンナ?」
 言葉を見失ったアンナの代わりに、正が一歩前に出る。
 まるでアンナを護るかのように、決意を込めて地面を強く踏みしめた。
「あなたは。今までこのようなことをしてきて、アンナさんのことを――本当に、愛していらっしゃるのなら、」
 どうか、聞いてほしい。
 届けたい言葉が、いくつもあった。
「彼女を悲しませても良いと思っているんですか?」
 アンナが、顔を上げる。
 ジェロニモが、静かに瞳を細める。
 その場に居る誰もが、今は正の言葉に耳を傾けていた。冷静に、しかし、切々と語る正の言葉を。
「残される方も、置いていく方も……辛いのは、相手を思っていれば等しいはずですよ。アンナさんは、あなたにずっと会いたいと言っていました。ねえ、あなたは、」
 あなたは、
「アンナさんと一緒にいられなかったこの時間を、寂しいと感じてはいたんですか――?」
 正としては、正直気になっていたのだ。ジェロニモが、アンナと再会した時の様子が。
 あまりにも、淡白過ぎはしないか……?
 ジェロニモが、そこまでして感情を押し隠す性格であるのならば、それで納得できるかも知れない。しかし、直感が、素直にそう解釈することを拒絶していた。
「だとしたら、どうなると?」
 下らない。
 ジェロニモの返答からは、そのような心の声すら入り混じっているかのような気がした。
 どうして。
 或いはそれは、ここにいるアンナが現実のアンナとは違うからなのか。それとも。
 他に、理由が?
「あなたは、アンナさんとずっと一緒にいたいのではありませんか?」
「そうだね。……アンナとも、ずっと一緒にいたいね」
 ……『も』?
 正の中に、違和感が更に積もる。
 それじゃあ、
「あなたの本当の目的は、何だったのですか?」
 正の視線が、真っ直ぐにジェロニモの瞳を射る。
「そうよ。あなたの目的は、アンナちゃんを護ることじゃあなかったの?」
 耐えかねて、シュラインが口を開く。
 まるで今の言いようじゃあ、アンナちゃんのことは、二の次みたいじゃないの……?
 それに、と。
 シュラインは、口にはしなかったが、別の違和感に眉をひそめる。
 どうしてこの人は、こんなにも楽しそうなのよ……。
 憂いよりも、歪んだ快楽の感情が先にたつような、ジェロニモが身に纏う雰囲気。
 何かが、おかしい。
「ねえ、ジェロニモさん。あなたのしてきたことは、本当に、あなたにとってやりたいことなのですか?」
 ようやく自分の力で立ち上がったアンナを優しく一瞥して、正が続ける。
「これ以上悲しむ人を増やすつもりですか? そう――、ですから、良く、考えてみてください。あなたは、アンナさんを護りたいのでしょう? 何よりも、誰よりも。だから今まで、このようなことをしてきたのでしょう?」
 けれど、アンナさんを、これ以上悲しませないためにも。そうしてこれ以上、あなた自身が、苦しむことのないように。良く、考えてほしい。
 ――不意に。
 そこで始めて、ジェロニモの雰囲気に、一瞬、戸惑いの色が混じり込む。
 ジェロニモの視線が、アンナの瞳とぶつかった。
「神父様……」
 彼の優しい言葉を期待して、アンナが微笑みを浮かべる。具体的にどうとは言えないが、何か、神父様らしい′セ葉をくれると思っていた。
 ジェロニモが微笑む。
 だが。
「……煩いな」
 現実は、アンナの予想を裏切る方に転んだ。
 一瞬にして表情を引き締めたジェロニモが、アンナさえをも睨みつける。
「「黙れ」」
『――っ?!』
 その瞬間、二つの声音が、重なって聞こえたような気がした。一同は一瞬同時に息を呑み――そうして、お互い顔を見合わせる。
 幻聴では、ない……?
 各々の反応に、各々が確信する。しかしジェロニモの後ろには、誰もいないはずなのだ。
 ならば誰が?――誰が、彼の声音に、己の声音を重ねたというのか。
「「あんた達には、関係ないことだろう」」
 と。
 ふと、正が気がついた。
 ジェロニモの後ろに、誰かの姿がうっすらとだぶって見えている。眼鏡のよく似合う、頭の切れそうな青年の姿。憎悪のようなものに、顔を歪ませて。
「待って!」
 その姿には、酷く見覚えがあった。慌てて愛用のメモ帳を取りしながら、正はもう一度、その姿をじっくりと見据えた。
 そうして、メモ帳を捲り終え、正が確信する。
 そうだ、あの人は、
「浅葱 孝太郎(あさぎ こうたろう)……!」
 間違い無い。
 眼鏡をかけた、人の良さそうな青年。正のメモ帳には、昔の新聞のコピーから切り抜いた、そのような男の写真が貼り付けられていた。
 その記事で扱われていた数ヶ月前の、交通事故。その犠牲者。そうして、『白銀の姫』の世界を構築したプログラマー。
 彼と、ジェロニモにだぶって見えた男の姿とは、あまりにも似すぎたものであった。
「間違いありません……!」
 事前の調査が、このようなところで役に立つとは。
 目の前に突如として現れた事実に、一同は知らず驚きの表情を浮かべていた。しかし、皆には、それについて詳しく話し合う暇が与えられてはいなかった。
 孝太郎の姿と声とが消え、再び一人に戻ったジェロニモが、言葉を続ける。
「俺はこれから、偽りの創造主を排除しに行く――そうして、この世界の創造主となる」
「どういうことですか……?」
「おっと、勘違いしてもらっては、困るかな」
 それが、あなたの目的と、どう関係あると言うのです?
 言いかけたセレスを制し、ジェロニモが嗤う。
「別に俺は、この世界の王になりたいわけじゃあない。ただ、この世界を構築するプログラムへのアクセス権限を持つのが創造主だけなんだから、仕方ないだろう?……俺はね、プログラムを、書き換えるんだ。アヴァロンから現実へと通じる『扉』を、無くしてしまえば良い。そうすれば、この世界は現実になるだろう? 折角、聖鍵があるんだからね」
「つまり、聖鍵は創造主に会うために必要な物だと……そういうことですね?」
「察しが良いヒトだな。まあ、知られたところで、困るものでもないのだけれどね」
 セレスが、アンナの気配を気にかける。
 ――そうなると、
 絶対に聖鍵を、渡してはなりませんね。
 情報の量が少ない以上、ジェロニモの言っていることが、どこまで現実的に考えて可能なことなのかはわからない。しかし、もし本当にジェロニモの言うことが可能であるとするのならば、
「……異界としてこの世界を安定させるのではなく、新しい東京≠ニして、この世界を具現化させる気なのですね?」
 それが可能だとすれば?
 全ては、終わってしまうのだ。東京は、アスガルドの世界に対しては、ほとんど無力な都市でしかない。もしアスガルドが具現化してしまえば、東京はアスガルドという世界に侵略され、消えてしまうに違い無い。
「勿論」
 セレスの確認に、ジェロニモはあっさりと頷いて見せた。
「そんなことは……させませんよ!」
 その反応に、裕介が、強く声をあげる。
 確かに。
 ジェロニモの言う通り、このアヴァロンから現実に通じる扉を無くしてしまえば、白銀の姫の世界は現実のものとなってしまうのだ。異界の存在が大量に現実に流れ込めば、異界の実体化が進む。それは、異境現象に見られる特徴であった。
 その扉が、どこにあるのか。おそらくジェロニモは、それを知らない。しかし知る必要など無いのだ。そのようなものは、プログラムに直接書いてあるに違い無いのだから。
 そうして、もし本当にジェロニモの背後にいるのが孝太郎だとすれば、プログラムの書き換えについては可能なことになるのだ。もし本当に、この先に眠る創造主がプログラムへのアクセス権限を持ち、創造主を殺すことによって、その権限をジェロニモが得ることができるのであれば。
「さあ……言うのは勝手だけどね。あんたに、何ができる?」
「止めます、何をしてでも」
 ジェロニモに嘲笑されても、裕介は真剣な表情を変えようとはしなかった。
 そこには、裕介自身の決意が反映されていた。
 護らなくてはならないのだ。必ず。
「俺には、護らなくてはならないものがありますから」
 彼女の、
 ……麗花さんのいる東京を、守りたい。彼女を、護るためにも。
 しかし。
 その言葉を、ジェロニモはあっさりと鼻先で笑い飛ばす。
「残念だけど、あんた達に、それはできない。なぜなら、」
 すっと、ジェロニモが右手を上げる。僧衣がふわりと、風に靡いた。
「お帰り頂くから……ね」
 ぱちんっ、と。
 ジェロニモの声に、彼の指を鳴らす音が重なった。
 その瞬間、
 ふっと。
 アンナの足元に、輝く光が生まれる。
「何……?」
 その線は一点から生じ、二手に分かれて円を描いていった。ジェロニモに向き合う者全員を取り囲み、光はついに手を結んだ。
 そうして、輝きを強くする。そこから生まれた光の壁が、一同とジェロニモとの間を遮った。
「だから、お帰りいただくんだよ、アンナ。もう彼等には、用が無いわけだからね」
「神父様っ! 止めてっ!」
「アンナさん! 行かないでっ!!」
 思わずその円から飛び出したアンナを、リーザが追いかけようとして慌てて駆け出した。
 しかし、
「……きゃっ!」
 二人の内、リーザのみが、光の壁に弾き飛ばされる。
「リーザさんっ!」
 珍しく慌てて駆け寄ってきたユリウスが、リーザの手を引き、彼女を起こす。
「出られない……?!」
「どうやら私達だけ、隔離されてしまったようですね……」
 足元の円を見据え、ユリウスが呟く。
 その頃にはアンナのみが、ジェロニモの元へと辿り着いていた。
「神父様……! 私にはよくわからない! わからないけど、私……こんなの何かが、おかしいと思うの!」
「すっかり彼等の情が移ってしまったのかい? 犬も三日飼えば、というやつか――でもね、アンナ」
 ジェロニモは、アンナを左腕で抱きこむと、
「この世界は、楽しいだろう?」
「し……、」
「俺達は、この世界で%人で生きていくんだよ。……そう、永遠にね」
 この世界と、共に。
 アンナが、震える。
 こんなの、
 ……こんなの、神父様じゃあない……!
 現実世界に生きていた『アンナ』と、彼女の記憶を継いだ自分の勘とが、同時に警鐘を鳴らす。
 じゃあ、ここにいる神父様は、
 神父様じゃあ、ない?
「駄目です! 防御結界ではどうにもならない……!」
「どうにかして脱出するのよ! 何か良い方法は……」
「呪文のパターンが読めません……或いはこれは、――プログラムに近い?」
 聞こえてきた声音に、アンナははっと顔を上げる。
 そこには、更に輝きを増した壁の中から必死に脱出しようとする、シュライン達の姿があった。
「皆さんっ!」
「さあ、そろそろ時間だ。本当は、ヤツと戦うためにも、力は温存しておきたかったんだけどね……このくらいなら、大丈夫だろう」
 再び駆け出そうとしたアンナを制し、ジェロニモが一歩を踏み出した。
 ぱちんっ、と。
「さようなら」
 そうして、もう一度右手の指を鳴らした。
 その音に共鳴するかのように、光はついに天を貫き、世界を明るく照らし出す。
『――っ?!』
 皆が一斉に、声にならない悲鳴をあげる。
 その頃にはもう、全員の視界から、アヴァロンは遠くなり始めていた。否、意識が、全てを認識することを拒み始めていた。
 耐え切れずに、座り込む。
 もう駄目なのっ……?!
 地面を両手につき、息を切らすシュラインに、しかし一つだけ、鮮明に飛び込んでくる声音があった。
 ……お願い、誰かっ、
「お願い、受け取ってっ!」
 遠くなるアンナの声音に反射的に反応して、シュラインは半ば無意識の内に、前に向かって手を伸ばした。
 広げた手の平に、硬い感触。その輪郭だけで、それが何かはすぐにわかった。
 ……テウタテスの、聖鍵っ?!
「アンナちゃん!」
 シュラインの視界の中で、アンナが首を左右に振る。
 手を伸ばして彼女を掴もうにも、シュラインの全ては、アヴァロンからどんどん遠ざかって行く。
「アンナちゃん――!」
 シュラインは、せめてアンナから預かった物だけは落すまいと、きつく拳を握りしめる。
 暗く、堕ち行く世界。遠ざかる、世界。
 アンナちゃん……。
 しかし、シュラインの声が、三度アンナの名前を呼ぶことはなかった。


VI

 香の残り香が、心地良い。静かな場所、静かな……。
 各々が、瞳を開く。そうして、驚いた。先ほどとは明らかに違う、しかし、よく慣れた服装。それは、現実の世界での服装と、全く同じものであった。あのアスガルドの中にいる時の服装とは、明らかに違う。
 この場所は――。
 一同の意識が再び全てを認識し始めた頃、その場所には、轟音が響き渡っていた。
「……えっ……?!」
 そんなあまりにも突然の出来事に、その場所に――ユリウスの常駐する教会の聖堂で祈りを捧げていたシスター・麗花は、一瞬鼓動が止まりかけたのを感じざるを得なかった。
「何……?!」
 反射的に顔を上げた麗花の目に入ってきたものは、想像の範疇を超えたものであった。
 六人の、人間。
 聖堂の中央通路に、尻餅を付き、或いは、しっかりと立つ、この教会とは比較的馴染みの深い人々。
 唐突に現れた彼等も、驚いたようにぐるり周囲を見回していた。そうして誰かの視線が、麗花の視線とぶつかり合う。
 これは一体、どういうことです?
 麗花の疑問を、遮るかのように、
「シスター! 今の物音は何だね! まさか祭壇がひっくり返ったんじゃあないのかね……ついにユリウス様に対する主の裁きが下っ……!」
 唐突に、ばたんっ、と少々乱暴に聖堂の扉が開かれる。
 そこに立っていたのは、この教会の主任司祭である遠藤 晶(えんどう あきら)であった。
 彼はその光景に、言葉の続きを飲み込むと、
「何があったんだ……? 一体……?」
 ただ呆然と、誰にともなくそう問いかける。
「こんにちは、晶神父。事情はともあれ、私達帰ってきてしまいました……麗花さん、とりあえず紅茶とチョコレートをお願いできますか? 八人分ね」
「その前に、事情くらい説明してください! 一体何がどうなってこんなことに……!」
 ユリウスの言葉に、混乱する麗花が、珍しく、聖堂で甲高い声音をあげる。
 そこに、ゆっくりと裕介が歩み寄り、
「俺達、白銀の姫の世界から、どうやら強制送還されたようなんですよ、麗花さん。先ほどまで俺達は、アヴァロンにいたんですから……」
「アヴァロン?! 見つけたんですかっ?!」
「ええ、見つけました。ジェロニモ神父も、いましたよ」
 ただ、
「……もしかしたら、もういなかったのかも、知れませんが」
「どういう意味です?」
「あの人はもう、ジェロニモ神父ではないかも知れません。憶測でしか、ありませんが」
 裕介の台詞に、隣に並んだ正が頷く。
「彼の後ろには、浅葱さんがいました。あのゲームの、製作者が」
「ゲームの、製作者がいた……?」
 疑問符を浮かべる麗花へと、
「あのゲーム……白銀の姫の製作者でもある浅葱さんは、事故でもう既に亡くなっているんですよ。なぜ彼の造ったゲームの世界が具現化したのか、僕はそこまでは知りませんけれどもね。でも、ジェロニモさんの後ろには、浅葱さんが重なって見えました。間違いは、ありません」
 プログラムのバグなのか、何なのか。原因はわからなかったが、あの時見えたものは、おそらく自分達に、密やかなる事実を示しているに違い無い。
 ジェロニモの後ろに、重なって見えた孝太郎の姿。
「でも……わたくしはあの時、あまり良いものを感じなかったわ」
 傍で三人の話を聞いていたリーザが、そっと意見を口にする。
「憎しみや怒りばかりだったわ――あそこにあったものは」
 はち切れんばかりの、負の感情。
 そう、だから……。
「憶測でしかありませんが、ジェロニモ神父は、孝太郎さんに取り憑かれている――」
 というような言い方はどうかと思いますが、
「ような、状態なのではないかと。そうしてジェロニモ神父の背後にいたあの孝太郎さんは、孝太郎さんではないのでしょう。孝太郎さんの話によれば、創造主は別にいるようでしたから……その創造主こそが、本当の孝太郎さんなのでしょう」
 リーザの考えていたことを、セレスが彼女の代わりに、言葉にして整理する。
「孝太郎さんは、事故死なさったのでしたよね?」
 ふと、リーザの後ろから、ユリウスが口を挟む。
「ええ、そうです」
 頷いた正の言葉を受け、
「――なら、孝太郎さんにも、未練等はあったに、違いありませんね」
 ユリウスは一つ頷くと、
「孝太郎さんのその気持ちが、ジェロニモ神父の想いに、共鳴しているとしたら?」
 一つの推論を、全員へと投げかけた。
 つまり、
「ジェロニモ神父は、その孝太郎さんの意思に従っているのかも知れませんね」
 可能性は、無いとは言えませんでしょう。
 セレスが頷き、皆が黙り込む。
 だとすれば自分達は、これからどうすれば良いというのであろうか……。
 と。
 各々が、考え始めた頃。
「いずれにしても、よ」
 聖堂に、シュラインの凛とした声音が響き渡る。
 彼女はやおら、ユリウスの手の上に自分の拳を乗せ、
「ユリウスさん、これは……アンナちゃんからよ」
 シュラインが手をよけた時、ユリウスの手の上にあったのは、あのテウタテスの聖鍵であった。
 シュラインは、事態への理解が周囲に浸透するのを待ってから、ゆっくりと口を開く。
 ――そう。
「私達がこの世界に飛ばされる間際に、あの子は私達に向かって、この鍵を投げ渡してくれたわ」
 おそらくあの子はまだ、迷っているのよ。
 そうしてアンナちゃんは、私達に聖鍵を渡してきた……おそらく私達を、信頼してくれている。
「ねえ、皆。アンナちゃんは、私達を頼ってくれたのよ」
「……できれば、助けたいものですね」
 あらゆる意味で、彼女達を。彼女達の身も、そうして、心をも。
 シュラインの言葉に頷いたセレスは、しかし、とあくまでも冷静に、事態を整理する。
「しかし、私達にとっては、それが最良の策とは言えないことも確かでしょう。私達は或いは、この事件に、ここで終止符を打つことができるかも知れません」
 そうすれば、東京の滅亡は、防ぐことができるかも知れません。
「少なくとも、ジェロニモ神父の行動を止める、ということにはなりますよね?」
 セレスの問いに、ユリウスはすんなりと頷いた。
「そうです。私達――教皇庁の務めは、ここでお終いです。今からマルクス枢機卿に連絡すれば、私はこの任務から解放されることになるわけですしね」
 テウタテスの聖鍵がこちらの手にある以上、ジェロニモは創造主に手を出すことはできないのだから。
 後は、あの世界が勝手に終わるのを待てば良い。そうすればおそらく、ジェロニモは勝手に消えてくれるであろう。アンナと共に。
「ユリウスさん……」
 物言いた気な声音で、リーザがユリウスを呼ぶ。
 リーザとしても、わかってはいた。それがある意味では、最良の選択であるということを。
 しかし、
 寝覚めの悪い、終わり方ね……。
 もしユリウスがそのような判断を下すのであれば、それを間違っていると非難するつもりは毛頭も無い。
 ただ、もしかしたら。
 わたくしは、そうでないことを願っている?
 アンナの笑顔が、忘れられない。ジェロニモについて語っていた時の、あの、笑顔が。
 本当は、そうしてもらうのも良いのではないかと考えていた。ケルト神話によれば、アーサー王も安らかに眠るというあのアヴァロンで、二人静かに、眠ってもらうのも悪くはないと。
 けれど、
 このままじゃあ、そうもいかないわよね。
 美しい想い出と共に、安らかに。
 このままでは、そうもいかないであろう――。
 空間に、沈黙が落ちる。
 暫しの時が、重く流れ――、
「でも、まあ、」
 唐突に、暢気な声音が聖堂に間延びした。
 ユリウスは、あからさまに溜息を吐いた後、
「私も面倒ごとはあまり好きではありませんけれど、毎夜毎夜眠れなくなってしまうのも、あまり好ましいこととは言えませんからねえ……。そうですね、ここは皆さんに判断をお任せ致しますよ。私達がこれから、どうするのかについては」
「ユリウスさん……!」
 リーザが、まるで安堵したかのように微笑を浮かべる。
 他の皆も、それにつられるかのように、ゆっくりと体から力を抜いていた。
 少しだけ、皆の口調に活気が戻る。
「とりあえず、話し合いね」
「俺に、一つ提案があるんです」
 よしっ、と気合を入れたシュラインに後押しされるかのように、麗花の隣から裕介が言う。
「その聖鍵が俺達の手の内にあるのでしたら、もしかしたら、二人を助けることができるかも知れません……創造主に会って、二人のプログラムを書き換えてもらえば良いんです」
 二人のゲームの中でのキャラクターとしての立場を、俺達と同じものにしてもらえば良いんですよ。
 そうすれば、二人は現実世界から、アスガルドへ飛ばされた者と等しくなる。
 義母が、このようなことができるのならば……と、ぽつり、と口にしていたことであった。
 ただ、
「危険なことだと、思いますけれどね」
 自分で言っておいて難だが、この案には、賛成もできなければ、反対もできない。
 ジェロニモに鍵を奪われてしまえば、或いはその先にあるのは、東京滅亡だ。
 裕介の提案を、各々が各々の想いをもって吟味し始めた頃。
 不意に、
「その前に、僕にお茶を淹れさせてください。時間はあまり無いようですが、このままの立ち話では、進む話も進まないでしょうから」
 提案した正の微笑みに、麗花が台所へと向けて踵を返した。


essere continuato...



 ■□ I caratteri. 〜登場人物  □■ ゜。。°† ゜。。°★ ゜。。°† ゜。。°★ ゜。
======================================================================

<PC>

★ シュラン・エマ
整理番号:0086 性別:女 年齢:26歳
職業:翻訳家&幽霊作家+時々草間興信所でバイト

★ セレスティ・カーニンガム
整理番号:1883 性別:男 年齢:725歳
職業:財閥総帥・占い師・水霊使い

★ 十ヶ崎 正 〈Tadashi Jyugasaki〉
整理番号:3419 性別:男 年齢:27歳
職業:美術館オーナー兼仲介業

★ 田中 裕介 〈Yusuke Tanaka〉
整理番号:1098 性別:男 年齢:18歳 
職業:孤児院のお手伝い兼何でも屋

★ リーザ・サフィーネ
整理番号:5344 性別:女 年齢:24歳
職業:菓子職人・フリーター


<NPC>

☆ ユリウス・アレッサンドロ
性別:男 年齢:27歳
職業:枢機卿兼教皇庁公認エクソシスト

☆ シスター・アンナ
性別:女 年齢:23歳
職業:シスター

☆ ジェロニモ・フラウィウス
性別:男 年齢:28歳
職業:司祭

☆ テウタテス

☆ 湖の貴婦人



 ■□ Dalla scrivente. 〜ライター通信 □■ ゜。。°† ゜。。°★ ゜。。°† ゜。。
======================================================================

 まずは長々と、本当にお疲れ様でございました。
 今晩は、今宵はいかがお過ごしになっていますでしょうか。海月でございます。今回はご発注をくださりまして、本当にありがとうございました。
 また、いつものことながら凄まじく長くなってしまいまして(実はまた新記録を打ち立ててしまったわけでございます……)大変申し訳ございませんでした。いえ、詰め込んだ情報量が半端ではないはずですので、あまり楽しくは読んでいただけないのではないかと思っているわけでございますが……。しかも展開があまりにも唐突すぎるような気も致しますし……。

 何だかアンナと『アンナ』とを繰り返して使っているうちに、頭の弱い里奈サンは段々とこんがらがってきたわけでございますが、
「存在する(ある)ということは存在する、ということである。しかし存在しない(ない)ということはあり得ない。なぜならば存在しないということを考えている時点で、存在しないということを考えるということが存在するからだ」
 という大学の講義を思い出してしまいまして、微妙に凹んでいたのでございます……。
 ……困ったものでございます、あらゆる意味で。

 全然駄目でございますね、はい。

 ともあれ。
 なお、一応今後につきまして書かせていただきますと、次回の受注日は全くの未定でございます。或いは9月中かも知れませんし、或いは11月になるやも知れません。
 また、このシリーズにつきまして、皆様からのご質問や矛盾点のご指摘があれば、こちらも異界の方に回答等を掲載させていただきたく存じております。テラコン等から、遠慮なさらずにご連絡くださいませ。
 相変わらず大したことも書けずに申し訳ございませんが、それでも宜しければ、お付き合いいただけますと非常に幸いでございます。とは申し上げつつも、勿論先に述べさせていただきました通り、このシリーズにおきましては、途中での参加・不参加は遠慮なさらずに自由になさってくださってかまいませんので……。

 今回はお付き合いくださりまして、本当にありがとうございました。
 またご縁がございましたら、宜しくお願い致します。


24 agosto 2005
Grazie per la vostra lettura !
Lina Umizuki