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プールサイド
小学校低学年の頃。
みなもには、怖いことが一杯あった。
(やだな……)
先生の笛の音と、男子たちの声が、プールサイドで弾けている。
今は、クラスメイト曰く「授業の中で一番楽しい」プールの時間だ。この次に待っているのは給食だったから、上機嫌の子が多い。
――そんな中、みなもの表情は暗かった。
冷たいシャワーを浴びるときも、塩素の匂いで溢れた消毒そうに浸かっているときも、準備体操のときも、みなもは俯いていた。
下を向いていると、近くにある水に自分の顔が映る。それもまた、みなもの気分を重くさせるのだった。
――水面には、スクール水着の紺色よりもずっと目立って、からかいの種になる青い瞳が揺らいでいた。青い髪が帽子で隠れていることには安堵するけれど、その分瞳の色がはっきりと“人とは違う色”を主張してくる――……みなもは意識して目を逸らした。
水泳の授業なんて受けたくなかった。人魚になってから日が浅く、変化を制御出来ないみなもには、たくさんの不安があったから。
――もしも皆の前で人魚になってしまったら?
プールの中で悲鳴が起こるだろう。怖がられる。女の子だけじゃない、いつもいじめてくる男の子たちだって。
そしたらきっと、誰も声をかけてこなくなる。どんな言葉だって。自分が何を言っても、聞いてもらえない。
(やだ!)
想像しては、みなもは首を横に振った。このことを考えると、みなもの心には皆の目が見えるような気がした。真正面から拒絶している目。近寄るなという視線が自分に注がれているような、ヒリヒリするホッペ――。
(いやだ、こわい!)
――ここまで来るのだって大変だったのだ。
我慢出来た朝とは違って、教室の隅でプールバッグを開けたときから、みなもは不安な気持ちで一杯になっていた。
大丈夫だと自分を励まして、身体を包んでいるタオルを上から覗き込む。紺色と名前部分の白が混ざったカタマリが、足元にうずくまっていた。
暑い日だったから、肌は汗ばんでいる。早く着替えなくちゃ、と気持ちが焦る。それでも、足に通した水着を引き上げて、肩のひねった部分をパチンと戻すには、さらに自分を勢い付かせなければいけなかった。
それでも、プールを前にすると、不安とは別の感情が湧き上がってくる。
今胸がドキドキしているのは、怖い気持ちだけじゃない。楽しみにもしている。早く水に入りたい。
(どうして?)
自分でも気持ちがわからない。何故心が逸るのか。それが人魚としての性なのか。
煌めいている水面を見ると、心の渇きを覚える程に。
(はいりたい)
先生の笛の合図が聞こえて、ソロソロと足の指を水に浸した。
「わ……」
足から背中へ、ゾクゾクとした感じが身体を通っていった。酔いしれたくなるような気持ち良さだ。
底に足をつけて、立っているだけでは物足りない。数度跳ねた。冷たいカタマリが瞬間ごとに形を変えて、正面からぶつかってきたり、風のように包んできたり、枝のようにしなったりしながら、みなもと戯れる。
――ああ、だけど。
恍惚とした気持ちと、表情を、ゆっくりと解いていったのは恐怖で、みなもは身体を小さな魚のように、ビクつかせた。
腕が痛い!
それは自分の中の何かが盛り上がってくる痛み――人魚が“くる”のだ。
こないで!
みなもが心の中で叫んでも――いや、叫んだから、“人魚”は興奮を覚えて、益々変化の速度を上げるのだ。
皮膚が硬くなって、青くなって、肌を裂くような痛みと、それを凌駕する程の精神的快楽が、
――それを感じているのは、みなもだ。
――人魚は、みなも自身だ。
(いやぁ……!!!)
揺らいだ視線が、クラスメイトとぶつかった。この男子は少し前から、他の生徒と違って、はしゃいでいないみなもを、不思議そうに見ているのだ。それに気が付いたとき、羞恥心と共に、痛みが速度を増して足に襲い掛かった。水着が微かに破れるのと同時に、意識が遠のくような気さえする。
(もうだめ、おさえられないよ……!!!)
口を閉じて、声を出さないように耐えているのも限界だった。アッ、と小さく声を漏らした次の瞬間には、みなもはタオルを握ってプールから逃げ出していた。
校庭の隅っこ――。
タオルで身体を覆っていても、不安で押しつぶされそうだった。
(にげちゃった……)
先生はどうしているだろうか。怒っているのだろうか。
(あの男の子だって……)
気付かれてしまっただろうか。そしたら他の子に話すのだろうか。
「うなばらっておかしいよな」
そんな声が、頭の中で何度も響いている。
(こんなんじゃあ、もどれないよ……)
涙が膨れ上がってきた。
「こわいよぉ……」
消えそうな声でそう呟いたとき、フワッと、後ろから誰かに抱き上げられた。
「大丈夫だよ」
よく知っているこの声、大きな手と、優しい口調。
「お父さん!」
後ろへよじって、みなもは父の首に手を回した。
「今日はどうしたの……」
「みなもを迎えに来たんだよ」
「え……?」
眩しそうに見上げたみなものホッペを、からかい気味に指で押しながら、父は笑った。
「先生から連絡があってね。他の子が言うには、何でもプールで具合が悪くなったそうじゃないか。辛そうだったって聞いているよ」
あの男の子だ、とみなもは思った。彼は変化に気付かなかったのだ。
肩の力が抜けていく――ああ、本当に大丈夫なのだ。
「ぐあいは、わるくないの……」
誤解を解きたいと、まごつくみなもを見て、父は穏やかに言った。
「――解っているよ」
水着の上にそっとかけられた上着が、あたたかかった。
「ボロボロだけど、スクール水着で帰るより良いだろ」
恥ずかしそうに父は言ったけれど、みなもは嬉しそうに頷いたのだった。
キイ、キイ、キイ。
今にも転びそうな程にフラつきながら、父は自転車を漕いでいる。
荷台に乗せてもらったみなもは、父の腰にしっかりつかまって、顔を父の背中にうずめていた。ぶかぶかの上着と、湿った水着を通して、父の背中のあたたかさが伝わってくる。
――信号で止まるたびに、前から声がかかる。
「みなも、ほら、足を内側へ向けるのは危ないよ。ちゃんとつかまって……手を離したら駄目だよ」
そのたびに、みなもは「うん、うん」と声を出しながら、くすくすとおかしそうにホッペを震わせた。
「お父さんって、おっきいね」
「大人だからね。みなもも成長すれば大きくなるさ」
「……うん」
少し意味の違う返答に、みなもは小さな声で返事をした。
校庭の隅でみなもを抱き上げたときの父は、とても大きくて、あたたかくて――みなもが成長したとしても、その大きさが変わることなんてないのだ。
(それに、やさしい)
「おとーさん、ぎゅうしてもいい?」
「ん? もうくっついてるじゃないか」
「もっとがいいの」
そう言ってみなもは、思い切り父に抱きついた。
「え、おい、ちょ、ちょっと、みな……………………うわあああああああああああああ!!!!」
ずでーん!
自転車ごと大きく揺れて、二人は勢いよく倒れて行った。
「みなも、怪我はないか?!」
「お父さん、ご、ごめんなさあああい……!!!!」
父の焦った声と、みなもの半分涙の混ざった声が交じり合って――やがて二人は顔を見合わせて吹き出した。
みなもと父がいるなら、その時間は二人にとって、おかしくって、やさしくって、たのしい。
次の信号待ちのとき、父はみなもにこう言った。
「みなも、ほら、足を内側へ向けるのは危ないよ。ちゃんとつかまって……手を離したら駄目だよ。……つかまりすぎても、いけないからね」
「はぁい」
みなもはホッペを震わせながら、楽しそうに返事をするのだった。
終。
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