|
少年禁猟地帯3
●4月15日 〜朝〜
『ちょっと聞いてよ!』
「何よォ〜」
真紀子は眠たげな声で言った。
『何、なんかあったの? 機嫌悪そうね』
電話の向こうからそんな言葉が返ってきた。
「別に」
ついさっきまで昼寝をしていたのだから、機嫌の悪さ全開なのは仕方ない。真紀子はちらっと携帯を見る。
液晶画面にあるのは相手の名前と11の数字…電話番号だ。相手の名前は中条祥子。いわゆる同級生とやつで、平凡を形にしたような容姿と性格はまさに友達という言葉にふさわしい。顔も成績もどんぐりの背ならべで、これといって代わり映えしないところが、これまた平凡な自分にはふさわしかった。幼稚園も小学校も一緒。登校ルートでさえ同じで、時間になっても真紀子が姿を現さないと迎えにやってくるような間柄である。
腐れ縁というのが正しいかもしれない。
どうせお気に入りのバンドの追っかけに成功したとか、生写真GETだのと電話してきたのだろう。
「何? Junの写真なら買うよ、500円ならね」
『安いなぁ。……じゃあなくて!』
「そうじゃないなら、なんなのよ」
まったくじれったい。真紀子はベッドから起き上がり、顔を顰めて言った。
「いくらなのよ」
『違うわよ、写真じゃないの。居たのよ、【白い子供】が!』
「え? うそ……彼ら、滅多に公言しないじゃん。それって本物?」
『本物なの! バイト先に来たんだもん。マジ、クールだったし。すっごい可愛かったの。アイドルなんてメじゃないってカンジで、キュートなのに……』
「なのに?」
『存在感って言うの? 凄いんだよね、言葉にできない。言おうと思ったこと全部忘れちゃうよ。話そうと思ったら言葉が出てこないんだもん」
祥子は一気にまくしたてるように言う。
その言葉を聞いて、真紀子は何か重要なものを失ったときのような気持ちに一瞬だけなった。
いつもあったそれが無くなってしまったかのような。急いている時の、あのイライラとした気持ちが津波のように押し寄せる。
だか、続いた祥子の言葉によって現実に引き戻され、その言葉もまさしく波の如く引いていった。
「絶対本物。今度会ってくれるかもって言うか、それもカクジツじゃないんだけど……叶ったら凄いと思わない??』
騒がしくしゃべる祥子の声が携帯から溢れ出てくるのに真紀子は戸惑っていた。つけっ放しになってるTVでは昼のニュースが流れている。喉を噛み切られた女の死体がお台場のアクアシティーで見つかったとアナウンサーが言っているのもそっちのけで、真紀子は今時分の前にあるチャンスに心を奪われていた。
「マジ?」
『超マジ』
「探しに行こう……」
『え?』
「馬鹿! アンタもあたしも誕生日はもうすぐじゃん。チャンスは手に入れなきゃ」
言うなり真紀子は立ち上がり、電話を切った。祥子の居るところならすぐにわかる。近所の喫茶店で本を読んでいるに違いない。
そう思うと真紀子は机にしまった通帳を出し、鞄の中に乱暴に押し込んだ。手に入れたチャンスは逃がさないのがポリシー。お気に入りの服に身を包んで部屋を飛び出す。あと数ヶ月で必要が無くなる学生服も机も教科書にも振り返らず、真紀子は意気揚々とドアを開けて街に飛び出す。
道行く大人たちを横目に真紀子は密やかに笑った。
――退屈な人生にさよならよ!
そう思うたび、心が躍る。
軽やかに道を行くと曲がり角で同い年ぐらいの青年に会ったが、誰にも彼にもこう言いたくなる気分だ。
――ご愁傷様、私は白い子供になるの。
そう呟いた瞬間に目に飛び込む赤い色。
深紅の髪が血よりも赤く、真紀子の目に飛び込んでくる。次に鋭い視線と整った顔立ちが真紀子の目をひきつけてやまない。
隣にいた青年が赤い髪の青年に話し掛けていた。
「綾、大丈夫なのかよ?」
「大したことない問題だろ。それより必要な情報は集めておく必要がある」
「あー、めんどくせぇ」
黒髪の青年が溜息をついた。
――あぁ、こいつはフツーだわ。
真紀子は心の中で呟いた。
心に焼きついた赤い色が真紀子を奮い立たせる。
あんなふうになってやる。
誰にも負けないぐらいキレイになるんだ。
真紀子はまた呟くと、アクアシティーに居るであろう祥子の下へと走っていった。
●幸せな子羊は罠に落ちる
セレスティ・カーニンガムはホテルの一室で目を覚ました。と言っても、すぐに目を覚ましたわけではない。
東京の一等地に建てられたホテルのベッドは最高に寝心地が良く、彼は幸福な時間を優雅に貪っていた。惰眠というやつだ。
柔らかく沈み込むベッドの感触に幸せな深い溜息をついて辺りを見回せば、そこが自分の屋敷ではないことをぼんやりと認識をする。
ホテルなのだと思い出すまでに20分少々掛かった。無論、その20分の殆どは二度寝のために消費された時間だ。
「ん〜」
寝不足で重い体を起こそうと、セレスティは寝返りを打った。
まとわりつく自分の長い銀髪を指でどけ、時計を見ようと視線を上げる。そこでセレスティは異様なものを見た。
「?」
「「はぁ〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜」」
それらは溜息をついた。
「は…い…?」
この状況がわからなくて、思わずセレスティは返事をしてしまう。
それら……つまり、ベッドの端にちょこんと鎮座する月見里千里とシュライン・エマなのだが。その両名が頬杖をついてセレスティを見つめていたのだ。
「な…何を…なさってます?」
「何もしてないわよ」
千里はむっつりとした表情のまま言った。
「セレスティさん……」
ふと我に返ったように、シュラインが声をかける。
「はい?」
「何か、こう。色気満載ね」
「ありがとう…ございま…す〜」
何を言われたか一瞬わからなかったセレスティは、少し呂律の回らない声で言う。
まさか、寝乱れてパジャマのボタンが外れ、自分の白い肌を晒していたなど思うだろうか。その瞬間、千里が両手でベッドをバンバンと叩きながら叫ぶ。
「色気満載無制限に垂れ流し状態で、『ありがとうございます』って、一体何よー!」
「はあ……」
「溢れ返ってるわよ! 堤防(理性)決壊よ! 貯水ダム並に色気があってようござんしたわねー!」
「ち、千里ちゃん」
ぶッちギレた千里を宥めようと、シュラインは肩をぽんぽんと叩く。
「ごめんなさいね、セレスティさん。お部屋に入るの失礼かと思ったんだけど……その、何度呼んでも起きてこないから」
困ったようにやや眉を顰め、シュラインは苦笑した。
入り込むつもりも観察するつもりもなかったのだが、なかなか起きてくれなかった為にシュラインはこの部屋から出て行けなくなってしまったのだ。
「あ、はい。すみませんね……今、起きますよ」
「えぇ、そうしてくれると助かるわ。朝から綾くんと三浦君が出かけちゃってるし」
「出かけてるんですか?」
「そうよ。その……セレスティさんがなかなか起きないから、痺れを切らせちゃって」
「すみません」
セレスティは体を起こしながら言う。
疲れが溜まっていたらしい。先日の『ウィルス性貧血および循環器系不全症候群(仮名)』事件の捜査に関与していたせいだろう。
もっとも、今の自分は当事者というのにふさわしい立場にいる。なのに、自分は遠い自分の世界から旅立ち、異界に来ていた。
「今日は何日ですか?」
「え? 今日は2日目。4月15日よ。向こうとは1ヶ月半ほどズレがあるみたいね」
「あー……そうですか。ありがとうございます」
ふと苦笑にも似た笑みを浮かべると、セレスティは立ち上がろうとベッドに手をついた。
「さあさあ、千里ちゃん。外に出るわよ。着替えの邪魔でしょ?」
シュラインはセレスティをじっと見つめる千里に声をかける。
千里は少しむくれてはいたが、こくんと頷くと立ち上がって部屋の外に出ようと歩き始めた。
*** *** *** *** ***
セレスティは服を着替え、隣の部屋に行くためにベッドの端に立て掛けておいたステッキを手に取る。ドアを開けると3分の2のメンバーがそこにいた。
「おはようございます」
セレスティはにっこりと笑って挨拶をする。
「おっはよーございます」
そう言ったのは隠岐明日菜だ。
「これって…もしかして解析とか意味ないんじゃないかしら…」
今日も何とかデータを読めないものかと、USBメモリー片手に四苦八苦している。
彼女がそんな風に機械類を扱っているのは珍しく、どことなく微笑ましいような光景にセレスティは笑った。
「珍しいとか思ってるでしょ?」
肩をすくめて明日菜が言う。
正直にセレスティは頷いた。
「あー、くやしい」
そんな彼女の素直な感想に皆は笑った。
「なんとか良い方法が見つかるわよ。そうそう、セレスティさん。朝ご飯は何が良いかしら? お食事運んでもらいましょうか」
シュラインはそう言いつつ、ティーカップをソーサーに乗せてセレスティに渡す。
「いいえ、朝食は無しで。ランチをゆっくりといただきたい気分です」
爽やかなフルリーフグロウンの香りが鼻腔をくすぐるのを楽しみながら、ほっと溜息をつく。
何か報告が無いかと尋ねようと辺りを見たところで、セレスティはかなりの人数が居ないことに気が付いた。
紅茶とお菓子を目の前にして飛びついくるはずの人間が居ないのだ。
「人数が足りませんねぇ」
セレスティは居ない人間は誰かと数え始める。
その場に居なかったのは残りの4人だった。
「朝になったら居なくって。何処か捜査に行ってると思うんだけど」
シュラインは言う。
「そうですか。……三浦君たちは何処に?」
「菊地君の行方を追って調査を開始したのよ。さて、私たちはどうしましょうか?」
「そうですねぇ。個人情報の確認をしたほうが良いでしょうね。ホテルの電話で屋敷へかければ状況はわかるかもしれませんし」
個人情報をUSBメモリに入れれば、異界そのものが解除出来るのではとセレスティは考えてもいた。しかし、それが証明できる術は少ない。
それでも、何かできることをはじめるしかないだろう。
シュラインは暫し考えて頷いた。
「それはそうね」
「この異界内部では、自身の情報を元にカードが使用出来ると確認出来たのは千里嬢だけですから、その辺を調べた方が良いと思うのです。他の皆さんや自分も含めて、『ここ』でも現実世界同様行動制限が掛からないほうが動きやすいですし」
そう言って、セレスティは部屋の電話を取るとフロントに電話をかけ、外線に繋いでもらった。自宅に電話をかけているだけなのに、わずかに緊張してしまう。
何度目かのコールで、受話器を外すプッと言う音が聞こえる。
電話に出たのは執事だった。
「もしもし、私です。セレスティですが」
『はい、セレスティ様。如何なさいましたか?』
「いえ、大したことは無いのですが、ちょっとした調査をしているところなのです。屋敷の方は何か変わったことは無かったですか?」
『いいえ、いつもと変わらずでございます。今日はパーティーが入ってますから、お早めにご帰宅ください。準備が残っておりますので』
「えぇ、ありがとう。では……」
ゆっくりと電話を切ると、セレスティはわずかに貯めていた息を吐き切る。
「どうだった?」
千里は興味津々な様子で訊ねる。
「今日はパーティーがあるそうです」
「へぇ。それで、屋敷の方は?」
「相変わらずだそうです」
「……って。何が『相変わらずだそうです』なのよ!」
「はい?」
「他に何か無いの? 確認とかしないわけ?」
「執事は私のことは認識していますから、この世界の私は大差が無いみたいですし。それだけわかれば……」
「あたしたちはどうなっちゃうのよ〜!」
千里の叫びを聞いて、宮小路皇騎は「自分もその気持ちはなんとなくわかります」と言った風に頷いた。
あまりにものんびりとした遅い午後のホテルの一室は、自分達の実体の無い脅威に不似合いだった。その最たるものはセレスティであったのだが。
「あぁっ! 絶対にマンションに行かなくっちゃ。何が起こってるかわかんないわよ!」
「まあまあ、千里さん。そう怒らないで。ところで、皆さんの今日の予定は? 私は神聖都学園の方に向かおうかと思っているんです」
皇騎は鞄の中に荷物をしまいながら言う。
準備の方はできているらしい。
「『白い子供』と『黒い子供』の情報がいい加減欲しいところだよな」
不動兄弟の兄、修羅が言った。
わざわざ連れて来てやった人間がいなくなったことが気に入らないのか、少々ムッとしている。
それはそうだろう。一緒に行くと言ってやってきた人間がいなくなったのだ、心配もするし、腹も立つ。
「俺はこの世界と元の世界がネットで繋がってないか調査しようと思ってる」
弟の尊はPDAのチェックを済ませ、鞄にそれをしまった。
兄の方は少々荒っぽい方法を取るつもりなのだが、弟はまったくそんなことは気が付かないでいる。知ったところで、尊はそれを手伝うだけのことだ。
「尊くんたち、学校へは行かないの?」
「俺? 行かないな。そっちの人が行くって言ってるし。繁華街を調査してから行くかもしれないけどな」
尊は皇騎を指差して言う。
「谷戸さん、あなたはどうなさいますか?」
皇騎は紅茶を飲んでいる谷戸和真に声をかけた。
何か無い限りあまり話をしないこの不思議な人は、何かを考えているのか、いないのか、のんびりとティーカップを傾けている。
「この世界の自分に会いに行く」
「えっ!」
いきなり和真が言い出したので、シュラインは思わず飛び上がりそうになる。
「昨日も同じことを俺は言った」
「あ、そうだったわね。そうなると、大騒動になりそう……だけど。大丈夫?」
シュラインの質問に和真は頷いた。
「いきなりこの世界の自分の前に出るつもりは無い」
「そ、そう? じゃぁ、今日もメール等其々情報交換はこまめにしておきましょうね」
「あぁ」
まともな会話が成り立ったので、シュラインはちょっとドキドキしていた。
和真は壁の花状態になったと思いきや、いきなり何かを発言するような掴み所が無い感があるが、話せば至極まっとうな発言をする。
その点は安心していいのかもしれないと、少しシュラインは思った。
皆が今日の予定を話すと、千里はちょっと興奮気味に言う。先ほどの電話の件が気になっているらしい。さすがに自分の事となると心配なのだろう。
「じゃぁ、私は自分のマンションに行くわ!」
「俺もついていく」
「へ?」
後ろから声が聞こえて千里は振り返った。
そこには街から帰ってきた綾が紙袋を持って立っている。
「なぁ〜〜〜〜に言ってんのよっ! 冗談言わないでよ」
「俺は冗談など言っていない」
綾はいつものポーカーフェイスで返した。
千里は眉を顰めた。
何の飾り気もなくクールに言うだけに腹が立つ。
「ふっ……ふざけないでよー! やーよ! プライバシー保護を主張するわ。個人情報流失はんたーい!」
「俺は女の部屋なんか覗かない」
「ぎゃー! それ以上言うなー!」
「本当だ」
「ぎゃー! ぎゃー!!」
「わかったから……静かにしろ」
千里の叫ぶ声に辟易したように肩を落とした。
「千里さんは若いですから、気になるんですね……ん?」
宥めるように言ったセレスティは、自分の携帯電話が着信を知らせる振動を感じて手に取った。ディスプレイを見れば知らない電話番号。セレスティは指を立てて声を小さくするように合図する。
そして電話に出た。
「もしもし」
相手はセレスティの声を聞くや、やや興奮気味の声でしゃべり始めた。
『もしもし、こちらサロン・ド・アクアリウムですが。こちらはセレスティ・カーニンガム様のお電話でございますか?』
「はい、そうです。どちらさまですか?」
聞いた事の無い名前にセレスティは小首をかしげた。
名前からしてクチュール関係だと思うのだが、セレスティにはその名に覚えが無かった。それに、普通店から電話を自分にかけてくるはずはない。
『どちらさまと申されましても……ご注文なされたお洋服の件でお電話させていただいたのですが』
「あぁ、そうですか」
『今日はパーティーだと伺ったものですから、お電話させていただいたのです。私どもの手違いから納期が遅れてしまいまして、申し訳ございません。サイズは合わせてありますが、一度ご試着していただいた方が良いかと思いまして』
「はぁ……で、場所は何処でしょうか?」
『…………』
一瞬、相手は黙ってしまった。
それはそうだろう。常連であるはずの上客が何処に店があるのかといったことを質問してくるのだ。相手はセレスティが寝ぼけているのではないかと思ったようだ。
『ご冗談はおよし下さいませ。青山一丁目の本店でございますよ』
「あぁ、そうでしたね。このところ忙しかったもので、一瞬記憶が飛んだようです」
忘れられて寂しいですか?とか何とか言って、セレスティは相手を手玉に取り、にこやかに電話を切った。
店の名前がわかったら、ネットで検索すればよいだけのことだ。
セレスティはまったくそんなことには気にせず、ゴーストネットへとWGN-U55で繋ぎ、『NCRS事件』と『黒い子供、白い子供の関係』について書き込み記事があるか確認しつつ、ついでに店の住所も検索した。
どことなく楽しそうなセレスティの様子に、一同はなんとも言えない視線を向ける。
「セレスティさん……楽しいですか?」
皇騎はぽつりと言う。
「はい♪」
「…………」
「異界の店で買い物ですからね。知らない店ですから、向こうと違う店なのでしょう。良い買い物ができるといいのですが……楽しみです♪」
ここらへんが常人とは違うものの考え方なのだろうか。
アッパークラス(上流階級)の人間はどうしてこう、これほどにまで好奇心旺盛なのか。皆はその楽しそうな様子を見て溜息を吐く。
そして、皆はそれぞれこの世界を捜査しに出かけて行った。
●向こう側
「あら、あらあら…どうしましょうか」
隠岐智恵美は言った。
手に持った電話はセレスティ・カーニンガム氏の執事からだ。
頬に指を当てて小首を傾げる姿は、傍から見ると昼食のパンは何にしようかといった風にも見えなくもない。もしくは孤児院の子供の悪戯に思案する感じか。いずれにせよ、自分の全然困った風には見えないが、智恵美さんは非常に困っていた。
それはヒルデガルドの実弟にして『ウィルス性貧血および循環器系不全症候群(仮名)』の犯人であるロスキール・ゼメルヴァイスが逃げたためである。
ロスキールは、拘束されていた病院での傷と、『檻』に閉じ込められて大人しくはしていたようだった。
しかし、人が席を外している間に逃げ出し、こともあろうに湾岸都市の一角で少女を一人殺したのだという。
亡くなった少女の首には吸血鬼に噛まれた時にできる独特の傷が残っていた。捜査班はその少女を解剖し、細菌検査したところ、変異した新型ヴァンプウィルスを発見。これにより、犯人をロスキールと断定したのだった。
「困ったわねぇ……」
呟いたものの、相手との話はこれ以上の進展を見せない。
それもそうだろう、執事は一般人なのだ。武器などの用意ができたとしても、自分自身が戦うことはできない。これから先は智恵美の出番だ。
智恵美は丁寧に御礼を言って電話を切った。
「さあさあ、どうしましょう」
智恵美はテーブルに置いたカップにミルクを入れて呟く。
元々、セレスティは中核人物とはいえアドバイサーである彼がロスキールを囲う権限は一切無い。無論、セレスティは誰が許可しようがしまいが手元において居ただろうが。
とは言え、調整すべく立てられた委員会の面々が抗議しないわけではない。それを自分の責任で許可していたのだから、逃亡の責任を取らされるのは目に見えていた。
「覚悟しなくちゃいけないかしら〜。でも、セレスティさんったら何で匿っていたのかしら?」
同情から匿っていたのだろうかと智恵美は思っていたのだが、本当のところは知らない。知ったところで何も変わらないから詰問もしなかった。
誰も居ない智恵美は聞かれることの無い独り言を呟く。
「それにしても……あの吸血鬼さんは専用の麻薬打ってなかったかしら〜? 変異兆候は見られてないみたいだったけど……何にも無いってことは無いわよねぇ〜。困ったわ〜」
ごまきなこクッキーを抓んで口に入れると頬杖をついてポリポリと噛む。
その瞬間、置いてあった電話の子機が鳴った。
「はい、隠岐ですが〜。あらっ、まあまあまあ〜〜河野さんじゃないですか。私に何の御用かしら? あらあら、もうご存知?」
相手は委員会発足時に裏で動いていた人間だ。厚生労働省健康局の感染症課課長である。事件が起きてから昼も夜も寝れないと文句を言っていた男だったが、仕事の方は有能で、あっという間にニ三に分かれる反対派の意見を纏めてしまった。
隠岐智恵美にとってもコワイ人間の一人だ。一人では問題ないが、徒党を組むと力を増す厄介な人間。今回も資格を剥奪するために電話してきたのだろう。
別に遠巻きにしているわけでもないのだが、智恵美はゆっくりと穏やかに話を続けた。
どうも結果的には剥奪は決定らしい。元々、委員会自体各組織間の情報を均等にしていただけの機関ゆえに、委員会が無くなれば情報を独り占め出来ると思っているのだろう。これ幸いと委員会の中核を成していた智恵美を徹底的に槍玉に挙げたはずだ。
――自分達が動かないで、結果だけを奪おうというのですね〜〜
智恵美はそこに居ない相手に向かってニッコリと微笑んでみた。きっと、辛辣な塔乃院なら河野のことを『人間の屑』とでも称した事だろう。しかし、屑にも屑なりの利用価値はあるものだ。その哀れにも醜い人間の姿を見て吸血鬼の長がどう思うかが気になるが、永遠とも思える時を生きている故に何も言わないかもしれないだろうと思って智恵美は苦笑した。
どちらにしても逃げたロスキールだけは探し出す必要がある。
智恵美は意識を集中し、ロスキールの行動現象を垣間見る。見るには時間を要さない。しかし、それは容易にいかなかった。捻じ曲がった時空の縺れと、遠く糸のように細いロスキールの意思がたどたどしくもアカシックレコードのリーディングを邪魔する。
やっと見ることができたのは、異界に行くためのUSBメモリーを手に入れた事と少女を殺したところだった。
「これは連絡する必要がありそうね〜」
智恵美は息子の祐介に電話をかけることにした。
*** *** *** *** ***
突然に電話が掛かってきたことに、田中祐介は心底驚いていた。
ここは異空間にある吸血鬼の館。そこで長のヒルデガルドと午後のティータイム中であったのだが、忽然と現れ、鳴り始めた電話にギョッと目を剥いた。
黒檀のサロンテーブルの上にはアフタヌーンティーセットがあり、細かく装飾されたクロスとが優雅なひと時を演出していた。だが、けたたましいあの音が聞こえたかと思うと、今までずっとそこにあったかのように電話が鎮座していたのである。
それで驚かない人間が何処にいようか。
不可思議な現象には慣れているが、この空間だけはそう言った事象から無縁だと思い込ませるだけのものがあった。それは濃厚な倦怠と言う名の空間とでも言えばよいのであろうかと、祐介は頭の片隅で思う。
例えば、忽然と神がそこに原始の人間を現した時のように。もしくは、分け与えられるだけのパンとニシンとワインを顕したイエス・キリストの御業のように。そうして現れた事象を祐介は受け入れねばならなかった。
ヒルデガルドは薄く笑むと受話器を手に取る。凡そ、これほどに彼女に似合わない道具は世界のどこに行っても無いだろうと思われた。それがただの電話であっても。
しかし、実務的なものが何一つ似合わないであろう、真白き繊手に握られたそれは、飴色の豪華な装飾を施した受話器だった。
「Guten tag. お元気そうだ、智恵美」
そう言ってヒルデガルドは微笑んだ。
義母からの電話と知って、祐介はハッと顔を上げる。そう思うと、少し祐介は頬を染めた。妖艶な美女とのひと時を垣間見られたようで、何とも面映いものがある。
一瞬、子供の表情に戻った祐介を見て、ヒルデガルドは苦笑すした。ゆっくりと流れる時の中で自分と二人だけの空間に慣れきっていた祐介が、身内に見つかってしまったとでも言うような顔をしたのが可笑しかったのだった。
「何かあったのか?」
『えぇ、ちょっと問題が起こってね。ロスキールさんが』
「ロスキールが?」
『セレスティさんのご自宅から逃げてしまったみたいなんですよ〜』
「ほう……逃げたとな」
「えッ?」
祐介はヒルデガルドの言った言葉に目を瞬く。
「あれはセレスティのことを好いていたようだが……それでも逃げたと」
『まぁ、そうだったんですか?』
「でなければ、あの子がそこに長く居つづけることもあるまいよ」
『まあまあ〜。仲の良いお友達だったんですのね』
「智恵美……お前は本気でそれを言っているのか?」
『はい〜?』
「あの子はそう言った意味で好きだというわけでは……そうだな、恋をしていると言っても良いかもしれないな」
そう言ってヒルデガルドは笑った。
恋という言葉意外に一体どの言葉が相応しいというのだろう。大人しい子だと思っていたのだが、いつの間にやら恋なぞして自分に歯向かってくれる。
なかなか真っ直ぐに育ってくれないところが頼もしいとも言えるか。我等、闇の一族には健全という言葉が実に不似合いだ。
少々、悪戯が過ぎるようだが、忠誠を再度誓うなら許してやらないでもない。
そんなことを思い、ヒルデガルドはもう一度笑った。
『あらあらあら〜、セレスティさんは男性ですよ〜?』
「我々にそういったことは関係が無いのだよ、智恵美」
『そうねぇ〜、綺麗ですものね。セレスティさんは』
「それ以上のものを見い出したから、そっちの世界に居たと私は思っているのだがね。『堕天の血』を手に入れて何を造るかと思えば、麻薬なぞ……」
『うーん……何か欲しいものがあったんでしょうね〜。そうそう……不思議に思ってたのですけれど。こんなことを起こそうと思うほど、姉弟の仲は悪かったんですか? そう言う風には見えなかったのよね』
「我々の世界では珍しいほどに、仲は良かったと思っているぞ」
『あらまぁ〜。では、他に理由がおありなのね』
「たぶんな」
『そうそう。うちの息子出していただけません? ちょっと、用事がありますから』
「あぁ、わかった。祐介、智恵美が呼んでいる」
そう言って、ヒルデガルドは祐介に電話を渡した。
恐る恐る祐介は電話を受け取り、電話に出た。義母の声は相変わらず元気で、肝心の吸血鬼が逃げたといえば自分の立場も危ういというのに、そんなことも気にしていないようだった。
『もしもし? 状況が変わったから、調査に協力してちょうだい』
智恵美は言った。
「でも、護衛の方は……」
『うーん、申し訳ないけど、ヒルダさんには調停委員会から別の護衛がつく予定よ。そして、私は委員会から除名ね』
「やっぱり」
『大したこと無いわ。実際、そうなって仕方の無い事態ですもの』
「まあな……」
『じゃぁ、ロスキール氏の捜索と捕縛を依頼するわね』
「えっ! 捕縛? そ、それは無茶な」
『しかたないわねぇ〜、私が行かなくちゃいけないかしら〜』
考え込むような義母に声に、次第に祐介も考え込む。
「あんまり気が乗らないけどな……」
小さく祐介は言った。
「仕方がない。やるか」
依頼を受けると同時に大鎌の使用制限の封印も解かれ、祐介はまったく違う『モノ』へと変化していった。
外見は同じでも、違う何か。異質な存在が祐介の内側で息衝き、全てを飲み込まんと膨れ上がっている。
その様子を『視』ていたヒルデガルドは至極満足そうに笑みを浮かべた。内側で動き始めた黒く奇怪な存在が、祐介を人ではない何かに変えてしまったことを慶ぶかのように目を細める。
「あぁ、祐介……本当にお前は面白い。お前は血塗られた黒なのか? それとも深遠の黒か?」
細巻煙草を燻らせ、ヒルデガルドは言う。
「もう少し見せてもらいたいものだ」
「これから見れる……好きなだけな」
椅子から立ち上がった祐介は電話を切り、鞄の中から魔術法術防御処理された僧衣服を引っ張り出した。それを身に纏い、装備の準備をしながら、ヒルデガルドにこの場で待つか一緒に来るかどうかを聞く。
ヒルデガルドは頷いた。
「そろそろ様子を見に行くのも良いとは思っていた。奇妙な噂がそちらの世界に流れているようだし、私が行っても一族の者は文句は言うまいよ」
「それを願いますね」
ヒルデガルドは僧衣服(カソック)に身を包んだ祐介に近づいた。
「祐介……お前の中で何が『生きて』いる? 僧衣服(そんな)の中で飼い殺しにできる『モノ』ではないだろう。今、見せてはくれないのか?」
「いずれ見れるけど」
「あぁ、そうだ。見れる……それを見た途端に地獄を知るのは誰だろうな。私か、お前か。それとも他の誰かか。いずれにせよ、私は楽しめる」
ヒルデガルドは祐介を引き寄せ、耳元で囁く。
「忍んで行こうか? それとも、来てくれるのか? 覚悟があるのなら……私の元に来い」
それだけ言うと、僧衣服を着た祐介を犯すように噛み付くようなキスをした。
●誘蛾灯
谷戸和真は古書店『誘蛾灯』に向かって歩いていた。
慣れた道筋にはいつも通りの風景が続き、異なる世界に来ているような気がしない。そして角を曲がるとあるはずのものが無かった。
正確にはあるのだが、自分にとっては無いというべき状態だ。自分の店も同居人もいない廃屋は寂しげに佇んでいる。無論、そんなことは錯覚でしかなく、思い過ごしだ。
空き家になっている建物を眺めると、和真は自嘲気味に笑む。
「そういうこともあるとは思っていたけどな……」
和真はこういう事態になったら、適当な廃屋に居を構えてみるかと思っていた。
うっすらと埃の溜まった床と埃汚れにくすんだ店内を遠巻きに見つめる。同居人の笑い声の無い店。行き場を失って店にやってきた古書たちは、自分を待ってはいなかった。
この世界の自分は何処にいるのだろう。
堕ちることなく神々の世界にいるのだろうか。
思い馳せ、和真はニイッと口角を上げる。
そんなことに一瞬でも囚われて一体何になる。たとえ自分が何処に存在しようが、自分は自分。ただ独り。同居人も自分もここに存在せぬなら、それはそれで都合が良い。自分自身に足を引っ張られることも無ければ、同居人が巻き込まれることも無いのだ。
ふと、小さな笑みを浮かべる。
それが楽しいからなのか、そうでないところからの笑みなのかはわからない。だが、和真は笑っていた。胸に起こる感情の名前は知らない。知ろうとも思わない。
人付き合いが喩えようも無く下手であったとしても、まったく感情が自分に無いわけではないのだ。同居人の姿を思い出し、和真は目を瞬かせた。
いつもの場所に座る姿が脳裏に焼き付いて、意外に自分がそう言ったものを覚えているのだと思い知らされる。記憶が造るものなのかそうでないのかはこの際置いておいて、そういうことはあるものだと、和真は認識した。
静寂があっても虚無ではなかった自分の店はここに無い。だとすれば作ればよいだけのこと。
和真は人目を伺い、誰もいないことを確認すると、物陰になって周囲からは見えなくなっている路地へと歩き始める。
そこは裏手に続く道だ。
陰に隠れると和真は人に似せた式神を作り上げ、店の近所に徘徊させる。店番のために自分の同居人を作り、廃屋の掃除を手伝わせようと路地を歩き始めたとき、和真は遠くで声を聞いた。
怒りを含んだ声に和真は眉を顰める。
遠くでは路地に誰かいると言っている声が聞こえていた。疑いと憎しみに満ちた声は誰のものとも知れなかったが、聞こえてきた「見つけた」という単語に悪意を感じる。
おそらく、この近所に泥棒の類がはいったことがあるか、不良などの溜まり場になっていて、近所の人間は懐疑的になっているのであろう。もしかしたら管理人かもしれない。
「だとしたら……丁度良い」
和真はごく微かに唇の端を歪めた。
自分にとってこの世界ではじめての生贄がやって来ている。怒気に顔を染め、傀儡となるためにそれは自らやってくるのだ。
暫くして、それは和真を発見した。
「お前、何をやってる」
中年の男はでっぷりと太った腹をゆすってこちらに歩いてくる。
和真は相手を路地に誘い込むために後ろに下がった。
相手はそうとは知らず路地の方にくる。
「おい! 最近、この辺を荒らしてるのはお前かっ!」
「だと言ったら?」
無論、嘘だ。
嘘にも有用な嘘と、どうしようもない嘘がある。自分としては前者だと思うのだが、彼にとってはどうだろう。腹立たしい現実であろうことは間違いなかった。
「やっぱり、お前だったんだな! 不法進入と器物破損で訴えてやるぞ。うちの管理してる店舗に入り込みやがって。金払え!!」
「俺の家だ。払う必要は無い」
「なにい!」
和真にとっては事実でも、彼にとっては冒涜に過ぎない。
その顔は怒りが噴出しているかのように更に赤く染まり、酒に酔う鬼のようだ。
「出て行け!」
「出て行くのは……お前だ」
和真はそれだけ言った。
何の感情も無いかのような目を向け、目の前の男の精神を圧迫する。
「ん……?」
見た目には自分より細身の青年が立っているばかりだ。しかし、それは人ではない『神』と言う名の異形。異なる存在を男は見た。
「な……」
やっと声を上げるも、それは虚しく発したその場から消える。
怒りの感情をその顔に染め上げた男は、胸の奥でチリチリと燃え始めた『何か』を感じてその場を踏み止まった。激しく打つ鼓動が早鐘のように全身に響いている。
相手は何も変わらぬまま、自分だけが変わってゆく。
徐々に自分が自分ではなくなっていくような感覚に男は慄いた。
――ヤバイ。ヤバイ。ヤバイ。ヤバイ。コレハナニカダ。ヤバイ。ヤバイ。ヤバイ。
壊れたレコードのように言葉だけが回る。
『自分が足りない』と言う決定的に壊れた感覚。
――ヤバイ。スベテヲステテニゲロ。ヤバイ。ヤバイ。ヤバイ。ヤバイ。オカシイゾ。ヤバイ。ヤバイ。ナニヲヤッテル。ヤバイ。ヤバイ。
全身から汗が吹き出て、詰まらせた息を無我夢中で取り戻そうとするかのように、その男は大きく口を開けた。喉からは枯れた音しか出てこない。
――コワイイイイヤアアアバアイ…コワイヤバイ…ヤバイヤバイヤバイ…ヤバイヤバイヤバイ、ヤバァアアアアアアイ……コワイイイイイイイイイイヤアアバアアアアイ…ニゲニゲ…ニゲ…エエ……ニゲロォ……おおお
「うがァ! うげッ、ぐああああがああああ!」
太った男は白目を剥き、沸きあがった感情に耐え切れずその場に倒れこんだ。
和真は何と無しに『それ』を見つめ、やれやれと言った風に溜息を吐く。
「息巻いてやって来た割には呆気ない。取り合えず……使えるものは使うか」
和真は式神を召還すると、その男に憑依させた。正確には操らせてるだけで、酷い悪影響があるわけではない。
適度に手駒に使って周囲の人間にばれそうになったら開放してやれば良いだろう。
この男には、自分がここで黒い子供を匿っているとか出入りしているという噂を流させることにした。他の人間にも頼んでみるべきかもしれない。良くも悪くも誰かが来るはず。来た人物が黒い子供なら保護すれば良いし、白い子供なら拿捕すればいい。まあ、その上で情報を聞き出しても良いだろう。
和真は鴉に似せた式鬼を街中に放ち、街の調査をさせることにする。
『NCRS』絡みの事件がないか監視させ、式鬼と無意識下で繋がって式神が得た情報を得れば時間も短くて済むからだ。
和真は男を立たせると、時間をかけて噂を流すように命じた。
男はゆっくりと頷き、幽鬼のように歩き始る。それを眺め、和真は独りごちた。
「どうせ、俺は人と喋るとぼろが出るからな。この方がいいだろう」
それだけ言うと、『同居人』と共に自分の店に向かった。
●学び舎の黒
皇騎は皆と別れた後、向こう側の世界での調査を引き続き行った。
無論、消えた生徒の行方を追う観点から神聖都学園に向かったのもあるし、現実世界とこの異界の学園に違いがあるかを確かめる事もある。
この世界自体に大きな差異がなければ、現実世界と同様にこの学園にも非常勤講師としての自分の存在があり、その身分を利用できるのではないかと考えていた。
いつも通りを装い、何食わぬ顔で学校内に入っていく。
かち合う事がない様に注意しながら情報収集を始めたが、学校内はいつもと違って静かだった。
「おかしいですね……」
『白い子供』『黒い子供』の話題が、どのように扱われているかを確かめようと学食に向かったのだが、昼近い時間というのにもかかわらず誰一人として居ない。
普段なら授業を抜け出してパンを買いにくる生徒がいる筈だ。
そこは『静』しか存在しない空間のように空虚であった。
カツンっと音が聞こえ、それがこちらに向かっているとわかれば柱に隠れる。そっと覗いて伺えば、そこには自分のクラスの生徒がいた。
逡巡するも、皇騎は一歩踏み出し声をかける。
「君……沖田くんだね」
「はい?」
不意に声を掛けられ、吃驚して振り返った少年は大人しそうな小柄な子だ。
「あぁ、宮小路先生。今日は早いですね」
「早い?」
相手の言葉に皇騎はふと眉を寄せる。
「えぇ、授業はいつでも昼の1時からですし。今は……えっと、午前10時ですから充分早いですよ」
「そ、そうですね。色々と準備がありますからね」
「先生も大変ですね。本当にうんざりだ。『奴等』さえいなかったら、もっと学園ライフを楽しめるのに……」
「『奴等』って?」
彼の言葉に皇騎は反応する。
その様子を見て、沖田と言う少年は怯えたような表情を浮かべた。
「ご、ごめんなさい。僕が言い過ぎました。だから……だから彼等には言わないで」
「大丈夫ですよ、言いはしませんから」
その言葉を聞いて沖田少年の表情はぱっと明るくなった。その途端、彼は饒舌になり一生懸命に話し掛けてくる。
多分、とても怖かったのかもしれない。その恐怖が何処から来るのかは奴等という言葉から想像できたが、皇騎は根気良く彼の言葉を聞いた。
「よかったぁ〜。宮小路先生まで奴等の言いなりだったら、俺はこんな世界をホント悲観しちゃうよ。奴等がいるから、楽しかった学校もつまんないところになったんだ!」
「まあまあ、沖田君」
「だって、先生! 学校が1時から5時までなんて……」
普通なら時間が短ければ短いほど生徒は喜ぶものだが、彼は違うらしい。きっと、本当に学校が好きだったのだろう。
「高井だって、佐藤だって……いつまでも一緒だって言ったのに。いつの間にか奴等の仲間になっちまってさ! 今は夜しか遊ばないし。俺のこと馬鹿にして」
声を詰まらせた少年はグッと拳を握ると顔を上げた。瞳には涙が浮かんでいる。
「あいつら、俺のこと……20階もある非常階段から釣り下げて遊ぶんだ。面白いって……それって何だよ。それって何だよ!!」
「沖田君……」
20階から釣り下げたと言う現実に皇騎は眉を寄せる。
向こうの沖田少年とこちらの沖田少年の立場が同じなら、高井と佐藤は親友同士だ。その恐怖と悲しみは並々ならないものがあるだろう。
言い表せない感情が皇騎の中で渦を巻いた。
「先生怖いよ……たすけてよ。もうやだよォ」
鞄を抱きしめて泣き始める。
「大丈夫、大丈夫ですから」
「先生……」
恐々と辺りを注意しながらしがみついてくる少年に、皇騎は安心させようと笑いかけた。
『NCRS事件』に関して――具体的に言うならば『白い子供』や『黒い子供』の定義や生息地などだが、それを知りたいと思ってここまでやってきた。しかし、今ここで新たなる理由ができたと皇騎は感じる。
何としてもこの状況を打破すべきではないかと考えた。
無論、現時点で下手に目を付けられると今後の調査に支障をきたす。仲間に危険が及ぶ確率が上がると考え、こちらを悟られない様に慎重に動くつもりであったが、この状況を見られてはいないだろうか。
皇騎は辺りを見回した。
昼前の校内は静かなままで、あの独特のざわめきさえもない。
独り耐えながら学校に通っていた少年を助けるため、皇騎は彼から詳しい事情を聞くことにした。
●クチュール
「あれも違いますね。こんな店があったんですか。じゃぁ、向こうの世界ではもうちょっとアレンジした事業を展開しましょう♪」
交差点で車が停まるたびに、セレスティは止まらない好奇心を炸裂させていた。
セレスティは服が出来たと聞いて興味を示し、その店へと向かっている。
「セレスティさん……」
ハイヤーに同乗していたシュラインは焦り、セレスティに言った。ハイヤーの運転手が注目しないようにしたいのだが、セレスティの方は気にしていないようだ。
対して、千里はむっつりとしたまま何も言わない。
綾が一緒に来たことがいたく気に入らないらしかった。
当の綾の方はそのことに全然気が付いておらず、持ち前の正義感で皆に何か起きないよう辺りの様子に気を配っている。
「あぁ、シュラインさん。あの店をどう思います? 店のカラーイメージをもっとシックにしたら良いと思いませんか」
「はあ」
「できれば、鉢植えなんかもいっぱい置いてあるような……そう、もっとナチュラルな感じのカフェが流行ると思うのですが」
国道246号沿いの店にチェックを入れ、向こうのとの差異があれば逐一メモに書いていたが、書いている内容が違う。
今、セレスティの頭の中には次の事業構想が展開していた。
「もう少し綺麗なお店が欲しいところです」
そう言ったところでハイヤーは交差点を左に折れ、少し行ったところで止まった。
車の外を見れば、いくつものブティックが並ぶ通りに来ている。地図を見ればすぐ近く。セレスティたちはここで降りることにした。
店につくまでブティック街を散策する。
セレスティが持っていたキャッシュカードは使用できることがホテルで判明している。別に困ったことは起こらないだろう。もしも、そのカードが使えないのであれば、その場で警察に捕まっているはずだ。
だから、セレスティは気にせずここまでやってきたのだった。
「こっちの自分はどんな服を着るのでしょうか。楽しみですね」
「まぁ、確かに気になるわよね」
この世界の自分はどんは人間なのか。シュラインもそれが気になっているところだ。
少し歩くと品の良い感じのビルが見えてきた。
大きく掲げられた看板には『サロン・ド・アクアリウム』と書かれている。モノトーンを基調とした外観は、アンシメトリーなカッティングを施したタイルで覆われている。
セレスティは臆することなく、馴染みの店にでも入るようにドアを開けた。
「いらっしゃいませ」
セレスティたちの姿を見るや、一斉に声をかけてくる。
そっと視線をやれば、店内は女性的な優しさに満ちた美しいインテリアで整えられていた。クチュールらしく、服の見本は一切無い。この店を知り尽くした顧客が何も言わずに気に入ったものを手に入れられる、そういった店なのだろう。それはこの店の揺るがぬ個性であり、確固とした品質を保持している証拠でもある。
一番背の高い女性が小走りにやってきた。
「カーニンガム様、いらっしゃいませ」
「こんにちは、先ほどはわざわざ電話をありがとう」
「そんなことございませんわ」
その女性はキラキラと目を輝かせて言う。
「今日はいつもの秘書の方はいらっしゃいませんのね」
ちらっと、他の三人を見てその女性は言う。
多分、この店のマネージャーであろう店員の言葉に、セレスティは笑って答えた。
「はい、今日は休みなのです。その代わり、他の者を連れてきました」
「そうだったんですの。今日は男装の麗人(ダンディズム)なイメージですのね」
「はぁ」
男に男装の麗人という言葉はナンセンスだ。相手の言ってることがまったく道理に合わないが、セレスティは曖昧に笑って誤魔化した。相手はそれでもどこか気分良く喋り、ティーセットを持ってきてもてなしてくれる。
彼女は本店担当マネージャー兼広報部室長だ。
セレスティは貰った名刺をポケットにしまう。
同意を求める会話には適当に話を聞き、時折会話のアクセントになるよう、さも感心したように頷いてみせたりした。どうでもいいことにはにこやかに微笑んで世間話をやり過ごす。
婦人の会話に意見などは必要ないのだ。相手の賢明さや美徳の素晴らしさを誉め、「本当に為になりました」と丁重に礼を言って称えるに限る。
そういったことが得意でない綾は、更に一層無口になった。
しかし、果敢にも異界の住人と会話するセレスティを見習って、店員と視線が合えば伏し目がちに微笑んでみせる。本人としてはかなりの苦痛なのだが、自分だけわがままを言えない、いわゆる綾はイイ奴だった。
女性店員たちはその様子をかなり勘違いして、向こう側の部屋でやいのやいのと騒いでいる。
仕立ての良いスプリングコートに身を包み、ソファーで足を組む綾(秘書)が気になって仕方が無いのだろう。そう言った女の噂は妄想に満ちているものだ。知らぬが仏とはこの事だろう。
「さぁ、洋服をお持ちしますわ」
マネージャーが立ち上がろうとしたところをセレスティは手で制した。
「今日は時間がありませんから」
「まぁ、試着なさったほうが良いかと思いますわ」
「そうですねぇ……では、合わせてみます」
「はい♪」
マネージャーは試着室に行って用意すると、セレスティを再び呼びに来た。一緒に入ろうとするマネージャーの申し出をやんわりと断り、セレスティは試着室に入った。
*** *** *** *** ***
「なっ……」
ドアを閉めた途端、セレスティの口から出たのはそれだけだった。
眼前に広がる光景に思わず唸る。
何も言わずくるりと踵を返すと、ドアを開けてシュラインと千里を呼んだ。
「千里さん……シュラインさん……」
「「はい?」」
呼ばれた二人は何事かと思って試着室に入っていった。
男性の試着室に入るのは気が進まないが、呼ばれているのだから仕方が無い。何が起こるか判らないこの街で自分達は運命を共にする共同体なのだ。
「お邪魔します」
「失礼します〜……え! えぇッ!!」
「何これッ!」
「ま、まさか」
シュラインたちの驚く声に、セレスティは僅かな杞憂をその美しい面に乗せて苦笑した。
「まさかのまさか……です」
「「うっそォー!!」」
20畳はあるであろう試着室には、至る所にドレスが掛かっている。スパンコールにラメ、オーガンジーは柔らかく滑らかなラインを見せていた。
眩き女神の世界の如く、その空間だけが美しい。
それだけに、3人は一瞬言葉を失っていた。
どうも店全体が女性的であったはずだ。これなら頷ける。
「パーティー用の服って、ドレスだったんだ」
やっと言葉を思い出した放浪者のように、千里はぽつりと呟く。
「って、言うことは? こっちのセレスティさんは女性なの??」
「かも知れません」
自分のものであろう青いドレスを見つめ、セレスティは言った。
オーガンジーを重ねた裾の長いドレスはかなり細身だ。その反対に胸は豊らしく、腰辺りのラインが非常に悩ましい。
「着ないの?」
「は?」
千里の素朴な質問にセレスティは目を瞬いた。
「やっぱ、着なきゃ。作った人に悪いじゃない♪」
「ち、千里さん。勘弁してください」
それでも千里はマジだった。
綾が居なけりゃいつもどおりの腐女子全開バリバリモードで、千里は水を得た魚のように元気になる。
「着なきゃ! 着るべし!」
「嫌です」
「着てよ。着て、着て、着て〜〜! 女装の男なんてこの世にたくさんいる。着て。着るのよ。着なさいよォ〜」
拳握って力説する。
シュラインは頬を押さえながら呟いた。
「だから、セレスティさんのことを……『今日はダンディー』って言ってたのね。ズボン履いてるものね……そうか、そうよね。納得がいったわ」
困ったような、笑ってしまいそうな、恥ずかしいような感情にシュラインはくるりと背を向けて屈み込んでしまう。
「し、シュラインさん?」
「……ふ、ふふ……ふふっ」
「笑ってるんですか? ひどいですね〜」
「だって……。ご、ごめんなさいね。そういうつもりじゃないの。あぁ、何て言えば良いのかしら。上手く言えないわ」
「でも笑ってますよ?」
「笑ってないわよ〜」
恥ずかしくなってしまったのか、シュラインはドアの前で座り込んでいた。セレスティはしかたなく、千里にはドレスを合わせて見せてあげる事にする。
千里は文句を言ったが、それはあえて無視することにした。
ドレスの持ち主であるこちら側の自分には申し訳ないが、セレスティはそのドレスを記念に貰っていくことにし、これ以上千里が再燃しないよう早々に店を去っていった。
●Gemini Round1
暗がりに浮かぶ光が不動尊を照らす。
僅かこぼれる光を背に受けて、兄の修羅は何事かを考えていた。
廃屋の中で、ひっそりと不動兄弟が行動する。
弟の尊は、この世界の情報をネットで収集し、兄の方はどう行動をしようかと考えをめぐらせているのだ。
尊は元の世界と同じ事件が起きてるのかどうかを調べながら、ただ黙々とキーを打つ。ニュースを調べていたのだが、同じ事件でも日付や細かいところの差はないか、元の世界に無かったようなニュースはないか調べていた。どういう傾向の事件が違うのか調べて打ち出しているのだ。
――黒い子供が何故襲われるのかが分かれば、この世界の謎に一歩近づけるだろうな……
修羅はそう考えた。
黒い子供だと街で名乗り、襲ってくる奴らを叩きのめして白状させてしまえば核心に近い場所に行ける筈。戦闘になったとて、一体恐れる必要が何処にあろうか。弟の尊に頼めば目ぼしい武器データを実体化してもらうことができる。
だが、肝心かなめの『黒い子供』と『白い子供』の情報が無い。尊はさっきからその情報の為にネットにアクセスしているのであった。
そして、切実に感じていた時間の感覚を忘れたころ、黙っていた尊が不意に声をかけてきた。
「兄さん……」
「何だ?」
修羅は振り返って言う。
「菊地を発見した」
「本当か?」
「これだ」
そう言って見せたのは、あるサイトの裏ページに隠された掲示板だった。どうやって見つけたのかはあえて聞かない。それを尊に聞くのは意味が無いからだ。何故、自分に霊が降りて来るのかを聞くのと同じぐらい意味が無い。だから、それについては聞かなかった。
修羅はWGNーU55の画面を見る。
そこにはいくつかの記事が載っていた。白い子供についての噂が書かれている。同時に黒い子供についても書いてあった。
多分、今ごろゴーストネットを調べているであろう仲間は、菊地探しに必死になっていることだろう。そう思うと、少々申し訳ない気がして修羅は苦笑する。
「ここで答えてる奴がいるだろ? よく見ると答えているようでいて、いくつか先のレスで質問してる。こいつは上手く情報を集めてるはずだ」
そう言って、『逢坂』と名前が書いてあるスレッドを指差した。
「他の名前で同じようなことしてる奴がいるぜ? ちょっと文のイメージが違うみたいだけどな」
「兄さん、それはどれだ?」
「あぁ、これだぜ……ここ。巧妙に質問してるな」
「これ……三浦かも知れない。この先はチャットに移動してるし、これだけじゃ詳しくはわからないな」
ログを残してあるならその場でわかるが、情報屋である二人がそんなことをするはずも無い。見つかりずらいこのサイトでも気を抜くとは思えなかった。
二人はその掲示板をつぶさに見ていく。
学校の誰某(だれそれ)が『白い子供』になったとか、クラスの中にいた『黒い子供』が殺されたとか、様々な噂が書いてある。白い子供はあるBARに集まると言うのもあった。
内容を列挙するとこうだ。
白い子供は攻撃性が強く、判断は即決。面白いことにしか興味が無いか、反対に他を歯牙にもかけず、自分の求める答えだけひたすらに追うかの両極端。彼らの存在はそれほど古くないようで、最初に噂を聞き始めたのは2年程前だ。それまではそんな噂の一つも聞いたことが無かったが、不意にそんな噂が流れ、実際に会ったという人間が増えていったらしい。
しかし、その殆どは報復を恐れて口をつぐんでしまい、事実の半分も流れていないのではないかと噂されている。
ある噂では、自分達以外の人間を皮袋と呼んでいたと言う。そうかと思えば、非常に思慮ある行動を心がける者もいると意見が分かれていた。
夜を愛し、月を愛で、大人をからかって遊ぶ。暇に空かして買われてやったり、白い子供になりたい人間を買ったりして遊んでいるとかいないとか。最近は教師や神父を捕まえたらしいというショッキングな噂もあるようだ。
「そんなもん捕まえて、一体何するつもりだ?」
修羅は意味がわからなくて唸った。
「さあ?」
さすがに不可解すぎて、尊の方も生返事を返すばかり。
「「わからんな……」」
それが二人の出した共通の意見だった。
身体をプログラム化させ、尊はネットにダイブした。ゴーストネット経由で元の世界に戻れないか試すためだ。どういう理由なのか、外の世界へは出ることが叶わず、尊は何度かトライしたところで諦める。
白い子供の噂は多いが、黒い子供についての情報はあまりにも少なく、捜査は手詰まりになっていった。仕方なく、修羅は最も単純で効率のよう方法を思いつき、即座に行動に移す。
自分が『黒い子供』だと公言することだ。
まず第一に、修羅と尊はこの掲示板に書き込むことから始めた。
ここに書き込んでいるであろう菊池には申し訳ないが、噂を広めないことには始まらない。修羅はそれだけでは足りないと、ゲームセンターなどの人が集まる場所に行って、黒い子供がいると噂を流すことにする。
二人は廃屋を離れて町に向かって歩いていった。
とりあえず、自分達の泊まっているホテルから遠い方が良いだろうと選び、適当な学生に話し掛け『黒い子供』の噂を流していく。
丁度退屈していたらしい相手は、『白い子供』の噂ではなく『黒い子供』の噂であることがいたく気に入ったらしい。すぐさま自分の友達に電話をかけていた。
修羅はすかさず自分(黒い子供)が行く場所として、あるクラブの名前を出しておいた。
名前は『Simoon』。
情報誌を適当に流し読みして選んだ場所だが、人が集まりやすい場所ゆえに手頃な反応が窺えるだろう。
そして、徐々に広がり始める噂は、どこまでもその裾野を広げていった。
●リスク
隠岐明日菜は解析は諦め、この異界の土地範囲と地名並びに方角の確認をすべく、ホテルの近辺を歩いていた。
セレスティに頼んで借りてもらったレンタカーを取りに行く途中なのだが、この街をじっくりと散策するにはもってこいだ。暖かくなり始めた春の日差しの下で、明日菜はのんびりと背伸びをする。
「あー、平和」
はたして本当に平和かどうかは調べてみないとわからない。人間の世界はどこに行っても平和であったためしは無いので、平和かどうかが全てではないのは知っている。無論、平和かつ幸せであることが一番だ。
レンタカーを借り受け、明日菜は街に出て行く。
少々古ぼけた感じが否めないが、この街は向こう側の東京と何ら変わりが無い。とりあえず明日菜は草間興信所など、普段自分達が出入りしている場所へといってみた。
そのまま調査を続けると、アンティークショップ・レンも見つかった。碧磨蓮は相変わらずだ。ただ、高峰心霊学研究所だけが無く、跡地だけが泉岳寺の坂を上がったところに残っている。
そこには小さな祠があり、中を覗くとUSBのものであろう差込口があった。
「こ、これって……まさか」
明日菜は眉を顰めた。
もしかしたら、各地にこういった差込口が見つかるかもしれないからだ。その予感に明日菜は頭を悩ました。
取り合えずそれを含めて調査する必要があるだろう。東西南北の端までいける所まで移動をすることにし、……まあ、東京都圏をでれるかどうかなのだが。異界の範囲把握をする事にしたものの、この異界はまるごと日本はありそうだということがわかり、それで充分と明日菜はホテルに戻ることにした。
●ライン
千里は異なる世界の中で煩悶していた。
答えは簡単だ。現実世界でいうところの自宅――マンションの自室に単独で向おうと思ったところ、心配だと言って皆が護衛を付けるように薦めたからである。
自分はそんなものは必要ないと言ったのだが、誰も引き下がってくれない。
「女の子が独りはダメよ、ダメダメ!」
「止した方が良いですよ?」
「一人連れて行くぐらいなら問題は無いんじゃないでしょうか?」
「何かあっても困るしな」
口々に皆は一人で行くなと言う。
千里は溜息を吐いた。
「あぁ、もう! わかったわよ。誰か連れて行けばいいんでしょ?」
そう言った千里の声を聞くやいなや、挙手する人間がいる。
「俺が行く……」
そう言ったのは綾だった。
綾が何か言い出だそうとする前に、千里は遮るように叫ぶ。
「いやよ、嫌、嫌ーっ! 絶対、いや!!」
思いっきり叫ばれ、綾は不意に黙った。
実に哀愁に満ちた目で千里を見る。
本人は気が付いていなかったかもしれないが、抽んでた容貌の青年が一人の女の子を物憂げな目で見るというのは、違う心情を想像できてしまう。
それが恋う青年の姿に見えて、皆はどことなく面映い気持ちになった。無論、それがそういうことではないのは重々承知の上だ。
「そんな目で見るんじゃないわよ!」
「そう言われても困る」
「…………」
「心配なだけだ……俺は」
言われてしまうと拒否しにくい。
千里は仕方なくマンションの近くに来ることを許してやることにする。再三、中を覗かないようにと念を押し、千里はマンションに行くことに決めた。
「誰もいないことを願うわね……」
千里は溜息交じりに言う。
時間的には、学校に行っている時間だから問題は起こりにくいはずだ。
千里はそう考えていた。しかし、この世界の授業時間が大幅にずれていることは皇騎しか知らず、現時点で皇騎からの連絡は無い。
そこに何があるか知らないままに、千里と綾はマンションに向かっていたのである。
マンションのエントランスを抜け、エレベーターフロアに向かう。ボタンを押して暫く待っていると、ゆっくりとエレベーターが降りてきた。
ドアが開き、二人は中に乗り込むとドアが閉まって世界と二人とが切り離される。短く長い沈黙と切り取られた空間が苦しい。
千里は呟くように言った。
「……何なのよ」
「どうした?」
「わぁっ!」
まさか相手が独り言を聞いていたとは思わず、綾の声を聞いて千里は飛び上がった。
「どうした?」
千里の様子に目を瞬かせる。
その表情が自然すぎて癪に障った。
怒ることにまったく意味は無い。無いが、それを止めることが出来ない。どうしても気になってしかたがなかった。チクチクと何かが心の琴線に触れて、不協和音が『いつもの千里』をまったくの偽者にしてしまう気がするのだ。
気が付いてしまえばそこから視線は逸らせない。逃げることも叶わない。心も体も。
密着した空間と空気が千里を締めつけた。
忘れたい狂おしい感覚が、忘れさせないとでも言うかのように湧き上がっていた。ちょっと突付けば溢れてしまう。
思い出したくない『何か』。
胸の奥が熱くなる感覚が、すうっと下腹部にまで急降下した。
――嫌だ。何だろう……
反応している自分がいる。
――あんた……誰なのよ。
自分にか、綾にか、どちらでもない何かに向かって千里は心の中で繰り返す。
千里は触れていないはずの心の奥に、綾が触れたことがあるのではないかというデジャ・ヴュに囚われていた。
届かないはずのブラックボックスにたやすく入り込み、優しく『あたし』に触った記憶。
嘘もなんにもない、柔らかい自分。
ちょっと傷付けたら瑞々しく赤い血を流す心。
時の隙間に隠れた砂粒ほどの真実に、千里は眉を顰めた。
否定しよう。忘れよう。確証もないんだし。そんな言葉で鎧を着けて、千里は『いつもの自分』に戻る。たとえ、それが脆い鋳型であっても関係無い。黙っていればわからない。言わなければ伝わらない。呪文のように繰り返し、千里は強い女の子になる。
千里は息を吸い込んだ。
瞬きを幾度か千里が繰り返す間に、エレベーターは目的地に着く。そして、エレベーターは大きく口を開け、二人を外に吐き出すと扉を閉めて階下に降りていった。
取り残された千里はゆっくりと歩き始めた。
自分の部屋にたどり着くと、千里は鍵をポケットから出す。鍵穴に差し込んで回せば、簡単にドアは開いた。
音をさせないようにゆっくりと開け、千里は中を覗いた。
綾は最初の約束の通りに少し離れたところに立つ。それは、千里が良いと言うまで動かないつもりでいるようにも見えた。
千里は黙って玄関の中を確認する。そこには男物の靴がいくつもあった。
「な、何これ?」
千里は靴を見て呟く。
それはそれぞれに趣味の違う靴で、サイズまで違った。明らかに違う人間の靴が所狭しと並んでいるのだ。千里は部屋を間違えたかと思って、一旦外に顔を出し、そしてもう一度中を見た。
「あたしんちだわ……」
「誰だよ!」
「えっ!?」
ふいに聞こえた声に千里は顔を上げる。
そこには一人の少年が立っていた。
多分、玄関近くの部屋にいたのだろう。千里の出した物音に気がついて顔を出したらしい。
短く刈った茶色の髪に大きな黒い瞳の少年は、キリッと鋭い眼差しを向けていた。
「あ、あたし……千里だけど?」
誰と言われて素直に答えれば、相手は更に一層キツイ眼差しを向けてきた。眦が釣り上がり、険悪な雰囲気を漂わせている。
そして、その少年はぶっきらぼうに言った。
「ばかにすんなよ」
「え?」
「名前! 俺の名前だよ」
「は?」
千里は言われていることの意味がわからなくて、相手をまじまじと見てしまった。それが更に相手の怒りに油を注ぐ。
「ち・さ・と……だよ! 女みたいな名前で悪かったな! お前、馬鹿兄貴の女友達だろ。わざわざからかいに来るなんていい根性だな」
「え? え?」
「とぼけんなよ! 兄貴が中にいるから、今日こそはとっちめてやるっ!! アンタも覚悟しな」
「ち、違っ……」
慌てふためいた千里は一歩下がった。逃げようとしたところで背中に何かを感じた。退路を断たれ一瞬パニックに陥ったが、ふいに暖かさを感じて目を瞬かせる。
「あれ?」
後頭部に何かを感じて顔を上げれば、そこには綾が立っていて、千里の頭を撫でていた。そして、こともあろうに千里少年の頭も同時に撫でていたのだった。
「な、なにしやがるーーーーっ!」
瞬間湯沸かし器よろしく、千里少年が顔を真っ赤にして怒り始める。
「悪かったな……坊主」
「な、何ィ! 坊主だって!」
またしても爆弾を踏みまくりつつ、綾は淡々と言う。感情に乏しいわけでも無神経なわけでもないのだが、意外にマイペースな一面がそう見せているのであった。
「あぁ……すまん、悪かった。家を間違えたらしい……ちなみに、彼女も『千里』だ」
綾にしては珍しく柔らかに笑って言う。
「は? えー……っとお」
ぽかーんとした表情で千里少年が言った。まだ自分の頭を撫でている青年を見上げる。
「本当か?」
「あぁ、間違いない。うちはこの上の階だ……驚かせて済まなかった」
綾は二人の頭から手を退ける。
「ちぃ、帰るぞ」
「へっ?」
不意に『ちぃ』と呼ばれて千里は我に返る。
それを見て、千里少年が笑った。
「あだ名も俺と同じだな。名前が同じじゃ、しょうがないか」
「まあ、そうだな」
「……怒って悪かったよ」
千里少年は言うと、ちょっと俯いて恥ずかしそうにしていた。根は善い少年なのだろう。
綾は相好を崩した。
「気にしなくていい……じゃあな」
綾は千里の肩を抱いて引き寄せ、守るように歩き始めた。突発的な事件に毒気を抜かれた千里は文句を言うまもなく、あれよあれよと言う間に連れて行かれてしまった。
●情報交換 〜4月15日午後8時
「くっそお……きりが無い」
修羅は呟いた。
見下ろす先には喧嘩を売ってきたチンピラ。修羅が溜息をついて顔を上げれば、舎弟たちは路地を走って逃げていく姿が見えた。
「何で、『白い子供』じゃなくて大人が来るんだよ」
呆れたように修羅は肩をすくめる。
「兄さん、疲れたか?」
路地の奥から顔を出した尊は、自分のPDAに視線を走らせつつ、ゆっくりと歩いてきた。
敵をことごとく叩きのめしてから情報を聞き出す。そういった方法に切り替えてから、やってきたのは普通の学生とチンピラばかりだ。
さすがに辟易する。
「おい、お前! 何故襲ってくるんだ? 黒の子供は一体何なんだ?」
ぶっ倒れた男に怒鳴ってみるが、男は昏倒したまま唸っている。
「くそおっ!」
「まあまあ、兄さん。怒っても仕方が無いぜ。それより新聞でも読んで、最近死んだ人間の情報を調べて、その人間を降霊したほうが早くないか?」
「あぁ……それもいいな。って言うか、こいつじゃダメか?」
修羅は目の前に倒れている男を指差した。
「まぁ、それでも良いとは思う……こいつが持っている世界の知識は低そうだな」
「贅沢言ってらんないぜ?」
「それはそうだ」
仕方なく修羅は昏倒している人間の霊を降臨させてみることにした。
*** *** *** *** ***
「おっそーい!」
千里は叫んだ。
やっと皆が集まって夕飯を食べられると思ったのに、修羅と尊の二人が遅くなってこんな時間になってしまった。
ただ今、10時半。
充分に遅い夕食だ。
一同はまた『La Cantinetta DELL'ENOTECA PINCHIORRI』に来ていた。ホテルからは距離があるが、昼間にこの近くで殺人事件があり、何か情報が掴めるのではないかと思ってやってきたのだ。
「文句言うな。情報は集めてきてやったぞ」
「それ、ホント?」
修羅の言葉に千里は目を瞬かせた。修羅は空いた場所を自分の席として座る。尊は隣に座った。
「まあな。菊地を発見した」
「うそっ……で、どこに?」
「「掲示板」」
修羅と三浦が同時に言う。
二人は顔を見合わせてにやりと笑った。
「よく見つけたな」
「俺達を舐めるなよ」
三浦の言葉に修羅が言った。
「やれやれ、秘密のアジトなのになぁ〜」
「合流しないのか?」
「するさ。もうちょっと情報集めてからだとサ」
「熱心だな」
「情報屋だからな」
「ところで、修羅さん。集めた情報とは?」
セレスティはワイン片手に微笑んで言う。
「あぁ。情報って言うか、噂だ」
「噂?」
「『黒い子供』がsimoonっていうクラブに出入りしてると噂を流してやったんだがな。やってきたのは普通の学生と……」
「学生と?」
「チンピラ」
「は?」
「それって……ヤクザ絡みの組織なのでしょうかね」
皇騎が首を傾げて言う。
「チンピラ一人捕まえて情報を集めてみたけどな。ここらへんの大まかな地形は変わらない。レンとかがあるかどうかはわからないな。そいつの日常に高峰なんぞは関係ないし。知らないのは普通だと思うが」
「まぁ、普通の人間がレンや高峰研究所に用があるとは思えませんし。知らなくて普通かもしれませんね」
「レンならあったわよ。高峰は無かったわね。祠があったけど」
明日菜が言った。
「祠?」
「そうよ、祠。そこにUSBの差込口があって」
「え? そんなところにか?」
「本当に奇妙な世界よね……ここ。白い子供とか、そう言う情報もなかなか見つからないし」
「そうだな。『白い子供』が自分達以外の人間を『皮袋』って呼んでいたと噂されてるからな。穏やかなモンじゃないよな」
明日菜の言葉を聞いて、修羅は言った。
「酷いですね……それ」
「まったくだ」
「……で、何で『皮袋』なのよ」
「さぁ?」
「どっちにしても気味が悪いですね」
「そっちは何か情報があったか?」
修羅は皇騎に言った。
「えぇ、こちら側の私も同じように講師をしていたようで。その学校の生徒が白い子供達と関わりがあったようです」
「本当か?」
「はい。ですが、肝心のところは今のところ怖がって話してくれないんです。ただ、執拗に酷い虐めを受けたようです」
その話を聞いて皆は重苦しい溜息をついた。
「『白い子供』って……子供と言うだけあって、子供だな」
修羅は吐き捨てるように言った。
「酷いものですね」
セレスティは溜息を吐いて呟く。
「誰か、ほかに情報は?」
皇騎がそう言うと、スッと手を上げる者が居る。和真だ。
「こちらも『黒い子供』が集まる場所として、自分の家のある場所に店を出した」
「店……ですか?」
「そうだ。何かあれば奴等はやってくる」
「確かに……」
「魅月姫さんは?」
「散策……ですかねぇ。時々、メールが送信されてきますけど」
皇騎が言った。
実に複雑そうな顔をしている。何かあったのだろうかとシュラインは小首をかしげた。
一同は情報交換が終わると、それぞれに自分の好きなものを注文し、一日の疲れを癒すようにゆっくりと食事をはじめた。
●笑顔 〜4月16日朝〜
朝方登校時間頃、シュラインは駅改札口にいた。
出入口辺りをうろつき、時間表見てみたりして様子を窺う。目立たないようにスプリングコートを着て登校してくる子供達を監視するつもりでいた。
ちょっと時間が早いかもしれないと、駅ビルにあるマックで朝食を食べる。
「はぁ〜〜、ホテルのご飯の方が良いなぁ」
それはとても贅沢な話だから、シュラインは我慢することにした。とりあえず、魚と漬物があるぐらいの食事をしたいのだが、そうもいっていられない。
シュラインは前日時間帯的に調べられなかった登校生徒達を調べ、態度や会話等から上下位の判断基準、独自のルール等や、彼らへの大人たちの対応等の状況把握をしようとしていた。
「ダメだわ。この時間は何処の学校の子も登校しないのね」
仕方なく、この世界での草間興信所へ一度足を運んでみることにした。
白黒それそれの子供達について何らかの資料があるかはわからないが、現実世界同様の役割をしてるなら各組織だったものの情報や、戻りたいと思ってる人間が駆け込んだ痕跡があるかもしれない。
シュラインは駅から草間興信所へと向かって歩いていった。
「あった……ここだわ」
草間興信所は相変わらず古ぼけたビルの中にあったが、微妙に違う場所にあった。向こう側では牛丼美吉野家であった場所に、草間興信所の入っていたビルが建っている。大きさも違うはずのビルが、すっぽりと納まっているというところが不思議だ。
シュラインはビルの中に入っていくと、草間興信所のある階へと階段を上がっていった。足を踏み入れて全く他人の生活感を感じた場合は、あまり弄らずに出れば良いと思っていた。
「おじゃましま〜す……」
シュラインはちょっと逡巡したものの、そっとドアを開けた。
自分の知らない草間というだけの人間が居たのなら、部屋を間違えたと言って出て行けば良いだけのこと。恐るるに足らず。
しかし、そこに居たのは草間零だった。
「あらっ……零ちゃん」
「こんにちは、シュラインさん」
今朝見た零の服とは違う服を着ている。こちら側の零だった。
にっこりと笑った零の表情は、どこか少し物憂げだ。
無論、霊鬼兵の零が笑うというのも、草間武彦がそう願うからであって、本当に笑っているわけではない。
「あー、よかった」
ほっと胸を撫で下ろしてシュラインが言う。
零は不思議そうに見返していた。
「あー、こっちのコト。気にしないで……それより、武彦さんは?」
「居ませんよ」
「あ、煙草でも買いに行ってるのかしら〜」
「いいえ。本当にそうだったら良いなと思いますけど……もう、居ませんから」
「え?」
零の口振りでシュラインはこっちの武彦は死んだのかと思ってしまった。胸の奥が痛い。
「死んじゃった……とか?」
自分にとって最も恐ろしい現実を確かめるために聞いた。こちら側の世界に草間武彦と来ているが、やはりそう言う現実は好きではない。
「それも違いますよ〜。知ってるでしょう? いきなり居なくなってしまって、もう三年になるって」
「あっ。そ、そっか……ごめん」
申し訳無さそうな表情でシュラインは言うと、零に向かって苦笑した。
――死んでないのね……よかった。
シュラインは喜ぶべきなのか、そうでないのかわからなかったが、それより生きているだけ良いと思う。
――えッ! さ、三年??
あまりの現実にシュラインは凍った。
新聞は一ヶ月先の日付だったのだが、自分は年号だけを見ていなかったらしい。時間の流れの速さを感じて、シュラインはどっと疲れを感じる。
「は、早く見つかると……良いわね。……零ちゃん」
「えぇ、一人で切り盛りするのも大変ですし。皆さんに心配されてますから」
零は笑った。
本物ではない、それでも自分にとってはいつもの零の笑顔が悲しいほどに眩しかった。
「兄さんが居なくなってから、シュラインさんも居なくなっちゃって……どうしようかと」
「あっ、ごめんなさいね。その……さ、探さなくっちゃって……慌ててたからっ。今日はちょっと書類の整理に来たのよ〜」
シュラインは空笑いしながら言った。
自分にとっての現実世界――その世界の鍵をシュラインは取り出して重要書類の棚を開ける。鍵は鍵穴に合い、シュラインはホッと胸を撫で下ろす。
どうやら、こっちの自分はあまり変わらない自分らしい。
「兄さん……見つかりました?」
「そ、それがね……見つからないの」
そう言いながら、シュラインは少しの罪悪感を感じていた。
自分はこっちのシュラインではない。ほんの少しズレた世界に住む幸せな自分。こんな世界があるなんて、シュラインは思ってもみなかった。目頭が熱い。
資料や各連絡先の確認をしつつ、必要なデータをコピーしていく。
「見つけたら……すぐに教えるから」
シュラインは背中を向けたまま言った。書類を調えると鞄にしまう。
もう一度、零の顔を見たら泣いてしまいそうで、シュラインは振り返らないまま、書類を抱えてその場を早々に立ち去った。
●ガラスの器の如き世界 〜4月16日朝〜
黒榊魅月姫は探索を続けていた。
そろそろ『白い子供』の情報が欲しいと考え、街を彷徨っているのだった。定期的に仲間との情報交換をした後、先に知り合った『白い子供』と誤解している少女に再度会いに行こうと新宿へ向かう。
彼女の誤解は当分そのままにして、彼女にはこちら側の世界の情報源になって貰うのが良いだろうと思っていた。そして、彼女はあの喫茶店で今日も働いている。
魅月姫は紅茶を注文して席で待つ。
注文の品を運んでくる彼女は面白いように緊張していた。魅月姫に嫌われたりするのが彼女にとっては最も怖いことなのだ。
憧れであり、最も恐ろしい存在である自分。
それを振りかざす気は全く無いが、彼女の怯える姿がいじましいとさえ思う。
彼女を通して日常や噂などを知ったが、向こう側と違うのは登校時間が違うということだった。元々、彼女は勉強が好きではないらしい。それゆえに、短い授業は嬉しいと言っていた。
「あたし、中条祥子って言うの」
「私は魅月姫ですわ。……そう言えば、貴女は19歳って言っていましたわね?」
「そうよ。高校留年したし。昔は早く大人になりたいって思ってたけど。何にも変わらないみたい……今は『白い子』になりたいわ」
「まぁ……『白い子供』について、どういう存在と聞いているのかしら?」
「え?」
「自分達がどう思われてるか、知りたいとは思いますのよ?」
魅月姫はゆっくりと優雅に言った。
吸血鬼のもたらす魔力に祥子は釘付けになる。
「えっと……永遠の命を持ってるって……聞いたわ。それに、美しくなるって。あたし、歌手にになりたいの」
「まあ、良いじゃありませんか」
「でもね、美人じゃないから無理」
祥子は溜息を吐いた。
魅月姫は「歌の練習はしないのね」と思ったが、何も言わずに微笑んだ。美人であることと、歌手になることは必ずしも一致しない。
「ファンの歓声をバックに歌うのよ。毎日、カメラマンに追っかけられたりして……ドキドキするわ」
限られた狭い世界を心の中に展開している少女は夢見がちに言う。具体的ではない夢を具体的にしないで思うから、叶わないのだとは気がつかないまま。
「他に『白い子供』と出会ったことはありますの? 見かけた場所とか」
「なぜ?」
「どの様に伝わっているのか興味があるからですわ」
魅月姫は答えた。
「最近はSimoonって言う店に『白い子』が襲撃に行くらしいって噂を聞いたけど。『黒い子供』が居るからだって……それって本当?」
恐れながら祥子は言う。
どっちに転んでも、一般の学生には怖い事件らしい。
魅月姫は修羅からのメールでSimoonを調査の本拠地にすると聞いていたので、そのことを肯定するように頷いて見せた。
「やっぱり……怖いから近づくのよそう」
「まぁ、怖がりですのね。可愛い人……」
「え?」
それを聞いて祥子は目を瞬いた。
おおよそ可愛いとは言い難い容姿だと、自分のことを自覚していたから驚いたのだった。
魅月姫は『NIGHT CHILDREN RENTAL SHOP』についても、それとなく聞いてみようと話し掛けた。
「『NIGHT CHILDREN RENTAL SHOP』ってご存知?」
「もちろんよ! だって、白い子の居るところだって聞いたわ」
「まぁ……秘密ですのに」
魅月姫はもっともらしく眉を寄せる。
「あたしが聞いたわけじゃないわ。他の子から聞いたの。その子はマリーから……死神マリーから聞いたって」
「死神?」
「ロックバンドの死神マリー。結構、有名よね〜。前にライブに行ったけど、吃驚しちゃったわ。シャウトが凄いんだもん」
「そうですの?」
「芸能界から声が掛かってるって聞いたけどね。本当じゃないのかなぁ。真紀子から聞いた情報だけどね」
「真紀子さんって……どなた?」
「あぁ、あたしの親友。って言うか、腐れ縁かなぁ。真紀子も歌手になりたくってね。ライバルよ、ライバル」
祥子にとっては一番自慢したい相手でもあるし、差をつけたい相手でもある。一番近いだけに、凄いと言われたい相手だった。
「そうだったんですのね。じゃぁ、これを差し上げますわ」
魅月姫は祥子にピアスを渡した。
祥子は目を瞬き、そして思い出したようにそれを見つめる。
それは魔力を結晶化した真紅のピアス。しかし、それがそんなものだとは祥子は知らない。
「何処の居ようと、何があろうと護ってあげますわ」
「ま、まさか……これで居場所とか……わかっちゃう?」
「えぇ」
「すっごォーーーーい! 最高!」
両手で包むように受け取ると、祥子はお気に入りのティファニーのピアスを外した。
ブランド物などいくらだって買える。白い子から貰ったものは、どこの世界を探したって見つかりっこない。
――あーはははっ! 一歩、リードッ♪
ピアスを貰えなかった真紀子を思い出し、祥子は心の中で快哉を上げた。
●4月16日 〜夜、未明〜
夜になり、明日菜は一人ホテルへと一旦戻り、USBメモリーの解析をはじめた。
『スペルブレイカー』を走らせずにUSBの中身の確認する。アンチ対魔術プログラムなどあるならこれで動くはずだが、同時にトラップなどあるなら死ぬ覚悟でやらなければならない。
一番妖しいと思っているのは、メモリーは異界侵入のキーにしかならいかもとの事である。それならばプログラムで解析しても意味がない。プログラムでキーと認識させたら、プログラム以外の何かが動くかもしれなかった。
USBメモリー解析時には母親に連絡を入れてからにし、自分が死んだのなら解析は絶対にするなと言って、止める母親の声のする携帯の電源を切ったのだ。
そこまでの覚悟を持って望んだが、どうやらキーが足りないらしい。
何かありそうなのはわかったのだが、それ以上は無理だ。
「あーもー……何が足りないのよぅ!」
明日菜はUSBメモリーを振り回して叫んだ。
*** *** *** *** ***
千里は独り、自分の学校へ来ていた。
無論、綾には気づかれないように抜けだしてきたのだ。
ここで、谷村夏樹と相原理香子のどちらかに会えるのであれば、無理に帰るようには敢えて勧めず、白い子をよく見かける場所を聞き出そうか思っていたのである。
待ち始めて1時間。それも無駄であったかと思ったとき、校舎の中に小さな明かりを見つけた。ゆらゆらと揺れる明かりは鬼火ではない。ローソクの光だ。
「夏樹! 理香子ーっ!」
叫びながら千里は校舎の中に入った。
暗い玄関前の下駄箱を抜け、先にある階段を上がる。さっき見えた光は、確か美術室だったと思う。
走れば間に合うはず。
千里は走った。
「夏樹! 理香子ーっ! あたし、追いかけてきたんだよ! どこー!?」
ガラッっと扉を開け、埃臭い匂いが鼻先を擽る。
そっと体を滑り込ませ、千里は夏樹たちが屯していた準備室の扉に手を掛ける。軋んだ音をさせてそれは大きな口を開いた。
闇に空いた大きな穴だ。
千里はぼんやりと思った。
穴蔵みたいな準備室に白いものが蠢いている。
前進しようと足を上げた時、ピチャ……と水音がした。下を見ると黒々とした水が足を濡らしている。
「ひッ! ……血だ」
足元にはいくつもの死体とそれを取り巻くように血がこぼれていた。
「千里ォ〜、ノックしないなんてぇ……イケナイ子♪」
「きゃぁっ!」
耳元でした声に驚き、千里は顔を上げる。
眼前には夏樹の顔があった。
真っ白く透き通った顔に笑みを浮かべ、言った彼女は裸体だった。
幾ばくかの衣類は着けているが、それは派手に裂けていて殆ど着ていないに近い。
「な、夏樹」
「わ〜ォ、千里だぁ♪」
もう一つ声が聞こえた。
理香子だった。
元々美人だった理香子の血の気の無い白い顔は妖しい美しさに満ちている。慎ましげに膨らんだ乳房も何処か艶かしく揺れて誘っているようだ。
「は、裸っ!」
「だってぇ〜、暑いモン」
「千里も脱ごうよォ。お礼は血でいいからっ♪」
「は?」
「千里ってば、健康的で美味しそう」
「や、ヤダっ! そんな趣味無いっ!」
「趣味じゃないよお」
「趣味じゃないよお」
「実用的」
「ジツヨウテキ」
「あんたたち……どうしちゃったの? 血の気なんか無くって……顔色、青通り越して白よ」
「うん♪ だって、あたしたち白い子だもん」
「うん♪ だって、あたしたち白い子だもん」
狂ったように二人は笑った。
「千里も白い子になりに来たんでしょ?」
「千里も白い子になりに来たんでしょ? 千里は仲良かったから、オトモダチ♪」
二人は笑った。
長く伸びた乱杭歯が見える。
千里は後ずさった。
――白い子って……吸血鬼だ。
「あの神父さん美味しかったし」
「あの神父さん美味しかったし。今日も大漁〜♪」
逃げようと振り返ったが、何かに阻まれて叶わない。千里が絶望感に満たされながら顔を上げれば、そこに一人の青年が立っていた。
「あぁ……遊びに来たらこれか。なりぞこないのお子様が、ルールも知らないで悪戯かい?」
高く澄んだ声は理香子たちを優雅な口調で嘲笑する。
「だ、誰?」
「そう言うときは自分から名乗るものだよ、お嬢さん」
彼は喉奥で笑った。
ただ血の気の無いだけの夏樹たちとは違って、彼だけには本当の美しさがあった。
淡雪色の髪と白磁の肌。180センチはあろう長身はバランスよく筋肉が付き、細いのになよめいた印象は無い。
彫りの深い顔立ちは彫刻よりも精密で正確だ。燃えるような紅の宝玉が妖しく細められ、千里を見つめる。
彼が嫣然と微笑むと、うっすらと赤みを帯びた唇からは乱杭歯が覗く。
「王の血筋が来た」
夏樹は言った。
「王の血筋が来た」
理香子も言った。
さんざめく波の精霊のように二人は何か呟くと、後ろに下がる。跪くように身を屈めた。お辞儀をしたのかもしれなかい。
そして、夏樹と理香子は闇に消えた。
やってくる静寂。
穏やかな春の風が時を思い出したように再び吹き始め、千里もホッと息を吐く。
「助けてくれてありがと」
「礼には及ばないよ、お嬢さん」
「でも……」
「僕の今晩のご馳走になってくれたらね?」
「えっ?」
美貌の青年は千里を抱きこむと壁に押し付ける。
「やっ! 離し……て……」
「うん。良い声だね……きゅっと捻ったらもっと鳴くかな? 大丈夫、眷属にはしないぐらいで我慢してあげるから。殺したりしないよ。ちょっと、空腹なだけなんだ」
「嫌っ!」
「つれないね……でも、ダメだよ」
ロスキールは笑った。
無論、千里は彼のことを知らない。
ただ、見えた乱杭歯だけが、この世の終わりのように最も残酷で印象的だった。
■END■
□■■■■■■□■■■■■■■■■■■■■■■■■■□
■ 登場人物(この物語に登場した人物の一覧) ■
□■■■■■■□■■■■■■■■■■■■■■■■■■□
【整理番号/ PC名 / 性別 / 年齢 / 職業】
0086/シュライン・エマ / 26 / 女 / 翻訳家&幽霊作家+時々草間興信所でバイト
0165/月見里・千里/女/16歳/女子高校生
0461/宮小路・皇騎 / 男 / 20 / 大学生(財閥御曹司・陰陽師
1098/田中・裕介/ 男 /18歳 /高校生兼何でも屋
1883/セレスティ・カーニンガム/男/725歳/ 財閥総帥・占い師・水霊使い
2390/隠岐・智恵美/女/46歳 /教会のシスター
2445/不動・尊/男/17歳/高校生
2592/不動・修羅/男/17歳/神聖都学園高等部2年生 降霊師
2922/隠岐・明日菜/女/26歳/何でも屋
4682/黒榊・魅月姫/女/999歳/吸血鬼(真祖)深淵の魔女
4757/谷戸・和真/男/19歳/古書店・誘蛾灯店主兼祓い屋
(PC整理番号順 11名)
*登場NPC*
草間零、三浦鷹彬、獅子堂綾、菊地澄臣、
ロスキール・ゼメルヴァイス、ヒルデガルド・ゼメルヴァイス
中条祥子、真紀子
□■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■□
■ ライター通信 ■
□■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■□
こんばんは、朧月幻尉です。
今回も難解な事件でございました。
申し訳ないことに今回も文章量が多いです。
個別対応にするべきかと考えましたが、かえって皆様が情報を拾いにくくなると考え、基本的にすべて共通文章になるようにしています。
読むのが大変だとのご意見も頂いております。
…が、スタンスは変えず、以降も同じように展開されていきます。
よろしければ引き続きご参加ください。
なお、今回参加されなかった方は"行方不明"とさせていただきました。
事件に巻き込まれたとするのもよし。
次回参加されるときは、その辺を『有効活用(笑)』してください。
かえって美味しいことになりそうですね。
行方不明の方は生きてますからね(笑)
いつになくと言いますか、いつも通りと言いますか――突っ走ってます。
何か違うと思われないように頑張っていますが、差異がありましたらお許しください。
尚、登場されなかったPC様4名は生きてらっしゃってるのでご安心下さい。
次のお話にはちゃんと登場できますよv
それでは今回のアナウンスを始めます…
>シュライン・エマ様
色々と動いておりますが、こちら側の草間さんは見つかるのでしょうか?
向こうの草間さんはホテルにいらっしゃいますよ(笑)
>月見里千里様
爆弾大爆発〜♪(おい;)
今回大活躍でしたね。
次回も危ういことになりそうです(なんですか;)
>宮小路皇騎様
生徒さんが見つかりましたが、彼は今後大丈夫でしょうか?
その辺りを次の繋がりになりそうです。
>田中裕介様
格好良く可愛らしい祐介さんを書いてみました。
し、し、し……神父服〜♪
ご希望どおり、ラヴラヴちっくしてみました。
これでラヴュ〜んな感じなのかというのは、言っちゃイヤ♪ です。
>セレスティ・カーニンガム様
おっめでとうございまぁ〜〜す♪
盛大に爆弾を踏んでくださったセレ様には、もれなく騒動がおまけで付いてきます(嘘)
いや、充分に騒動だったような。
それはともかく、大活躍です(え;)
>隠岐智恵美様
困ったお母さんが可愛かったです。
>不動尊様
お兄ちゃんに負けないように頑張っていましたね。
廃屋のシーンが気に入っております。
>不動修羅様
戦いネタは大々的な戦闘が無かったので使えませんでした。
次回は何かありそうなので、戦闘になったら使わせていただきます。
>隠岐明日菜様
とほほな感じが可愛いお姉さんですね。
メモリーの謎は解けるのでしょうか?
>黒榊魅月姫様
魅月姫さんの周辺で、きな臭い事件が起こりそうな気配。
引き続き、しもべ未満なお嬢さんをよろしくお願いいたします(^^)
>谷戸和真様
今まで書き表せなかった分、がっちりと書かせていただきました。
同居人様の表現は抑え目にしておきました。
|
|
|