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<東京怪談ウェブゲーム アンティークショップ・レン>


FAIRY SEED

「『FAIRY SEED』。妖精の種…か。随分と珍しい物を持ってるじゃないか」
煙管から立ち上がる紫煙を燻らせながら蓮は客人の顔を見遣った。
淡いグリーンの瞳の中でランプの灯りが揺らめいている。ロキシーと名乗った女はまだうら若い、生白い顔を蓮に向けて口端を持ち上げた。
西瓜の種より少し大きい、先端の尖った種子が色褪せた皮袋の中から数個だけ飛び出してカウンターの上に散らばっている。
正直蓮自身も文献でしか目にした事が無い代物だ。其れも植物図鑑などでは無く、如何にも怪しげな魔術関連の本で、である。
「妖精の種。その名の通り妖精の元となる種です。植えた者の個性、愛情や育て方によって姿を自在に変える不思議な種…繁殖させるのは大変でした」
「と、なるともしかしてアンタ…」
「ええ、英国魔女の一人です」
流暢な日本語でロキシーが告げる。自らを英国魔女と称しながら此処まで日本語が達者だと謂う事は幼い頃から長期間日本に住んでいたか、若しくは見た目以上に高齢なのかも知れない。
魔女にはそうした人間が多い。彼女達は謂わば若作りのスペシャリストなのだ。
「この種、御宅で買い取って頂けないでしょうか?」
「いいのかい?妖精の種は魔女達の間でも相当貴重な代物だと聞いてるよ」
「構いませんわ。一人の人間が育てられる妖精は生涯一匹限り。ご存知の通り、私達魔女は長生きですもの。此れから先、妖精を育てる機会は幾らでもあります」
ロキシーは指先で種を一粒抓み上げて、其れをランプの灯りに照らした。種というより宝石に等しい藍色の輝きを放ち、その中に琥珀色の線が縦に数本入っている。
店に並べるつもりだったのか、カウンターに乗せられた空のワイングラスに種を落とすと、幻想的な音が薄暗い店内に響き渡った。
そのワイングラスを蓮の前に翳して、ロキシーは再び淡々しく微笑んだ。
「ビジネスライクに行きましょう?」



<オープニング終了>



「本日の気温は三十八度、地球温暖化の影響か例年稀に見る猛暑となりました。お出掛けの際は熱中病対策として日傘を持ち歩くなど……」
電器屋の陳列棚から齎された知りたくも無いニュースに前の道を歩いていた半数以上の人間がうんざりした表情を浮かべる。中には舌打ちと共にガラスを殴る者も居た。
茹だる暑さに陸地に乗り上げた魚の如く皆が体力も意欲も衰えている中、ニルグガル(5054)は一滴の汗も掻かず黙々と繁華街を歩き続けていた。
隣には銀髪で長身の少年を伴っている。異国的な顔立ちと均整の取れた体格は中々見栄えが良く、女顔で華奢なニルグガルと一緒に並んでいるとまるで恋人同士のようだが勿論そういう関係では無い。
二人の間に流れるムードは何処か余所余所しく、お世辞にも仲睦まじいとは言えない。おまけにニルグガルが身に着けているのは一応夏使用の半袖とは謂え、…メイド服である。
二人に突き刺さるのは当然羨望の視線では無く、奇異の視線だ。けれどもその視線は少年やニルグガルの皮膚の薄皮一枚も貫通する事が出来ず、焼けたコンクリートや店先のショーウィンドウへ流れて行った。
「なァまだ歩くのかよ」
長身の少年が首筋を伝う汗の筋をシャツの襟で拭いながら、自分より数歩前を歩くニルグガルへと声を掛けた。若者らしく瑞々しい声ではあるが、暑さの所為か少し熱っぽい。
「口より足動かして下さい。男の無駄口は暑苦しいです」
視線は手の中のメモ用紙に落としたままニルグガルが痛烈な言葉を吐き捨てる。長身の少年は一目見て解るほど単純明快に憤慨し、歩調を速めた。
「わかったよ。歩きゃ良いんだろ、歩きゃ!」
「あ、次の角を右です」
ニルグガルはメモ用紙の殴り書きを解読しながら、張り切って、と謂うより自棄になって先を歩く少年の背中に指示を出した。
そんな調子で歩き続け、気が付くと二人は原宿の脇道に逸れていた。メモ用紙を読み直して確かめるが場所は合っている。仕方無く二人は歩を進めた。
ストリート系のファッションブランド店が建ち並ぶ道を通り過ぎ、見るからに堅気で無いと分かる人々の訝る眼を掻い潜り、更に奥へと進む。
清掃する人間も居ないのか道の至る所に空き缶や中身の詰まったビニール袋などのゴミが散乱している。ゴミは山程あるのにゴミ箱が一つも無いと謂うのは如何にも滑稽だ。
そんな汚い道のど真ん中に服と呼ぶのも烏滸がましい襤褸切れを纏った中年男性が大の字に寝転がっていた。此処はきっと色々な意味で見捨てられた場所なのだろう。
暫く歩くと先程よりも整理された道へと出た。然し、胡散臭さは明らかに増している。
占いの館、呪い屋、本場風水…如何わしい看板で通りの左右は隙間無く埋め尽くされていた。傾いていたり、煤けていたり、蜘蛛の巣が張っていたりする看板は一つ二つじゃ無い。
道自体は綺麗でも並んでいる店は中々の薄汚さだ。演出のつもりなのか、其れとも自然の摂理なのか。正直、この道に入ってから人よりも蜘蛛に出会った回数の方が多い。
二人はやがて一軒の店の前で足を止めた。正確に言えば、出入り口の右斜め前で足を止めた。
出入り口の中から絶えず聞こえて来る女性の話し声やら喚き声が自然と足を踏み入れる事に躊躇いを与えるのだ。ニルグガルは手の中のメモ用紙を真剣な目で見つめ、少年も横からそのメモ用紙を覗き込んだ。
書き手の性分を現すかのような雑な文字で「マジックショップ『Roxy』」と書かれている。その下には簡単な地図と住所も載っているのだが、余りに雑過ぎて半分以上が読み取れない。
「お前、これでよく解ったな」
「堕天使ですから」
「……………」
理由になっていない。少年は言葉の代わりに疑うような視線をニルグガルへと送った。
扉の上に大きく掲げられた看板はこの辺じゃ珍しいほど真新しく、手入れが行き届いている。看板の中では三日月に撓垂れ掛かった黒猫がお茶目にウインクしていた。ピンと立てられた尻尾にはカーマインのリボンが巻き付き、リボンの中には白い太字で「マジックショップ★Roxy」と書かれている。そのフォントの余りの可愛らしさに少年は思わず脱力の溜め息を吐き出した。
「おっ、おい!」
少年の隣に立っていたニルグガルが静止の言葉を無視し、颯爽と扉の方へ歩き出した。とっとと入ってとっとと用事を済ませたい、心做しそんな印象を与えるような足取りだった。
だが、ニルグガルは扉の直前へ再び足を止めた。思い止まったのでは無い。ニルグガルが扉を開けるより早く、店の中から緑色の制服が飛び出して来たのだ。
「欲しかったお守り入荷してて良かったぁ」
「アタシも香水買っちゃった。この香水、この店でしか扱ってないんだよねー」
二人組の女子高生は満足そうに燥ぎながらニルグガルと少年がやって来た道を引き返して行った。ホームレスや脛に傷持つ方々が屯するあの道をグリーンのプリーツスカートが堂々と歩いて行く様を想像し、少年は言いようも無い違和感に襲われた。
ニルグガルは気を取り直して扉へ手を掛けドアノブを回した。静かに押し開けたつもりだが、扉の上に付けられた鈴が愛らしく鳴るので結局無意味に終わってしまった。扉を開けた瞬間、外と十度以上気温差がある魔力を孕んだ風がニルグガルの素肌を滑らかに滑り落ちて行く。
鈴の音に気付いたエプロン姿の女性が満面の笑みでニルグガルを振り返った。所謂業務用スマイルである。
「いらっしゃいませ。マジックショップ『Roxy』へようこそ!当店は恋愛成就のお守りから本格的な儀式の材料まで数多く取り揃えております。本日は如何な物をお探しですか?」
振り返った女性従業員はツインテールの黒髪を揺らしながら輝くような笑顔で、見事一言一句間違えず言ってのけた。店内に居た十数名の女子高生から拍手喝采が湧き上がる。その音に引き寄せられるかの如く少年がニルグガルの背後から姿を現した。
「あら、貴方…そう言えば貴方も」
ツインテールの女性従業員は少年の顔を見て何かに気付くと、ニルグガルの顔を再び見直して独り言のように呟いた。そして少々お待ちを、と一言言い残して店の奥へと消えて行った。取り残された二人は唖然とする他無い。
「何だありゃ」
「さぁ…私に聞かれても困ります」
尤もらしいニルグガルの言葉に少年は返す言葉を失った。仕方なく二人は黙って女性従業員の帰還を待つ事にした。
すると間も無く先程の女性従業員がまた別の女性従業員を連れたって舞い戻って来た。
然も今度は外国人である。白人特有の透き通るような肌、緩やかなウェーブを描く金糸の髪、淡いグリーンの瞳。外見は兎も角年頃は店内に居る女子高生達と同じに見えるのだが、堂々とした立ち振る舞いは往年の貴婦人のような威厳すら感じさせる。金髪の女性は体の軸を真っ直ぐに保ち、二人を視界に見据えたまま悠然とその道程を歩き切った。
「まぁ珍しいお客さまだこと。態々訪ねて来て下さって光栄だわ」
金髪の女性は柔和に微笑むと、片手に持ったベルを左右に揺らした。カラン、と店のドアとは違う少し低めの音が店内に響き渡る。
が、その音に対する反応は無い。女性は困った子ねぇ、と一言呟いて再びベルを鳴らした。矢張り反応は無い。半歩後ろに立っていた女性従業員が怖ず怖ずと声を掛ける。
「あの、何なら私が呼んで来ますけど…」
「良いのよ。貴女の手を煩わせるまでも無いわ」
恐らく誰かを呼び出そうとしているのだろう。女性は女性従業員の心遣いを断って、執拗にその行為を繰り返した。そして。
「カラカラカラカラうるッせェんだよクソババア!呼び出してェんならきちんと名前で呼びやがれッ!」
盛大な怒声と共に店の奥へと続く木の扉が前のめりになって外れた。倒れた扉は粉塵を撒き散らしながら破壊音を立て、先程まで騒がしかった店内は水を打ったように静まり返った。
扉が「あった」場所から姿を現した青年は遠慮無く扉「だったもの」を踏み割って店内へと姿を現す。茶髪のまだ若い、眼つきの鋭い青年だった。
青年が今にも噛み付きそうな勢いでニルグガル達の方へとやって来る。女性は全く動揺した様子も無く、此方まで流れて来た粉状の塵を叩き落とすと、手に持ったベルを青年の額へと掲げた。
「相変わらず口の利き方を知らない坊やね。犬畜生の分際で私に逆らうつもり?貴方の食事を全てお徳用セールのドッグフードに代えても良いのよ」
形だけは柔らかい、けれども棘を十本も二十本も含んだ声に青年は眉間の皴を深めながらも、このババア…と呻くのが精一杯だった。
「シバ。私はちょっと奥に下がるから接客の手伝いをお願い。砂子はシバが問題を起こさないようにちゃんと見張ってて頂戴」
「え、それって私の仕事が増えるだけなんじゃ…」
「お願いね」
「……はい」
砂子(すなご)と呼ばれた女性従業員は先程の威勢が嘘だったかのように覇気に欠けた返事を返し、ふらふらと接客へ戻って行った。青年も覚えてやがれ、などと毒突きながら渋々その後に続く。あの様子で接客業が務まるのか、二人は不思議でならなかった。
「失礼。それでは奥へ参りましょうか。折角シバが通り易くしてくれた事だし」
壁に開いた縦長長方形の穴を見遣ってふふふ、と金髪の女性が微笑む。その笑みに言い知れぬ殺気を感じた少年は全身の毛と謂う毛が逆立つのを隠せなかった。
一方、ニルグガルは女性に向かって疑いの眼を向けていた。
「貴女は一体…」
「あら、ごめんなさい。自己紹介がまだだったわね。私はロキシー・フェルダ。この店のオーナーにして」
この十八歳かそこらにしか見えない女性が店のオーナー?
先程から変わらず綻んだままのグリーンに動揺を隠せない少年の姿が映し出される。ロキシーは実にさり気無くその動揺に追い討ちを掛けた。
「貴方を作った者です」



店の奥に通されたニルグガルと少年はロキシーに促されるまま木製の椅子に腰掛けた。腰のラインをなぞるような背凭れは中々の座り心地だ。
ロキシーがベルを一つ鳴らすと四本の短い手足の生物がちょこまかとテーブルの足を伝い、三人の前に現れた。一見すると表の看板のお茶目な黒猫に似ているが、決定的に違う所がある。
背中、である。
黒い毛に覆われた背中には丸い、銀色のプレートが乗っている…のでは無く、張り付いている。もっと正確に表現するならばプレートはこの生物の体の一部に他ならない。
銀色のプレートの上には菫のイラストの載ったカップが三つ乗っている。手に取り鼻先を寄せるとレモンティーの爽快な香りが緊張感を解してくれた。
「ご苦労様、リズ」
不思議な生き物「リズ」は三人にお茶を出すと謂う役目を終えると、みゃあ、と一声鳴いて部屋の外へと出て行った。
「さて、それじゃ本題に入りましょうか。蓮さんから紹介されて来たのでしょう?」
横に並んだニルグガルと少年に向かって、ロキシーが話を切り出した。丸で何の為に訪ねて来たのか最初から知っているような口振りだ。
ニルグガルは不信感を抱いた儘、ゆっくりと形の良い唇を動かした。
「全てご存知のようですね」
「ええ、当然でしょう。だって隣の彼、とても窮屈そうだもの。器と中身が見合っていないのね…今にも口から魂が飛び出して来そう」
ロキシーの言葉を真に受けた少年が慌てて自分の口を押さえる。
まぁそれは冗談だけど、と空々しく付け加えられた台詞に少年は眉尻を引き上げ、そしてニルグガルの呆れたような視線に情けなく頭を垂れた。
「貴方、この子に一体どんな魔術を使ったの?」
「どんなって…特に大した事はしてません。鴉の羽の焼き灰と通貨とコウガイビルの死骸を混ぜた土に種を植えて地下室に閉じ込め、一週間程私の血を与えただけです」
眉一つ淡々とニルグガルが語る。青褪めたのは質問したロキシーでは無く、横で話を聞いていた少年の方だった。
「俺、そんな育てられ方してたのか…」
「随分ハードな教育方針ね。きっと妖精の種が持つ魔力と、貴方自身の魔力が相乗効果でとてつもないパワーを生んだんだわ。それでこの子は此処まで馬鹿でかく…」
「馬鹿でかい言うな。俺だって好き好んでこんな図体してる訳じゃねェ!」
「それでこの馬鹿でかいのを元に戻す方法は無いんですか?」
「ニルグガル…お前まで……」
テーブルに両手を突いて大きく項垂れた少年に慰めの言葉を掛ける者は一人としていない。どうせ俺なんて…拗ねる少年を置き去りにしてニルグガルとロキシーは会話を続けた。
「方法が無いって訳じゃないわ。けど一旦巨大化した…羽も無いから巨大化って謂うより異常成長ね。兎に角妖精を元に戻す儀式には外国から材料を取り寄せる必要があるのよ。せめて後一週間は待って貰わないと」
「一週間ですか……勿論その間、彼は此方で預かって頂けるんでしょう?」
然も当然とばかりに言い放つニルグガルに、ロキシーが再び毒々しい笑顔を浮かべた。少年の顔が恐怖に引き攣る。
「あらあら、図々しい坊やね。只でさえ家には居候が何人も居るのよ。更に食客を増やす訳にはいかないわ」
「私だって困ります。私には館の神秘を管理すると謂う大事なお役目が御座います。下手な輩を館に招き入れる訳には参りません」
「私だってそんな食費の掛かりそうなの預かりたく無いわ。育てたのは貴方でしょう。責任は持たないと」
「元はと言えば貴女がお作りになられた物です。責任の一端は貴女にもあるかと」
結局、両者一歩も引かぬ言い合いは日暮れまで続いた。途中シバと砂子が呼びに来たのだが、二人の険悪なムードに負かされ二人とも大人しく引き下がってしまった。
椅子ごと部屋の隅に移動した少年は長く続く戦いを呆然と眺め続けていた。
「…って言うか俺の扱い酷くね……?」



長期戦の果て、少年の身柄は渋々ニルグガルが預かる事になった。ロキシーは『flaw(フロウ)』と謂う実に不名誉な名前を少年に授け、二人を帰した、元い追い返した。

flaw…訳語『欠陥・傷』。

館は生憎過ごしやすい環境とは言い難かった。無論、少年…フロウの視点から見た場合である。
蛇口を捻ると水では無い物が流れて来たり、壁に掛けられた肖像画が笑い掛けて来たり、気が付けば別の場所に立って居たりと毎日のように起こる不可解な現象は最早神秘では無く、怪奇と呼ぶに相応しい。
常人なら二日と持たない環境だが、生まれたばかりで下手な常識を持たないフロウは其れが人間界の『普通』だと思い込む事によって日に日にその生活に慣れ親しんで行った。
ロキシーの家に行くよりかは大分マシ、とそんな考え方が思い込みの大部分を支えたのだろう。
住み慣れれば何の事も無い。最初は不気味だと思っていた地下室の存在も夏となれば中々涼しく快適で過ごし易い。窓の外から聞こえて来る獣の呻きやら遠吠えやらも聞こえないと逆に不安になってしまうし、夜な夜な庭に現れる亡霊とも二、三言言葉を交わす程親しくなっていた。
そうして、二日が過ぎ、三日が過ぎ、矢のように四日が過ぎて行った。
深夜。寝苦しさを覚えたフロウは火照った肌を冷やそうとベッドから抜け出し、部屋の前の廊下を歩いていた。月明かりが照らす曲がり角の向こう側を覗いてフロウはふと足を止めた。
隣り合った廊下の向こう、開け放たれた窓から斜めに差し込む月光がニルグガルの無機質な横顔を照らし出していた。白い、信じられない程白い肌が雪のように怜悧な輝きを放っている。
真剣な顔でニルグガルが読んでいるのは手の中に広げられた一枚の手紙。石榴色の瞳を守る長い睫毛が影を落とした、その先にはどんな文字が並んでいるのだろう。
冷たい横顔が熱を持つ。ニルグガルの表情が僅かながら和らぐのをフロウは見逃さなかった。
欠陥品の心臓が早鐘を打つ度に、苦い痛みがフロウの胸の内からじわじわとその範囲を広げて行く。絶望に似た薄ら寒い感情がフロウの咽喉を凍り付かせた。
「フロウ。私に何か用でもあるのですか?」
手紙に向けられていた筈の視線は何時の間にか曲がり角から覗いていたフロウの右足に注がれていた。丁寧過ぎて何処か壁を感じさせる声が、嬉しさと切なさを織り交ぜて運ぶ。
不明瞭な自分の感情に苛立ちながらも、フロウはばつが悪そうにニルグガルの前へ姿を現した。
「別にねェよ。一寸眠れなかったから…何、それ。手紙?恋人からとか?」
「そうです」
ニルグガルは嘘を吐かない。彼の口から放たれるのは常に真実であり、正論であり、譬え紡がれるのが呪詛の言葉だったとしても其れに穢れは一つも無い。
完璧な妖精だったならば共感を持てたのに、生憎フロウはニルグガルと謂う浮き世から頭一つ分飛び出した存在よりも、人間という生臭い生物に感化されている所があった。寧ろその人間臭さはニルグガルへの距離を縮めれば縮めるほど、強く濃くなって行くような気さえする。
「……そいつの事、本当に大事なんだな」
「私にとって唯一無二の存在ですから」
ひたりひたり、絶望の海から世にも恐ろしい姿をした魔物が足音を立てて近付いて来る。長い鉤爪を垂らして、鋭く尖った牙を晒して、舌なめずりを繰り返し弱ったフロウの心臓に狙いを定めている。
―――――喰われてしまう。フロウはニルグガルの視線を振り切ると、反射的に寝室に向かって走り出した。
扉の閉じる音も安息を与えてくれはしない。咽喉は再び凍り付く。早く何処かに行ってしまえ、手招きする魔物に向かってフロウは叫ぶ事すら出来なかった。



「あら、珍しいわね。貴方一人?」
棚の整理をしていた砂子に案内され粗雑に修復された奥の扉を潜ると、ロキシーが椅子に腰掛けてリズの毛並みを整えている所だった。
ロキシーの腕の中で気持ち良さそうにリズが喉を鳴らしている。ロキシーは椅子に座るように促して、フロウはそれに従った。
「あの堕天使の坊やと喧嘩でもしたの?」
「……俺、人間にも成れるんだよな」
フロウの口調に何時もの能天気さは皆無だった。ロキシーの顔から笑みが消える。そしてリズに砂子と一緒に部屋から出て行くように言い付けた。
ロキシーの膝から下りたリズはフロウの方を一瞬睨んで、砂子の足元に擦り寄り扉の向こうへ消えて行った。
「どういう風の吹き回し?あれだけ妖精になりたがってたのに」
「良いから答えてくれ」
「…成れるわ。でも、もし貴方があの坊やと一緒に居る為に人間に成りたいって言うなら其れはお勧め出来ないわね」
「何でッ……!」
フロウは思わず立ち上がり、テーブルを強く叩いた。その衝撃で中央に飾られていた花瓶は何本もの小さな川を作り、落ちた薔薇の花弁は浅い水面を這うように流れて行く。
ロキシーは其れを一切咎めず、只静かにフロウを見つめていた。
「人間に成るにはね、一度全てを忘れて貰わなくてはならないの」
「忘れる……?」
「貴方には一度全てを忘れて貰い新たに記憶を構築して、里親に渡すのよ。然も自分が最初から人間であったかのように記憶させて」
「じゃあ、俺はニルグガルの事も忘れなくちゃならないのか?あの館で過ごした日の事も、交わした言葉も全部ッ…」
「残念だけどそうなるわ」
「……全部、忘れちまう……」
淡々と語られる真実は余りに受け容れ難い事だった。テーブルの端から滴り落ちる水の音は昨夜の絶望の音より遥かに強大でフロウは力無く椅子の上に崩れ落ちて行った。
扉の向こうからカリカリと爪を研ぐ音が聞こえる。音に驚いたリズが心配して戻って来たのだろう。その音が水滴の音を掻き消して、少しだけフロウは英気を取り戻した。
「妖精に成れば俺は何も忘れずにニルグガルと一緒に居られるのか?」
「其れも不可能よ。彼の魔力は貴方にとって危険過ぎるわ。近くに居れば必ずその影響を受ける」
「だったら此の儘の姿で居る事はっ!此の儘の姿であいつの傍に…」
「フロウ。貴方は器を間違えて生まれてしまったの。ずっとその姿で居る事は出来ないのよ。何れ拒絶反応を起こして魂ごと分散して塵になってしまうのは目に見えてるわ」
だったらどうすれば…蚊の鳴くような声を残してフロウは自分の顔を両手で覆った。
ロキシーは静かに椅子から立ち上がるとフロウの傍へ寄り添った。絹の手袋を纏った指先が優しくフロウの背中を撫ぜる。
「フロウ…貴方は自分が彼に恋をしてると思ってるでしょうけど、其れは違うわ。貴方の体は人間に近いけれど、貴方の魂は妖精の儘なのよ。妖精には喜怒哀楽の感情もあるし、育て親に対する愛情もある。けれど彼らは恋はしないの。何故だか解る?―――――その必要が無いからよ」
妖精の間に子供が産まれる事は無い。彼らは種から、或いは自然界の神秘から生まれる。その他に特殊な例があったとしても妖精同士の間に子供が出来る事は決して有り得ないのだ。だから彼らは恋をしない。恋とは自らの遺伝子を後世に遺したいと謂う本能が生んだまやかしに過ぎないのだから。
「貴方は親に対する愛情を恋に対する愛情だと取り違えているのよ」
「違う」
「違わないわ。貴方は世界の事を全く知らないから勘違いしてるだけなの」
「違うッ!知ったかぶって勝手に決め付けないでくれ!俺の事を知らないのはお前だって同じだろッ」
フロウはロキシーの手を跳ね除けると勢い余って椅子を倒し、扉の方へ向かった。乱暴に開けられた扉の影でリズの悲鳴が聞こえる。
ロキシーは小さく溜め息を吐き出すと手袋に覆われた指先をテーブルの上の水溜りに浸した。手袋は染み一つ作らない。それどころかロキシーの触れた部分から見る見るうちに水が蒸発して行く。ロキシーの瞳は立ち昇って行く蒸気を物憂げに捉え、そして其れを視界から排除して行った。
「フロウ、何て哀れで愚かしい子……」
一人呟くロキシーをリズは扉の影から青い瞳でじっと見つめていた。



マジックショップ『Roxy』での一件を終えたフロウは其れからの数日間、廃人そのものだった。
一日の半分以上を寝室での睡眠に費やし、起きれば満足に口も利かず終日窓際の椅子に腰掛けて過ごす。
少し前までは館で起こる怪奇現象に大袈裟に驚いて大声を上げていたのに今ではその声も聞こえない。
「フロウ、何かあったんですか?最近ずっとそうやって窓辺に座っているじゃないですか。急に年老いたみたいに…」
無感動な声でニルグガルが尋ねる。答えなくても別に構わない、そんな雰囲気を醸し出す声がフロウには逆に心地好かった。
情熱的な風が真っ白なカーテンを大きく踊らせる。カーテンに隠れたニルグガルの影に向かってフロウは沈痛な表情を浮かべた。
「なァ。自分が一番大切に想ってる人の事を忘れるのと、その人の傍に居る事が出来ないのとはどっちがどれだけ辛いんだろうな」
「…大丈夫ですか?氷持って来ましょうか?」
「いや、暑さにボケたとかそんなんじゃなくて。…お前だったらどうする?って話」
刹那、風が止む。木々のざわめきも蝉の声も全てが途絶えて、踊り疲れたカーテンは淑女の如く自分の在処に治まった。
妖精と言われて妙に納得出来る端正な顔立ちを見つめながら、ニルグガルは此処数日自分達が会話という会話をしてなかった事に気が付いた。
幾ら見ても見飽きない、濡れたような黒眼に見入った後、ニルグガルは外の風景へ目を曝した。浅黄と薄緑に着色された木の葉が太陽に透けて、矢張り自分に昼間は似合わないと無意識に瞳を伏せる。
「私だったら前者を選びます」
「何で」
「忘却と喪失は決して同義では無いからですよ」
どういう意味だ、とフロウが問い掛けるより早く上風がカーテンを乱れさせた。淑女に踊り子にと忙しい純白を取り押さえると窓の端に纏め上げる。
物理的に二人を遮るものは此れで何も無くなった。フロウは気を取り直して視線で話の続きを促した。ニルグガルは咳払いを一つ零して、再び語り始める。
「喪失とは対象そのものが無くなってしまう事。けれども忘却は対象そのものが遠ざかってしまう事を意味しているんですよ。忘却の彼方と謂う言葉があるように忘れた記憶は必ず次元の何処かに存在している。つまり取り戻す事が可能なんです」
「でも、もしお前が記憶を取り戻す前に相手がお前の事忘れちまったら…?」
もしも、と謂う想定で話している割にはフロウの表情は余りに強い悲愴感を漂わせている。ニルグガルは全てを悟った。この質問は自分ではなく、フロウ自身に問い掛けられているものだと。そして自分の返答次第でフロウは何か重要な決断に答えを出そうとしている事を。
「そうなったら彼が記憶を取り戻すのを信じて待ちます。何年先になっても、何十年先になっても、何百年先になっても二度と私は彼の事を忘れない。彼が忘れてしまった事もその分私が憶えていれば良い、其れだけの事です」
人の一生を変えてしまい兼ねない重要な質問にもニルグガルは虚偽の答えを返す事など無かった。只、頑なに真実だけを語った。
僅かな沈黙。そして何でも無いかのように吐き捨てられた言葉はフロウの中の悲愴感を春の雪解けのように取り払い、代わりに溢れんばかりの哄笑を与えた。
「…っんと敵わねェ」
突如笑い出したフロウにニルグガルが哀れみの眼差しを向ける。けれどもフロウの笑い声は腹筋が限界を訴えるまで止まらなかった。
ニルグガルが呆れて部屋から出て行こうとした瞬間、フロウの笑い声が乱れた呼吸を伴って漸く絶えた。そして。
「なァ散歩行かね?」
「…暑いのは余り好きではありません」
「俺も」
奇妙な会話である。お互い同じ事を主張しながら事柄は其れとは反比例して進んでいる。
だが、ニルグガルは不思議とその申し出を断らなかった。正論と真実を突き詰めるのも良いが、たまには矛盾に流されるのも悪くない。
そんな些細な気紛れとほんの少しの予感がニルグガルの気持ちを突き動かしたのだ。
その日の晩、フロウは館から姿を消した。立つ鳥跡を濁さず、その言葉に逆らって寝室は何一つ片付いておらず、ベッド際のテーブルには一枚の置手紙が残されていた。
乱れを直し、部屋を隅々まで綺麗にすれば部屋に充満した生活感は容易く消し去る事が出来る。けれどニルグガルはそうしたいとは思わなかった。
考えた末、ニルグガルは手紙だけをその部屋から取り除いて、他は其の儘保存する事にした。目覚めと共に日の光を浴びれるよう窓際に移動したベッドも、誰かの肌を思わせる白いカーテンも、噎せ返るような恋の匂いも、全て其の儘。
「フロウ、その名の通り」
嵐のような人でしたね―――――置き去りにされた便箋の中には確かに初恋の全てが詰まっていた。



flaw…訳語その二『一時的な嵐』。



妖精から貴方への言葉

改めて言うのもなんだけど…今までありがとな。
お前のおかげで色々珍しい経験させて貰ったよ。…その、楽しかった。
お前の期待を裏切る事になるかもしんねェけど、俺は妖精じゃなくて人間として生きる道を選ぶ。
その為には沢山の事を忘れなくちゃならなくて、俺はきっとお前の事も忘れちまう。
だけど、お前の事は、お前の事だけはどれだけ時間が掛かっても絶対に思い出すから。
だからそれまでお前が俺の事を憶えていて欲しい。
…この続きは記憶を取り戻してから必ず伝えに行く。その日が訪れるまでどうか元気で。



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■   登場人物(この物語に登場した人物の一覧)  ■
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【5054/ニルグガル・―/15歳/男性/堕天使・神秘保管者】

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■         ライター通信          ■
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初めまして、ニルグガル様。作者の典花です。今回は『FAIRY SEED』に参加して下さり有難う御座います。
恋人がいらっしゃる設定を拝見し、此れはっ!と妖精の叶わぬ初恋をテーマに書いたのですが矢張り人一人の恋愛模様を書くとなると長くなってしまい…敢え無く撃沈です。
館の設定など大分妄想で書いてしまった所が御座いますので、ご本人のイメージにそぐわない場合は遠慮無くスルーして下さい。
不束者では御座いますが、どうぞ今後とも宜しくお願い致します。