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<東京怪談ウェブゲーム アンティークショップ・レン>


FAIRY SEED

「『FAIRY SEED』。妖精の種…か。随分と珍しい物を持ってるじゃないか」
煙管から立ち上がる紫煙を燻らせながら蓮は客人の顔を見遣った。
淡いグリーンの瞳の中でランプの灯りが揺らめいている。ロキシーと名乗った女はまだうら若い、生白い顔を蓮に向けて口端を持ち上げた。
西瓜の種より少し大きい、先端の尖った種子が色褪せた皮袋の中から数個だけ飛び出してカウンターの上に散らばっている。
正直蓮自身も文献でしか目にした事が無い代物だ。其れも植物図鑑などでは無く、如何にも怪しげな魔術関連の本で、である。
「妖精の種。その名の通り妖精の元となる種です。植えた者の個性、愛情や育て方によって姿を自在に変える不思議な種…繁殖させるのは大変でした」
「と、なるともしかしてアンタ…」
「ええ、英国魔女の一人です」
流暢な日本語でロキシーが告げる。自らを英国魔女と称しながら此処まで日本語が達者だと謂う事は幼い頃から長期間日本に住んでいたか、若しくは見た目以上に高齢なのかも知れない。
魔女にはそうした人間が多い。彼女達は謂わば若作りのスペシャリストなのだ。
「この種、御宅で買い取って頂けないでしょうか?」
「いいのかい?妖精の種は魔女達の間でも相当貴重な代物だと聞いてるよ」
「構いませんわ。一人の人間が育てられる妖精は生涯一匹限り。ご存知の通り、私達魔女は長生きですもの。此れから先、妖精を育てる機会は幾らでもあります」
ロキシーは指先で種を一粒抓み上げて、其れをランプの灯りに照らした。種というより宝石に等しい藍色の輝きを放ち、その中に琥珀色の線が縦に数本入っている。
店に並べるつもりだったのか、カウンターに乗せられた空のワイングラスに種を落とすと、幻想的な音が薄暗い店内に響き渡った。
そのワイングラスを蓮の前に翳して、ロキシーは再び淡々しく微笑んだ。
「ビジネスライクに行きましょう?」



<オープニング終了>



今から話す話は日本では無く、此処より遠く離れた国の物語。
その国の周辺にはとても美しい海がありました。日が昇れば水面に反射した光がサファイアのように輝き、日が落ちれば黒真珠のような光沢が心を奪う、その海は国民達の自慢でした。
ですがその海の中に大きな珊瑚礁のお城が聳え立つ事、そのお城で海の王様とお妃様、そして六人の娘が仲睦まじく暮らしている事を国民は誰一人知りません。
王様は海の生き物から絶対的な信頼を受ける逞しいマーマンで、お妃様は美しく慈愛に満ちた心優しいマーメイド。
二人の子供である六人の娘は揃いも揃って世界中の海に知れ渡るほど美しく、特に末娘の『フローラ』は美の女神に寵愛された美しいマーメイドでした。
気立ても良く誰にも分け隔て無く接するフローラを皆愛さずには居られません。
両親も五人の姉もフローラを壊れ物のように大事に育て、沢山の愛に包まれながらフローラは愛くるしい娘に成長しました。
姉達は普段はフローラにとても優しく接してくれますが、海上で何か楽しい事があるとフローラを置いて見物に行ってしまいます。
其の度にフローラは水面の月が溶けたような金色の髪を寂しく泳がせ、人間達が海底に落としたものを拾い集めながら姉達の帰りを待つのです。
其れは片方だけの真珠のイヤリングだったり、壊れた鎖の欠片だったり、人間の女性が零した愛の溜め息だったり様々でした。
フローラはそれら一つ一つを綺麗な小瓶の中に閉じ込めて、宝物のように大事に仕舞い帰って来た姉達に見せてあげるのです。
「フローラ。其れも綺麗だけど、外の世界はもっと素敵な事に溢れているのよ。貴女もきっと気に入るわ」
姉達はフローラを傷付けないように優しく言いました。十四歳のフローラは海の中ですら日の光が届く所に行く事を許されていません。
「早く私も十五歳に成って姉さん達みたいに外の世界を見てみたいわ」
フローラの溜め息は凶暴な頬白鮫が微睡んでしまう程甘美で、無口な阿古屋貝が大口を開けて泣き叫んでしまう程不憫でした。
彼らは皆、フローラを心より愛しているのです。



「…もう遅いから今日はこの辺にしておきましょう。続きはまた明日」
セレスティ・カーニンガム(1883)は人形サイズの天蓋ベッドに寝かされた小さな少女に優しく言い聞かせた。縮れた海色の髪、大きな海色の瞳、そして美しい海色の衣はセレスティが彼女の為にオーダーメイドで作らせた物である。少女は『イシュキ』と謂う名前を与えられた、つい先日生まれたばかりの妖精だった。
イシュキは眠い目蓋を擦りながらも話の続きを強請るようにセレスティの髪を力一杯引っ張った。力一杯と雖もその力は体の大きさに比例する。しなやかなセレスティの髪は玩具のようなイシュキの手の中からスルスルと逃げて行った。
「イシュキ。時計を御覧なさい。短い針が九を指してしまっているでしょう。この時間に眠らないと良い子は大きく成れませんよ」
無論彼には時計など見えていない。刻まれる秒針の音から時計の場所を探り当て、枕元に置かれた腕時計から時間を読み取ったのである。宥められたイシュキは壁に掛けられた時計を見つめ、そして大人しくベッドの中に潜り込んだ。私良い子でしょう、とばかりに大きな瞳がセレスティをじっと見つめる。
セレスティは御褒美にイシュキの髪を指先で優しく撫でた。
「お休みなさい。私のリトルレディ」
その言葉を聞くと能動的だった瞳はあっと言う間に光を失い、深い眠りの海へ落ちて行った。定期的に零される安らかな寝息を聞いてセレスティは静かに微笑んだ。
幼子の眠りを妨げぬよう遠隔操作で部屋の電灯を薄暗く設定すると、セレスティは一冊の本を自分のベッドの上で広げた。
視力の弱い彼にとって本を読む為に灯りは必要無い。ページに触れれば眼では無く、指先を伝って脳に直接情報が流れ込んで来る。其れは衰えた視力が生んだある種の奇跡なのだろう。
セレスティは最低限音を立てずに本を読み進めて行った。本の内容は日清戦争直後の日本を舞台にした観念小説で、先程までイシュキに向けて語っていた物語とは少しも重なる部分が無い。
其れも其の筈、あれはセレスティの知っている話を探り探り語ったもので、本に書かれていた話では無いのだ。この出始めを其れなりに教養のある人間に聞かせれば大半の人間は彼の有名な悲劇童話を思い出すだろう。
けれどもセレスティが語ったのは童話でも無ければ妄想でも無い、只の。



彼の朝は日の射さない薄暗い部屋から始まる。
直射日光で無ければ多少は持ち堪えられるのだが、眠りから覚めたばかりの肌や瞳には硝子越しでも刺激が強過ぎると謂う事で寝室には一筋も光が入り込まないように配慮されているのだ。特に夏場は厳重に。
セレスティは枕元のリモコンを操作すると部屋中を人工的な光で満たした。光自体は感知出来ても、照らし出される物体を反射させるだけで決して中に招き入れようとはしない銀色の瞳。最早自分の顔すら明確に思い出せない。
微かな衣擦れの音にセレスティは其方へと静かに目を向けた。そっと手を伸ばすと小さい十本の指がセレスティの人差し指を掴む。
「お早う御座います、イシュキ。良い夢は見れましたか」
返答の変わりにイシュキはセレスティの指を掴んだ手に力を込めた。イシュキ、とはアイルランドの言語の一つであるゲール語で『水』の意味を持つ。名付け親はセレスティだ。
セレスティはそうですか、と満足そうに微笑むとベルを鳴らして部屋の外に待機しているメイドを呼び寄せた。失礼します、の一言と共に扉が開け放たれ、角型のワゴンが寝室へと運ばれる。テーブルクロスの上のトレイには銀色のポットと白いカップとドーム型の蓋、そして其の横には其のミニチュアが乗せられていた。
メイドは速やかにベッドテーブルを設定すると朝食をトレイごと運び、ドーム型の蓋を取り払いカップの中に飴色の紅茶を注いだ。普段なら此処で仕事は終わるのだが、一週間前から彼女の仕事はもう一つ増えた。
メイドはイシュキの方へと近付くと器用な手付きでドールベッドのベッドテーブルを広げ、ミニチュアのトレイを其の上に置いた。そして、顔色一つ変えずミニチュアポットの中のアイスミルクを此れまたミニチュアのカップに注ぎ込み、皿の上の蓋を取った。メイドの親指の爪程しか無い皿の上には薄桃色のマシュマロが一つ乗っている。
「お食事を済まされましたらお呼び下さいませ」
「有難う御座います。ご苦労様」
メイドは恭しく頭を下げるとワゴンを押して部屋から出て行った。セレスティが優雅な所作で紅茶を飲むと、横で見ていたイシュキも真似してミルクに口を付ける。イシュキはカップの中身を全て飲み干してしまうと、マシュマロに齧り付いた。マシュマロの弾力が歯を撥ね返す度に甘さが口一杯に広がり、中に入った桃のジャムが舌を蕩かす。
マシュマロはイシュキの何よりのお気に入りだった。



二週間前、青い種の姿でイシュキはセレスティの屋敷を訪れた。
他の種は綺麗な涙型なのにイシュキの種だけは頭の部分が少し欠けて歪な形をしていた。セレスティは其れに興味を持ったのだ。
何故欠けてしまったのかと謂う経過にでは無く、傷ついたこの種がどれ程の強さを秘めているのかと謂う未来に。
清らかな水で満たしたワイングラスの中で種は時折呼吸した。小さな気泡が水面で弾ける音は奇妙な安心感を与え、セレスティは可能な限り種を自分の手の届く範囲に置いた。
目には映らずともセレスティの発達した聴覚は芽が種の薄皮を突き破る音も、少しずつ丈を伸ばす茎の音も聞き取る事が出来た。
そして二日前の深夜、遅くまでドイツ人作家の私小説を読み耽っていたセレスティの耳に飛び込んで来たのは確かに蕾の綻ぶ音。けれども予定より一週間も早く誕生した妖精から生命の鼓動を聞く事は出来なかった。
異常を感じたセレスティはすぐさま世界でも数少ないフェアリードクターの名医を呼んだ。ドクターは妖精を一目見ると眉間の皴を深め、丁寧に診察して行く中でその表情は更に険しさを増した。聴診器を外したドクターは酷く言い難そうに重い口を動かした。

―――――この妖精は、他の妖精と比べて体の成長が著しく劣っている上に外界への抵抗力が殆ど有りません。水の妖精は本来首の付け根の部分に成鱗と謂う一枚の鱗を持って生まれて来るのですが、この子には其れが無い…。今の状態で自然界に帰すのは大変危険です。
―――――私の…育て方が悪かったのでしょうか?
―――――いえ、恐らく先天的な物でしょう。ですが、この先状態が良くなると謂う保証は有りません。兎に角暫く屋敷の外には出さず、日光には絶対に当てないようにして下さい。妖精の霊力を回復させる薬を処方しておきますので午後に一度と、寝る前に一度必ず飲ませて下さい。

そうしてドクターはセレスティの屋敷を後にした。セレスティはドクターの言葉の通り、イシュキを屋敷の外には出さず屋敷の中だけで遊ばせる事にした。
セレスティはイシュキに綺麗な服を与え、美味しい食べ物を与え、快適な環境を与え、そして自由を奪った。
其れが譬え本人の為とは謂え、本来自然界に在るべき者を限界の有る一つの空間に縛り付けて良いものかとセレスティは苦悩した。
今は屋敷の中で物珍しそうに遊び回っているが見る物に飽きれば外へと出たがるだろう、そうなれば自分は海の王が愛娘達を海の中に閉じ込めたのと同じようにイシュキを屋敷の中に閉じ込めなければならない。セレスティはイシュキを力尽くで閉じ込めるのも、彼女を欺いて外の世界への興味を奪うのも嫌だった。
考えた末、セレスティは毎晩少しずつ自分の知っている話を聞かせる事にした。
セレスティの語る話は世界を知らないイシュキにとってとても興味深いものだった。好奇心旺盛で何時も何かで遊んでいなければ気が済まないイシュキも話を聞いている時だけは大人しくベッドの中に潜り、期待に瞳を輝かせている。
そして、其の話を聞かせるのにセレスティは一つ条件を付けた。其の条件とは当然『決して屋敷の外には出ない事』。
毎夜の語り部の真似事が功を奏したのかイシュキは其の言い付けに背く事は無かった。理由を問うような仕草も一切見せずに毎夜の御話を楽しんでいた。
昼間は昼間で涼しい書斎や図書館で過ごし、最近は専らセレスティの持っている仔猫のキーホルダーを連れ回して遊んでいる。
イシュキは自ら好んでセレスティの傍から離れようとはしなかった。べったりと寄り添う訳じゃないが余り距離を置き過ぎると不安になってセレスティの姿を探し回り、セレスティの姿を見つけるととても嬉しそうに破顔する。使用人達は丸で子犬のようだわ、と微笑ましそうにささめいていた。
屋敷内を溌剌と飛び回る姿からイシュキが妖精として欠陥を持っている事は容易に見取れない。けれども彼女の体には何時暴走するとも知れない悪魔が息を潜めているのである。
セレスティはイシュキの小さな喉が薬を飲み干す、其の音を聞く度に胸の軋む音を聞く。何時止むとも知れない痛みを。



「キミ。イシュキを見掛けませんでしたか?」
廊下の突き当りを歩いていたメイドは突如呼び止められて足を止めた。洗濯物を運ぶワゴンを止めて振り返れば息の止まりそうな美貌が眼前に迫り、メイドは思わず小さく悲鳴を上げた。恥じらいを誤魔化すかのようにメイドは僅かに目を伏せて、口を開く。
「いえ、今日は一度も。セレスティ様と御一緒だと思っていたのですが……」
「きゃあああああああっ!!」
居なくなられたのですか?其の問い掛けを掻き消すかの如く甲高い悲鳴が屋敷中に響き渡る。まさかとセレスティの口から小さな絶望の呟きが零れた。
メイドの制止の声を振り解いて、車椅子の車輪は声の聞こえた方へと真っ直ぐに向かった。自分の足がせめて人並みに丈夫であれば、セレスティの顔に明らかな焦りの色が窺える。
声の方向へ進み続けたセレスティは廊下に備え付けられた無数のドアの中で一つだけ開け放たれたドアを見つけ、其処で車輪を漕ぐ手を止めた。徐行しながらそっと部屋の中を覗き込む。
其処は普段来客用として扱われている部屋で殆ど使用される事は無い。生活感を一切感じさせない無機質な空間の中で一人のメイドが蹲り、肩を震わせていた。
小さく漏らされる嗚咽の声でセレスティは彼女の居場所を特定し、徐々に其方に近付いて行った。この屋敷で車椅子に乗る者は一人しか居ない、抑えられた車輪の音がメイドの肩を一際大きく震わせた。
「あ…あ、あ……」
生まれたばかりの赤子のように同じ言葉を繰り返す。勿体無いくらいの大粒の涙を零してメイドは自分の顔を両手で覆い泣きじゃくった。
「ごめんなさいッ…私、ちゃんと確認したつもりだったのにまさか居るなんて……ッ!」
「最初から落ち着いて話して下さい。一体何がどうしたんですか?」
話を聞きたいのは山々だがこの状態で尋ねても正確な返答は求められそうに無い。セレスティの瞳に映る麗艶たる輝きがメイドに僅かながらの冷静さを取り戻させる。
メイドは浅い呼吸を繰り返し息を整えると震える唇で如何にか言葉らしい言葉を紡いだ。
「今晩お客様がいらっしゃるのでお部屋の掃除をしていたんです。午後までに片付けるように言われてたのに私とろいから中々終わらなくって……漸く一通り終わらせて掃除道具を外に出そうとドアを開けたら其処にイシュキ様が」
メイドは其処で再び泣き出してしまった。事の次第を鮮明に思い出してしまったのだろう。メイドは涙に濡れた声で続きを語った。
「…窓が開いてたんです。私、びっくりして動けなくてそしたらイシュキ様が窓の方に近付いて行かれて…ッ手に持っていた仔猫の玩具を、窓の外に落とされたんです」
それ以上、彼女の口から聞く事は出来なかった。聞かずとも其の後どうなったかは容易に想像が付く。セレスティは心臓の裏側から怒りとも悲しみとも知れない感情が湧き上がるのを手の震えで悟った。控えめなノックの音が背後から聞こえる。
「セレスティ様。イシュキ様をお連れ致しました」
先程廊下で声を掛けたメイドの声だった。何かを堪えるかのように無理に抑え付けられた声は悲痛な響きを伴い、物静かな足音はセレスティの方へと徐々に距離を縮める。
メイドはイシュキを抱き抱えた両手をセレスティの前に差し出した。太陽の光に焼かれた肌は赤く焼け爛れ、水泡が弾ける度に白い蒸気が立ち昇り水の匂いが辺りを覆う。
恐る恐るセレスティが手を伸ばすと小さな手が弱々しく人差し指を握った。
「ドクターを呼んで下さい」
「今から呼んでも間に合いません」
「良いから呼んで下さい!」
初めて聞いたセレスティの怒声にメイドは驚き震えた。メイドはイシュキを手渡すと言い付け通りに部屋の外へ出て電話のある場所へ只管に突き進んで行った。
小さくなった鼓動を少しでも確かに聞き取ろうとイシュキの首筋に指を這わせる。呼吸は矢張り浅い儘だった。其の微かな呼吸を掻き消してしまうメイドの泣き声にセレスティは正直煩わしさすら覚えた。イシュキの手にしっかりと握られた仔猫のキーホルダーが愛らしく鈴の音を響かせる。
「イシュキ。大丈夫ですよ。すぐに良くなります。もう少しの我慢ですからね」
怒声を放ったのとは別人のような優しい囁き。イシュキは持てる力の全てでセレスティの髪を引っ張った。
其れは物語を始める前に決まって交わされる、二人だけの合図だった。
「そうですね…ドクターが来るまで退屈しないようにこの前の話の続きをしましょう。お姫様と王子様の婚約発表の日、フローラの身に起きた奇跡のような出来事を」
セレスティはイシュキの髪を優しく撫でながら物語のラストを話し始めた。



王子様と隣国のお姫様の結婚パーティーには国中の人間が招かれ、皆が心からお祝いの言葉や贈り物を二人に捧げました。
そんな目出度い日にも関わらずフローラの表情は暗い儘です。彼女にはお祝いの言葉を贈る声も、お祝いの贈り物を買うお金もありません。
もし皆と同じように捧げたとしても形だけになってしまう事は明白でした。フローラは王子様の結婚を正直とても残念に思っていました。
フローラは王子を海で助けたあの日からずっと彼の事を愛し続けていたのです。そして王子様もフローラの事を愛していました。
然し、二人の間には身分の差と謂う大きな壁が立ちはだかっているのです。片や一国の王子様、片や海辺で拾われた口の利けない娘。
本当はフローラも海の王の娘で立派なお姫様だったのですがフローラは魔女との契約の時に声を失ってしまったので其れを告げる事が出来ません。
もし王子が此の儘お姫様と結ばれてしまえばフローラは泡にならなくてはなりません。船の上から暗い海を見つめフローラは深い溜め息を吐きました。
船上では大勢の人間の賑やかな声が聞こえます。中に戻れば仲睦まじく並んだお姫様と王子様の姿を見なくてはなりません。フローラは夜風に打たれてながら一人で歌を歌いました。
すると歌に招き寄せられるように大勢の魚や貝が集って来ました。フローラの声は人間には聞こえませんが、それ以外の者には聞こえるのです。其の中には何とフローラの姉達の姿もありました。姉達の自慢だった長い髪はバッサリと切られています。
「姉さん!その髪どうしたの!?」
「魔女に売ったの。大事な物を買う為にね」
一番上の姉がナイフを差し出しました。
「フローラ。このナイフを使って王子の心臓を突くのよ」
二番目の姉が言いました。
「そうすれば貴女は泡にはならず人魚に戻れるの」
三番目の姉が言いました。
「フローラ。戻ってらっしゃい。何時だって貴女の居場所はあの城に」
四番目の姉が言いました。
「其れから此れはお母様からよ」
五番目の姉が一つの包みを差し出しました。
「ありがとう。私、姉さん達にそこまで愛されて幸せよ。でももう少し考えさせて」
フローラはナイフと包みを受け取り、海の中に潜って行く姉達を見送りました。そして、そっと包みを開けました。
中には海色の綺麗なドレスが入っていました。其のドレスに触れていると海の中での幸せだった暮らしが蘇ります。そして王子様に心を奪われたあの嵐の晩の事も。
「私、このドレスを着て、パーティに出るわ。そして一回だけ踊ったら潔く諦めましょう」
フローラに迷いはありませんでした。海色のドレスを身に纏ったフローラは会場の誰よりも美しく、誰よりも幻想的でした。
騒然とする会場の中を堂々と歩いて、フローラはお姫様と踊っていた王子様の許へ向かいます。王子様は何時に無く美しいフローラの姿に感嘆の溜め息を吐き出しました。
王子様はフローラの手をそっと取るとダンスに誘いました。ステップを踏む度にフローラの足に激痛が走ります。ですが恋に目の眩んだフローラには其の痛みすら至福でした。
一曲踊り終えるとフローラは変わらぬ決意を懐いた儘、会場を出ようと王子様の手を振り払いました。王子様は其の手を強く握りフローラを引き止めます。
「行かないでくれ。君と踊って思い出したんだ。僕は嵐の夜、船の外に投げ出されて一人の人魚に命を救われた…其の人魚は確かに君だった」
フローラは大きく頭を振りました。視界の端に二人を心配そうに眺めるお姫様の姿が映ったからです。どうせ泡になってしまう身だとフローラは潔く身を引こうとしました。
所が、王子様は其の手を離してはくれません。真摯な瞳に見つめられフローラは胸の奥が熱くなって行くのが解りました。
「ちゃんと聞いて欲しいんだ。僕はもう自分の心を嘘を吐く事が出来ない。僕は、君を愛している」
「お前は何を言ってるんだっ!婚約者の前で失礼だぞ!」
「父上こそ愛の無い政略結婚を強いる事を本人達の人権を踏み躙る失礼な行為だと思わないのですか!僕は彼女を愛しています。何と言われてもその想いは変わりません」
激昂した王様は王子様の言葉に悔しそうに押し黙りました。突然の告白に驚いたフローラは目を白黒させながら王子様を見つめます。
「君はどうなんだい?僕の事をどう思ってるのかきちんと聞かせて欲しい」
フローラには其の聞かせる声が無いのです。言葉以外に愛を告げる方法を知らないフローラは只困ったように王子様の顔を見つめていました。
其の時です。会場の何処かから老婆の声が聞こえました。
「王様ッ、アンタは身分違いの恋に文句があるみたいだけどねその人は正真正銘のお姫様だよ。アンタ達に日々の糧を与えるあの偉大な海の王の愛娘さ」
フローラはその嗄れた声に聞き覚えがありました。そうです。其の声の持ち主は間違いなくフローラを人間にしてくれたあの魔女だったのです。
黒いローブを被った魔女はフローラに近付くとひっひっひとあの独特の笑い方でフローラに話し掛けました。
「フローラ。何をやってるんだい。アンタの声の魔法はもう解けてるんだよ」
魔女の言葉に半信半疑のフローラは王子様をじっと見つめました。喋れると思った瞬間、心の奥底に仕舞っていた想いが言葉になって口から溢れ出します。
「王子様。私も貴方を愛しています」
国民達は二人に割れんばかりの歓声と拍手を贈り、祝福しました。会場に居た筈の魔女の姿は何時の間にか消え、気が付けば足の痛みも消えていました。
王子様と愛を通わせた事でフローラは正真正銘の人間になったのです。
その後、王子様は王位を放棄し、二人は田舎の小さな村でささやかながら幸せな生活を送りました。因みに王子様と婚約を破棄したお姫様はあの騒ぎの後、フローラに駆け寄ってこんな事を言ったそうです。
「貴女達を見て勇気が出たわ。実は私も身分違いの恋に悩んでいたの…でも、人魚と人間と比べたら大した障害じゃないわよね。もう一度頑張ってみる」
数日後、隣国のお姫様と側近の従者が駆け落ちしたという話が二人の許に舞い込んできたのはまた別の話。



「セレスティ様。フローラ様よりお電話です」
トレイの上にアンティーク調の電話機が乗せられている。セレスティはベッドの上から其れを一瞥するとサイドテーブルの上に乗せるように命じて、メイドを下がらせた。
豪華な装飾は一見邪魔にも見えるが手持ちの部分が狭まったレトロタイプの受話器は意外と使い心地が良い。重苦しい仕草で受話器を耳に押し当てると、女性の闊達な声が半ば強制的に耳の中へと流れ込んで来た。
「アロー。薄情者」
「……第一声が其れですか」
「嘘じゃないでしょ?折角人が旦那の三百回忌に招待してやったのに連絡一つ寄越さないでさァ。出席するか欠席するか連絡位しろっての」
相変わらず毒々しい旧友の罵声にセレスティは小さく笑みを零した。フローラはネチネチと受話器の向こうで絶えず厭味を垂れ流している。
セレスティは其れを遮るように控えめに口を挟んだ。
「すみません、忘れていた訳では無いんですが出来れば思い出したく無かったんです」
「は、何で?」
答えは明確だった。然し、其れを語るのは気分的に余り良いものでは無かった。
フローラの物語を語り終えて間も無く、イシュキはセレスティの手の中から姿を消した。水が蒸発する如く、小さな手も細やかな髪も全て消失してしまったのだ。
手の中に残されたのは小さな黒い種が一粒。指先でなぞると頭の部分が僅かに欠けていた。認めたくなかったが其れがイシュカの『亡骸』なのだろう。
医者の来訪を知らせる為に近付いて来るメイドの足音が其の時ばかりは死神の足音に聞こえた。
セレスティは妖精の『亡骸』を小さな小瓶に閉じ込めて近くの海に流し、イシュキの水浴びに使用していたグラスや睡眠用のベッドを目の届かない所に仕舞った。
其れ以来、セレスティの気分は明らかに低迷していた。メイド達も腫れ物を触るように接し、譬えセレスティの目の届かない所でもイシュキの話題を出すのを控えた。
フローラから三百回忌の招待状が届いたのは其の出来事から三日後の事だった。筆を取る気にも電話を掛ける気にもなれず放っておいた結果、あちらから電話が掛かって来たのだ。
「貴女には直接的に関係無い話ですよ。其れより貴女に聞きたい事がありまして」
「スリーサイズなら内緒よ」
「そんな事知りたくありません。…貴女は幸せですか?」
「…………………………はぁ?」
予想だにしてなかった質問にフローラはたっぷり十秒置いて、素っ頓狂な声を上げた。が、其の後にセレスティが冗談です、とも何とも突っ込んで来なかったので本気なのだと悟り、あーとかうーとか謂う煮え切らない唸り声が受話器から聞こえた。
「そりゃ幸せッスよ?一世一代の大恋愛実らせて、ガキも孫も曾孫の其のまた仍孫まで山程出来ちゃってさ。煩いしウザイけど、凄く幸せ」
「そう、ですか」
「でもね、あたしはパパやママや姉さん達と海の中で過ごした日々だって充分幸せだったわ」
目蓋の裏の珊瑚の城を思い起こすような、暖かな声だった。セレスティは其の言葉に少しだけ救われた気がした。
ガタン、受話器の向こうから何かを落とした音が聞こえた。続いてフローラの怒声と子供達の金切り声が聞こえる。慶事や弔事の度に一族総出で行うのだから連絡を取るだけで大変だろう。其の中にきっちり自分が含まれている所が何だかむず痒い気がする。
「で、アンタは出るの!?出ないの!?」
問い掛けの最中にもクソババアやらクソガキやらの悪口の応酬が繰り広げられている。セレスティは忍び笑いで其れを必死に堪えた。
「すみません、今は一寸気分的なものもありますので遠慮させて頂きます」
「あ、そ。まぁ良いわ。今度エリスの結婚式があるから其の時にでも顔見せてくれれば」
「エリスって…どの子ですか?」
「ブロンドの髪の長い…ってアンタに言っても解んないか。あー…説明するの面倒臭いし、あたしも今一覚えて無いから来た時で良いわ。うん。それじゃ」
誰か解らない人物の結婚式に招待してどうするつもりだろうか。相変わらず考え無しのフローラに今度は声を出して笑った。
受話器を置くとタイミング良くドアがノックされた。セレスティは幾分気分の良い声でドアの向こうのメイドに声を掛けた。其れに驚いたのかメイドはワンテンポ遅く、失礼します、と部屋の中に入って来た。
「あの、実は一寸不可解な事があったので御報告に参ったのですが…」
「不可解な事?」
「はい。先程調理場にこんな物が」
そう言ってメイドは白いハンカチの上に乗せた小さな貝殻を見せた。深い海色の、ハート型の貝殻。セレスティに色までは解らなかったが、其の形や滑らかな手触りは指先で知る事が出来た。それから、と前置きしてメイドは言葉を付け加えた。
「マシュマロが減ってるんです」
貝殻とマシュマロ。繋がりの無い物に思えるがセレスティは瞬時に其れが一体どういう意味を持つのかに気付き、貝殻をそっと自分の中に乗せて指先で愛でた。
慈しむような其の眼差しに訳の解らないメイドは只只不思議そうに首を傾げるばかりだった。
「キミ」
「はっ、はい!」
「今すぐ今日と明日の予定をキャンセルして下さい」
「キャ、キャンセルですか!?」
「ええ。自慢話ばかりを聞かされるのは癪なのでたまには直接出向いて自慢してやりたいんです」
「はァ…」
解りました、と了承の返事を返してメイドは部屋へと出て行った。セレスティは貝殻を大事に小瓶に直して、鞄の中に仕舞った。
人魚の頃から変わらず妙な物を集めるのが好きな友人は此れを見たらどんな顔をするだろうか。セレスティは見えない筈の顔を自由に想像して、一人ほくそ笑んだ。



妖精から貴方への言葉

パパさん、お元気ですか?
私は元気です。今は仲間と一緒に海の中で暮らしています。
私の居る海にも人魚さんは居ます。とっても綺麗な人魚さんです。でも、私はパパさんの方が綺麗だと思います。
プレゼントは喜んでもらえましたか?マシュマロはとても美味しかったです。
今度は友達と一緒に遊びに来たいと思います。その時は色々なお話を聞かせて下さい。



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■   登場人物(この物語に登場した人物の一覧)  ■
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【1883/セレスティ・カーニンガム/725歳/男性/財閥総帥・占い師・水霊使い】

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■         ライター通信          ■
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初めまして。セレスティ・カーニンガム様。今回は『FAIRY SEED』に参加して下さり有難う御座います。
納品ギリギリになってしまい申し訳ありません。色々悩む所も多く、かなり難産した作品です。
目が見えない場合や足が不自由な場合の描写などとても勉強になりました。勉強不足だな、と自分の力量に溜め息を吐く所も多く御座いました。
もっと素敵な作品が書けるように努力致しますので、今後とも是非宜しくお願いします。