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<東京怪談ノベル(シングル)>


 □永過ぎた雨□


 細く長い雫が絶える事無く降り注いでいる。一週間前からこの街を覆い始めた黒雲は当然のように雨を従え、上空に居座っていた。
 少年はそんな光景を色のない瞳で見ていたが、やがて窓から目を逸らすと、黙々と朝食へと手をつけ始めた。誰もいないリビングの中で、ニュースを流すキャスターの明るい声だけが異質だった。
 
『――――この低気圧は、少なくともあと数日は停滞するようで――――』

 少年はリモコンを操作し、テレビを消した。
 冷めた朝食を半分以上残し、制服を羽織り立ち上がる。靴下に包まれた足が歩むひたひたという音だけが響いた。
 
 扉の向こうに消えていく少年の背には、誰の声もかけられる事はなかった。
 
 
 
 
 
 紺の傘を広げ、少年は通学路を歩いていく。
 同じ学生服をまとった者たちが傍らを賑やかに過ぎていくが、彼には誰ひとりとして言葉をかける者はない。ただひたすら黙々と、少年は学校への道筋を辿っていた。
 呼吸をする度に湿った空気が鼻につき、半分遮られた視界の中でひとり眉をひそめる。彼は雨が好きではなかった。ただでさえ学校に向かうという事自体が憂鬱だというのに、雨はそれに拍車をかけるものだったからだ。

 草の匂いが湿り気に促されるようにして、道に立ち込める。雨のせいで増したむせるほどの青臭い香りに、少年は咳き込みそうになった。それもこれも、とちょうど通り過ぎようとしていた道の右を暗い目で睨む。そこには空き地があり、雑草が一面に鬱蒼と茂っていた。次に建設予定の建物の札が刺さっているにもかかわらず、数年も放っておかれている、忘れられた土地だ。
 こんな何の役にも立たない雑草なんて、さっさと誰かが根こそぎ抜いてしまえばいい。
 少年はそうひとりごち、再び黙々と歩き始めた。

 教室に入っても、誰の声も少年に向かって響いてはこなかった。これもいつもの事だった。朝だというのに元気にはしゃぎ、走り回っている少女たちは、ぶつかっても謝りの言葉すらなかった。けれど少年はそれについて何も言及せずに、自らの席へと赴く。
 授業が始まるまでの間、少年は鞄から取り出した文庫本をただひたすら読み進めていた。先日買った、好きな作家の新刊だ。今回の話は幻想的で、少年はしばしその華やかな世界に夢中になった。
 
 どこまでも広がる空、どこを見てもただただ地平線だけが広がる大地。その中を駆けているのは、目的地へと急ぐ騎士だ。重そうな甲冑などものともせず、囚われの友人を助けるべく馬を駆る。
 騎士はその出自のせいで虐げられていたが、ただひとり、その友人だけがいつも側にいてくれた。そんな彼の身に危機が迫っている。友情に厚い騎士は友人のもとへひとり駆け、そして豪奢な宮殿の中、華麗に戦う――――。
 
 文字を辿る度に、少年は胸が熱くなるのを感じた。読書をしている時だけが、少年の陰鬱な気分を晴らしてくれるものだった。
 何よりも好きなのは、この騎士が自分と似た境遇にいたという事だった。生まれのせいで誰からも相手にされず、虫けら以下のように扱われる日々。だが彼はそれに負ける事無く自らの力で栄光を勝ち取る。そのくだりで少年は頬を紅潮させたものだった。
 
 自分もいつかこんな風に、きっと他の誰かの上に立てる時がくる。
 そうなれば、自分の事なんて眼中にない奴らを見下してやれる。
 昨日のドラマがどうしただの、どこぞのアイドルが可愛いだの、くだらない事ばかり話している奴らなど、こうやって日々本を読み、知識を蓄えている自分に比べれば屁のようなものだ。
 いつか、きっと、いつかは。 
 
 チャイムが鳴り、少年は慌てて文庫本を机へとしまうふりをして、こそりと続きを読みふけった。教師からの連絡など、少年には関係なかった。たとえ行事などがあったとしても、誰も少年に役割を当てようとはしないからだ。
 いつものように、教師がこちらを一瞥して出席簿に丸をつけた事だけを確認すると、少年は心の中でそちらに唾を飛ばし、また本の世界へと没入していった。
 
「――――おはよう」 
 
 自分に向けられた台詞ではないと思い、少年は無視した。
 
「――――おはよう」
 
 声は続いた。誰か知らないが早く答えてやれ、と苛々しながら少年は思う。
 
「あれ、耳がよくないのかい? ではもう一度。――――おはよう、そこで本に熱中しているキミ」
「!?」

 やんわりと肩を叩かれ、少年は全身を震わせた。偶然の接触以外で誰かの手が触れたのは、実に数年ぶりだったからだ。少年は恐る恐る活字から目を離し、顔を上げた。
 そこには見慣れない生徒が立っていた。
 黒い学生服に同色のマントという、過去の世界から抜け出してきたかのような出で立ち。黒い制帽をかぶったその下では、小さな瞳が楽しげに細められている。そして視線は、間違いなく少年へと注がれていた。
 
「あ、え…………?」
 
 突然の事に少年は口ごもるが、黒ずくめの生徒は帽子のせいで翳った視界を下ろし、緩やかに首を横に振った。
 
「どうしたんだい、そんなお化けでも見たような顔をして! さすがの僕も初対面でいきなりそんな顔をされちゃあ傷ついてしまうよ?」
「あ、いや、その……き、君、誰…………」
「おやおや。僕が誰かって? あはは、知らなくても無理ないよ。今日初めてこの学校に来た…そう、転校生さ。さっき先生に紹介されたばかりなんだけれどねぇ。まあいいさ、それではもう一度自己紹介といこうか。堅苦しいのは好きじゃないんでね、簡単にいこう。僕の名は――――」

 薄い唇が歪められ、笑みのかたちに弧を描く。
 
「焉、と。そう呼んでくれるかな?」
 
 訳もわからず、少年はただ頷くしかなかった。
 

 
 
 ――――そうして、部品は組み立てられ始める。
 焉はひとつずつ、そして楽しく、組み立てる。
 
 
 
 
「一体何をそんなに熱心に読んでいるんだい」

 二時間目の授業が終わると、焉は活字を追っていた少年へと語りかけた。笑いかけると、彼は信じられないものを見るかのように瞬きを繰り返す。その様が面白くて、焉は心の中だけで笑った。だが、決して表には出さない。

「答えてくれないのなら、勝手に見せてもらおうかな。……へぇ、これなら僕も知っているよ。雄々しい騎士の物語か」

 空いている前の席に腰かけながら、焉はそっと少年の手の中から本を奪いぱらぱらとめくった。つい先日、戯れに入ったどこぞの本屋で見かけて手に取った覚えがある。だがその時はすぐに戻した。内容があまりに稚拙だったからだ。
 どこかで見かけたような、勇壮な騎士の英雄譚。時代錯誤も甚だしいそんなものに憧れ、心動かされる者が目の前にいる。
 ――――ああ、面白い。とても面白い。

「か、……返してくれよ」 
「おや、失礼」

 あっさりと本を返却し、少年の机に頬杖をつく。少年は不審な目をしたが何も言わず、再び本へと視線を落とした。けれど焉は席を立とうとはせずに、ただ目の前の存在を見つめ続ける。
 少年は投げかけられる視線にどこか居心地悪そうにしていたが、逆に焉はそんな彼を見て大いに楽しんでいた。いい、とてもいい。話慣れていない口調、そして人の目を真っ直ぐに見ず、己のうちを探られる事を嫌がるその卑屈さ。どれを取っても彼は、いい素材だった。
 もう活字を追ってなどいないその目は、ちらちらと自分を盗み見ている。それはそうだ、いきなりこんな風に親しげにされれば、どんな者であれ警戒心を抱くだろう。
 さて、どんな風にしてこのがんじがらめの紐を解いていこうか。
 
「……楽しみだねぇ」 
 
 授業の開始を告げる鐘に隠すかのように、誰にも聞こえぬようにそう呟く。
 結局短い休み時間が終わるまで、焉は変わらずそこにいた。
 
 
 
 

 その日の帰り。
 焉は肩にマントをかけ、頭上には愛用の黒い傘を広げ、人を待っていた。
 雨の中にひっそりと佇んで一時間、二時間。なかなか待ち人は現れなかったが、それでも焉は中に入って雨をしのごうとは思わない。彼にとっては昇降口で雨を避けているより、こちらの方が性に合っていた。
 やがて、焉の唇がにんまりと歪む。
 視線の先では、少年が今まさに紺の傘を広げようとしているところだった。

「やあ」

 声をかければ、少年は息を呑んだようだった。おそるおそるといった風に顔を上げ、こちらを凝視している。それもそうだ、まとっている物全てが黒色であっても、この存在感に気付かない筈はない。
 そんなことを思いながら傘に隠れて舌なめずりをし、焉は問いかけた。
 
「随分遅かったんだねぇ、部活でもやっていたのかい?」
「ち、……違うよ。図書室で、本読んでただけ」
「へーえ、これまた随分な読書家だ。さあて、それじゃあ帰るとしようか」
「……何でだよ。ぼくと一緒に帰ったって何もいいことないよ。それに君、ぼくの家なんて知らないくせに、何で一緒に帰ろうとか言うわけ? ぜんぜん逆方向かもしれないじゃないか」
「――――けど、そうじゃないかもしれないでしょ?」
 
 一歩前へ出て、焉はマントをひるがえしながら少年を見た。しとしとと降り続ける雨を弾き飛ばす軽快な仕草と、前時代的な出で立ちが相まって、その空間だけが時間から切り離されてしまったかのような光景。
 傘を持たない手を少年へと差し出し、焉は言う。
 
「仮定なんてそれこそ意味がない、あるのは全て現実だけさ。さて、僕の帰る道がキミと重ならないかどうか、確かめに行こうじゃないか。歩き出せば全てが分かる」 
 
 訝しむように眉を寄せながら、けれど少年は焉に導かれるようにして雨の中へと身を躍らせた。そのあまりの素直さに、焉は湧き上がるおかしさを堪えきれずに唇の隙間から息を漏らす。気を抜けば今にも笑い出してしまいそうだったが、それはまだまだ早すぎた。自分を戒め、少年の歩調に合わせながら焉は歩く。
 校門までの十数歩はとうに過ぎ、二人はとある方角へと足を進めていた。焉は少年が歩くままについていきながら、あとどれくらいで気付くだろう? と胸を高鳴らせる。それは人が人に対して抱く期待ではなく、例えるなら虫に木の枝をけしかけて遊んでいるようなものだった。純粋で、だからこそ残酷と呼ばれるそれ。
 
 そしてとうとう少年は自分たちがまったく同じ方向を歩いている事に気付き、目が覚めたように顔を上げた。
 帽子の下、影となった部分で静かに笑う焉の顔を見た少年は、頬を僅かに赤くして「ぼく、こっちだから!」と叫び走り去っていった。
 小柄な後ろ姿が完全に雨の向こうへと消えてなくなると、焉は満足げに瞬きをする。
 今日のところはこれぐらいが妥当だろう。さて、明日は――――
 
 くつくつと喉の奥で笑いながら、焉は踵を返して反対方向へと歩いていった。
 
 
 
 
 
 翌日。
 誰よりも早く教室に辿り着いていた焉は、ひっそりと待ち人の到着を待っていた。ぽつりぽつりと登校してくる生徒は皆、転校生である彼の周りに集ってはこず、焉はたったひとりで教室の隅に佇んでいる。だが孤独であるというのに、彼の目は常と変わらず涼やかだった。焉にとってこの現象は、ごく当たり前の事だったからだ。
 やがて視線を送っていた扉が開き、少年が顔を見せる。昨日より幾分表情が明るいのを見て、焉は音もなく、まさに滑るようにして少年のもとへと歩いていった。
 
 再び前の席に腰かけ向かい合わせになれば、少年は鞄から本を出す事なく、ぽつりぽつりと会話をし始めた。いい傾向だった。「焉」と名を呼ばれ口を笑みのかたちにしてやれば、よほど嬉しかったのだろう。何度も少年は焉の名を呼び続けた。それこそ、呆れるほどに。
 
 休み時間になる度に、焉は少年のもとへと赴いた。それに気をよくしたのか、少年は得意げにこの街の事を語り始めた。それはたどたどしく、この年頃にしてはあまりに狭い知識だったが、焉は一生懸命に語られる話を、時折頷きながら静かに聞いていた。
 興味のあるふりをして真っ直ぐに視線を送れば、ますます少年は回らない舌で話し続ける。
 それがただおかしくて、焉はひたすらそんな真似を繰り返した。
 
 帰りも二人は一緒だった。傘を隣り合わせて偽りの家路を辿りながら、焉は少年がいつのまにかぎこちなく笑顔を浮かべていることに気付いた。実にいい傾向だった。自分がどんな表情をしているのかさえ、少年は知らないだろう。そして家に到着し、鏡でも見て驚愕することだろう。あの自分が微笑んでいる! と。
 十字路で別れを告げ、踵を返しながら焉はにこやかに微笑みながら空を仰ぐ。
 
「ああ、いい天気だなぁ。とっても晴れやかな気分だよ!」
 




『――――この前線はまだしばらくは停滞するようです。雨は明日以降も降り続けるでしょう、傘の用意をお忘れなく――――』





 それから数日の間、焉は少年の近くにあり続けた。
 いつしか少年は文庫本を鞄の中に入れる事さえ忘れたようだった。どこにもいない騎士の物語よりも、自分の側に来てくれる者との会話を楽しむのに夢中になっていたのだろう。話をする時の少年の目は、出会った時とは比べ物にならない光を放っていた。
 会話といっても、ほとんど一方的に興奮した少年がまくしたてるようなものだったが、焉は笑顔を浮かべてそれに応じていた。
 どんなにつまらないこの土地の話であろうと、興味のない本の話だろうと、その一切を文句ひとつ言わずに聞いていた。内容に興味がなくとも、焉にとってそれらは価値のある会話だったからだ。
 
 ――――しかし。
 
「おはよう」

 焉の姿を見て、少年は硬直したようだった。
 それはそうだろう、と焉は思う。目の前には黒い傘をさした自分。それだけならば少年は驚かなかっただろうが、ここが少年の家ならば話は別だろう。
 何しろ、家に招かれる事はおろか、住所さえ焉は知らない筈なのだから。
 
「…………え?」

 ドアノブを握ったまま当たり前のように動きを止めた少年へと、焉は変わらない口調で告げる。
 
「どうしたんだい? 早く行こうじゃないか。授業が始まってしまうよ?」
「……あ、…………うん」

 何でもないことのように手招きをする焉に並ぶようにして、少年は歩き出した。もの言いたげな表情を見下ろしながら、けれど口を開くきっかけは与えない。今はまだ、その時ではなかった。ついでに言うなら場所も相応しくはなかった。
 結局、二人は言葉少なに学校への道を辿った。

 その日の休み時間も、焉は少年の側にいた。授業中はいつも俯いている彼が顔を上げれば、いつでも視界に入る位置を陣取っていた。
 少年は何とかこちらに話しかけようとしたが、もとより話題の少ない彼はすぐに材料を失い、きつく目を閉じる。どうしていいか分からないという感情を体現する小さな存在を見下ろしながら、焉はただ黙った。黙って見下ろし続けた。
 ああ、きっとこの小さな心の中は恐れで満たされているに違いない。面白い話題がなければ、一緒にいて楽しくないから飽きられる。飽きはイコール喪失と少年の中で決定付けられているのだ。
 今までの経験がそうさせるのか、それとも。焉には判別がつかなかったが、そんなものはどうでもよかった。
 やがて机の下で組んだ手が震えているのを見つけ、焉は鳴り始める鐘の音の中、そっと優しげな声を出す。
 
「何をそんなに怖がっているんだい」 
 
 開かれる視界。その黒い卑屈な瞳に自分の姿が理想通りに映っているのを確認し、焉は幾度となく浮かべた微笑みをまた作り上げた。自分はここにいるのだと、決して去りはしないのだと決定づけるように組み上げた笑みだった。
 
「怖がる必要などどこにもないさ。僕はいつだってキミの側にいるのだからね」 

 かけるのは優しい言葉。だが少年はひくりと背筋を震わせ、椅子を軋ませただけだった。何故、そんな疑問が透けて見えるようだった。どうして急に目を閉じ、黙ってしまっても、怒るどころか顔色ひとつ変えずに側に立っているのだろう、と。
 今までは喜びだけが含まれていた視線に初めて畏怖が含まれたのを確認し、焉は微笑みを崩さないまま鐘の音と共に席へと戻っていった。

 さあ、仕上げはいつにしようか。
 そんなことを、呟いて。 
 
 



 授業の間、少年は教師の話も聞かずに話の材料を探し続けていたようだったが、小さな彼の世界でそんなものなど望むべくもない。そうして向かえた次の休み時間、焉はただ黙って少年の側に立っていただけだった。
 焉にとっては沈黙など苦行のうちにも入らないが、少年にとってはかなりの苦痛のようだった。沈黙に耐え切れなくなった彼から「あっちへ行ってくれないか」と頼まれたが、しかし焉は微笑み、黙したままで少年へと視線を送り続けた。
 こんな楽しい事を、誰が止められるというのだろうか。

 最後のごく短い休み時間。立ち上がろうとした矢先に扉が乱暴に開け放たれ、何者かが飛び出していく。焉は小柄な背を見送り、おやおや、と息をついた。
 うまく会話もできない自らへの嫌悪の為か、はたまた焉が送り続ける微笑みと視線に耐えられなくなったのか。その辺りはどちらでも構わなかった。
 肝心なのはあの少年が逃げ出してしまうほどに、自分の存在を意識していること、これに尽きる。 
 
「逃げ回る子は嫌いじゃないけどねぇ……捕まえる楽しみが増えるし」

 そうひとりごち、黒衣の転校生は教室から廊下へと身を躍らせる。だが一瞬の後に彼が降りたのは廊下ではなく、使い古されたトイレの手洗い場の前だった。
 さて、と腕を組んで間もなく上履きが廊下を蹴る耳障りな音が迫ってきたかと思うと、けたたましく扉が開いて何者かが飛び込んできた。更に奥の個室へと駆けて行こうとする足を、焉はよく通るその声で、止める。
 
「――――やあやあ、そんなに走ってどうしたんだい?」
 
 駆け出そうしていた足が、止まった。
 いや、止まらざるを得なかったのだろう。少年はまるで油をさしてもらえない機械のように首を軋ませ、こちらを向いた。
 
「あ………………」

 わななくように開かれた少年の口からは意味のない呻きしか出なかったが、焉はその中に含まれた響きを聞き逃してはいなかった。
 ありえない。彼はそう言ったのだ。
 それもそうだろうと焉は思う。何しろ二年の教室からトイレまでは一本道であり、途中には先回りできるような階段も通路もないので、もし先回りをしようとしても、先に辿り着くには絶対に少年の視界の中に入っていなければならないからだ。
 いくら自分の気持ちでいっぱいいっぱいであろうとも、目の前を誰かが走っていれば当然の如く、彼は気付いただろう。
 だが焉にはそんな建物の条件などは当てはまらない。

「せっかく仲良くなったのに、置いてっちゃうなんてひどいなぁ」

 我ながら白々しい。自らの台詞を心の中で嘲りながらも、きちんと顔だけは能面の如く同じ表情を浮かべ続けていた。変わらぬ笑み。いつものように唇は弧を描いている。
 少年は絶叫し、走り出した。目を見開いて廊下を駆けていくその姿を見た者は不審そうに眉をひそめたが、そんな視線など気にしていられないのか、彼はやみくもに廊下を駆けて行く。
 追うようにトイレから顔を出し、焉は楽しげに喉を鳴らしながら軽く飛び上がる。一瞬の後、真新しい上履きが着地したのはとある水飲み場だった。
 またしても遠くから響いてくるのは、上履きの――――
 
「………………………」

 ふらり、と少年は後ろへとよろける。瞳はこれ以上ないほど見開かれ、白目は血走りかけていた。
 笑みをより深くして、焉が一歩前へ出る。

 雨が強さを増したようだった。
 テレビの砂嵐のような騒がしさの中、少年はその場に崩れ落ちる。
 
「いい雨だねぇ。終わりの日には相応しい」 
 
 は、はは、はははは。
 人の失せた廊下に湿り気を含んだ哄笑を響き渡らせていると、いつのまにか呆然と宙を見ていた少年が震える足でもって立ち上がっていたのに気付き、焉は笑いを止める。
 湿った空気がまとわりつく中、二人は廊下を挟み、向かい合った。

 ――――ああ、いい顔をしているじゃないか。
 卑屈なだけではない、その暗い瞳こそを、僕は待っていた。

 鐘が鳴り、間もなく生徒たちが鞄を手に廊下を行き交い始める。その中で少年と焉だけは身動きひとつせずに、互いを見つめていた。怒りと望みの喪失とをない交ぜにした暗い視線を注がれ、焉は笑顔の能面の下、組み立てた物語が完成に近づきつつあるのを知り瞳を細める。
 やがて、先に視線を外したのは少年の方だった。そのまま波に逆らうように階段を駆け上がっていく背中を見つめながら、視界の端にちらりと映った光景を思い起こす。
 目の端に浮かんだ涙を風で千切るように、少年は終わりの場所へと自らの足で駆けていった。
 
「どうもお招きありがとう、とでも言えばいいのかな? さあて、お望みどおりキミの手をとりに行こうか――――」

 そうして焉は、人の溢れる廊下から消えた。
 だが誰ひとりとして訝しむ者はなく、流れはあくまでいつものまま、今日も繰り返されていく。
 
  
 
 


 誰もない教室に、たったひとつの人影。 
 滝のような豪雨が窓ガラスをしとどに濡らし、激しい音が耳を打つ。教室は明かりを必要とするほどに暗さを増していたが、彼にとってそんなものは必要なかった。必要なのは、ただ押し寄せる闇。それさえあれば後は事足りる。
 
「やあ、遅かったねぇ」
 
 静寂の中、教卓に腰かけていた焉は乱暴に開け放たれた扉を見て、楽しげな声を上げた。
 笑う焉を視界に入れるやいなや、涙声で少年は叫んだ。それはまさに絶叫と呼ぶに相応しい、感情の発露だった。
 
「ふっ……ふざけるなよ、この化け物!! お前、人間のふりしておいてぼ、ぼくを騙したりからかったりして遊んでたんだろう! いい加減にしろよ、こんな事して何が楽しいんだよ!! どうせとりつくのならぼくみたいな奴じゃなくて、もっと別な奴にすれば良かっただろ?!」

 だが焉は答えずに、帽子の下でひっそりと笑んだ。
 少年の激昂は続く。
 
「分かったぞ。お前、ぼくで遊んでいたんだろ。ぼくが必死で話題を探して喋ったりしているのを見て、影で笑ってたりしたんだろう!! そうだ、絶対そうだ!! ふざけるな、ぼくがいくらひとりでいるからって、ついこの間出会ったばかりのお前に馬鹿にされるいわれなんてどこにも――――」
 
 少年の唇が、凍った。
 誰に命ぜられたわけでもないというのに、言葉のかたちに開いたまま、少年の口はそれ以上開く事も、そして閉じる事もできなくなっていた。
 視線はたったひとつの場所を凝視している。

 くく、く、くくくく、くははははははははははははははははは。

 焉はたまらず帽子を取り、大口を開けて笑っていた。今まで我慢してきていたがもう限界だった。おかしい、おかしくてたまらない。ああ、なんて、なんて愚かで甘美な叫びなのだろう!!
 凍りついた少年の前で、ひとしきり焉は笑った。涙を流し、教卓を叩き、子どものように笑い続けた。いっそこのまま愚かさをネタにずっと笑い続けていたいような気もしたが、それは無理な相談だった。せっかく時間をかけて組み立ててきたものは、きちんと最後まで完成させなければならない。
 心を落ち着けさえすれば、後は早かった。
 体勢を立て直し、身動きひとつしない少年へと真っ直ぐに顔を向け、
 
 ただ、哂ってみせた。
 
 それは人が浮かべるにはあまりに完全で、かつ冷たすぎる笑みだった。瞳からは温度など全く感じられず、唇は円を切り取ったかのように見事な曲線を描いている。少年は目を見開いた。それは人が人であるのなら、到底有り得ない笑みのかたちだったからだ。
 少年の本能が危険を悟り、指先が震える。それはあっという間に全身へと広がり、少年はだらしなく唇を開いたままがちがちと奥歯を鳴らしていた。外からは雨の音。ざああ、ざああと耳鳴りがするほどにひどいそれと歯の根の合わない音だけが、彼の世界の全てを支配していた。
 焉はそんな少年を見てただ笑いながら、教卓の上から飛び立った。黒いマントを翼のようにはためかせれば、教室を蝕み始めた闇はそれと同化し、音もなく少年を包んでいく。

 宙に浮かびながら、焉は教室という場に落ちた深い闇を見下ろした。
 感覚の一切を抹消された空間で、少年はあえぐように息を吐いている。そんな呼吸音など鼓膜を揺らしはしないというのに。
 いま少年の前に広がっている世界には教室も焉の姿も窓ガラスも、そして今も降り続けていた雨すらも見えてはいないのだろう。暗闇、いや、それよりも深くて暗い黒色の空間の中で、
彼はただ震えていた。舌を噛んでしまわないのがいっそ不思議なほどに歯はがちがちと合わさっていたが、今の少年にはその音さえも認識できないらしかった。

 石のように固まった少年は、寄る辺ない黒の中で己の存在を知りたいが為に絶叫した。延々と、それこそ喉が痛みを訴えるまで喉の奥から声を絞り続けた。この闇の中で自分という存在を確認したいが為の絶叫は、しかし長くは続かなかった。応える者など、ひとつとしてなかったからだ。
 そう。誰が誰でもなく誰を知る術もないただの黒の空間でどんなに声をかぎりに叫んだところで、どんなに哀切の響きを含ませたところで、

「――――キミの声は自分自身にすら届きはしないのさ」

 少年は今度、焉の名を呼び始めた。何度も、何度も同じ名を呼んだ。焉、焉。まるでただそれだけしか知らない、生まれたばかりの赤子のように。
 だが声が聞こえているにもかかわらず焉は応えようとはせずに、ただ微笑んで下を見る。
 これ以上なく、楽しげに。
 
「僕はここにはいなくて、キミもどこにもいなかった。ならばキミが僕を呼ぶことなど、到底できはしないだろう。だって、『僕はここにいないのだから』!」

 さあキミよ、存在ごとこの黒色へと解けていくがいい。
 現実に起こった全てが、あまりに暗い闇にいた己の妄想だったと、全てを勘違いして。
 
 抵抗をなくした少年が、黒の中へと沈んでいく。
 『少年だったもの』は最後に天へと手を伸ばしていた。それは真っ直ぐに見えない筈の焉へと向けられたかと思うと喘ぐように開かれ、握られ。

 
 ――――とぷん。
 

「僕が何の為にここへ来たか、最後の最後で分かったみたいだねぇ……」

 教卓に腰を下ろし、何事もなかったかのように焉は片膝を抱えてうっすらと微笑んだ。

「そう、僕はキミを――――」


 
 
  
 
『――――ようやく傘のいらないお天気になりました。雲は北の海上へと去り、今日は一日中晴れ間が続くことでしょう――――』
 
 
 雲ひとつない空には久々の青が広がっていた。水溜りが太陽を反射させ、ところどころで眩しく輝いている。
 そんな水溜りの合間を、学生たちが行き交う。通学路には傘の花の代わりに会話の花が咲き乱れ、楽しげな声が青空へと響き渡った。
 
 湿気は完全にではないが失せ、教室へと入ってくる生徒たちの顔もどこか晴れやかだ。窓を開け、空気を入れ替えながら声高らかに少年少女は語り合う。今日の授業のことや昨日のテレビのことなど、他愛ないお喋りだったが彼らが彼らでいる為にとても必要な会話を。
 若い活気で埋め尽くされた教室の隅にただひとつ、主のいない机がある事など、誰も気にも留めてはいなかった。彼らは彼らを生きるのに、とても忙しかったからだ。
 
 細い木に降り立った一羽の鴉が、そんな光景をじっと見ていた。
 黒々とした瞳でひとしきり若者たちが生を謳歌しているのを見物すると、鴉は下品な声で哂い、黒色の翼を広げて枝を蹴る。
 
 誰もいない机だけが、ただひっそりと飛び去る翼を見送っていた。
 
 
 
 
 
 
 
 END.