コミュニティトップへ
高峰心霊学研究所トップへ 最新レポート クリエーター別で見る 商品別一覧 ゲームノベル・ゲームコミックを見る 前のページへ

<東京怪談ウェブゲーム 草間興信所>


不定期バス



------<opening>--------------------------------------



 今、一台のバスが、田園風景の中を走り抜けていく。
 酷くゆったりとした速度でゆるゆる進むそのバスの車体は、照り付けてくる太陽の光にぴかりときらめき、時折ブルンと溜め息を吐くように排気ガスを吐き出した。
 平坦な道を行く、そんなバスの行き先が何処であるかということは、しかしその青年にとってどうでもいいことである。
 一番前の座席に腰掛けた、細面の華奢な青年。
 彼はその顔にのっぺりとした無表情を貼り付けて、窓の外をじっと見ている。小刻みに震える両手を腹の上でぎゅっと握り合わせ、これから自ずと考えなければならなくなる現実からも、自分が購わなければならなくなるはずの罪からも、そうして密やかに逃避している。最早、この場所が何処なのか、自分が何処に運ばれていってしまうのか、そんな当たり前のことを考える余裕すら彼にはなかった。
 頭の中は霧がかかったようにぼんやりとし、延々と同じ映像を断片的に再生している。
 どろどろとした赤黒いそれがリノリウムのくすんだ白の上に作った小さな水溜り。あの男の悲鳴。コンビニ店員の悲鳴。強盗だ、と誰かが叫び、気がつけば走り出していた僕。
 強盗だと言ったのは誰だっただろう。
 あの男と共に働いていた店員の一人だろうか。それとも、あの男の言葉だっただろうか。
 擦り切れたビデオのように、記憶にはノイズがかかり真実すらも見えなくさせる。
 罅割れる声。大音量の声。脈絡も規則性もなく混乱していく記憶。
 彼は小さな吐き気を催し、細かく震え続ける指先で自らの口元を押さえた。
 人を殺した。
 その言葉が生々しい感触を伴い喉元に込み上げる。
 人を殺した。きっと僕は人を殺した。きっとあの人は死んだはずだ。きっと、死んでしまったはずなのだ。あんなに血が出て、あんなに痛そうだったのだから。
 けれどそれでも僕は後悔しない。後悔などするはずがない。あんな男、死ねばいいのだ。そうだ。死んでくれて良かったのだ。あんな、薄情な男なんかは。
 ガツン、とタイヤが石を噛み、車内に生じた揺れに任せ、彼は光を反射する透明な窓へどっと傾れる。
 うつろな目をした青年の、柔らかそうな茶色の髪がガラスと額の間でぐしゃりとつぶれる。
 冷たいガラスの生々しい感触は、これが紛う方ない現実なのだということを彼へ知らしめてくるようだった。
 これは現実。彼を刺し逃げた僕も。自分の前に滑り込んできた大型バスの扉が開かれるまま、誘い込まれるようにして乗ったことも。
 彼はぼやける視界のまま瞬きを繰り返し、ふっと前方に視線を向ける。
 その瞬間、青年と運転席に座る男の視線が交わった。
「気分が。悪いのか」
 何処か遠くから響いてくる声のように、その声は青年の耳を通り抜けて行く。



------------------------------------------------------------



 まるまるとした案山子の頭を太陽が照らし出している。
 表情なくそこに立つ彼の体はぼろぼろで、照り付けてくる陽に干乾びていた。
 少年はそろそろと進めていた足を止め、その案山子をじっと見ている。
 今にも、その丸い顔からこの暑さに対する不平不満が漏らされるのではないか、と、ありもしない想像が彼の頭には浮かんでいた。
 案山子でも文句を言いたくなる暑さ。
 チリン、と遠くから、可憐で繊細な風鈴の音が聞こえた気がする。少年はふうと小さな息をはき、さらさらの前髪の下に滲む汗を華奢な指でそっと拭った。
「それにしても。遠いな」
 彼はその茶色い目を細め熱気に揺らぐ道へと視線を馳せた。
 ゆらゆらと揺れる視界の先には目的地である建物の片鱗すら見えてはこない。
 自分はちゃんとその目的地へ辿り着けるのだろうか。一抹の不安が、コンクリートから這い上がる熱気と共に少年の体をじわりじわりと侵食していく。
 やっぱりもう少し、休憩してから出ればよかったか。
 想像を絶するような夏の暑さに、少年は自分の気紛れを後悔し始めていた。
 そもそもこんな真夏の昼間に出かけたことが間違いだった。図書館くらい陽が落ちてから向かったとしても良かったのだ。それを自分はくだらん意地など張って。
 とんだ意地っ張りだ。と、こんな道のど真ん中で後悔したところでどうしようもない。行くにしても帰るにしても、このうだるような暑さの中を歩いていかなくてはならないのが現実なのだ。全く後悔先に立たずとは良く言ったものである。
 じりじりと攻撃的な声で鳴く蝉の声はどんどんと勢いを増し少年の鼓膜を突き刺した。
 龍ヶ崎常澄は脇に立つ電信柱にふらりと寄りかかり、くらくらとぶれる視界から逃れるように目を閉じる。
 風は力尽き、陽の光はかんかんと降り注ぎ、コンクリートは焼け、住宅の室外機は熱風を出し続ける。
 夏。それは何と恨めしい季節だろう。
 しかしそんなことにすら、彼は頓着していなかったのである。快適な部屋の中で想像する夏の暑さはもう少し、生ぬるい。ぬくぬくと現代文明の中に埋もれて、ついつい大自然の法則を忘れてしまっていた自分が悪いのだ。
 なんであんな意地、僕ははってしまったんだろう。
 後悔、先に立たず。その言葉が彼の頭をぐるぐる回る。
 電信柱に寄りかかりながら眉を寄せる常澄の隣を、かちゃんかちゃんと自転車が走り抜けていった。

×

「ルル、それはもう、いいから」
 いつもの様子からは想像できほどのか細さで、少年は呟く。
 しかしルルと呼ばれたその美しい女性は、どうやら彼の言葉を聞く気がないらしく、その容姿にはどうにも似合わないオーバーアクションでバタン、とソファへ倒れ込んでいる。
「だから、もう……」
 その耳がみるみると赤くなっていく様を、武彦はどうにも愛しい気持ちでじっと見つめていた。
「余計なこと、言わなくていいから」
 常澄は、穴を掘ってでも入りたい、といった様子である。
 それを無視するような形で武彦を見やった彼女に対し、武彦はうんうんと苦笑を浮かべ頷いてやる。自分の意思が伝わったというその一点で、ルルはとても嬉しそうだった。
「夏バテで貧血か。可哀想に」
 事務所にあるエアコンが、まさに老体に鞭を打つといった呈でぜえぜえと生ぬるい風を吐き出している。それはどうにも気休めにしかならず、部屋の中はむしむしとした暑さに包まれている。
 しかし、常澄の顔が赤いのはもちろんその暑さのせいだけではあるまい。
 どうやらこの近所でくらくらと来て、パタンとやってしまったらしい常澄と共に、ルルが興信所に駆け込んできたのはつい数十分前のことである。今早急にかからなければならない依頼の注文もなく、ぼんやりと煙草の煙を見つめていた武彦は、無論最初は何かあったかと驚いたのだった。
 でもまあ。ただの夏バテ貧血ならな。
 今やもうすっかり体調を持ち直したらしく、しっかりとソファに座る常澄を見やり武彦は安堵を噛みしめる。
「可哀想じゃない。じろじろ見ないでくれる」
「心配してやってんだよ。夏バテとはいえ、倒れたとあっちゃあな」
「心配してくれなくてもいいんだ、別に」
「男として恥ずかしがるお前の気持ちも分かるが。昨今の男子なんてだいたいそんなもんなんだよ」
「馬鹿にするな」
「してないって」
「武彦は顔が人を馬鹿にしている」
「申し訳ないがそれは生まれつきだ。だいたい、お前は何をしてたんだ? 軟弱なら軟弱らしく家でゆっくりしてればいいだろおが」
 あえて軟弱と口にしてやれば、常澄はプンと悔しそうにそっぽを向く。その反応がどうにも幼く、育ちの良い子犬が拗ねたみたいだ。
「本を、探している」
 しかし暫くの沈黙の後、大人げなかったと思い至ったのか、常澄は装われたかのような平静な声で呟いた。
「本?」
「召喚関係の文献だ。パパの書斎になかったんだ。それで……どのみちここに来る途中だった。武彦に心当たりを当たって貰おうと思ってたからね」
「ふうむ。パパ、の書斎ねえ」
 白々しくも武彦はその言葉を繰り返す。
「まあ、俺には良く分からんが。本と言えば、心当たりが一つある。本のことは本のスペシャリストに聞くべきだ」
「スペシャリスト?」
「ああ、何なら今から連絡してやるよ」
 常澄は武彦のその言葉を受けて、自分の服のポケットをごそごそやりだした。
「これ」
 ソファの上からその華奢な腕が伸ばされる。そこには一枚の紙切れが握られていた。
「んー?」
 その紙切れを彼の手から取り上げると、武彦はさっと目を通す。
「まあ。俺が読んでもわからんがな。要するに、この本があるかどうかを確かめればいいんだな」
「そうことだね」
「しかしなあ。仮にあったとして、お前どうする?」
 受話器を取り上げた武彦は、ふとその動きを止め常澄を見やった。
「あそこからここまでは結構な距離があるしな。屋敷から興信所に来る前にぶっ倒れているような奴じゃあ……かといってそちらのお嬢さんは」
 ルルに目を向け彼は溜め息を吐き出した。
「無理だな。そもそもこの世界の言葉を喋れないんじゃ、お使いには不向きだ」
「あそこって何処なわけ? 別に僕一人で行けるよ」
「いや」
 ゆるゆると首を振った武彦は不意に何かを思いついたようにぐっと身を乗り出した。
「そうだ。あいつ、どうした」
「あいつ?」
「お前のボディガードだよ。お前のそのパパが雇った男だ。俺にも紹介してくれたこと、あっただろ? あー、あれは何の依頼のときだったか」
 言いながら、武彦はがっしりとした長身の男の姿を脳裏に浮かべていた。
 しかし常澄は小さく首を振り素っ気無く言う。
「知らない。そんなの居ない」
 武彦は顔を顰めた。
「なんだよ。嘘を吐くなよ、嘘を」
「知らないってば」
「何だその頑なな態度は。がたいの良い男だよ。脳みそまで筋肉で出来ていそうな……そうだそうだ。赤い目の」
「知らない。いない」
 あくまでしらを切りとおす常澄に、武彦はふと声色を変え問いかけた。
「さては。お前、けんかしたな」
「けんか? 違うよ。あんな低俗な奴とけんかなんか出来ない」
 憮然と言い切ってから、常澄ははっとしたように口を閉じた。
「そうかそうか。けんかかあ。青春だなあ」
「けんかじゃないと言ってるだろ」
「だったらお前のそのボディーガードに送り迎えをしてもらえばいい。空だって飛べるし、転送だってして貰えるんだろうおが。俺みたいなただの人間からすれば、そりゃあもう贅沢なもんだよ。悪いことは言わないからボディガードに頼みなさい。ボディガードに」
 いそいそと電話番号を打ち始める武彦の視界の先で、不本意な表情を浮かべ黙りこくっていた常澄は、しかし次の瞬間ぽつりと。
「自分でとりにいける。僕一人で行ける」
 そう、呟いたのだった。






 窓辺に置かれた観葉植物の青い葉っぱが、きらきらと差し込んでくる陽の光に輝いている。
 しかしそこに目を向ける人間は誰も居ない。天井がかなり高く設置されたカウンター内では、二十余名の職員達が、機械的な表情でそれぞれの業務に勤しんでいる。
 青年は電話を保留にすると、近くに居た女性職員に声をかけた。
「すみません。綾和泉さんは」
「彼女なら奥の書庫に」
 彼女はパソコンのモニターから顔を上げずに素っ気無く答えた。
 しかし彼女ははっとあることに気づき、顔を上げる。
「ちょっと待って! 森田くん。何かあったの?」
「いえ、電話が」
「緊急なのかしら?」
「さあ?」
 彼は小さく微笑み小首を傾げる。
 さあ、とはどういうことだ。思わず彼女はそう言ってしまいたくなる。これだから一般事務員は。そしてそう罵りたくなってしまう。
 けれど一般事務員だということは余りここでは関係ない。彼が司書であろうが自治体で採用され派遣されてきた一般事務員であろうが、頼りないことに変わりなかったろう。
「とにかく僕、行ってきますんで」
「あ、違うの。彼女は今休憩中だから」
 しかしその声が彼に届くことはないようだった。

×

 書架に囲まれた部屋の中は薄暗く、そして妙に埃っぽい。
 大々的に換気されることもなければ、人の出入りもそう多くない部屋特有の、澱んだ空気がこの部屋の中には鎮座している。
 しかしここに入った瞬間、多くの人間が口にするのはその匂いに関することだろう。
 古本特有の、何ともいえぬその匂い。
 それは言うなれば人間の垢の匂いだ。沢山の人間に触れられ、あるいは愛されあるいは忌み嫌われて、やがてここに辿り着いてきた本の体には、無数の手垢はおろか、人々の愚痴や怨嗟や、愛情や歓喜や落胆までもがべたべたと遠慮会釈なく貼り付けられている。
 一つの本に一体どれだけの歴史があるかと考え出せばそれこそきりがないくらい、そしてここにある多くの本それぞれに大量の歴史は刻まれている。
 特別観覧指定図書。彼らを扱うことを許されているのは、職員の中でもごく一部の人間だけである。
 綾和泉汐耶は、ゆっくりと本のページを一枚繰った。
 小さな窓から差し込んでくる細い光の筋が、彼女のその艶やかな黒髪を照らし出している。
 誰が持ち込んだかは定かではなかったが、ずっとそこに置かれてある古びた椅子に腰掛けて、汐耶は遅い昼休みを取っていた。
 最近はとみに煩く、休憩時間はしっかり取れと、残業は余りするんじゃない、と、実情も知らないくせに綺麗ごとを並べ立ててくる自治体に、当初は辟易した彼女だったが、結局きちんと一時間の休みを取っている。要するに、彼らが言うのは数字の上での休憩なのだ。業務の流れのままに書庫で休憩を済ませてしまおうが、タイムカードにさえ数字が残れば文句はあるまい。
 汐耶は最早、次のページにどんな言葉が書かれてあるかすらも記憶するくらいに読み返した本のページを、それでも殊更ゆっくりと繰りながらぼんやりと考えた。
 そもそも、特別観覧指定担当が何にも囚われず取れる休みが何処にある。
――そうだ。こんな風に。
 彼女はふっと顔を上げた。
 遠くカツカツと、リノリウムの上を歩く無粋な革靴の靴音が聞こえる。
 足音だ。
 溜め息と共にパタリと本を閉じ、汐耶は鈍い光を差し入れる入り口の開け放たれたドアを見る。
 全く、何と騒がしい歩き方をする男だろう。
 入り口を塞いだ人影は予想通りで、彼女は溜め息を吐かずにいられない。
「あ、いたいた、綾和泉さん」
 ガツン、と書架の角に足をぶつけ、顔を顰めながら男は汐耶の傍へ駆け寄ってくる。
「あの、電話が」
 足をさすりながらぶっきらぼうに、森田は言った。
「電話がどうしましたか」
「どうしましたかって、かかってるんですけど」
「誰から」
「そんなん自分で聞いてくださッ――いっ!」
 小さな悲鳴を上げた森田が鼻を押さえて蹲る。
「ぶつかりました。すみません」
 汐耶は冷たい目で森田を見下ろし、極めて冷静な声で言った。
「っていうか明らかに今、ぶつけられた気したんは気のせいですか」
「気のせいですね」
「はあ、ほおでふか」
 自分の鼻を指で摘みながら、苦笑して森田は呟く。
「もっと僕に優しくしてください」
「優しくする理由も必要もありません」
「なんでっすかあ。僕はこおんなに、綾和泉さんのこと慕ってンのに」
 まだ言うか。
 ふざけた調子でそんなことを言う森田の顔を、汐耶は呆れた瞳で見下ろした。
「キミも毎度毎度飽きないわね」
「慕ってるって気持ちは変わらないので」
「はいはい、勝手になさい」
 小さく空を煽り、汐耶は本を抱えて歩き出す。すると森田は後ろからチョコチョコついてきた。さっと振り返ると視線の先に瞳をらんらんと輝かせる彼が居る。その目はまるでやんちゃな子供のようで、汐耶は彼のその、育ちの良い子犬のような愛らしさに思わず吹き出しそうになってしまう。
「あー。電話があって良かったなあ。これって運命かなあ。俺が受けて、綾和泉さんに伝えに来た。これって運命?」
「一つ、いいですか」
 書架に本を戻し汐耶は振り返る。本棚に肩を預け腕を組む。
「はい!」
「人様の休憩を邪魔するならば、それ相応の理由を明確に伝えて下さい。これは恐らくは常識と思います」
「はいどうもすみません。っていうかじゃあ僕も一つ、いいですか」
「人の忠告を聞く気がない人の話は、こっちも聞く気はありません」
「あ。待ってくださいよ〜。今日、飲み行きましょーよ。そのためにわざわざこんな書庫くんだりまで伝言を」
「いやよ。だいたいキミがいつ伝言を伝えたの」
「七時にお迎えに上がりますので! 電話が終わったら書庫で大人しく待っててくださいよ!」
「聞こえない」
 背を向けたまま素っ気無く言い、汐耶は冷たい光に晒される廊下を歩いて行く。






 会議室の扉がばっと開け放たれた。
 廊下の先にあるカフェブースから今か今かと扉が開くのを待っていた青年は、その廊下に伸びた光に思わずはっと体を正した。
 中から出て来たスタッフやゲストキュレータの顔は偉くリラックスした面持ちで、打ち合わせが無事に済んだのだということを物語っていた。
 そう心配することでもないんだけれど。
 青年は、自分の心臓が場に相応しくなくドキドキと高鳴っているのに苦笑しながらぼんやり考える。
 けれどどうにも、密室の会議というのは外で待っているものをドキドキさせるものだ。
 紙コップをぽいとゴミ箱へ投げ捨てて、集団に駆け寄ろうとしたところで彼はふと、まさにその集団の中に自分の上司の顔がないことに気づく。
 あれ? まだ中かな。
 向かってくる集団に社交辞令の笑みで会釈を返した青年は、いそいそと会議室の中を覗き込んだ。
 燦々と陽の光を差し入れる大きな窓の前に一人の男が立っている。
 彼はその茶色い髪をを陽の光にきらきらと金色に輝かせながら、まるでパノラマのようにも見える下界の景色をぼんやりとした面持ちで見下ろしていた。
 それは紛うことなく、青年の上司の十ヶ崎正だった。
「お疲れ様〜っす!」
 勢い良く手を上げて、青年は会議室の中に入り込んで行く。
 正がゆっくりとこちらを向き苦笑した。
「ああ。君か。お疲れ様」
「打ち合わせ、終わったんですよね」
「ああ。終わったよ」
 紙コップの紅茶に口をつけた正は、その渋みに思わずつっと顔を顰める。
「この後皆さんでどっか行かれるんじゃないんですか?」
 尻に心地良い革張りのソファに、ふうと身を沈めた青年は、窓際に立つ上司の顔を煽る。
 正は洒落た仕草で肩を竦めた。
「ああ。でも仕事の話は終わったから」
「相変わらず付き合い悪い、とか言われるんじゃないですか」
「僕は余り派手なことは好きじゃないんだ。それに忙しいし、あの集団についていっても有意義な話が出来るとは思わないよ。それにほら、明日は旅行もあることだしね」
「そう言ってくれるのを待ってました」
「なんだいそれ」
「何か。画商っていつも悪者じゃないですか。ほら、サスペンスドラマとかでも。でも、着実に画家を売り込むことだけを考えてる画商も居るんだなあって。正さん見ると安心するんですよね。だから、俺、正さんが経営する画商で働いてんです」
「なるほど、そういう意味か」
 小さくはにかみ、正はまた窓の外へ目を向ける。
「今回のこの話だって正さんの確かな目利きがあってこそ、キュレーターの一人としてお呼びがかかったんだし。画家からも信頼されてて、派手なことしなくなってアート界からも必要とされてる。全く、画商の鏡ですよ」
「そういうのを聞くと卵が先か鶏が先かって気がしてくるよ」
 出窓の縁に腰を下ろし彼はふっと苦笑する。
「良い画家が僕を育ててくれた、とも言えるし」
「その良い画家を発掘したのは正さんだ、とも言える」
「ははは、うん。そうだね。でも彼らが描き続けてくれて、僕の名前を同じように世に知らしめてくれているからこそと考えるとね。結局のところ、フィフティフィフティなんだよ」
「なるほど」
「どちらも共存するからこそ価値がある運命共同体だね。だから僕も発掘し続けるし、彼らは羽ばたき続けるし……絵は、一枚だからね。転売されていかなければ意味がない。自分の体も精神も追い詰めて、頭の中で洪水のように錯乱し続けるイマジネーションと戦って。見ていて哀れにも思えてくるほどぼろぼろになってでも描き上げた彼らの作品を、無意味なままに終わらせてはいけないんだ。無意味なままに終わらせないとはつまりどういうことか。彼らの努力に報いることだ。その報いとは何か。出来るだけ多くの人の評価を聞かせてあげること。絵は感じるものだし、好みのものだ。だからこそより多くの人間に見せなきゃいけない。あるいはその手にその評価の一つである報酬を支払わせることだ。彼らの価値を計る一つが金額なのだから報酬は多ければ多いほどいい。絵は一点物なんだ。売れた部数や枚数では計れない。だからこそ、その一枚にどれだけお金を出しても惜しくないか。そういう買い手の気持ちが、画家にとってどんなに有益なことか。そうして。転売されることに彼らの評価はあがる。転売され、多くの目に賞賛されるたび、彼らの価値はまた上がる。上がる価値こそ、彼らに一番必要なものだ。それはつまり、名誉だ。ぼろぼろになって、多くの時間と自分の体を削って描いた作品が、名誉に変わる」
 青年は何度も何度も小刻みに頷いた。
 自分はきっと、何があってもこの人にはついていこうと、そう心に決めながら。




 一方その頃、その上のフロアでは、リィン・セルフィスがどうにもだらけがちな気持ちのままにふああと大きな欠伸を一つ漏らしていた。
 彼が今しゃがみ込んでいるガラス戸の向こうには、一ヵ月後にこのビルで開催される展覧会のための絵が、まだまばらにではあるが展示されている。
 それを警備するのが彼の役目だったのだがしかし、どちらかといえば余りに平坦な、やりがいのない仕事の内容にリィンは辟易していたのである。
 友人に頼み込まれたので仕方なく引き受けた仕事だったが(あるいはその報酬にスイーツ食べ放題に連れて行って貰えることに目が眩んだこともあったが)、ただ立っていればいいといわれた仕事はまさにただ立っているだけの仕事なのであり、いざやってみると暇で暇で仕方がない。
 リィンはしゃがみ込んだ膝の上に肘を突き、またふああと大きな欠伸を一つ漏らす。
 まるで眠りの縁に落ちかけていく幼児のように、その瞳は眠そうに細められ瞬きはどんよりと重くなっていく。
「だいたい」
 彼は呟く。
「こんなもんを警備する必要があるのか?」
 彼にはその部屋に飾られてある絵の価値など到底理解できなかったのである。
 そもそも警備の仕事と聞いた時には、きらきらとした宝石類を真っ先に頭に浮かべたものだ。
「It is quite like pearls before swine」
 瞳を閉じたまま彼は素っ気無く呟く。
「Useless possession」
 こんな見たことも聞いたこともない画家の絵など、一体誰が盗むというのだ。
「こんなもん、警備する必要ないな」
 彼は瞳を閉じたまま素っ気無く呟く。
 しかしふと、次の瞬間、リィンはその目を見開いていた。
 ん?
 顔を挙げ、光の動きがあった方を見上げる。
 そこに、一人の華奢な体つきした男が居た。今まさにガラス戸を開け中に入ろうとしている。どうやら鍵はかかっていないようで、戸を少し押した格好のままうつろな瞳でリィンを見下ろしている。まるで何の興味の抱かない、平静というよりは色のないその瞳に、むしろリィンの方が聊かぎょっとしてしまう。
 男は、何か奇妙な物でも見るような目つきでリィンを一瞥したかと思うと、ふらふらと何かに操られるようにおぼつかない足取りで展示室へと入って行った。
 この会社の人間なのだろうか。
 そう思ってはみたものの、彼の直感がそうではないと告げていた。
 では一体、あの男は何なのだ? まさか泥棒の類ではあるまいな。たった一人であんな格好で盗みに入る奴など見たことがない。けれど怪盗や泥棒の類は常に、人を欺く物でもあるぞ。
 ガタン、と展示室の方から何かを落っことしたかのような衝撃音が聞こえる。
 あいつ。リィンははっと振り返る。
 ガラス戸の向こうで男が展示されていた絵を外している。
「おい」
 リィンは憮然とした声を出し、展示室の中へと入って行った。
「お前、何をしてるんだ」
 男は暫くうつろな瞳でじっとリィンを見つめていたが、突然何の前触れもなくポケットから一本のバタフライナイフを取り出した。
「Oh...」
 嘲笑を込めて、リィンは片手を上げる。
 コイツは一体何を考えてるんだ。
「unbelievable」
 リィンは小さく首を振りながら両手を挙げ苦笑する。
 そんな小さなナイフで俺を刺すだと? 
 しかし動き出そうとしたその瞬間、ナイフを握る男の大きな瞳から。
 突然、つっと涙が零れ落ちた。



 三人分の足音が慌しく階段を上っていく。
「え、絵が。盗まれたとは、どういう」
 息を上げながら正は背後を振り返り、突然会議室へと駆け込んできた富田鳴樹に目を配る。
「警備を付けてたんじゃないのか!」
「そ、それが」
 富田は息を切らせそう呟いたが、そこでプツリと言葉を切った。
「正さん。とにかく行きましょう」
 先ほどまでともに会議室で話し込んでいた上田が話をまとめ、正はそれもそうだと軽く頷いた。
 階段を駆け上がった勢いのまま、バンと踊り場のドアを開く。
 三人は肩で息をしながら、その今は人気のないフロアを見渡した。
 カツン、カツンと遠くから、リノリウムの上を歩く足音が聞こえる。
 廊下の向こう側から歩いてくる人影。
「あ、あれか!」
 上田が指を差しかけていく。正は咄嗟にエレベーターの表示を確かめ、上田に続いて走り出した。
「富田くん」
 三人の中では恐らく一番体力がなかったのであろう富田は、もはや今にもそこに倒れ込みそうな勢いだった。
「た、正、さん。はあはあ」
 正は大きく頷いてから、「何て悪そうな顔をした男だ」と独り言のように呟いた。
「た、正さん、ちが」
「もしかして。あの男が連れているのは人質か」
 西日が突き刺す廊下の先から、銀色の髪の男がゆっくりゆっくりと歩いてくる。
 その右の脇には絵を抱え、左の脇にはよろよろと歩く華奢な男を連れている。
「あの人が、警、備の……リィン・セルフィスさんだったんですけ、ど」
 息を整えながら呟く富田の声は小さすぎ、最早正や上田の耳には入らなかったようだった。
「ここから先は通しません」
 正は凛とした声で宣言する。
 廊下を歩く体格の良い男が、ピタリとその歩みを止めた。
「その人質を放したまえ!」
「絵もだ!」
 上田が横から口を挟む。
「Oh...」
 男はふっとその顔に笑みを浮かべる。
「どういうことだ」
「それはこっちが聞きたい!」
「俺は……」
 何かを訴えるように口を開いた男だったが、しかし次の瞬間、ガクンとその首を垂れた。
「troublesome...」
「troublesome?」
 男の呟きを鸚鵡返しにし、正は憮然と眉を寄せる。面倒くせえ、と男は呟いたのだ。そして彼はきょろきょろと辺りを見回したかと思うと、だっと正らが居るのとは反対の方向へ走り出した。
「お、おいこら!」
 絵も人質も、まだ男の手の中である。
 お荷物を抱えているのに何て速さだ!
「こら! 待て!」
 待つはずがないと知りながらも、上田はそう叫ばずにいられない。







 午後七時とはいえ外はまだ明るかった。
 汐耶は速い足取りで職場を後にする。
 森田に見つかると面倒だ、と考えてのことだった。
 しかし彼女は、図書館の前に広がる広場でふっとその足を止めた。
 すっかり人踊りの少なくなったその場所に、バタリと倒れ込んでいる人影がある。
 何かしら。
 汐耶はその人影に駆け寄った。
 そこに倒れているのはやはり人だった。少年だ。汐耶ははっとその場に足を折る。
 茶色い髪の少年が、そこに倒れている。
 日本の日常の中で倒れている人を見るのはそう多くない。彼女は慌ててその少年の肩を揺すった。
「もしもし? 大丈夫ですか? もしもし?」
 うつぶせに倒れているその彼の華奢な体を裏返し、頭を自分の腿へと乗せる。
 その時彼女はふと、床に書かれた魔方陣のようなものに目を奪われたのだったが、意識はすぐに少年のひやりとした頬へと引き戻されてしまっていた。
 冷たい。これは熱射病かしら。
「あー! 綾和泉さんみーつけ! もう、ひどいですよ、先に帰ろうとするな……あれ? 何やってんですか」
「あ。森田くん」
 汐耶は顔を挙げ、そこに立つ後輩を見上げる。
「倒れてたの。こんなところで……ああ。誰も助けなかったのかしら」
「冷たいなあ」
 憮然と言い、森田は辺りを見回す。それからまた少年へと視線を落とした。
「貧血ですかね?」
「たぶん。熱射病だと思うわ。青白い顔と冷たい皮膚。本で読んだことがあるもの」
「はあ……じゃあ。とりあえず。あっちに」
 森田が言い、少年を抱きかかえる。
「かっるいなあ」
 図書館の周りを覆うように植えられた樹の陰に少年を下ろし森田は小さく息を吐く。
「彼、何か身分を証明するような物持ってるかしら……何も分からないままじゃあ……救急車かしらやっぱり」
 その時軽い咳払いが聞こえ、汐耶と森田の意識は自らの足元へと向いた。
 薄っすらと目を開いた彼が、茶色い瞳を潤ませ呟く。
「本を。本、を取りに、来た。龍ヶ崎、だ」
 途切れ途切れの言葉を聞いて、汐耶は「ああ」と小さく声を漏らす。
「貴方が? 今日、草間さんから連絡された?」
「ああ!」
 隣で森田も合点がいったように声を上げている。
「そうだったの……それにしたって何でこんな状態に」
 腰に手を当て、汐耶は呆れて常澄を見下ろした。
「まあ。とにかく草間さんに電話した方がいいわね」
 バックから携帯を取り出し草間興信所にコールする。
「一人で、帰れる、ってば」
 少年の呟きは聞こえないフリでやり過ごすことにした。
「待ってて。キミの本、取ってくるわ。森田君、彼をお願いします」
「了解しました」
 ふざけて敬礼してみせる森田に向かい小さく頷くと、汐耶はまた元来た道を引き返す。
 途中で電話が繋がり、愛想の悪い武彦の声が聞こえてきた。
「もしもし。草間さんですか。汐耶ですが。実は今、今日お問い合わせ頂いていた分の本の」
「ああ。常澄はそっちに行ったか?」
「そのことで実は」
 汐耶は手短に事情を告げる。
 小さな苦笑が耳を擽った後。
「すまんな、汐耶。今から迎えに行く」
 武彦は言った。






 全く。いつまで追ってくるつもりなんだ。
 リィン・セルフィスは舌打ちを漏らしビルの影からそっと背後を覗いた。
 そろそろと夜の闇が忍び寄ってきた町の中で、彼はまだ追いかけっこを続けていた。
 どれくらいの時間走り続けていただろう。
 途中でばっと自分の背中から羽根が飛び出て来た時には驚いたものだったが、以前からそういうことは度々あったので、これ幸いとリィンは絵と男を抱えビルの非常階段から飛んだのだった。
 そこまでは良かったんだ。
 しかし何故だろう。
 何かとても重要なことを忘れているような気もするな。
 リィンはさっきから何かしら心にひくひくと引っかかるそれをまた無視し、神経を自分を追ってくる眼鏡の男に集中させる。
 全くあの男は何者なんだ。刑事か何かか?
 飛んだ自分を意地でも追ってきて、飛んでる最中に消えた羽根のせいで地上に降りた自分をまだ、意地でも追っている。
 自分が泥棒と勘違いされているのは、何となく、あの会社の時点で分かっていたのだが。
 面倒臭いったらありゃしない。
 しかし面倒を招いたのすらあるいは、自分かも知れないのだ。
 リィンは雑草の上に寝かせた男の姿と、その隣に転がる絵に目をやった。
 あの時。
 そうだ。俺はあの時。この男が涙を流しながら、ぐったりと突然倒れたことに面食らってしまったのだ。
 ナイフを出し自分に向かってくるかと思った敵が、倒れたことなど今まで一度だってない。だいたい、そんな複雑で面倒な問題に出逢ったことなんてないのだ。敵は必ず自分に向かってくる。あるいは、逃げる。それは当たり前だった。なのにこちらが何かをする前に倒れられてしまうなんて。
「これが面食らわずにいられるか?」
 おまけに自分が悪者扱いだ。
 説明するのも面倒になる。
――それでも、お前は本能のままに行動しすぎなんだよね。もっとちゃんと考えるってことをしなよ。
 不意にリィンの頭に同居人の顔が浮かんでくる。
――お前みたいな単細胞とは話とかしたくないし。だいたいパパももうちょっと利口な天使を用意してくれれば――。
「ああ、そうだ」
 ピン、とリィンの頭の中で何かが合致する。
 俺の羽根は常澄が召喚術を使ったら出るんだったな。
「見つけたぞ!」
 しかしやっと思い出したその事実は、またそんな言葉と共に彼の頭から消えてしまう。
「shit!」
 リィンは小さく罵ると、また絵と男を抱え本能的に走り出したのだった。



「っていうか。正さん。何処行ったんだ」
 富田は首筋の汗を拭いながら、自分に向け小さく呟いた。
「しかも上田さんも見つからないし」
 全く、何というガッツだろう。
「あんな体力についていけない……」
 紺色の空を見上げ富田はふううと息を吐き出す。
 だいたい、何の説明もなしにいろいろな人の思いこみばかりで話が進んでいってしまっているのではないか、という思いが富田にはあった。あの警備の男がどうして突然逃げたのかも。あるいは彼自身、どうして逃げているのか分からなくなっているのではないだろうか?
 何かしら明確な理由があるのかも知れないけれど、鬼ごっこはたとえ鬼が本物の鬼であろうがなかろうが、追いかけられると逃げてしまうものなのだ。そして鬼は、何故か逃げ待とう人を追ってしまうもなのだ。
 じゃあ俺は一体何だろう。
 いい加減苦しいワイシャツの襟のボタンをがっと外し、富田はまた走り出そうとする。
 しかしその時、彼はふと思い出してしまったのだった。
「あー。明日の旅行だ」
 くうと疲れたように額を押さえ、彼はその場で立ち止まる。
 画廊の全員で一泊の慰安旅行に出かけようと、発案をしたのは富田自身だ。自分の友人の伯父が画家だということもあり、その伯父がアトリエ兼住居として使っている山奥の屋敷で有意義な休みを過ごそうではないか、と提案したのだった。
 その話はスタッフの間でも好感触で、正もたまにはいいかと乗り気だった。その証拠に正さんは、自分の知り合いの男に行き返りのバスの運転までお願いしてくれたのだ。
 なのに。
 こんな状態では恐らくいけるはずがないだろうな。
「あ〜あ。電話してキャンセルしとかなきゃ……興信所と……ああ、そうか。森田にも……残りのスタッフには連絡網を回して貰うことにして」
 ぶつぶつと上気した顔で呟きながら、富田はポケットから携帯電話を取り出した。
「まずは。興信所か」
 しかし、何回コールを鳴らしても誰かが出る気配もなければ、留守番電話に繋がる気配もない。
「あー。森田は……いいや。後で。とりあえずスタッフに……」
 と。
「あ。そうだ! そうだ! 電話すればいいんじゃん! なんだ! 正さんに電話すれば!」
 彼は今更ながらそのことに思い至り、そんな自分を小さく嘲笑する。
「全く。バタバタしてて全然思いつかなかったな」
 素早く正の電話番号を探し出し、数回コールする。
 偉く待たされた気がしたが、突然プツ、っとコール音が止み、富田は正の「はい、十ヶ崎です」という言葉を待った。
 が、聞こえて来たのは全く知らない男の声だった。
「お前、この男の知り合いか」
「え?」
 思わず掛け間違えてしまったのかと、慌てて電話を切ってしまう。
 もう一度今度は良く良く確かめて電話をかけたけれど、やはり出たのは先ほどの男だった。
「お前、コイツの知り合いなんだろ? 水、買って来てやった方がいいと思うぞ」
 素っ気無く言い切られ、富田はただ呆然と「え?」と聞き返してしまうのだった。







 居酒屋の店内は程よく込み合い活気付いていた。
「何か。すみません。結局僕の思い通りになっちゃって」
 隣でにひにひと森田が笑う。
「それって嫌味?」
 汐耶は呆れ声で言い、焼酎のグラスをつっと煽った。
「だっていつも汐耶さんに嫌味吐かれてますもん」
「嫌味を吐いた覚えなんて一度もないわ。相手にしてないもの」
 ふふん、と酷薄な笑みを浮かべ彼女は森田を見下ろしてやる。
 森田はしおしおと小さく肩を竦めた。
「だっていつも、綾和泉さんてばキミにこの仕事は向いてないとか、平気で言うじゃないですか」
「それは嫌味じゃなくて、真実よ」
 ははは、と軽い笑いが居酒屋の喧騒の中に溶け合う。
「そうかあ。向いてないかあ」
「他人事みたいに言うわね。キミの話よ」
「分かってますってば」
「自覚してるならとっとと辞めるべきね。歳を取れば取るほどやり直しがきかなくなるわ」
「歳を取れば取るほど馴染んでくるってことは、ないですかね」
「どうかしら。それも努力次第でしょうけど」
「僕の伯父さんと、父が。絵に関する仕事してて。幼い頃から何か、そういう世界に辟易してたってこともあって。反動で自分は平凡に生きていきたいな、と思ったんですよねえ。平凡で一般的な仕事したいって。公務員なんかバリバリ硬派っぽいじゃないですか」
「じゃないですか、といわれてもね。その感覚は私には分からないわ。一つ思うのは、キミ、世の中舐めてない?」
「確かになあ。舐めてるかなあ」
「父親に反発する気持ちも分かるし、何も同じ職に就けとは言わないけれど。私にはそんな権利もないし。でも、もっとちゃんと自分に向いたものを探すべきだと思うわ。その結果それがお父様と同じ職種だったのだとしてもね」
「絵は。絵に関わる仕事だけは絶対にしたくないんです」
「頑なね。何か理由があるのかしら……そう、例えば恋敵が絵描きだとか」
「えっ」
 瞬間、図星を突かれたかのように目を見張った森田だったが、すぐにふっと頬を緩めいつもののらりくらりとした仮面を被る。
「ああ、そうかあ。さては汐耶さんの恋人が絵描きとか、かなあ?」
「私じゃないでしょ」
 勤めて素っ気無い声を出し、汐耶は皿の上に投げ出された焼き鳥の空串を指で突く。
「え?」
「私じゃないわ。キミの好きな人の話よ」
「何を言ってんですか。どういう……」
 戸惑いの笑みを浮かべ森田は言ったけれど、その顔は少し強張っていた。
「いいわ」
 汐耶は森田の手からおしながきを奪う。
「良い機会かも知れないわね。四月の人事でキミが入社してきてから、三ヶ月と半年だけど。私は一度だってキミの誘いに乗ったことはなかったし、キミもそう強引ではなかったから……そうね、私には弟はいなかったけれど、弟が居たらこんな感じなのかしらと思う程度にね。でも今日、あそこであの少年と出逢って、結局キミとこうして今ここで二人きりなのも何かの縁だわ。キミの言葉を真剣に聞いてあげましょう。だからキミも正直に言いなさい」
「正直、って」
「隠しても無駄だわ。私には分かるの」
「何が」
 聊か心配げな面持ちで汐耶の顔を見返してくる森田。
 その透き通るように茶色い瞳の奥で、無理矢理封じられた情熱が救いの叫びを上げている。汐耶には見える。狂おしいほどの彼の思いが、彼自身に解き放ってくれと訴えかけている。
「キミが本当に片思いをしている相手のことよ」
 わざと大きな音を立て、汐耶はおしながきをパタリと閉じた。
 すると森田はふっと小さく吹き出し笑いながら、ぐったりと首を垂れる。
「参った、なあ」
「キミは何もかもを上手く隠し通しているつもりだろうけれど、私にはそんなの通用しないわよ。もちろん、キミ自身にも」
「僕自身ですか」
「キミは自分の気持ちに嘘をついている。つまり、自分の気持ちを自分自身で封じようとしている。けれど何かを封じようとするのは大変なことよ。無理矢理それをしようとすると……何処かにひずみが出てしまうものなの」
 グラスにかいた汗を指ですくい、汐耶は木目の美しいテーブルにくるくると円を描く。
 何処かにひずみが出てしまう。その言葉を口にした自分自身、そのひずみで辛い思いをしたことがある。
 彼女はその頭の中で、自分の人生の師のように。あるいはそう姉のように、ずっとずっと大切にしてきたある一冊の本のことを、そしてその本のとり憑いた九十九神のことを思い出していた。
「ひずみなら、もう出てますよ」
 妙にあっけらかんとした口調で言って森田は汐耶の顔を見た。
「ここに」
「ここに?」
「例えば貴方を誰かの代わりにして……言い寄ってみる、とか」
「ああ」
 汐耶は苦笑し何度か頷いた。
「私はいい迷惑だわ」
「すみません」
「他を当たって欲しかったわね」
「たぶん。同じような匂いがしたからかもしれない……いや、中身は全然違うんですけど。綾和泉さんって。何か、独特な美しさっていうか。中世的な。女でも男でもないような美しさ、あるじゃないですか」
「じゃないですか、といわれてもね。自分では何ともいえないわ」
「ああ、いや。あるんです。だから……そういう所が……いや、綾和泉さんの方がぜーんぜん強そうなんですけどね」
 
「キミみたいにずうずうしい男が、どうしてその相手には上手く伝えられないのかしら」
「伝えられないんじゃなくて、伝わらないからですよ」
 口調はあくまで軽かったのだけれど、森田は自らの殻に閉じこもっていくように、首の後ろで手を組んで悲しい笑みを浮かべる。
「何しても僕の気持ちはアイツに届かないんです」
「私にも届かないわよ」
「僕。綾和泉さんにすっぱり無視されたり、断られたり、素っ気無くされたりするの。何だか気持ちよかったんですよね。マゾじゃあないと思うんですけど」
 カウンターの向こうをじっと見たまま森田は自嘲気味に唇をゆがめる。
「気持ちがないなら。僕の物になる気がないなら。そうやって素っ気無くしてくれたらいいんですけどね」
「だからキミは自分からその相手と連絡を絶ったの? そんな、整理のつかない気持ちのまま」
「だって。絶対に自分の物にならない人を……愛してたって仕方ないじゃないですか。僕はいいように扱われたまま。アイツには別に好きな人が居るのに、上手くいってないみたいで。困った時、退屈なとき、淋しくてどうしようもないとき、アイツは僕を呼びつける。僕はアイツを愛してるからついつい出かける。繰り返しで終わりっこない。もう逃げたいんです。逃れられない、自分の気持ちから」
 そう。
 と、相槌を打とうと口を開いたその時、森田のジーンズのポケットの辺りから騒がしいメロディが流れ出した。
「あ。ちょっとすみません」
 森田はポケットから携帯を取り出し電話を受ける。
 汐耶に向け小さく会釈し、店の隅へと移動した。元々それほど広い店ではないし、移動したといっても切れ切れには声が聞こえてくる範囲だが、その心遣いはありがたい。
 真隣で会話を繰り広げられるのは気まずいのだ。
「もしもし? ああ、富田?」
「え? 泥棒? ああ。え? 明日、いけなくなった?」
「キャンセル……ああ。ああ」
 切れ切れに聞こえてくる森田の声。
 汐耶は焼酎のグラスをまた煽る。







 はっと目を見開くと、そこに武彦の顔があった。
「た、けひこ?」
「全く。お前は無茶するなあ」
 ちょんちょん、と鼻の頭に武彦の指が落ちてくる。
「お前、ぶっ倒れてたんだぜ、また」
 呆れ声で言われた言葉に、常澄は先ほどの失態を思い出す。
「ああ、そうか。本を取りに行って……そのまま……倒れたんだ」
「あいつも大層心配してたぞ」
 武彦が顔を向けた先、ドアの隙間から心配げな面持ちでそっと覗き込んでいるルルが居る。
 常澄は自分が草間興信所に連れ帰られたのだということを知った。
「迎えに来てくれたのか」
「まあな」
「悪かった」
「いいさ。迷惑料としてお前には明日一緒に手伝っては貰うけどな」
「明日?」
「ああ。バスで遠出する依頼があってな。俺はただ運転するだけなんだが……帰りは一人だしな」
「どういうことだ?」
「難しい話じゃないさ。お前はただ乗ってればいい。ピクニックといこうじゃないか。おいしい空気でも吸ってな。何ならお前のボディガードも呼んで、そうだ。俺が仲裁してやろう」
「無理だよ。アイツは馬鹿だから……だって今日も本当は」
 呼んだもの。
 小さな常澄の呟きを聞かなかったことにして、武彦はその柔らかい髪を一つ撫でた。
「まあいい。とりあえずもう少し休め。彼女も心配しているぞ」
「彼女じゃないよ、別に」
 もごもごと答えた常澄は、再びその目をゆっくりと閉じた。






 薄っすらと東の空が白み始め、ざらざらとしたコンクリートの上にもゆるゆると光が浸食していく。
 正はただ一心に、そこに切り付けられ投げ捨てられた絵を見つめていた。
 何とも複雑な気分である。もちろん、追いかけていた当初は必ずその強盗を捕まえる気であったし、絵は無事に取り返してみせる、とも思っていたのだ。けれど実際、捕まえてみた強盗はぞっとするほどやつれた顔をした人質の男の方であり、絵はその男の手にあったナイフによって無残な姿となってしまった。
 正はぼんやりと床に転がる二人の男を見やる。
 一人は正の画廊のスタッフである富田だった。そしてもう一人は。
 確か彼は真野と言ったか。
「そんなに惜しいか」
 不意に艶やかな声が、廃墟となった倉庫内に響く。
 正ははっと顔を上げた。
「そんなにその絵が惜しいのか」
 リィンが燃えるように赤い瞳でじっと自分を見下ろしていた。
 あれほど走りたくり、一晩寝ずに明かしたというのに男の肌はつやつやと気力に満ちていた。どうせ人間という括りで語れるような生き物ではないのだろうが、依然としてその正体は不明のままだ。
「惜しいというよりは……悔しいよ」
 小さく呟き正はまた無残に切り裂かれたカンバスを見やる。
「大事な画家の大事な作品だから」
「I see」
「だけど何より悔しいのは。僕はまだまだちゃんと悠太郎自身のことを、知ってやってなかったということだ。作品しか見てなかった自分が悔しいよ」
 正は這うようにして絵の傍へと移動してそっとそのカンバスを手に取った。
「この絵のモデルは悠太郎の彼女だと聞いててね。だけど……彼は」
 富田の隣で微かな寝息を立てる真野へと目を移す。
「錯乱した状態で、悠太郎は自分の物だと叫んでいただろう。どういう意味か。彼の思いこみなのか、それともあるいは。悠太郎自身が招いた自体だったのか。もっと僕が話を聞いてやってれば」
「お前が話を聞いたところでどうにもなるまい。なるようにしかならん」
「ああ」
「俺が分かっているのはそこに寝ている男が泣いていたということと、お前が俺を強盗扱いしたということだけだ」
「すまなかったね。強盗と間違えたりして」
 正が苦笑するとリィンはにやりとその唇をつりあげた。
「よくあることだ」
「ああ。もう朝か。あの水道は水が出るのかな……顔を洗いたい」
「それは名案だ。その顔はひどい。折角の丹精な顔が台無しだ」
 小さなうめき声を上げながら正は立ち上がる。
 昔ならどれだけ走っても次の日に響くことなどなかったのにな。
 固まった体をぐっと伸ばし彼はよろよろと地面からはえる水道の蛇口の元へ歩み寄る。
 けれど同年代の友人の中には、数日を経てから筋肉痛になる者も居るという。それに比べればまだ、ましか。
 固く締められた蛇口を何とか捻ると、どろどろと赤黒い水が流れ出す。しかしそれは暫くすると透明な水へと変わった。
「あー」
 手にすくい顔に叩きつけると、口から思わず声が漏れてしまう。
「あー、気持ちいい。おい、リィン。君も洗うといい。気持ちい」
 そう、笑顔でリィンを振り返った正だったが、その背後で蠢く影を見つけ固まってしまう。
 リィンが訝しげな表情で自分の背後を振り返る。
 視界の先にあったのは、倉庫からよろよろと走って行く真野の姿だった。
「oh...shit!
 起きていたのか!
 正も慌てて辺りに散らばる鉄屑に足を躓かせながら踵を返す。
 しかしどうにも走れそうにない。不眠のせいなのか、それとも昨日、炎天下の中を余りにむちゃくちゃな走り方をしてしまったからか、頭はくらくらするし足元も覚束無い。
 ああ、くそう。
 面映い気持ちでリィンの背中を見送った正だったが、何を思うのかリィンはすぐに倉庫へと戻って来た。
「彼はっ?」
「お前も」
 と、勢い良く口走ったリィンが、突然プツンと言葉を切った。
「なんだ」
 その時突然、ばっと彼の背から大きな羽根が飛び出した。
 純白の美しい羽根。きらきらと粒子のような光が飛び散る。
「君は一体」
 リィンは呆然と呟く正に駆け寄り、その腰をがっちり掴んだ。
「お前も来い。お前にはその義務があるんだろう」








「しかし飲みすぎたわ」
 お弁当の棚を見ていた汐耶は小さな笑いをこぼした。
「出勤だったら仕事になってないわね」
「休みだから誘ったんですよ」
 軽く笑った森田は、自分からコンビニに寄りましょうといったくせに余り興味もなさそうな目で棚を見ている。
 早朝のコンビニには人気がなく、店内は閑散としていた。
「キミがコンビニに寄ろうと言ったんでしょう」
「そうなんですけど」
 小さく笑いを含み、森田は首を振る。
「もうちょっと綾和泉さんと居たかったから、とか」
「まだ言うか」
「で、す、よ、ね」
「このコンビニに何かあるのかしら?」
「恋敵の絵描き」
「え?」
「図星だったんです、あれ。あのカウンターに居るの。僕の恋敵なんですよね」
「ああ」
 汐耶は納得したようにふっと笑う。
「そうだったの」
「はい……」
 小さく苦笑し、森田は商品棚に向けていた目をふっと何気なく入り口の方へ向ける。
 それは本当に意味のない行動のはずだった。
 けれど。
 森田は気づかぬうちにあ、と小さく声を上げていた。
 そこに立つ人。そこにぼんやりとまるで幽霊のように佇む彼を見つけてしまったからである。
「どうして」
「どうしたの?」
 汐耶は隣で呆然と入り口を見やる森田の横顔を訝しげに見つめ、同じように入り口へと視線を向けた。
 その先で彼女は見た。
 コンビニエンスストアーの入り口で、ぼんやりと佇む青年。その手に握られた出刃包丁を。
 咄嗟に嫌な想像が彼女の頭を駆け巡る。青年の目はじっと、カウンターの中できびきびと動く店員に注がれている。余りにもそこに立つ青年が静かなせいか、店員はまだ彼に気づく気配はない。
 一体彼は何をするつもりだろう。あるいは、本当に強盗なのか。そんな思考が彼女の動きを鈍られていた。
 と、突然。
 そこに佇む青年の横を通り抜け、店内に駆け込んでくる男の姿があった。
 フルフェイスのヘルメットを被った、いかにも強盗といった呈の男である。
 どういうことだろう。あの青年は一体何なのだ? この強盗のような男の仲間か?
 呆然とする彼女の周りで、店内だけが、駆け込んで来た男に気づき騒然となる。
 歳若い店員が(それが森田の言っていた恋敵に違いない)ばっとカウンターを抜け出してくる。かすかに上気したその頬が、店員の動転ぶりを現しているようだった。
 何せフルフェイスメットの男の手にはナイフが握られていたのである。カウンターの前でぜえぜえと息を切らす男には、まさに危うい勢いがあった。
「か、金を出せ!」
 やはり、強盗だ。
 妙に冷静に彼女はそう思う。
 危うい勢いを秘めたまま、男がナイフを振り回し勇敢な店員へかなきり声を上げた。
 そう、まず。私はあの男を何とかしなければ。冷静に彼女は考える。とにかくあの男を取り押さえなければ!
 汐耶はだっと駆け出していた。
 その後はまるでコマ送りした映像を見ているかのようだった。駆け出した彼女の視線の先で、強盗が店員をきりつけ、彼はドウと崩れ落ちる。
 呆然とそこに立つ男。カウンターの中で悲鳴をあげる初老の店員(恐らくは店長だろう)。
 ばらばらと近くの棚から零れ落ちる商品。
 そしてふっと、電源の切れたおもちゃのようにうつろな瞳でその場にしゃがみこむ、入り口の、青年。
 気づいた時には汐耶は、フルフェイスの男を床へと叩きつけていた。
 大音量に設定されていたビデオがばっと再生を開始したかのように、全ての現状が彼女の前に押し迫ってくる。
「だ、誰か!」
 汐耶は声をあげながら、がっと腕をねじ上げ、何とか暴れる男の動きを封じようと奮闘する。
「だ、大丈夫ですか!」
 隣から伸びる手。はっと顔を上げるとそこに、眼鏡をかけた丹精な顔つきの男が立っている。
 この男はいつの間に現れたのだ?
「ちょっと森田く」
 汐耶は自分の隣をさっと見下ろす。
 しかしそこに見知った男の姿はない。
 森田が居ない!
 何処に行った? 彼女は方々へ視線を馳せる。
 居た!
 磨き上げられたガラスの向こうに、駆けてゆく森田と青年と、そして銀色の髪の男が見えた。





「と、とにかく車を出して下さい」
 男は車に乗り込むなり早々、そんな言葉をがなりたてた。
 偉く荒い息を吐き出している。恐らくは何処かから全速力で走ってきたのだろう。
 運転席でぼんやりと煙草をふかしていた武彦は、その声にももちろんぎょっとしたのだが、何よりも、駆け込んで来た青年の連れの男の表情に驚いた。
 言うなれば表情のない。青白いを通り越し、死人のような土気色の顔。
 理解するという全てを拒絶したかのような、意思の見えないその瞳。
 そして後ろの座席では、同席していた常澄とルルの二人が、駆け込んできた青年と共にバスへと乗り込んで来たリィン・セルフィスの姿に驚いていた。
「お前!」
 リィンは声を荒げる常澄を全く意に介していないようで、ルルに向け「babe!」と声を上げている。
「どういうことだ?」
 最早武彦には何が何やらわからない。
 が、とにかくリィンは常澄が召喚術を使ったから戻ってきたのだ、と自分なりに納得してみることにした。
 問題は、この二人の青年……。
 武彦はその背後をきょろきょろと見渡し、十ヶ崎正の姿がないことを確認する。
「僕は」
 青年の声に武彦はまた視線を戻す。
「僕は。僕は森田保樹です」
「森田?」
「富田の友人です。そして彼は……彼は……ああ。従業員ですっていうか、富田です」
「はあ?」
 いい加減な相槌を打ってから、武彦はまた二人をじろじろと観察する。
「た、正は?」
「正?」
 眉を寄せた森田の隣でリィンが突然に口を挟んできた。
「そいつなら今、コンビニだ。強盗が入ってな」
「はあ?」
「だからとにかく車を出して貰えませんか」
「いや……待たなきゃ駄目だろうが。慰安旅行の運転手を頼まれたんだぞ、俺は」
「早く!」
 突然、プツン、と何かが切れたかのように真っ赤な顔で青年は武彦を睨みつける。
 その迫力に気圧されて武彦は一瞬仰け反った。
「お願いします。とにかく車を出してください。行き先は……」
 そして結局、武彦はしぶしぶながらも車を走らせたのである。









 今、一台のバスが、田園風景の中を走り抜けていく。
 酷くゆったりとした速度でゆるゆる進むそのバスの車体は、照り付けてくる太陽の光にぴかりときらめき、時折ブルンと溜め息を吐くように排気ガスを吐き出した。
 平坦な道を行く、そんなバスの行き先が何処であるかということは、しかしその青年にとってどうでもいいことである。
 一番前の座席に腰掛けた、細面の華奢な青年。
 彼はその顔にのっぺりとした無表情を貼り付けて、窓の外をじっと見ている。小刻みに震える両手を腹の上でぎゅっと握り合わせ、これから自ずと考えなければならなくなる現実からも、自分が購わなければならなくなるはずの罪からも、そうして密やかに逃避している。最早、この場所が何処なのか、自分が何処に運ばれていってしまうのか、そんな当たり前のことを考える余裕すら彼にはなかった。
 頭の中は霧がかかったようにぼんやりとし、延々と同じ映像を断片的に再生している。
 どろどろとした赤黒いそれがリノリウムのくすんだ白の上に作った小さな水溜り。あの男の悲鳴。コンビニ店員の悲鳴。強盗だ、と誰かが叫び、気がつけば走り出していた僕。
 強盗だと言ったのは誰だっただろう。
 あの男と共に働いていた店員の一人だろうか。それとも、あの男の言葉だっただろうか。
 擦り切れたビデオのように、記憶にはノイズがかかり真実すらも見えなくさせる。
 罅割れる声。大音量の声。脈絡も規則性もなく混乱していく記憶。
 彼は小さな吐き気を催し、細かく震え続ける指先で自らの口元を押さえた。
 人を殺した。
 その言葉が生々しい感触を伴い喉元に込み上げる。
 人を殺した。きっと僕は人を殺した。きっとあの人は死んだはずだ。きっと、死んでしまったはずなのだ。あんなに血が出て、あんなに痛そうだったのだから。
 けれどそれでも僕は後悔しない。後悔などするはずがない。あんな男、死ねばいいのだ。そうだ。死んでくれて良かったのだ。あんな、薄情な男なんかは。
 ガツン、とタイヤが石を噛み、車内に生じた揺れに任せ、彼は光を反射する透明な窓へどっと傾れる。
 うつろな目をした青年の、柔らかそうな茶色の髪がガラスと額の間でぐしゃりとつぶれる。
 冷たいガラスの生々しい感触は、これが紛う方ない現実なのだということを彼へ知らしめてくるようだった。
 これは現実。彼を刺し逃げた僕も。自分の前に滑り込んできた大型バスの扉が開かれるまま、誘い込まれるようにして乗ったことも。
 彼はぼやける視界のまま瞬きを繰り返し、ふっと前方に視線を向ける。
 その瞬間、青年と運転席に座る男の視線が交わった。
「気分が。悪いのか」
 何処か遠くから響いてくる声のように、その声は青年の耳を通り抜けて行く。






















□■■■■■■□■■■■■■■■■■■■■■■■■■□
■   登場人物(この物語に登場した人物の一覧)  ■
□■■■■■■□■■■■■■■■■■■■■■■■■■□



【整理番号1449/ 綾和泉・汐耶 (あやいずみ・せきや) / 女性 / 23歳 / 都立図書館司書】
【整理番号3419/ 十ヶ崎・正 (じゅうがさき・ただし) / 男性 / 27歳 / 美術館オーナー兼仲介業】
【整理番号4017/ 龍ヶ崎・常澄 (りゅうがさき・つねずみ) / 男性 / 21歳 / 悪魔召喚士、悪魔の館館長】
【整理番号4221/ リィン・セルフィス (りぃん・せるふぃす) / 男性 / 27歳 / ハンター】



□■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■□
■         ライター通信          ■
□■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■□



こんにちは。
 不定期バス にご参加頂きまして、まことにありがとう御座いました。


 愛し子をお預け下さいました、皆様の懐の深さに感謝を捧げつつ。
 また。何処かでお逢い出来ることを祈り。
                       感謝△和  下田マサル