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『霊風の、煽る、業火にて』
【序断歎】
初めに、名ありき。
『薊』。
私は感じる、薊と名付けられた私の四肢が、形づくられてゆく。
また、響く、声。
「――だめだ、この出来では!」
バラバラにされる感覚。
私は幾度も作られ、また無に還る。
私は、移せ身。故にはじめに名前ありき。
『薊』――
【少女・薊】
……そう、まだあたしはここにいる。
あたしは贄。
血の海を湧かせし。
屍の壁を築きし。
血族の、贄。
それはさだめ。
物ごころ付く前から、その運命はあたしと共にあった。
だからあたしは絶望しない。
諦めでも、抵抗でもない。
あたしは、贖罪。
なによりあたし自身がそう感じてた、ずっと。
あたしの名は薊という。
だけど、誰かが『きみは誰?』とあたしに聞いたらあたしはこう応えたろう。
「あたしは、あたし。あたしは贖い、贖いはあたし。」
――すでに受け入れた、否、じぶんそのものである運命に、少女は動じない。
そもそも動じることを知らない。
昭和四十二年、五月十八日。
重たい曇り空の下でさえ白い光の輪をつくる、黒髪。
透き通った白い陶器のようにつややかな肌。
牡丹と蔦の紅い小袖を着、母親に手をひかれて歩く少女。
年のころ、九つから十といったところだろうか。
しかしその眼はおよそ九歳の娘のそれとは思えない。
虚ろ、という表現もあてはまらない。
無邪気に、凍った、眼。
あと一年も留まってはいられない予感のするこの世界にこの少女、薊はもう関心がなかった。
右手から伝わる母の手のぬくもりも、一片の感慨すら生まない。
どこに向かっているの、などと薊は両親に問わなかった。
古い白塀の屋敷が並ぶ閑静な通りに入る。
その中のひとつ、質素だが重厚なつくりの門をくぐり、座敷へ通される。
なんなのだろう。
「――ざみ、薊」
父の声に気付いて、薊は顔を上げた。
「なあに?」
「少しお庭に出ていなさい。父さんと母さんはここの人形師さんと大事な話があるから」
「はい」
庭に出ても、格別することはない。
『大事な話』というものの見当は幼心にもついた。
あたしのこと。
両親はなんとかならないかとやっきになっている。
無駄なのに、とは薊は思わなかった。
「さだめを、変える……」
なんとはなしに呟く。
そうそう人間にできることではないみたいだ、
どこか他人事のようにそう感じた。
ひばりが鳴いた気がする。
西の雲が薄くなり始め、遠い山影の緑をかすかに照らそうとしている。
黒曜石に琥珀を薄く浮かべたような少女の瞳に、風景はただ映るだけ――
両親と屋敷の主人であろう人形師がでてくるのに、そう時間はかからなかった。
いや、長いこと待ったのかもしれない。
しかし薊にとって『時間』はたいした意味を持っていない。
近く必ずくる死に、予感はあれど恐怖はない。
ただ目の前の物事が流れうつろう、ものさしに過ぎない。
相変わらず遠くを、その凍った瞳で見つめている。
「では、宗弦さま、どうかお願いします」
「……やるだけやってみよう」
不遜ともぶっきらぼうともいえぬ、青年の声。
その低い声に何を感じたのか。
薊は振り向く。
至高の技術を極めた工人気質らしい、苦味のあるその表情と、無造作に束ねた銀髪。
宗弦と呼ばれた人形師は、目の前で深く頭を下げる薊の両親ではなく――薊を直視していた。
その緑眼は、薄く長い睫毛の影で決意と情熱に満ち々ちている。
(作る。人の身の我が手をもって。運命を変え、ねじ伏せうる人形、この少女を救いえる人形を。作る――)
硬く結ばれた口元とは裏腹に、人形師宗弦の瞳は、そう叫んでいた。
使命感でも義務感でもない。救う。救いたい。
ただ人間らしい思いで静かに燃えている。
そんな彼と薊の、いわば対照的な視線がかち合った時。
とくん。
何かが突き動かされる。
(これは何? これは―ー)
薊は形容しがたい感情に襲われる。
暖かみ。
雪解けてあふれる山水のように胸に押し寄せる言葉にならない何か。
戸惑う。
贄としての命を自覚しながら生きてきた薊にとって、ほぼ初めてに近い心の動き。
戸惑ったことなどなかった。
もとより死を予感している薊に、動揺を与えるものなどなかった。
振りちぎるように薊は視線を伏せ、両親とその場を辞す。
……門を出て少し歩き、なんだったのだろう、と屋敷を振り返る。
動悸が、おさまらない。
焦げ付いたようなもどかしさが、胸から離れない。
その向こうでは、薄かった雲が今は裂け、日光が生き生きと春の新緑を鮮やかにしている。
少し眼を細めて、美しい、と薊は思う。
そんな感傷を感じる自分自身に驚きながら。
その瞳にもう透徹したような無機質さはない。
頬を少しだけ上気させて、彼女の視線は少女らしく、くるくると輝いている。
その日はじめて、少女は寝つけない夜をすごした。
ほんの少しの時間見ただけの、人形師の一挙一動が瞼の裏でいちいち陽炎のように立ち昇る。
「これは何……?」
同様の夜を二日すごした朝、薊はあの人のところへいこう、と無邪気に思った。
単衣に袖を通す。
両親は止めない。
【それは淡く、そして強く、希望へ】
薊は門の前で少し躊躇した。
自分でも何故だか分からない。
それが、想い人から来訪を拒否される恐れだと理解するにはまだ幼すぎた。
結局よくわからないままにからからと下駄を鳴らして戸を叩く。
「なんだ、来たのか」
「うん」
応対に出た宗弦は相変わらず愛想がない。
「遊んでやる暇はないぞ」
「来たら……だめだった?」
「そんなことはない」
よくわからないが嬉しい。
笑顔ひとつ見せずくるりと踵をかえして仕事場へ戻る彼の背中を、薊は小さな歩幅でぱたぱたと追う。
『そんなことはない』と言った彼の言葉を頭の中で転がしながら。
その傍らにちょこんと座り、人形師の指の動きを眼で追う。
邪魔ともなんとも言われないが、無視されてもいない。
あの日感じた暖かみの中にいるようで。
自然と口元が綻んでいた。
「そのお人形、あたし?」
やはり、という言葉を宗弦は飲み込んで、手元から眼を上げた。
「……知っていたのか」
「ううん。でもこの小袖、あたしのに似てる」
しばしの沈黙のあと、決意して人形師は聞いた。
「なぜつくっているのか、も?」
「……わかんない」
一瞬表情が翳ったのを見落とさない。
(嘘だな、知っている――この子は何もかも)
いじらしい。
突くような感傷が宗弦の胸を走るが、顔には出さない――いや、出せない。
滑らかで一片の無駄もない卓越した彼の技術は同時に美しく、薊は魅入られたようにその手元を眺める。
ときおり眼を輝かせながら小さくため息をつく薊。
(こんな顔もみせる娘だったか)
人形師は意外に思った。
はじめてみたときの悟りきっているような印象とはまるで違う。
(ただ似ているだけでは、意味がない。生き写し、それも外見ではない。この少女の魂の在りようを宿すような人形でなければ)
意味がない。運命を変えるには至らない。
素材もそうだ。そして、技術も。
その日、薊が帰った後で彼は他の依頼を全て断った。
小道具師も着付師も工房にいれない。
全て自分でやる。憑かれたようだった。
その後も毎日のように薊は人形師の元へ通う。
人形師は変わらず淡々としている。とくに歓迎の言葉をかけるでもなく、邪険にするでもない。
ただ少し痩せて見えた。
いつものように傍に座ってその仕事振りをみているだけ。
だがなぜだか宗弦の前では、屈託なく笑うことができた。
ときに、仕事場から見える石畳を日照雨がぱらり、と叩いたり。
そんなふとしたことで、同じときに、無言で二人の眼が合う。
たまらなく嬉しくて、薊は宗弦に微笑えんでみせる。
「‥‥‥‥」
微笑を返すわけではないが、薊の視線を受け止める深い瞳の奥から包まれるような優しさが向けられるのを少女は見逃さない。
今、あたし、このひとのやわらかな温もりに抱かれている、そう思い鼓動が踊るのを感じる。
しかし。
同時に自分の運命を思い出す。
――いやだ――ずっとこうしていたい。
生きて、彼と一緒にいたい。
この人形はいくつめなのだろうか、と薊はある日人形師の手元を見ながら思った。
幼い薊の目から見ても人形師は同じ工程を繰り返しているように見える。
完成するのだろうか。してほしい。
そうすれば自分は生きられるかもしれない。
それは初めて贄として生まれた少女に芽生えた、本当の意味での、希望だった。
来るはずでなかった、未来。来るはずでなかった、幸福。
でも完成さえすれば。あたしの代わりに死んでくれる、人形さえ……
祈るような気持ちで日々を過ごすようになっていた。
そんな何日目か。
今日も薊は青年の傍にいる。
外では霧雨。
ただでさえ明るくない宗弦の仕事場に篝火が静かに舞う。
沈黙。
それを破って突然、ポツリと宗弦が呟いた。
「……この私が手がけて。むざむざと、死なすものか」
そうして何事もなかったかのように手を動かしている。
一瞬呆然としてから、薊は彼の胸に飛び込んで泣き出してしまいたい衝動に襲われた。
知っていた、この人は。
あたしの不安、運命、そして生まれた希望を。
あたしは、あたしはただ信じよう。この人を。
【たまかぜの煽る業火】
数日後、少女の身代わりとして作られ少女の名を与えられた人形は、ついに完成し両親の家に安置された。奇しくもか、必然か、薊の十の誕生日だった。
その晩、薊はかつてないほど安らかな気持ちで床についた。
心に人形師の青年の面影を抱いたまま、ゆっくりと降りてくる眠りの帳にたゆたうように身を任せる。
――喉が、痛い――
はじめに視界に飛び込んできたのは、煙を吹く天井。
熱い。
そう思う間もなく薊は咳き込む。
煙と胃液が喉を焼く激痛。突っ伏して動けない。
寝室内にはもうもうと煙が立ちこめ、開けていられない瞼の裏に炎の残像が踊り狂う。
そんなはずはない、こんなはずは。
あの人の作った人形が失敗であるはずない。
でもこれは、なんでこんなことに。
髪が焦げ縮れる臭い。
あたしは贄。
うそだ、うそだ、うそだ。
死にたくない、あの人といたい。
嘘だ、こんなの夢だ、うそだ……嘘……
木の裂ける音が絶叫のように薊の耳に響き、近くに衝撃を感じる。
暗く、遠くなる意識――
「薊っ!!」
ああ、あの人の声だ。
あたしの夢でも、幻でも、最期に聞けたのがこの声でよかった――さようなら。あなたと生きたかった。
そして薊の意識は暗黒に落ちた。
闇から響く声。
(なぜあなたが私でなかった、なぜ私があなたでなかった)
(……誰?)
(私があなただったなら、あの人といられたのに)
(誰なの?)
(薊、私は、あなた……)
弾けるように醒めた。
誰かの腕に抱かれていることを知る。
その逞しい腕が宗弦だと気付き喜ぶ暇はなかった。
あの声。
(私があなただったら、私はあの人といられた!!)
轟々とさかる熱気の中にいながら、薊は氷の矢が背筋を走ったような戦慄に襲われる。
そして――見た。
吹雪の如く散る火の粉。
嵐に薙ぐ柳の如く踊る炎。
その中でこちらを見つめる人形の『薊』。
醜く焼け爛れた白面を憎しみで歪め、こちらを焼き尽くさんばかりの視線で射抜いている。
もう一人の、あたし。
人形のどす黒くすさまじい激情が、業火の津波の如く、息も出来ぬほど押し寄せる。
少女はまた気を失う……。
人形、『薊』は想いを喰らう妖。
少女の薊の魂そのものを、その恋心をも宿された故に。
これもまた、宿命か。
はじめて彼女が喰らったのは、移せ身の人形である故に所詮叶わぬ己の恋心。
身代わりとして生まれた故に実らぬ、宗弦への、愛。
武家を焼き尽くす炎だけが、我関せずと狂喜乱舞を舞い続けていた。
-Fin-
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