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<東京怪談ノベル(シングル)>


帰るべき場所へと――
東京まで、あと数時間。
頭をよぎるのは優しくしてくれた人達の笑顔、雄大な自然、そして……。



「ベ、ベルギーッ?!」
相澤蓮、29歳。職業、製菓会社の営業、成績は上々。
人当たりがよく、誰にでも好かれていた彼に突然言い渡されたのは、伝説のチョコレート職人にオリジナル商品の製作を依頼するための海外出張だった。
大事な仲間に挨拶をする時間も許されぬまま、蓮は一人ベルギーへと向かうことになった。
『ん、ちゃちゃっと済ませて帰ればいいよなっ。』
そうお気楽に考えていた彼を襲ったのは、突然の交通事故。
ぐるん、風景の天地が一瞬にして逆転する。
「えぇえっ!マジかよっ!?」



蓮が目を覚ましたのは事故翌日。
「いててててっ!」
右腕と腰には包帯、全身に激痛が走る。
辺りを見まわしてみると、きこり小屋のようなログハウスだが、どうやら病院らしい。質素な医療用具がテーブルに並んでいた。
しんと静まり返っていて、聞こえるのは小鳥の声のみ。涼しい風が、窓から入ってくる。
身体は痛いが、なんて心地が良いんだろう。
目を瞑り、風を感じていた蓮は、ふと思った。
「……ここ、どこだっけ?」
首をひねって蓮は暫く考え込んだが、思い出せないのだどうしても。
ここがどこなのか、どうしてここにいるのか、なぜここにいるのか。
自分の名前以外、何ひとつ――。

「ま、いずれ戻るだろっ★」
あっけらかんと、まるで人ごとのように笑う蓮。こういう所が良いところでもあるのだが……。
そこへ80歳代くらいだろうか、白衣を着た白いヒゲの、とても優しそうな老人が部屋にやってきた。
「おや、気がついたようだね。気分はどうだい?」
もちろん言葉は日本語ではなかったのだが、なんとなく何を言っているのか、蓮には理解できた。
そしてなぜだか妙に懐かしい気持ちになったのだ、おじいさんの話す、そのドイツ語に――。


1年という月日は、あっという間だった。
傷などとうの昔に癒えていたが、すっかりドイツ語にもこの小さな村にもなじんでしまった蓮は、まだ病院で暮らしていた。
じいちゃん先生の手伝いをし、じいちゃん先生の唯一の家族である孫息子や、遊びに来る近所の子供と遊ぶ。
未だに記憶は何一つ戻らなかったが、そんな毎日があまりに穏やかで幸せだったから、大して気にもとめなかった。
ただ気になることと言えば、時折見かける少女の揺れるツインテールを見る度、こころが何故かざわつくことくらい。



そんな夏のある日、別れは突然にやってきた。
蓮をまるで息子のように可愛がってくれたじいちゃん先生が、老衰で亡くなった。
最期に蓮の手を握りしめ、すまない、と呟きながら……。

「レン、これじいちゃんが隠してたやつ……渡してくれって。」
孫息子は蓮に、小さな旅行カバンと一通の手紙を泣きながら手渡してくれた。
手紙には、見慣れたじいちゃん先生の優しい文字。




『すまない、蓮。
 孫がおまえを慕っていることを考えると、おまえに記憶をとり戻して欲しくなかった。
 すべてはワシのエゴだ。ワシが死んだら、孫は息子が引き取りに来るだろう。

 ありがとう、蓮。
 おまえは自由になれ。』




心に風が、吹き抜ける。
もう一人の自分が、頭の中で叫ぶ。

オモイダセ
オモイダシタイ
タイセツナ オモイデ
カエルベキ バショ
カエリタイ

蓮は慌てて旅行カバンの中身をひっくり返した。
Tシャツ、ジーンズ、日本製の煙草、100円ライター、名刺、企画書。

「違う、俺…俺が探してんのは……!」

ふと、さくらの花びらが目の前を舞った。
ひらり、ひらり――。
ゆっくりと舞い落ちたその場所にあったのは、一枚の写真。


咲き誇るさくらの木の下、赤い髪の青年と幸せそうに眠る自分の姿。
「…この落書き、油性でなかなか落ちなかったんだよなっ。」
自分の額に描かれた『肉』の字を見て笑ったはずの瞳に、とめどなく溢れてくる涙。
理由は自分が、一番よく知っているはず――。
涙を拭うことも忘れ、蓮は写真を、そっと撫でた。


左手には油性ペンを、右手はしっかりと、蓮の右手を。
写真越しにこちらを見ている青空色の瞳のその少女の髪は、ずっと蓮のこころをざわつかせていたツインテール。
一年もかたくなに封印され続けてきた記憶は、たった一枚の写真によって今、蓮の中に色鮮やかに蘇った。

「……帰ろう。」




全て、じいちゃん先生から聞いて知っていたのだろう。
孫息子は寂しいと泣きながらも、蓮を暖かく見送ってくれた。
「また、会いにきてくれるよね?」
「ん、次は俺の大事な仲間と一緒にくるからよっ★」

楽しい日々を、ありがとう。
楽しい思い出を、ありがとう。
村のみんなに見送られながら、蓮は笑顔で村を後にした。




飛行機の中、はやる心を抑えきれず、写真を眺めては微笑む蓮。もうとっくに日本時間にセットし直した腕時計の針が、少しでも早く進まないかとさえ思う。

東京に帰ったら、またあのパチンコ屋に行こう。
会社、どうなってっかな。
あいつとまた、あの居酒屋で酒が飲みてぇな。
それから、それから……。


浮かぶのは彼女の、満面の笑顔。
1年も離れていた自分のことを、彼女はどう迎えてくれるのだろう。

怒っているだろうか。
泣いているだろうか。
喜んでくれるだろうか。
それとももう、忘れてしまっただろうか。

どんな結果でも構わない。ただひたすらに、会いたい。
けれど願わくば、あの日のような最高の笑顔が、見られますように。
そしてさらに願わくば、彼女の温もりを、この腕に感じられますように。
誰よりも近くで……。




東京まで 彼女まで あと数時間――。



【fin】