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花茨
うだるような暑さが続く。
東京の夏もいよいよ盛りを迎え、窓を開ければ蝉のミンミンシャワシャワと鳴いている声が部屋中を埋め尽くす。
もっとも、こう暑くてハ、わざわざ窓を開けて夏の暑気を部屋に招きいれることなんか、あんまりしたくはありませんけれどもネ。
手をうちわにしてあおぎつつ、デリクはうんざりとした眼差しでベランダの外を確かめた。
デリク・オーロフの名義で借りているマンションのベランダには、良く云えば自然を感じさせる素朴な並びを施したガーデニングが広がっている。
レモングラス、ローズマリー、アップルミント。カモミールも白く可愛らしい花を咲かせ、暑気にもめげず、風に揺れている。
しかし、ハーブの緑をさえぎるように主張しているのは、ところ狭しと咲いている数種類のバラの花。
セントセシリア、メアリーローズ、ジョンクレアにグラハムトーマス。
鮮やかな色彩のバラがベランダを埋めつくし、凛と胸を張るレディのように誇らしげに花弁をそよがせている。
「……あぁ、そういえバ、今日はまだ水をあげていませんでしたネ……」
呟き、ダークブロンドの髪をかきあげる。
ソファーの上に寝転がり、見上げる空は、気持ちが萎えそうなほどに真青だ。
げんなりと表情を歪め、かきあげた髪をそのままわしわしとかきむしる。
「あぁ、そうデス。今日はウラの仕事というコトにしてしまいまショウ!」
軽く手を打ち、読みかけていた本を閉じてテーブルに放りやると、デリクは身体を起こしてウラの部屋のドアに目を向けた。
「ウラ、」
声をかける。――もっとも、名前を呼んだところで、素直に顔を見せるようなタイプではないのだけれど。
しかし、デリクは呼びかけたその名前を、途中で飲みこんだ。
――アァ、そういえバ、ウラは昨日、エジンバラに帰ったんでシタっけ。
+ + +
玄関を開けると、そこには両手を腰にあて、仁王立ちになっているウラの姿があった。
フリルがたくさんあしらわれた真紅のワンピース姿のその出で立ちは、一見すればアンティークドールのようで、愛らしくも美しい。
「おや。どこかへお出かけデスか?」
外から帰ってきたばかりのデリクは、汗を拭きつつ笑いかけて訊ねた。
ウラの手には、黒い日傘と革の旅行鞄とがぶら下がっている。一見すれば、どこか旅行にでも出かけるのであろう事は見てとれる。
「お出かけですって? つくづくおめでたい人ね、デリク。あたしはエジンバラに帰るのよ。もう一秒だってこんな暑い場所になんかいられないわ」
早口でまくしたてると、ウラはふとデリクの腹へと目を向ける。
デリクとウラが共有で使っているリビングまで立ち入ると、デリクは買ってきたばかりのアイスを口に運び、革張りのソファーの上に体を横たえた。白の襟付きノースリーブシャツのボタンは、真ん中の一つだけが閉じられていて、程よく引き締まった腹部が露わになっている。
「もう、ダラしない。外から帰ってきてすぐにごろ寝するなんて、オヤジくさいわよ、デリク」
デリクを追いかけて部屋の中へと戻ってきたウラは、横になってアイスを食しているデリクを見下ろし、そしてそのヘソに光る真新しいピアスをまじまじと確かめた。
「新しいピアスを買ったのね、デリク。……ふぅん、今回のはちょっとはセンスいいじゃない。ターコイズが可愛らしくて素敵。クヒヒッ」
述べながら、手にした日傘でデリクのヘソについたピアスを突つく。
「ちょ、やめてくださイ、ウラ。私のヘソを取らないでくださいネ?」
リング型のピアスに、日傘の先端が滑りこんできたのに気がつくと、デリクは慌てて体を起こし、ウラを制した。
するとウラは不愉快そうに眉間にしわを寄せて、日傘を振りまわしつつ声を荒げる。
「ヘソを取るのは雷よ! それともなに? デリクはあたしが雷みたいにうるさいとでも云いたいのかしら? あぁ、もう不愉快だわ! この暑さ! この湿気! 不快だわ、不愉快だわ! こんなところに住んでいられるなんて、尋常じゃないわ!」
思い出したようにまくしたてて、ウラはフンと鼻を鳴らす。そして踵を返すと、重たげな鞄を持ち上げて玄関へと向かったのだった。
ずかずかと玄関へ向かい、必要以上に大きな音をたててドアを閉めて出ていったウラを、デリクはソファーから身を起こして見送ったが、やがて小さなため息をもらすと、再び寝そべって、溶けかけたアイスを頬張った。
「……賑やかですネェ、ウラは」
呟き、ベランダの向こうを見やる。
風にそよぐイングリッシュ・ローズの向こう、青々とした空に、一筋のひこうき雲が伸びていた。
+ + +
屋根のおかげでいくらか日陰になっているとはいえ、ベランダにもまた暑気が満ちている。
じょうろを手に、ハーブやバラに水をさしていく途中、デリクはふと顔をあげて玄関を確かめた。
閉めていたはずの鍵が開き、ドアが開かれる。中に入ってきたのは、昨日と同じ服装のウラだった。否、大きく異なるのは、その表情だろうか。満面にたたえた笑顔。時折なにやら思い出しては肩をふるわせ笑っている。
ウラはリビングの床に鞄を放り投げると、しばしきょろきょろとデリクを探し、そしてベランダにいるデリクに気がついて、いそいそと足を進め、近寄った。
「こんなところにいたのね! あたしが帰ってきたのだから、もっと喜んで出迎えたらどうなの? ああ、でもそんなことはどうでもいいの! クヒッ。もう、思い出すだけで楽しくなっちゃうわ!」
口許を両手で隠し、ひとしきり笑った後、ウラは何かを催促するような眼差しでちらりとデリクを確かめた。その視線の意図をくみとったデリクはやれやれと肩をすくませて、じょうろをゆっくりと動かし、笑みを浮かべる。
「なにか面白い事でもあったんデスか? 良かったら聞かせてくださイ」
「そんなに聞きたいなら教えてあげるわ! ヒヒッ。そうよね、デリクもマンドラゴラの世話ばっかりじゃあ、どんどんオヤジくさくなっちゃうものね。刺激が必要なのだわ!」
デリクの言葉に間髪いれずそう返し、ウラはデリクの足元に目を向ける。
小さな鉢の中、顔を覗かせたばかりの葉が、平穏な眠りを貪っていた。
「――――へぇ、謎めいたホテルに、有名パティシエですカ」
「そうよ! 面白い本も見つけたのよ」
「本デスか。私もちょうど読み始めたばかりの本があるん」
「あたし言ってやったのよ。騙される方が悪いのよって。クヒッ、クヒヒッ」
「……人が話している時は、ちゃんと最後まで聞いてやるものデスよ」
リビングのテーブルについているウラに、淹れたての冷えたアールグレイを運び、デリクは小さなため息を一つ。
ウラはデリクのため息になど素知らぬ顔で、グラスに手を伸ばした。
「そうよ。あたしに出されたケーキはなんて名前だったと思う? 吉備津よ!」
アイスティーを一口すすり、その味に満足すると、ウラはクヒヒと笑い、目を細ませる。
「吉備津? 雨月物語の中の一話デスね」
「そうよ。ブランデーとチョコを浸したスポンジの美味しいことっていったら! ああ、また食べたいわ!」
ケーキのその味を思い出しているのだろうか。ウラの目はぼんやりと宙を眺め、うっとりと頬をゆるめている。
その表情に微笑して、デリクはテーブルに頬づえをつき、口を開いた。
「”吉祥には釜の鳴音牛の吼ゆるが如し。凶きは釜に音なし”でしたカ。私が思うに、吉備津の釜が鳴っても鳴らなくても、男は女の怨霊に取り殺されたと思いマスね。吉でも凶でも、行きたい道を行けばよろしいのですヨ」
「あら、いいこと言うわね、デリク。確かにその通りだわ。やりたいようにやればいいのよ。どうせ世界を廻すのは、このあたしなんだから」
クヒッ。笑い、端正な顔に引きつった笑みを滲ませ、小首を傾げる。
デリクは頬づえをついたままでウラの笑顔を見つめ、苦笑いをこぼして小さくうなずく。
「――――そうデスね」
呟くようにそう返すデリクに、ウラは楽しげに肩をふるわせる。
グラスの中で、溶けかけた氷がかすかな音を鳴らした。
「東京の夏も、結構面白そうだわ。しょうがないから、デリクに付き合ってあげる。しがない英会話講師じゃ、休みなんかあんまりないのだろうしね!」
―― 了 ――
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