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ゆったりと、ゆっくりと。〜納涼専科〜
「あ〜」
「ぢ〜」
「いぃ〜」
たっぷり30秒かけて、地獄の底から這いあがってくるような呻き声が熱気溢れる待合室に響いた。
声の主は、長椅子にだるそうに長々と伸びている着流しを纏った長身の男―――門屋 将太郎である。
ここは都内某所の雑居ビル。
古いだの、ボロいだの言われている年季の入ったこのビルに、将太郎が所長を務める『門屋心理相談所』はある。
「暑い、暑い、暑い、暑い、暑い、暑過ぎるっ!!」
本日、何度口にしたか分からない『暑い』という単語を連呼した将太郎は虚しく吼えた。
「今年一番の猛暑かなんかしらねぇが、連日連夜暑いったらありゃしねぇ」
ぶつぶつと文句を言う彼の声には覇気がない。
30度を越える連日の暑さにすっかり参ってしまっているのだ。
「ほ…北海道に逃亡してぇ…」
切実な響きを孕んだ呟きが、人気の無い待合室に落ちる。
少しでも涼しいところへ、と待合室を選んだのだがほんの気持ち程度涼しいくらいでたいして変わらない。
あお向けに伸びた将太郎の着流しの裾がだらしなく捲れ、骨ばった膝小僧が覗いている。
所々染みのあるベージュ色の天井を見つめる紅の瞳が、ちらりとリビングへの扉を見やる。
「……うー。駄目だ、駄目だ」
我慢、と口中で一人ごちてクーラーの誘惑から目を背けた。
一応、『門屋心理相談所』にもクーラーは存在するのだ。
ただし、クライアントが来た時と、寝苦しい夜にリビングで寝る時と決めている。
ひとえに電気代が勿体無いから、である。
そんな諸々の事情が重なって、我慢大会のような暑さ地獄に一人立ち向かっているのだ。
「…しっかし、こう暑いと電気代なんて言ってらんねぇし…」
家計が苦しくなるのは目をつぶることにしようか、などと敗北宣言を紡ぎそうになった時、不意と脳裏に過るものがあった。
良く磨かれた木造の廊下、涼しげな音を立てて揺れる硝子の風鈴、並んで冷えた西瓜を齧った縁側。
「…―――そうだ、アレだ!」
言うなりむくりと体を起こし、立ちあがる。
「ええっと、先ずは盥、たらい……っと」
洗面所へと足を運んだ将太郎は目当ての木製の盥を見付けられず、落胆するも直ぐに気を取りなおしたかのように少し底の深めの洗面器を探し出し水を張って待合室の床へと置く。
更に冷蔵庫へと取って返し、製氷機ごと持ってくると洗面器にどかどかと氷を放り込んだ。
「――よし。これで完成!冷水足欲♪」
腰に手を宛がい、どこか得意げな表情をし冷え冷えとした冷気を放つ洗面器を眺める。
未だ彼が幼い頃に祖父が教えてくれた、物が無い時代の涼み方であった。
初めて目にした時は、こんなもので涼しくなんてならない、と馬鹿にしていたものだったが、なかなかどうして実際にやってみると心地好い涼しさが手に入るのだ。
「儂の小さい頃は、こうして涼しくなったもんじゃ……」
縁側で皺の寄った顎を撫でながら、どこか遠くを見つめる瞳をしながら祖父は語ったものだった。
その後、何度聞いたか数えるのも億劫になるほど聞かされた――…祖父の小さい頃の腕白っぷり、果ては祖母とのなれ初め迄…数時間に及ぶ思い出話に付き合わされるのもお約束だったのだが。
「…っと、さて。早速浸かるとするか。――の、前に着流しに襷がけしとこ」
終いには暗唱できるほどになってしまった祖父の思い出話に知らず苦笑いを浮かべた将太郎は、汗で滑る押さえの部分を軽く拭くと、少しでも涼しくする為に襷を探すべく別室へと踵を返した。
「……おい」
…すぴー。すぴょー。
調査を依頼に来た草間の声に応じるのは所長、門屋将太郎の――…健やかな寝息。
「コラ、門屋」
暑い最中に出向いて来たために汗だくになっている草間と反対に、将太郎はかなり幸せそうだ。
白い襷によって熱の篭る着流しの袖は襷がけされていたし、くるぶしの辺りまで浸かっている洗面器には溶け残っている氷がぷかぷかと浮かんで実に涼しげである。
「……くそ。勝手にあがらせてもらうぞ」
汗で濡れたシャツが肌に張り付く不快感も手伝って苛ついた草間は、心地好さそうに眠っている相手の背中に氷の一つでも入れてやろうかと思ったが、寸前で自制した彼はずかずかと応接室へと進んで行く。
無論、設定温度を24度と北海道並に低くしたクーラーで涼む為である。
――…数時間後、目を覚ました将太郎と草間の間でちょっとした騒ぎが起こったのは言うまでも無い。
<FIN>
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