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<PCシチュエーションノベル(ツイン)>


ヨハネの受難 -prelude-


 晴れやかな空をくじらのような雲が泳ぎ、木々の枝に生い茂る葉が太陽の恩恵を受けてたっぷり光合成する。飛び疲れた小鳥達はしばしの休息を求めて地上に舞い降り、同じように木陰で休んでいた労働者の耳に心地良いさえずり声を聴かせる。生きとし生ける者らが『歓喜に寄す』を大合唱しているような気持ちの良い日、真っ先に生命の喜びを享受すべきでありながら、その役目を果たしていないときは静寂によって外界の営みから切り離されている神の家で、僕ことヨハネ・ミケーレはオルガンのコンソールに向かっていた。
 信仰を助ける道具である音楽はこの神の楽器によって奏でられ、僕の身体の奥まで染み渡り、聖堂を満たし、そして僕の師匠の上には安らかな――
 安らかな眠りを提供しているのであった。
 もう、いつも寝入るんだからなぁ、師匠は。
 頂点を目指して登りつめていくバッハのコラールは(と僕はストップを引き出した。より広がりのある音色に変わった)、今ややかましいくらいの音量で響き渡っているというのに、彼曰くバロック音楽は眠りを誘うんだそうで、今日も例外なく、我が教会の司祭様は日曜礼拝の選曲中に午睡を貪っておられるのであった。
 なんだかなぁ。グレゴリアン・チャント時代の教会旋法は読めるくせに、西洋音楽の五線譜となるとてんで駄目なんだから。
 そういえば、僕がオルガンを弾いている最中に、同じように眠りこけている奴がいたな――だなんて、僕はふと懐かしい人物を思い出してしまった。懐かしいけれど、もう一度会いたいかと問われると微妙っていうか、奴と一緒にいても十中八九トラブルばかりだよなっていうか、僕の静かな信仰生活がぶち壊しっていうか――
 くしゅん!
 いきなり鼻がむずがゆくなって、僕は小さなくしゃみをした。クライマックスを迎えてきた旋律がぶつっと途中で切れる。
「嫌だなぁ……夏風邪かしら」
 今のくしゃみで集中力が切れてしまった。楽器を弾くには集中力を要するもので、これが一度途切れてしまうと、ろくな音楽は奏でられなくなってしまう。訓練された指は演奏者の意思などとは無関係に、機械的に動くものだけれど、気持ちの入ってない音は字義通りただの「音」で、「音楽」にはなりえない。
 奴との思い出なんてろくなものがないけれど、時に音楽について真剣に交わした議論だけは、それなりに価値のあるものだったかな、なんて思う。教会音楽にはてんで疎く、ベートーヴェンとかマーラーの交響曲を大音量でかけては、指揮の真似っこをして楽しんでいるような奴だった。僕が声楽指揮の専門であるのに対して、奴はどちらかというと器楽寄りで、その点でも色々刺激があったっけ――。
「久しぶりに会いたいような……そうでもないような?」
 ちょっと複雑な心境だ。
 このままオルガンを続行できそうな気もしないので、寝こけている司祭様はそのままに、僕はこっそりと聖堂を辞することにした。オルガンの蓋に鍵をかけて、すっかり頭に入ってしまっている楽譜を手に楽器の前を離れた。
 教会の外に出ると空は眩いばかりの青色で、否応にも日本の夏を実感させる。着慣れている黒い僧衣が、ちょっと暑苦しく思えてくるほどだった。それだのに身体の芯にぞくっとするような寒気を覚えて、
「夏風邪じゃ……ないよねぇ……?」
 誰にともなくつぶやく僕であった。



 滑走路に着陸したボーイングから地上に降り立ち、成田空港から一歩出た途端に、
「うお、暑い。マジ暑い。なんだこの暑さ。蒸し風呂状態じゃねーか」
 むっとするような熱気に襲われて、俺ことマシュー・リベラーニは不平を垂らした。
 日本の八月は地獄だと噂には聞いていたが、まさかこれほどまでとは……。
 直射日光を避けるためにサングラスをかけた俺は、傍から見れば、時機を誤って極東に観光しにきた外人さんって具合だったろう。正確にはヴァチカンの修道院から半ば追い出されるようにして、日本の神学校に留学しにきた落ち零れ神学生、なのだが――
「差し当たってやるべきことは、トーキョー観光、だよな。やっぱり」
 これから数年この地に世話になるわけでもあるし、やはり最初に地理は把握しておかねばならない。
 なるほど、時機を誤った感は無きにしも非ずだが、いずれにせよこの暑さにも慣れなければならないわけだし。幸い体力には自信がある。『あいつ』だってこのクソ暑い日本の夏に適応できているんだから、俺にできないはずはあるまい。
「……ふふふ」
 その『あいつ』の驚く様子を思い浮かべて、忍び笑いを禁じ得ない俺である。
 いきなり奴の教会を襲撃したらさぞかし驚くことだろうな。しばらくは奴のところに厄介になることになるだろう。トーキョーでできた女の一つや二つ譲ってもらうってのも悪くない……待て、あいつそういうの興味なかったっけかな? いや、あれは好きな女がいても、臆病風に吹かれてろくに気の利いたことが言えないっていう純情タイプだよな。天然記念物級の。よし、からかうネタが一つできたぞ。
「ふはは!」修道院時代のように毎晩奴をからかって遊べると思うと、高笑いを禁じ得ない俺である。「待ってろよ、ジョン!」
 思いっきり、なんだこのガイジン、という不審そうな目を向けられながら、東京にいるはずの元ルームメイトに向かって宣言する俺であった。



 また、寒気。
 ぞくっと背筋に走った悪寒はいよいよ僕を苛み始めて、寒気によるものばかりではない震えを抑えることができなかった。夏風邪じゃなければ、絶対何か良くないことが起こるっていう虫の知らせだ!
 伊達にエクソシストなんかやっていない。この手の勘が当たることを嫌というくらい知っている僕は、思わずロザリオを握り締めて聖堂に駆け込んでしまった。
 後ろ手に聖堂の扉を閉め、僕ははぁ、と深呼吸する。悪魔だか何だか知らないけれど、多分、きっと、聖堂の内部までは入ってこれまい――。
 と。
 先ほどまで師匠が眠りこけていた場所に残された、一通の手紙のようなもの、が目に飛び込んできた。
 僕宛になっている。僕に渡すつもりで忘れていたのだろう。消印はヴァチカン――
 ヴァチカン?
 嫌だなぁ、僕は破門されるようなことなんて何もしてないはずなんだけれど、と思わず自分の過去を振り返ってしまうあたり、僕の信仰生活も難儀なものだ。
 封筒を裏返して差出人の名を見た瞬間、謎が一気に氷解した。僕の顔はさぞかし蒼褪めていたことと思う。
「Matthew Liverani……?」
 英語名とイタリア名の混在。
 名前の通り、アメリカとイタリアの気性がごっちゃになった難破で陽気で強引な困った奴。
 日本に渡った後もたまに連絡は取っていたけれど、このタイミングで来る手紙っていったら……。
 僕はおそるおそる封を切って便箋に目を通した。読みにくいこと極まりないイタリア語で、日本はどうだーとか相変わらずオルガンばっかり弾いてるのかーとか、こっちは最近コンクラーベがあって大変だった云々といった近況報告の終わりに、
『そんなわけで、8月末に日本へ行くのでよろしく』
 と、素っ気無く書かれていた。
「よろしくって……よろしくって!」
 僕はふと眩暈を覚え、よろめき信徒席の背もたれに手をついた。「ああ、神様……僕にこのような試練をお与えになる理由を、その理由を教えて下さい……!」
 もちろん、そこまで親切な神様ではない。
 聖堂の扉が開き、外の眩い光と共に聖堂内に侵入してきたのは、もちろん天からの御使いなんかではなく――、
「ヘイ、ジョン! 久しぶりー!」
 僕に試練をもたらすべく海を越えてやって来た、僕の元ルームメイト、なのであった……。



「僕はジョンじゃないってばー!」
 再会の一言目がそれ。
 何やら信徒席に手をついてうなだれていた俺の元ルームメイトは、きっと顔を上げたと思うと、『ヨハネ』の英語読みに抗議をしてかかってきた。
「やぁ、元気にしてたか、ジョン? 相変わらず小さいなー」
 もちろんそんなものに構う俺ではない。今も昔も僧衣がぴったり似合っているルームメイトの頭をぐりぐりやる。ヨハネは俺をぎっと睨み上げてきた。
「小さくないっ! 君と2センチしか違わないだろ!」
「残念でしたー。俺はさらに3センチ伸びたのだ」
 日本では頭一個分飛び出しているヨハネ・ミケーレだが、どうも「小さいねぇ」と頭を撫でたい衝動にかられてしまうのだ。要はいじられキャラなんだよな。
「手紙読んだ? そういうわけで今日から世話になるんで、よろしくー」
「急も急だよ、世話になるってどういうこと!?」
「ほら、俺日本語わかんないし?」
「ろくに言葉もわからない癖に、なんで日本なんかに……!」
「いやー、俺の不良っぷりに修道院長が痺れを切らしちゃってさー。破門まで一年の猶予をやるから、その間に外の世界で神学を勉強し直してこいって」
「だからなんでよりにもよって日本なんだよう! アメリカに行けばいいじゃないか!」
「折角外に出られるんなら知らないところがいいじゃん? そういやジョンが日本に行ってたっけなーって思い出してさ」
「だから僕はジョンじゃない!」
 一生懸命抗議しているジョンは無視。
 俺は物珍しさも手伝ってぐるぐると聖堂の中を歩き回る。「おー、立派なオルガンがあるねー。もちろんここでもオルガニストやってるんだろ? 久しぶりにジョンのオルガン聴きたいなー、でもどうせ寝るなー」
「僕の話聞いてる!? 世話になるって、具体的にどういうことなのさ。ちょっと、マタイ!?」
「いやだからおまえも、その呼び方やめろよ。マシューだって言ってんだろうが。世話になるって、そりゃ、一年間ここで奉仕の手伝いさせてもらうわけだし――」
「そんなの聞いてないよ!」
「あれ、聞いてないの? 院長から話が行ってない?」
「院長? 院長公認なの!?」
「修道会公認」
「あああああ……」
 ヨハネは何やら断末魔みたいな声を上げて、崩折れてしまった。
 神様神様、とロザリオを握り締めてぶつぶつ祈っているが、どちらかというと祈りではなく恨みつらみなんじゃなかろうか。
「さて、ジョン。暑いが外は良い天気だ。というわけでトーキョー観光にいこう」
 俺はヨハネの僧衣の袖を引っ張って、ずるずると表へ引き摺り出した。抵抗する気力もなくなっているようだ。
「東京観光って……どこへ……」
「どこでもいいけど――あ、そうだ、新宿行こう新宿。日が落ちてから」
「日が落ちてからって」
「その僧衣じゃ駄目だな。なんか普段着に着替えてこいよ」
「え、待って、どこに行くつもり――!?」
「歌舞伎町」
「君はもう、どうしてそういう教育上よろしくないような場所ばっかり……! ほんとに神学を勉強し直す気あるの!?」
 奴らしい生真面目さでなんやかんやと小言を言うヨハネ。俺は俺でマイペースを崩す気もさらさらなく、なんだかんだいって修道院時代とポジションはまったく変わっていないわけで。
 これからのことを考えると愉快で仕方なかった。
「今日は徹底的につき合わせてやるからな。久しぶりの再会だし! 飲みに行こうぜ」
「だから、ちょっと待って……ああもう、君って奴は……君って奴は……!」
 ヨハネはロザリオを握り締め、一瞬の間うつむいていたと思うと、
「神様、こいつをなんとかして下さいー!!」
 天井を振り仰いで、憤懣やる方ないといった様子で叫んだ。


 ――ヨハネの受難は、始まったばかりである。



Fin.