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□黒衣の想定外□
職員玄関で靴を履き替えながら、天祥胤 陽は顔をしかめた。また今日も靴下が濡れてしまったばかりか、ズボンの裾に泥まで跳ねている。上履きにはき替えると湿った感触が足から伝わり、つい溜め息まで出てしまう始末だ。それに加えて、外から絶え間なく響いてくる音が、憂鬱な気分を更に増大させた。
雨。この単語をもう何度、天気予報から聞いただろうか。昨晩のニュース番組で観た今日の天気予報図を思い出す。明日もまた一日中雨が続く模様です、そんな声が聞こえたすぐ後、陽はテレビを消した。雨自体は好きでも嫌いでもなかったが、ここ最近街に居座っているこの雨だけは、どうしても好きになれそうにもなかったからだ。
何故だ。と問われれば、彼自身何も返す言葉はなく、ただ漠然とした不安があったからとしか言いようがない。五月の終わりともなればそろそろ梅雨入りしてもおかしくはない時期なのだから、長雨が来ても当たり前だろう。そう自分に言い聞かせても駄目だった。空に暗雲が広がるように、雨が続けば続くほどに不安は日々、増していく。
一体何がこれほどまでに自分を不安にさせるのだろう。雨粒の冷たさか、それとも、まとわりつくようなこの湿気を含んだ空気か。
分からない。
陽はしばらくの間にらむようにして外を眺めていたが、やがて踵を返すと職員室への階段を上り始めた。今は考えても詮無いことだった。それよりも、今日行う授業の内容の事を心配しなければならない。
生徒たちは最初、単に自分を見慣れない外国人としてしか見ていなかったようだったが、最近になってようやく慣れてきてくれたのか、他の教師たちと同じように語りかけてくれるようになった。
生徒たちが向けてくれる信頼を崩さない為にも、まずは自分の本業である「教えること」にきちんと身を入れなければならない。
通り過ぎていく生徒たちからの挨拶に笑顔で言葉を返しながら、陽は背筋を伸ばして職員室への道を辿っていく。
気を取り直そう。さあ、今日はどんな風に授業を進めようか――――。
誠実そうな背中へと、再び生徒からの声がかけられた。
陽は笑いながら、おはよう、と朝の挨拶を返したのだった。
教科書を手に声を張り上げる。
いつもなら少し大きいぐらいの声量だったが、今日のような雨が強い日にはこれぐらいしなければ後ろの方まで届かないのだ。
おかげで最近は喉が疲れるよ、と教師仲間がぼやいていたのを思い出しながら黒板へ板書を始めると、背後で一斉に空気が動くのを感じた。皆がノートへ集中し出したのだろう。図を一定の所まで書ききると、陽は身体を前に戻した。まだ全員が書ききるまで少し時間があるので、次の説明に使う資料へと目を通す。
だが、いざ資料の文を追おうとしたところで陽は動きを止め、鼻をひくつかせた。
雨の匂いがする。
それは当たり前の事だった。外は変わらず雨、雨、雨。湿気を含んだ空気はあらゆる隙間から入り込み、ここ数日ずっと鼻孔を通り抜けてきた。今更特別に反応するべき匂いでない事は、彼自身よく分かっている。
だが、その匂いはひどく独特だった。まるで雨中の空気を凝縮したかのような、濁りきった都会の水の匂い。
先程まではこんな匂いなど影も形もなかったというのに、何故。
そんな思いを抱きながら顔を上げ、陽は目を見張った。
「……………!!」
生徒たちが板書に集中しているのが幸いだった。そうでなければきっと今頃、あらぬ方向を見つめているのを不審がられたことだろう。
陽の視線は教室の一番後ろへと集中していた。そこには掃除用具入れ以外何もない筈だった。そう、先程までは確かにそれしかなかったのだ。
だというのに、今は人が立っている。
その人物は黒い学生服を身にまとっていた。それだけならば授業に真面目に参加しない生徒としてすぐに叱りの言葉を飛ばしていただろうが、陽は逆に唇を引き結ぶ。何故ならその人物は、今の学校ではおよそお目にかかれない、黒いマントと制帽を身にまとっていたからだ。
制帽の下から僅かにのぞく髪さえも黒く、病的に白い肌が際立って見える。顔は制帽にほとんど隠されていて分からないが、唯一のぞいている口元が静かな笑みをたたえてこちらを――――
「先生? どうしたんですかー?」
突然響いた生徒の声に驚き何度か瞬きをすれば、いつのまにか黒い存在は消えていた。
同時に、あの濃い雨の匂いも。
「どしたんすかせんせー、お化けでも見たような顔しちゃってさ。カゼ?」
「いえ、別に何でもありませんよ。……そうですね、今度皆さんに出してあげる予定の小テスト問題を考えていたとでも思ってくれれば」
「げっ」
「えー、テストやるの先生! 勘弁してよ」
「さあ、どうでしょうね? まあそれはこれからの授業態度しだいという事にしましょうか。さあ雑談はここまでとしましょう、説明を始めますよ。教科書の37ページを見て下さい」
いつも通りに化学の説明を行いながら、けれど陽の思考は一瞬前に見た黒い存在へと飛んでいた。あの独特の匂いを思い出す。まとわりつくそれは湿気をまとって、舐めるように肌を這いずってきた。だが生徒たちの誰ひとりとして、あの匂いと気配を感じた者はいなかったらしい。教室はいつもと変わらず、静かだった。そして、一瞬で消えた姿。
まだ情報が少なすぎる為に幽霊か妖魔、もしくは妖怪なのかの区別はつきにくいが、あの存在から発せられる気配はどこから見てもいいものであるとは思えない。
加えて、消える直前に見たあの笑み。何気なく浮かべられたようなその笑い方は、しかし人が浮かべられる種類のそれではなかった。思い出すだけで、背筋を嫌な汗がつたう。それが先程感じた過剰な湿気のせいである事に気付き、教科書の文を読み上げながら何度も瞬きを繰り返した。
あれは、あの存在は、決して生徒に近づいて良い種類の者ではない。いや、あちら側の者に何度も対峙し、ある程度の耐性ができている自分にここまで嫌な汗をかかせる程の存在だ。そんな者がもし生徒たちに近づきでもしたらどうなるのかなど、陽は考えたくもなかった。
ならば、どうするか。
「――――はい、それでは今日はここまでとしましょう」
あの存在が生徒たちに害を成す前に、捕獲もしくは排除を早急に行わなければならない。
自分の存在を受け入れてくれつつある彼らを、この手で護る為にも。
決意を胸に秘め、陽はチャイムの鳴り響く廊下を足早に歩き出した。
それから数日間、雨は一時たりとも休まずに降り続け、陽もまた休む事なく黒ずくめの少年を捕まえる為に奔走したが、そのことごとくは失敗に終わってしまった。
コーヒーカップを片手に窓の外をきつい眼差しでもって見上げ、数日の記憶を引き上げる。廊下で、教室で、階段で、はたまた校庭で。それこそ時も場所も選ばずに、あの黒ずくめの少年は出没した。見かけるのは簡単だった。だが、捕まえようと一歩足を前に踏み出せばその姿は陽炎のようにあっさりと消失してしまうのだった。
いくら発見できたとしても、捕獲できないのならば意味がない。ここが学校内でさえなければ、そう思い陽は歯噛みする。外ならば、たとえ離れた位置にいたとしても力を使って足止めをする事もできただろう。だが中に現れる以上、生徒たちの前で堂々と力を使ってしまうわけにはいかなかった。
「――――――――『焉』……」
白い面に浮かぶ冷ややかな笑みが脳裏に浮かんだ。焉。黒ずくめの少年自身が名乗った名だ。一度だけ人気のない階段で出会った時、軽くだが会話を交わした事があった。
階段の上、いつもなら日差しが射し込む筈の時間帯。けれど今は雨雲に全てが覆い隠され、小窓の外には灰色の天が広がっているばかり。
切り取られた空を背景に、黒ずくめの少年は相変わらず笑っていた。笑って、階下の陽を見下ろしていた。
唾を飲む。ただそこに立っている姿を目にしただけで、まるで豪雨の中にいるかのような錯覚に襲われる。叩きつけられるのは雨粒ではなく、絶えず発せられる淀んだ空気だった。重苦しいそれは静かに、けれど確かに意思をもって陽の周囲を支配していた。
だが、陽とて普通の人間ではない。眉をひそめはしたものの、変わらず背筋を伸ばして立つ姿を見とめ、少年はいつも見せる笑みとは違う種類の色を唇に浮かべた。
嫌な笑みだ。そう心の中だけで呟き、陽は口を開いた。問いただしたい事がいくつもある。
『……君の目的は何です』
『相手にものを訊ねる時は先になんとやらというでしょ』
『私の名は天祥胤 陽です。……さて、名乗った以上、君にも名乗ってもらいましょうか。そして君の目的も』
『僕は焉。キミも名前しか教えなかったんだから、僕がそれ以上を教える必要などどこにもないよねえ? ――――それじゃあね、僕のことを追いかけ回す暇なお人!』
言葉が終わったその瞬間、焉と名乗った少年の姿は消えていた。
残っていたのは、哄笑の名残。古びた階段に吸い込まれていく笑い声は、それこそ悪い夢のような響きをもって陽の心に残った。
心底楽しげな声。思い出すだけで、眉間に嫌な力が入ってしまう。あのような声を発する輩というのは総じて性質が悪いものだというのを、陽は経験上よく知っていた。
「急がなくては……」
だが、どうする?
自問の声は雨音に消えていく。
全てを侵食するように、雨はただ降り続ける。
豪雨。
まさにそう言うのが相応しい天気だった。登校してきたどの生徒も足元はもれなく濡れそぼり、廊下には水滴と足跡が散らばっている。規則性のない足跡の群れが広がっていく様は、とても異様なものだった。
授業が終わり、職員室へと戻りながら陽は辺りを見回す。つかの間の休み時間、生徒たちはそれぞれお喋りに興じたり教室移動をしたりしている。
いつもの光景だった。だが、陽だけは目の前に広がるそれに違和感を覚えていた。ここ数日、毎日毎時間、必ずといっていいほど見かけていた焉の姿が、今日に限ってどこにも見えないのだ。
気付かなかっただけだろうか? そう自問し、すぐに否定する。あの異様な気配と雨の匂い、そして特徴的な黒い姿。現れていたのなら、気付かない方がおかしい。
この学校に飽きたのか。それならばまだいい、少なくとも害を成す者はいなくなるのだから。
だが陽は湧き上がる胸騒ぎを隠し切れずに、手にしていた教本を握り締める。違う、きっとまだ、焉という存在はまだここにいる。何をする為に? 分からない。
だが、きっと焉はこの学校から去ってはいない。
湿気のせいで重たくなった空気が、身体も心も覆ってしまったかのようだった。そうしてかき立てられていくのは、形のない不安。何がとは言えない。だが『何か』が起こりそうな、そんな漠然とし過ぎた予感めいたものが朝から自分を苛んでいる。
早く現れろ、現れろ。陽は一日中そればかりを考えて過ごした。一度でも現れさえすれば、今後こそ逃がさずに目的を聞き出す。そんな決意を胸に秘めて。
だが陽の考えとは裏腹に、結局焉は放課後になっても姿を見せる事はなかった。
「どこに行ったというんだ……」
明日の授業の準備という理由をつけ、ぎりぎりまで居残ってはみたものの、どこを歩いても黒ずくめの姿はちらりとも視界に入ってくる事はなかった。生徒の影は既になく、蛍光灯すら消された廊下は雨のせいもあってひどく暗い。暗がりの狭間に潜んではいないかと注意を傾けるが、どこからも気配を感じる事はできなかった。
これはいよいよいなくなったのか、と思い始めた矢先。
「…………?」
陽の鼓膜を、何かが揺らす。
声ではなかった。音――――そうだ、音だ。それも聞き慣れた、机や椅子が動いた拍子に発せられる、独特の軋む音。
常ならば生徒たちの騒がしさに埋もれる程度の音だったが、がらんとなった校舎の中では雨が降っていてもよく分かる。陽は音のする方へと駆け出した。いつもなら大して気にもしない物音だったが、胸に抱き続けていた不安が彼に行動を起こさせたのだ。
廊下を蹴り辿り着いた教室。扉に手をかけ、開いた先にあったものは。
――――とても。
とても嬉しそうに口元を歪めている焉の姿と、その前に広がる闇の円だった。
焉は机のひとつに腰かけ、うっとりとした様子で眼前の円を見ている。陽は息を呑んだ。見慣れた学生服をまとっている少年が、ずぶずぶと下半身を闇に浸からせている姿が、そこにあったからだ。それはひたすらに淀んだ光景だった。
眼鏡をかけたいかにも内気そうな少年の顔は絶望に彩られ、頬には幾筋もの白い跡。それが涙の跡だと気付いた瞬間、陽の身体は動いていた。雨の音など聞こえない。彼の身体は熱に満たされていた。それは怒りという名の熱であり、後悔という名の熱でもあった。
ここにきて、こんな事態になるまで焉の目的に気づけなかった己の愚かさをただ呪い、陽は腕を振り上げる。
掌から溢れた氣が腕全体を包み、黒と静寂に支配されていた教室に輝きをもたらした。握り締めた拳を構え息を詰めれば、焉の目がこちらを向く。マントがたなびき、視線が真っ直ぐにぶつかり合ったその一瞬、白金の帯をひいて拳から力が放たれた。
「――――――――チッ!」
激情の一撃は、生き物のように変形したマントによって阻まれた。舌打ちと共に弾かれた氣の塊は霧散し、白い雨のように暗い教室の床へと沈む。
陽はもう一度、と掌に氣を集中させた。早くしなければ少年は闇の中へと引き込まれてしまうだろう。既に腰から下は見えない。引き込まれるまでにどのくらい時間がかかるのかは分からないが、自分の攻撃を弾いたこの焉という存在は、少しでも暇を与えればこの少年をあっという間に引き込んでしまうだろうという予測はついていた。先程かち合った視線、そこから伝わったのは身震いするほどの狡猾な色だったからだ。
だが、焉は壁のように展開していたマントの中から姿を現すと、くつくつと笑った。おかしくてたまらないといったような、そんな笑いだった。
「……何がおかしい」
力を溜め続けながら、陽は問う。
焉という存在はひとしきり笑うと、驚くほどに赤い舌を覗かせながらようやく口を開いた。
「だってねぇ……今、ここでこの子を助けてどうなる?」
「何だと?」
机に腰かけたまま、黒い存在は続ける。
「じゃあ聞くけれど、この子の名前を言えるかい?」
問いに、陽は横目で少年に視線を向けた。顔かたち、どれをとってもおよそ特徴というものがなかった。確かに自分のクラスの生徒であったようにも思えるが、しかし名前を思い出すには至らない。その事実に陽は心の中で愕然とした。
自分が受け持つクラスの生徒の名は、きちんと覚えた筈だったというのに。
「ほおら、やっぱりキミだって忘れていた。おかしいよねぇ、仮にも受け持っているクラスなのに、どうしてこの子の名前すら知らないんだろうね?」
「それは…………」
「『目立たないから』? それとも『あまり話さないから』? 言い訳はよしておいた方がいいよ、ますます墓穴を掘るだけだからさ」
陽は反論しようとして、何も言えない自分に気付いた。焉のやっている事はともかく、言っている事に間違いと言えるだけの理由を持っていなかったからだ。
「くくくっ、素直でいいよ。……しかしねぇ、おかしな話だよ。名前も知らないくせに助けようっていうの? 何とまあご立派なお心だと感心するね」
「……何が言いたい」
「そのままの意味だけれどもね」
片膝を抱え、白い指は傍らを指差した。その先には黒い円。中心にはまるで生け贄のように沈む少年の身体がある。
「あの子はこの現実に存在するあらゆるものから認識も、そして必要もされていなかった。……現実に必要とされていない彼らにとって、存在することは既に苦痛でしかないんだよ。キミには分かるかい? 日々学校に通い続けても全てから無視されるという孤独が。同じ人間であるというのに、何かが少し違うだけで天と地ほども違う扱いを受ける苦しさが」
少年の身体はじわじわと落ち続ける。伸ばされた両手は天を掴むかのように開かれていた。
「けれどそんな虚しさも寂しさも、全て闇に堕としてしまえば楽になる……」
焉の笑みが深くなる。指差した手が全てを潰すように握られ、同時に落ちる速度が増した。
首を横に振りながら、陽もまた声を張り上げる。彼にとってその言葉は決して認めてはならないものだった。
「だが、それでは死と同じだろう! 闇に堕ちたとて、決して楽になどなりはしない。その先にあるのはただ永遠の無ではないのか?! 焉、お前はそれを救いだとでも言いたいのか!!」
「ならキミは一体この子に何をしてやった?!」
それまでの落ち着きとは打って変わり、制帽の下で黒い瞳を爛々と輝かせながら焉は叫ぶ。それはまるで豪雨を裂く雷鳴のようだった。
「聞かせてもらおうじゃないか。キミは、他の誰かは、この子を認識していたか? 存在を認める事だけでもしていたか? ほら、キミだって今の今までこの子に気づかなかったんじゃないか! そんな輩が救いを説くのはそれこそ筋が違う上に、何もかもが今更でしかないのさ。何故ならキミはこれまで『何もしていなかったのだから』ね!!」
言葉の雷で身を貫かれ、陽は唇をわななかせた。知ろうともしていなかった事実を突きつけられたような気がした。
「そう、かもしれない。私は今までこの子の存在に気付かなかった……」
目を伏せて呟けば、笑う気配を感じた。
そう、確かに自分は何もしてはいなかった。だが焉はその子の存在を引き上げ、そして見つけた。たとえ妖魔の類であったとしても、その子を闇に引き込むのが目的だったとしても、行動した焉と行動しなかった自分は違っていた。
自分は、気付く事すらもできなかったのだ。
「――――けれど」
少年は完全に闇に呑み込まれてはいない。
それならば、まだ――――――――!!
「けれど私は今“気付いた”!」
消えかけていた氣が、爆発的な勢いをもって拳へと収束する。その輝きと巻き起こる風に、焉のマントが揺らめく。小さな目は驚愕のかたちに見開かれていた。
「これからは私がこの子の存在を知っている、私がこの子の居場所を作る……そう、私が何よりも先ず教師であるために――――この子は私に“必要”な存在だ! 絶対に……絶対に、連れ去らせはしない!」
頑、と。
言い切った陽は焉に向かって拳を振り上げ、渾身の一撃を放とうとした。これは、この拳だけは何としても当てなくてはならなかった。
自分が教師である為に。そして、一個の人間を否定しない為にも。
閃光。輝きの軌跡を描き、まるで槍のように白の光は真っ直ぐに焉へと飛来する。
だが焉は避けようともせず、どこか呆けたような表情で光を見つめ――――
「…………何………………?」
突如おとずれた静寂に、拳を繰り出した体勢もそのままに、呆然と陽は呟いた。
自分が放った渾身の輝きも、ましてや焉の姿も、先程まで対峙していた一切のものが視界から消え失せていた。特徴的な黒いマントも、制帽も、そしてあの白い面も霞のように世界に解けていってしまったかのようだった。
残ったのは、落ち着いた雨の音。豪雨であった筈のそれはいつの間にか勢いを弱め、ただ静かに外の世界を潤している。
「う……」
「!!」
呻くような声に、陽は床を見た。
そこにはひとりの少年が倒れ伏していた。助け起こせば、気絶はしているようだったがきちんと息はしている。
生きている。生きて、ここにいる。
それだけの、けれど何よりも代えがたい事実に、陽は少年を腕の中に抱いたままひっそりと安堵の息を漏らした。
翌日、空には青が広がっていた。昨日まで居座っていた雨雲はどこを見てもなく、あるのはただ爽やかな色をした空と久方ぶりに見る太陽だけだった。
登校してくる生徒たちの顔も一様に晴れやかだったが、廊下ですれ違うたびに挨拶を返しながらも陽の気分は晴れなかった。あの後、影も形も残さず消え失せた黒い存在。最初は自分の攻撃によって倒れたかと思ったが、それにしてはあまりにもあっさりとし過ぎている上に、手ごたえもなかった。
ならば焉は、まんまと逃げおおせたという事になる。
「それでは、出席をとります」
出席簿の中ほどまできたところで、陽はごく平凡な苗字を呼んだ。いつも返答がないので昨日までは半ば反応を諦めていたが、今日からは違う。
「…………は、い」
控えめながらも声があがり、幾人かが驚いたように後ろの席を見やる。そこにはひどく恥ずかしそうにしながらも、しっかりと顔を上げて出席の呼び声に答えている昨日の少年の姿があった。
しっかりと目線を合わせて頷くと、少年はまだ照れくさいものがあるのか俯いてしまう。だが、それでも陽は嬉しかった。
あの出来事の後、陽は両親に了解をとり少年と言葉を交わした。最初は警戒心と焉にされた事のショックからか、なかなか口を開こうとはしなかったが、粘った甲斐があったらしい。
少年の前進を嬉しく思いながらHRを終え、廊下に出る。窓から射し込んでくるのは眩いばかりの日差し。晴れやかで、いい日だった。
後はこの胸に落ちた不安さえ解決すれば、より久々の晴れを満喫する事ができるだろうに――――。
「おはよう!」
いつしか廊下で立ち止まってしまっていた陽の背を、突然元気な声が叩いた。
その響きはひどく爽やかなものだったが、声自体は昨日、何度も聞いたものだった。
驚愕と共に振り返れば、目の前に焉がいた。しかしトレードマークのようだったマントも制帽もそこにはなく、きちんとこの学校の学ランのみを身にまとっている姿は、いっそ悪い夢のようだった。
だが呆気に取られる間も、ましてや夢だと己に言い訳する暇も与えないかのように、愉しげな声は続く。
「おや、どうしたんだいそんな顔をして! 僕はただの転校生さ。これから宜しく頼むよ……センセ!」
まるで何かの宣告のようにチャイムが大音量で鳴り響く中、陽はただその場に立ち尽くしていた。
――――その日、ひとりの化学教師が一時間目の授業を遅刻したという。
END.
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