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<東京怪談ノベル(シングル)>


ゆったりと、ゆっくりと。 〜台所の魔法使い〜

 古いテレビが七時のニュースを始めた。門屋将太郎の暮らすビルは放送電波の入りが悪く、砂嵐と雑音混じりで画面は踊る。しかし明日の世界情勢よりも今日の我が身である将太郎は居間の食卓に夕食を探した。
「ありゃ?」
いつもなら炊きたてのご飯が湯気を上げているはずなのに、そこには朝読み捨てた新聞が畳まれているだけ。
「ああそうか、今日は一人なんだよな」
いつも夕食を準備してくれている人間が、今日はいない。学会があるとかで留守なのだ。しんとした薄暗い家の中に一人取り残されていると、なんとなく女房に逃げられた甲斐性なしの気分になった。
「馬鹿みてえ」
ぼやいていても腹は膨れない。炊事当番がいないのならあるもので食いつなぐしかないのだがタイミング悪くカップ麺は在庫切れで、近くのコンビニへなにか買いに行こうにも、袂を振って出てきたのは百円玉一枚、十円玉が三枚に一円玉が二枚。
「・・・しゃーねえ、自炊すっか」
将太郎は決断した、というより選択肢がそれしか残されていなかった。
食事を作るという目的のために将太郎が冷蔵庫を開けたのは、実に数年ぶりの出来事だった。これまで将太郎が冷蔵庫を開ける理由といえば冷えたビールを取り出したり、客が手土産にくれたケーキを放り込んだり、そんなことくらいだったのである。
 さぞや、冷蔵庫も驚いたことだろう。

 門屋家の冷蔵庫はテレビと同じく絵に描いたような旧式の厳つさである。ものが大量に入るようにと形だけは大きいけれど、扉は二つきりで開閉にはひどく力がいるし、うなりは立てるし電気代は食うしでいいところは一つもない。
 銀色の重い扉を開くと、将太郎は野菜室を覗き込んだ。
「・・・・・・ほう、あいつ、結構考えて買い物してやがるな」
そこには色とりどりの野菜たちが見やすく分類されて収められていた。当然だが、将太郎の手柄ではない。人参、キャベツ、ほうれん草、それにトマトも瑞々しい。冷えたビールも補充されているところが、抜け目ない。冷たい缶に手が伸びそうになるのを我慢して、上の棚へも目を走らせる。
「あとは、と」
ベーコンと薄切りのハム、特売の鶏もも肉。卵は六個残っていて、豆腐は二丁とパイナップルの缶詰と。明日の朝に飲む牛乳もたっぷりあった。空腹のしのぎにスライスチーズを一枚つまんで、将太郎は腕組みをした。
「さて、なに作るかな?」
冷蔵庫の扉には細かい字のメモが貼られていた。それぞれの食料がどれくらい残っているか、たとえば人参が一本半、こんにゃく一枚というふうに細かく書かれている。さらに横にはその材料でできる料理のメモ。
 試しに将太郎は、その一つを並べてみた。
「メニュー、親子丼」
鶏もも肉、玉ねぎ、卵、青ねぎ、ノリ。調味料はだし汁に酒にみりんに砂糖に醤油。確かに、どれも見覚えのある顔だった。だが、これらをどう調理すればあのふんわりした親子丼になるのかが見当つかない。
「魔法だよな」
同じような具材で茶碗蒸しもできるのだが、あそこまで形が変わると将太郎には最早魔法に等しい。じゃああれも魔法だろうか、ロールキャベツにグラタンにかき揚げに・・・・・・。
「っと、こんなこと考えてる場合じゃねえんだ」
将太郎は頭を切り替え、現実的に野菜と向き合った。

 あっという間に一時間が経過し、将太郎は自分の才能に結論を出した。
「俺は切って、焼いて、炒めることしかできねえ」
というわけで献立は決定である。
「ほうれん草炒めて目玉焼きだ」
料理の腕レベル1にしてみれば、なかなか健康的なメニューだろう。
冷蔵庫の中からほうれん草を取り出し、バターも引っ張り出して、卵も二つテーブルに載せる。ハムもつけようかどうか迷ったが、これには手を加えないままチーズと一緒で食べてしまった。
「まずはこれを洗うだろ、それから切って・・・・・・いや、先に卵を焼いたほうがいいのか?でもそうするとほうれん草炒める頃にゃ卵が冷めちまうし・・・・・・」
料理は人の心よりよっぽど単純である。それなのに将太郎にしてみればこれほど切り分けが面倒なものもない。手順が頭に浮かんでこないのだ。
「フライパンと、フライ返しと・・・・・・」
台所中をひっくり返しながら調理道具を揃える将太郎。まるで重戦車が木石をなぎ倒し蹴散らして進むかの様である。全ての扉が開け放たれ、ボウルやザルが転げまわる台所の有様は、かつての三食カップ麺で暮らしていた時代を思い起こさせる。
「ま、こんなもんだろ」
流し台の上にまな板と包丁、流しの中には水に浸かったほうれん草、ガスコンロの上にはフライパン。バターと卵も揃って、どうにか準備は整った。整っていないのは足元、背後の惨状だが、これは眼鏡のフレーム外へ追い出している。将太郎自身はやる気の証にたすきまでかけていた。
 だが、人生のもっとも皮肉なところは本人のやる気と結果というものは必ずしも比例しないところである。ギャンブルにはビギナーズラックという言葉もあるけれど、料理は運だけではなかなかこなせない。

 頑丈なだけが取り得の炊飯ジャーが、米の炊けたサインを鳴らしていた。予定ではこの音を聞くときには、ほうれん草の炒め物と目玉焼きとは一つの皿に仲良く並んでいるはずであった。
 けれど将太郎が握っているフライパンの中には、かつてほうれん草だったものと生卵だったものが、仲良く炭になって煙を上げている。
「・・・あいつ、本当に魔法使いかもしれねえな」
将太郎はしみじみ人の手のありがたみを痛感したのだが、彼の料理の手順を見ていれば十人が十人、魔法使いはあなたのほうですと言っただろう。
 ほうれん草を炒める前にまず、フライパンを熱しようとしたところまではよかったのだ。だがその火にかける時間が長すぎて、フライパンは熱くなりすぎ、最初に放り込んだバターが一瞬にして溶けてしまった。普通ならここで危険を察しフライパンを火から下ろすところなのだが大雑把な将太郎、続けざまにほうれん草までもを投下した。
 誰か、見たことあるだろうか。鮮やかな緑色をしたほうれん草が、一瞬で炭に変わるという衝撃の瞬間を。のみならず黄身の崩れた二つの卵が、炭の上から流し込まれて灰色の目玉焼きになった悲劇の瞬間を。
「・・・・・・」
将太郎はつくづく、現代に生まれて幸福だった。炊飯ジャーという文明の利器がなかったならば、今日は間違いなく飢えていたはずだ。
 ほかほかに炊き上がった白いご飯と、対照的に真っ黒なおかずたち。部屋中が焚き火でもしたかのごとく焦げ臭いので換気扇を回し、窓も玄関も開放したあとで将太郎はじろりとそれらを睨みつける。
 腹がぐうと鳴った。
「こんなもん、食えるかよ」
炭なんて発癌物質の固まりだ、と将太郎はうそぶく。これは非常に有名な噂だが、実際癌の元にするためには一日百トンを一年中食べつづけなければならないらしい。ほんの数把のほうれん草と二個の卵くらいでは、煙草の副流煙にも劣るだろう。
「食えるか」
梅干をおかずに白飯だけで腹を膨らませようと、将太郎は茶碗を取った。そのとき時間は八時四十五分。電波の悪いテレビからは、またニュースが始まっていた。
「本日行われた各国首脳会議では、発展途上国の食糧難問題について・・・・・・」
「・・・・・・」
俺が一番食糧難だと、将太郎はテレビに向かって呟かずにはいられなかった。

「・・・・・・気持ち悪い・・・」
あのあと結局、将太郎は発癌物質をごみ箱行きにできず全て責任を持って処理してしまった。具体的に言えば、ご飯に混ぜるようにしてかきこんでしまった。今時リモコンもついていない古びたテレビから、延々と首脳会議の内容を聞かされてしまってはもったいないと思うしかないだろう。
 空になった茶碗と大皿とを流しに放り込んで、将太郎はまた冷蔵庫を開けていた。今度は胃薬を飲むための、水を取るためだった。炭を食べた後、ご飯を三杯もお代わりして口直ししたつもりなのだが、胃の中がぐるぐるとむかついている。
 昔はこうではなかったはずだ、と将太郎は数年前の自分を思い起こす。一人で生活していた頃はたまに、いやごく稀にではあるが自炊をしていた。あの頃はまだ、少しは食べられるものが作れていたはずだ。
「・・・・・・本当か?」
はずだ、と言いつつかすかな疑問は残った。ひょっとすると昔も今と似たようなものを作っていたのに、味覚が貧しかったため大人しく食べていたのではないだろうか。今は三食の世話をされ舌が肥えてきたので、同じ料理がとてつもなくまずく感じられていたという可能性も否定できなかった。
 将太郎は自問したが、答えは出なかった。
「と、とりあえず今の目的は今の俺が食えるような飯を作るってことだよな」
ものごとは前向きに。それが困ったときの将太郎の合言葉である。
「次はもっと、まともなものを作ってみせるぜ」
だが、それは人のいるときにしようと思った。もしも次もまた、自分が炭を作り出す魔法使いになったとしたら、それを共に処理する生贄が必要だと感じたからだった。