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<東京怪談ノベル(シングル)>


gamekeeper

 真に光を得ぬ場所は。
 その身の裡にこそ、存在する。

 目覚めに眼を開いても、其処は眠りと質を変えぬ闇が拡がっていた。
 持ち上げた瞼の感覚が意識の覚醒を示すのみ……その頼りない状況に、彼女は不意にくすくすと笑いを零す。
 泡沫の弾ける如く、快い響きは直ぐさま闇に溶け、揺るがす事も響く事すらもない。
「あぁ、私はどれ程の刻を眠っていたんだい……?」
独言もまた、闇に散開する。
 応える者はなくただひたすらの闇、闇、闇……視点の存在しない空間に向けられた瞳の、血よりも濃い紅をそうとする光は一片すらなく、人ならば闇に精神を侵されて容易に狂うだろうその場で、彼女は楽しげに喉を鳴らした。
――禍都比売神。
 それが彼女の性を示し、そして誰も呼ばう事のない名である。
 開いた眼を闇に向け……何も映らぬ瞳に闇すらも捉えぬまま、彼女は頤を上げ、自らの咽に手を添える。その際に手首を戒める鎖がシャラと微かな音を立てた。
「忌々しい封印は健在……だのに私が目覚めるのは、何故か、ねぇ?」
誰も受け取らぬ問いを虚空に向け、目元を綻ばせる。
「あぁ、『慈愛』も『破壊』も。健勝なようで何よりだ……」
それは器に込められた複数の神格。礎に禍都比売神を、否、彼女を封じる為に配された対局を為す力、相反し、常に影響し合う互いの存在が闇より深い闇に封じた彼女の枷となり、四肢を縛める。
「だのに私は目覚めている……鼻の利く白狼はさぞや慌てている事、だろうね?」
 自らの声の響きを、楽しむように確かめるように、声帯に震える喉に指を這わせて笑みを深めた。
「私一人にご大層な事だ……けれどもう、忘れたろう。誰も覚えていないのだろう? 世も、人も……『慈愛』も『破壊』も、一つ身に込められたその理由を」
長すぎる時の流れが……否、奥底に潜む存在を忌まわしいものとして、時の彼方に忘れたふりをしてその名すら、口の端に上らせる事はない。

 慈愛が、生きとし生ける全てに注ぐように平等に。
 破壊が、再生のそれを信じて振う力より躊躇無く。

 禍都比売神は、人に……そして神すら隔たり無く、完全なる滅びを振う者。

 二柱の神を犠牲にし、監視者までを配しててまで闇に籠められた永の年月に、封じを司る神格とても、彼女を存在しないモノとして忘れ去って、安心している。
 彼女が深い身の裡で、静かに眼を開いている事も……彼等に親しく呼びかけている事も、知らず。
「その器もそろそろ保たないのだろう……? 闇が薄く揺らいで眠りが浅い。それともお前達が。心乱さず動かさず、見届ける為だけの役を過ぎて人に交わりすぎる、その所為なのかね」
彼女に返る答えはない……闇は揺らがず、動かず。ただ虚無に彼女を封じるのみ、その肉体を、自我を自覚させるのは彼女の自由を奪う鎖の所在のみ。
 それでも彼女は虚空への呼びかけを止めない。
「役を怠けるを咎めるでないよ……今の世はどうだい? 争いに満ち溢れてはいないのかい? 餓えは、病は。人に降り掛かってはいないかい?」
問いに対する答えはない……けれど、彼女は闇の深さを見通すように見開き、瞬きすらせぬ目に狂気の光を宿し、口の端を嘲笑に引き上げた。
「そう……ならば精々血をお流し。滅びをお望み。互いを憎むがいい……その愚かさが、私を目覚めを促すのだから」
嘲りの声にくくと混じる忍び笑いが、ふと止まった。
「それとも……私を知らぬお前が、不安定さを垣間見せる所為なのかね」
喉に添えた手が、自らの鼓動を探すように胸へと移動する。
 その為だけに為された封印は確かに強固……だがそれは礎となる禍都比売神の存在があって初めて成り得る均衡である事を、知る者は彼女以外にない。
「『享楽』……」
胸に手を添え、彼女は微笑む。
 嘲笑のそれでなくまるで愛しむような響きを持つ声に初めて闇が、震えた。
「お前の心次第で、私は何時でも目覚められるんだよ」
禍都比売神が封じられて初めて。生じた神格。
 人の心に近いが故に強く、そして脆い……『慈愛』と『破壊』が対であるなら、禍都比売神と表裏である、最も年若い神。
「知り、迷い、選んで、進もうとするお前が。己に絶望し、全てを儚み、力を望めば私はいつでも……お前の為に目覚めてやろう」
子を愛しむような声に、震える闇が密度を増して再び彼女を眠りの檻に封じ込めようと意識に絡み出す。
 その圧力に抗う事はせず、禍都比売神は四肢の力を抜き、苦笑した。
「言っても聞こえやしないだろうけどね」
闇が彼女の自我を呑み込む。思考の自由すら許さぬ重い眠りに彼女はゆるりと瞼を下ろす。
 彼女の存在を許さぬ意は忌々しいが……最も好む所である虚無に近い、その意味で闇も眠りも不快ではない。
「今はまだ……眠っていてやるよ……」
闇が彼女の全てを呑み込む……それでも口元に浮かぶ微笑みまでは圧せずに、人にすら、神にさえも、知られぬまま、禍都比売神は再び眠りについた。

 光届かぬ身の裡で。
 何れ訪れる目覚めを待つ、その為に。