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ゆったりと、ゆっくりと。〜惑い多き現状〜
お世話になりました、と。出て行く前に、クライエントが感謝の言葉を述べるのが聞こえた。
上半分に嵌まった型押しガラスに『門屋心理相談所』と書かれたドアを開け、送り出す人影が出入り口前の衝立(ついたて)に映っている。
所長であり、カウンセラーである門屋・将太郎(かどや・しょうたろう)は、机に向かったまま「お大事に」と軽く返すのみで、カルテの記入に余念がない。
都内某所の、ボロい雑居ビルに居を構えるこの相談所にしては非常に珍しく、今日は朝から忙しかった。忙しい、とは言っても、あくまで普段のここを基準にした話ではあるが。
「予約が一人と、飛び入りが一人か」
完成したカルテをファイルに挟み、門屋は呟いた。顔を上げ、壁に貼られたカレンダーを見る。今日より前、最後にクライエントが来たのは、なんと先月だ。
「久しぶりに、ここで仕事したぜ……あ、コーヒーくれ、苦いやつ」
前半は独り言、後半は衝立の向こう側への言葉だ。
ややあって、コーヒーミルの音が聞こえてくる。
豆を挽く時の香ばしい匂いが、カウンセリングルームのほうまで漂ってきた。その香を嗅ぎながら、門屋はふと眉を寄せ、複雑な表情になる。
一方的に押しかけてきたのは彼のほうだ。閑古鳥の心理相談所に、所長以外の人手など贅沢なことで、もちろん最初はにべもなく断わった。第一、初対面でいきなり雇ってくれはないだろう、と今でも門屋は思う。
彼の申し出を承諾したのは、結局門屋が根負けしたからだ。
こき使うと、最初から門屋は宣言していた。だから、本来罪悪感を覚えるいわれはない。
しかし、たまにやるカルテの整理の他は、腹が減ったと言っては食料を買いにやらせたり、電気が止められそうだからと言っては公共料金の払込みに走らせたり。今のように、コーヒーを頼んだり。門屋が彼にあれこれと押し付ける仕事は、面倒なだけの雑用のほうが圧倒的に多い。
その内飽きて、辞めると言い出すのではないかと、最初は思っていた。
ところが、一度として不平不満を口にされたことはおろか、顔に出されたことすらない。表に出ないだけなのかもしれないが。
「なあ――、」
お前は、俺の側にいたいのか?
自然に口から漏れそうになった問いかけを、門屋はすんでのところで飲み込む。
文句も言わずここに通ってくるのは、俺の側にいたいのか? それとも俺のことが好きだからか? まさか。
自嘲するように頭を振ると、門屋は椅子の背に凭れた。眼鏡を外し、目を閉じる。
門屋の、彼への心情は複雑だった。
相手の目を覗き込むことさえできれば、その本心を読み取ることができる、読心術。しかし、その能力を使わずともただ目を見ただけでわかることもあるのだと、門屋に思い知らさせたのは彼の目だ。
彼が、自分に特別な気持ちを寄せていると気付いたのはいつだったか。
熱心に言い募る言葉と、真剣な眼差し。思えば、口喧嘩では常勝無敗だったはずの自分が怖気づいてしまったのは、彼の目の奥に潜む熱を、初めて会った時から感じていたからではないかと。あり得るはずもないことを考えた。
あの時自分が、彼に対して感じていたことがあるとすれば――それは、恐らく、似ている、ということだ。
眼裏(まなうら)に甦るのは、甘さと苦さの両方を含んだ、古い、学生時代の記憶。
その中心に、華奢な少年が居る。
親友で、またそれ以上に焦がれてもいた存在。
その像と、キッチンでコーヒーが沸くのを待っているであろう彼の姿とが、重なった。
俺は、彼にあいつの姿を重ねているのか、それとも、彼自身を見ているのか。
門屋には、時折自分でもわからなくなることがある。
制服の少年が、門屋の隣で首を傾げ、遠くを見詰め、淡く微笑む。そして、子供のように顔一杯で笑った彼が、両腕を広げて門屋に飛びついて来た時、重なっていたはずの二つの映像に、ブレが生まれた。
彼は、相変わらず、隣に立って淡い微笑を浮かべているまま。
そうだ、と門屋は思う。
似ている。最初はただ、そう思っていた。
けれど今は、違うところだってたくさんあると知っている。
高校時代に好きだった彼は、どちらかと言えば明るいほうで、心を許した友人たちには、時には甘えて見せたりもして。
今側にいる彼が、感情を表に出すことが出来て、明るい性格だったら、あいつそのものだ。
けれど。
気配を感じて、門屋は思考の世界から帰還した。
目を開けると、机の上にカップが置かれている。
湯気を立てているのは、深煎りの豆で濃いめに入れた、いつものコーヒー。注文通りの、苦いやつだ。
素っ気無く礼を言い、一口啜って、門屋は息を吐く。
彼は、門屋に答えを強要することはない。
当分の間、悩みは続きそうだと。
コーヒーの苦味のせいだけでなく、門屋は唇の端を微かに曲げた。
END
<ライターより>
初めまして。担当させて頂きましたライターの、階アトリです。
納品が遅くなってしまい、申し訳ありません。
まず思ったのが「微妙な関係だなあ…」ということです。
しかしながら、門屋氏が悩んでいるというだけで、実は答えは出ているのでは?しかし、難しいですね。自分の心というのが、誰しも一番わからないものですよね……。
イメージにそぐわない部分などありましたら申し訳ありません。
では、失礼します。またの機会がありましたら幸いです。ありがとうございました!
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