コミュニティトップへ
高峰心霊学研究所トップへ 最新レポート クリエーター別で見る 商品別一覧 ゲームノベル・ゲームコミックを見る 前のページへ

<PCシチュエーションノベル(ツイン)>


親父の背中

 育ち盛りは食べ盛り。一昔前にそんな宣伝文句があったが、それはまさに早津田恒のためにあるような言葉だった。
「あー、腹ぁ減ったなぁ」
 ぼやきながら家路を急ぐ。昼に人より一回りは大きな弁当をぺろりとたいらげたのだが、18歳の少年にとってはそれももはや過去の話。まして午後の体育で走り回ったとなればなおさらだ。しかも悪いことに、うっかり財布を家に忘れてしまい、買い食いもできない。こう、一歩一歩踏み出すごとに、さらにひもじさが増す気さえする。
 無駄な体力は一滴たりとも使うまいとばかりに、恒はただ前だけを見据えて歩いていたが、ふとその足を止めた。
「親父……?」
 散歩の途中だろうか、前の方から父親の玄らしき人影が歩いてくるのが見えたのだ。少し距離があるが、作務衣をまとい、白髪まじりの銀髪を後ろでまとめたあの風貌を見間違うはずもない。
「おう、恒」
 とっくに気付いていただろうに、互いの顔がはっきりと見える距離になって、ようやく玄は片手を上げた。
「メシ食いに行くか」
 唐突にそう切り出す。
「メシ?」
 恒は思わず聞き返した。空腹の恒にとってはこの上なく魅惑的な誘いであることは間違いないが、今からだと確実に夕食時にかかる。ここで食べたところで、もう一度夕食をたいらげる自信はあるが、いくら何でも母親に悪い。
「今日は母さんは留守だ」
 そんな恒の思考を読んだかのように、玄が短く言った。
 その言葉で思い出した。そういえば友達と一泊で温泉旅行に行くと言っていたっけ。
 このまま帰ってこの親父と男2人で夕食、というのもかなり薄ら寒い。それ以前に、誰が何を作るかという大問題があるわけなのだが。
 玄はといえば、恒の返事を待つことなくさっさと歩き出していた。既に行き先は定めている様子だが、せめて息子に何が食いたいかくらいは聞いてくれても良いではないか。今は質より量な気分の恒ではあるが、味の好みくらいはあるのだ。恒は憮然としながら作務衣の背中を追った。

 玄が入っていったのは、早津田家から少し離れたところにある定食屋だった。一階部分が食堂、二階が住居になっているつくりの店で、見るからに年代物の、言葉を選ばず表現すればボロっちい建物だった。
「おや、いらっしゃい」
 客のないがらんとした店内で愛想良く2人を迎えてくれたのは、割烹着を着た小柄な老婆だった。にこにこと笑った瞳はすっかりしわの奥へと隠れてしまっていて、それが何とも人好きのする雰囲気をかもしている。
 カウンターが5席にテーブルが2席のこぢんまりとした店内は、建物の外観を裏切らず、非常にレトロなものだった。
 掃除自体は行き届いているようだが、壁も天井もすっかり煤けて、黒ずんだ艶を放っている。カウンターの端に置かれた小さなピンクの公衆電話は――これ自体、滅多にお目にかかれるものではないが――、今時珍しいダイヤル式だ。カウンターの奥に掲げられた「お品書き」にも時代がかっているし、店のあちこちに貼付けられた、赤い縁取りの紙もすっかり日に焼けている。
 そして、それらに書かれている料理名は「さばの味噌煮」「里いもの煮っころがし」など、和食が中心だった。
 けれど、そんな店内に目をくれる暇もなく、恒の首筋に何か冷たいものが走る。この店の空気自体が妙なのだ。が、玄は平然とカウンター席に座った。
「肉じゃが。それと、酒をくれ。日本酒を一升瓶で頼む」
 そして、当たり前のように注文を口にする。
「あいよ」
 にっこりと頷いた老婆が、ひょいと首を持ち上げて恒へと顔を向けた。
「……豚の生姜焼き定食」
 ここで何を考えているかわからない親父に文句を垂れても仕方がない。恒はとっさに目に入ったメニューを――それでも単品でなく定食だったのは本能のなせる業だったのかもしれない――注文し、玄の隣に座った。
「あいあい」
 老婆は再び頷いて、まず玄の前にコップを置き、よいしょ、と一升瓶を持って来た。それを注ごうとするのを玄が押しとどめ、自分でコップになみなみと注いだ。
「すみませんなぁ」
 老婆は笑うとカウンターの奥へと再び戻る、銀色のジャーを開ける。ほわりと温かなご飯の匂いが店内に漂った。
 鍋を開けたりフライパンを熱したりする老婆をちらりと見遣ってから、恒は奥の壁に設えられた神棚へと視線を移した。
 そこで恨めしそうな視線を恒に返してきたのは、鬼。やせぎすで黒ずんだ皮膚に、目だけが爛々と光るそれは、とても神棚に祀られるべきモノではない。今でこそ何とか留まっているが、悪鬼へと堕ちるのは時間の問題だろう。
 これに気付かぬはずもないのに、何もしようとしない親父が信じられない。恒は、ちびちびとコップに口をつけている父親の横顔をじっと睨んだ。
「あい。肉じゃがと生姜焼き定食、お待っとうさん」
 が、柔らかな老婆の声と香ばしい生姜醤油の香りが、その恒の憤りに水を差した。改めて恒は、自分の空腹を思い出す。
「いただきます」
 無愛想な口調ながらもきちんと手を合わせて、玄が肉じゃがに箸を伸ばす。
「……」
 恒も手を合わせてから、自分の料理に手をつけた。
 特別うまい、というわけではない。が、生姜焼きは、パウダーだとかエキスだとかを使っていない、生姜の生の香りがするし、小鉢に添えられた野菜の煮付けは、どれもが最適の火の通り加減だ。なすの入ったみそ汁が黒ずんでいないのは灰汁抜きを怠らなかった証。程よくつけ込まれたお新香からは、ほんのり本物の糠の香りがする。
 ありふれた旬の食材を当たり前に、けれどひと手間を惜しまずに調理した、いわば「おふくろの味」の温もりがそこにあった。
 恒はただ黙々と箸を進めた。隣では、玄も黙々と肉じゃがをつついていた。もっとも、これはいつものことだが。
 そんな2人を、老婆はカウンターの中でにこにこと見守っていた。
「男の子ぉはたぁんと食べなぁねぇ」
 言って、空になった恒の茶碗にまた、ほかほかのご飯をよそってくれる。老婆の厚意に甘え、3杯のご飯をたいらげたところで、「ごちそうさま」と恒は箸を置いた。老婆は満足そうに頷く。
 が、腹が満たされると、恒の中で先ほどの懸念が再びむくむくとわき上がってきた。神棚にちらりと目をやると、やはり鬼が恨めしそうに睨み返す。隣を見るが、玄は相変わらず知らん顔でコップを傾けている。
「……お婆ちゃん」
 親父は頼りにならない、と胸の中で吐き捨てて、恒は思い切って切り出した。
「あそこでくすぶってる奴、払ってもいいか?」
 言って、神棚を指差す。途端に、老婆の顔から笑みが消え、表情が曇った。
「けんどなぁ、ご縁のあるカミさんやからなぁ」
「あれはカミさんなんかじゃ……」
「わしらぁなぁ、料理屋をしとうて東京に出て来たんやけど、お金がのうてなぁ……」
 声を荒げかけた恒だったが、老婆がうっすらと目を開けて昔語りを始めると、口を閉ざした。
「安ぅなっとるここの土地をやっとの思いで買うたんやぁ。そしたら、このカミさんがここにおらしてなぁ」
 つまりこの悪鬼は最初からこの土地に憑いていたということらしい。曰く付き、ということで安くなっていたのだろう。
「うちの人が、これも何かのご縁やから、とここにお祀りしたんやぁ。店も最初は大変やったけど、2人で頑張ってなぁ、お客さんもようさん来てくれはるようになったんやわぁ。このカミさんもよう手伝うてくれはってなぁ」
 遠い日をそこに見るかのように、老婆の声に懐かしさが混じる。が、ふ、と寂しげに視線を落とした。
「けんど、うちの人がのうなってからはなぁ……。わしもうまく祀ってやれんでなぁ……」
 沈んだ口調でそう言うと、老婆は黙ってしまった。
「……」
 恒は無言で、再び神棚へと目をやった。鬼は相変わらず、恨めしそうに睨み返す。
 けれどこの鬼は、それでもこの店の夫婦のために、自らの本性を乗り越えて懸命に「カミさん」であろうとしたのだ。それが今、祀ってくれる店主を失って、本来の悪鬼に堕ちようとしている。今この鬼は人に仇なさずにはおられない、自らの性を嘆いているようにも見えた。
 けれど、だとしたらなおさらこのままにはしておけない、恒はそう思う。この場に縛り付けられたままこの鬼が悪鬼に身を落としてしまったなら、それまでの時間が無に帰してしまう。
「お婆ちゃん、このままにしとくとこいつは悪さをせずにはいられなくなっちまう。そうなる前に、こいつが本当に心を入れ替えて霊格を上げる手伝いをしようやぁ」
 恒が言うと、老婆はそういうことなら、と頷いた。懐かしい時間を惜しむかのように、寂しげな面持ちを浮かべて。
 隣の玄はそんなやりとりを聞いているのかいないのか、ただただ酒をちびちびやっていた。

 カミとして祀られた時間を、店主夫婦と苦楽を共にした時間を、そしてこの悪鬼が確かに宿した人への想いを、大切に包み込むようなイメージを頭の中で練り上げて、恒は悪鬼の浄化を手伝った。鬼は抗うことなくそれを受け入れる。浄化が終わるその瞬間に、鬼が少し寂しげな、けれども安堵を含んだ笑みを浮かべたのを、恒は確かに見たような気がした。
「お婆ちゃん、終わっ……」
 心地よい疲れに一息ついて振り向いた恒は、思わず絶句した。
 カウンターの内側に老婆の姿はなかった。それどころか、手入れが行き届いていたはずの厨房にも、テーブルの上にも、分厚く埃がたまっている。壁に貼られたメニューの紙は、すっかり文字も薄れて垂れ下がっている。耳が鳴りそうなほどの静寂が、そこに人の息吹が絶えて久しいことを物語っていた。
「これは……」
 外に出てみれば、「売り土地」の看板が立っている。
 しばし狐につままれたように佇んでいた恒だったが、徐々に思考が働き始めた。
 あの老婆もまた、既に亡い人だったのだ。けれど、あの悪鬼に堕ちかけていた鬼のために、天への道を閉ざされていたのだろう。
 死してなおこの世に留まる苦しみは、決して小さいものではあるまい。けれどもあの老婆は、長年連れ添った鬼を恨むどころか、むしろ労った。鬼もまた、鬼なりにこの店と土地を守ろうとしていたのかもしれない。
「帰るぞ」
 一升瓶を片手に、玄がさっさと家への道を歩き出す。
「何だよ、仕事だったのかよ」
 その背に問えば、玄は振り向きもせずに、ただ一升瓶を持ち上げて見せた。
 姑息なことを、と思いながらもなぜか怒りは湧いてこなかった。それ程までに、あの2人との出会いの余韻は深かった。
 けれど、完全に親父の思い通りになるのも何だか癪だ。
「なあ、親父」
 恒は玄の背中に呼びかけた。
「さっきので腹減った。牛丼食わせてくれ、大盛で2杯」
 一升瓶を掲げたままの背中が、ぴくりと揺れた。

<了>