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影向日和〜ようごうびより〜
明け方から降りだした雨が、黒いスティール製の窓枠に縁取られたガラスを伝う。
閃光と、雷の落ちる轟音。そして一際雨音が大きくなる。
カーテンを翻した風が、ベッドの中でまどろむ青年の髪を乱暴にかき混ぜて通り過ぎた。
ああ、窓を閉めなきゃな……。
冷たい滴を頬に感じ、瀬戸口春香はまだ覚醒しない意識のうちで思った。
薄く開けた瞳が映す室内は、まだ夜の暗さに半ば浸っている。
夜が明けなければいいのに。
明け方が近付き、春香のひそむ屋敷にも太陽が傍若無人な光を投げる毎に、繰り返される憂鬱。
昼と夜との曖昧な時間は、何の前触れも無く過去を映し出す。
だから春香は夜明けが嫌いだった。
たった一人の家族を亡くした夜に続く、あの明け方を思い出しては途方に暮れてしまう。
腕の中から滑り落ちる温もり、鉄錆びた血の匂い、慟哭に声を嗄らした喉の痛み。
今でもそれらは痛みを伴って自分の中にあるというのに、彼の姿は輪郭も曖昧ににじんでしまっている。
それが春香をいっそう憂鬱にさせる。
あいつはこんな風に俺を見ていたのかな。
毎朝、洗面台で真鍮の蛇口を捻る度に目の合う、無表情な鏡の中の青年。
同じ姿を分かち合いながら生まれてきたはずの弟の姿にも、今では自信が持てない。
それだけ、時が流れてしまったという事を思い知らされる。
面影と同時に罪悪感さえ薄れてゆく。
鏡の中から見返す赤い瞳を濡れた指先でなぞり、春香は洗面台から離れた。
もう太陽は昇ってしまったんだ。
春香は気持ちを切り替えようと外の景色に目をやる。
張り出した飾り窓の外、裏庭の温室の傍。朱色の鬼百合に黒揚羽が群れる中に誰かが立っていた。
跳ね上がる鼓動の音に、懐かしい弟の名前が重なる。
「そこに、どうして……?」
春香は数年ぶりに、言葉に出して弟の名前を呼んだ。
蛇行する山道は幅も狭く、ガードレールが心許無く張り付いた先は深い谷川だった。
両端から覆うように茂る木々は所々かすかに黄色く、早くも秋の気配を感じさせる。
結城恭一郎が自動車の傍らに春香を乗せ、東京の事務所を出てから数時間がたっていた。
いつもは調査員の和鳥鷹群が運転する所だったが、今回は他の調査にかかっていたため結城だけが春香に同行している。
「疲れませんか、結城さん」
「いや、久しぶりのドライブと思えば楽しいよ。事務所を離れる事はあまりないからね」
休憩に車を止めて背筋を伸ばした結城はそう言って笑った。
――数時間前。
結城探偵事務所の六角に張り出した応接スペースで、春香は所長の結城と対面していた。
結城は背が高く、白髪が目を引く壮年の男だった。軽く左足を引いているが、歩行には問題が無いらしい。
「外は暑かったでしょう? お話は少し休んでからで構いませんよ」
「ありがとうございます」
陽炎の立ち昇る外の世界は、影が地面に縫い付けられそうな光で満たされていた。
明治に建てられたという洋風建築の事務所は良く風が通るのか、窓にかかったレースのカーテンが結城の向こうで翻っている。
春香の住む屋敷とどこか似た雰囲気だ。
窓辺には調査員の和鳥鷹群が佇んでいる。
幼さを残した顔立ちの中、左目の下にある泣き黒子が印象に残る。
「何がありました?」
落ち着いた口調の結城に促され、春香はここ最近自身に起こる怪異現象を語った。
「……裏庭の温室の傍に、弟が現われるんです。
決まって太陽の照りつける暑い日の午後に。
弟を見かける度に俺は傍まで行くんですが、いつも途中で……弟は消えてしまう」
会いたい。懐かしいその姿を、またこの瞳で見たい。
「弟が本物でない事くらい、俺にもわかります。
でも、俺が何か伝えなくては……たぶんまた、弟は現われて……消えてしまう」
会って一言だけでも伝えたい。
そうすれば、きっと。
「弟を、探してもらえますか?」
春香の話を聞いていた結城が質問する。
「弟さんが本物でないという根拠はありますか?」
「弟は亡くなりました」
ためらいも無く答える春香に、結城はわずかに眉を寄せ「そうですか」とだけ返した。
形ばかりで同情の言葉をかけられても、春香も対応に困ってしまうのでその方が気楽だった。
「瀬戸口さんは『狭間』という現象についてご存知ですか?」
口調を変えて結城は切り出した。
「いえ、特には」
なめらかに歌うような言葉を結城の唇がつむぎ出す。どことなく寂しそうな口調に聞こえるのは春香の気のせいだろうか。
「昼と夜、人と闇の狭間。時の移ろいに残された強い想い。
『狭間』は強い想いが姿を取ったものだと言われています。
けれど、『狭間』と呼ばれる者を呼んでいるのは、本当は人の方です」
ひるがえる白いカーテンがふわりと膨らんで、春香にはいもしない人影に一瞬見えた。
「……だから、弟さんを探す場所は瀬戸口さんのすぐ傍、という事になります」
白い壁が緑の中で鮮やかな洋館に二人が着いたのは、すみれ色の夕暮れが近付いた頃だった。
ねぐらへと帰る鳥の群れが、羽ばたいて空に行き交う時間。
「どうぞ、たいしたおもてなしもできませんが」
門扉を開けて庭に結城を通した春香だったが、立ち止まったままの結城に首を傾げる。
「結城さん?」
結城は懐から取り出した鞭を振るい、足元に数体の狼を実体化させた。
純白の毛並みと真紅の瞳、そして舞い散る粉雪をまとった雪狼。
結城の持つ武器・咆哮鞭が使役する獣たちだった。
「瀬戸口さんはまっすぐ裏庭へ行って下さい。後から俺も向かいます」
結城の足元の狼たちは姿勢を低くし、唸り声は立てないものの周囲に鋭い視線を向けている。
春香が疑問を口にする前に、二人の立つ庭の土がどろりと溶け出した。
次いで不定形の闇が地面からせり上がって形を取り始める。
棒状の闇の先が五つに分かれ――うごめく人間の指の形になる。
何かを探すように指は空をかいている。
春香は記憶の隅で似たような光景を見たような気がした。
あれは、あの戦いで死んだ人間の。
敵も味方も区別のつかない、戦場で死んでいった人間の。
――あの時伸ばされた腕は、俺に……。
「瀬戸口さん!」
春香は結城の叫びに意識を取り戻した。
そしてジャケットの懐から取り出したグルカナイフを、太腿までまとわりついた闇に向かって振るう。
湾曲した刃が鋭い軌跡を描き、一瞬闇の腕たちの動きが鈍る。
これも、俺が呼んだ者なのか?
「今なら、弟さんにも会えるはずです」
過去に受けた恐怖の記憶すら実体化している、今なら。
春香に追いすがろうとする闇の腕を結城の雪狼――雪風が鋭い牙で噛み千切った。
春香は裏庭に向かって駆け出した。
春香に花を愛でる趣味は無い。
ただ、過去に庭に植えられた花が季節毎に蕾を膨らませ、花開く。
その繰り返しを見るだけだった。
裏庭は西日の中で、ひっそりと主人を待っていた。
荒れ放題の花壇だった場所には、朱色の鬼百合が今年も花を付けている。
昔、海の見える故郷で弟と一緒に見たものも、こんなに色鮮やかだったろうか。
黒い揚羽が翅を休める花びらの向こうに、懐かしい姿が見えた。
ゆっくりと距離を詰めていっても、彼はその場で春香を待っている。
自分と良く似た弟の面影。
言葉が足りない分は、細いフレームの向こうで真紅の瞳が心情を語っていた。
だから、気持ちを伝える時に言葉で補う事を忘れていたのだ。春香も。
「ごめんな。
もっと早く、口に出して言えば良かったのに……ずっと言えなくて、ごめん。
お前の顔も思い出せないのは、本当は忘れたんじゃなくて……逃げてただけだった」
全ての記憶は、いつかこの身体が塵に還るその時まで消えはしない。
そんな日がこの身体に来るのかも、わからないけれど。
「お前を死なせてしまったのは、俺だったよな」
そっと手を伸ばした先に触れる弟の体は、儚くかすんで冷たかった。
失われて消えてしまったはずの弟の姿は、それでも西日の最後の輝きを受けて、春香の言葉を受け止めている。
彼の表情一つ一つが、自分にとって都合良く作り出された幻なのだと春香はわかっていた。
それでも春香は言葉を繋げる。
「一人で逃げてて、ごめん……」
涙はもう流れない。
声が枯れる事もない。
あの頃を思い出せば哀しくても、今は辛くない。
「……またな」
西日が山間に沈む時、弟の幻は『仕方ないな』とでも言いたげにかすかな笑みを頬に浮かべ、消えた。
そして春香は再び一人、この世界に取り残された。
「会えましたか?」
ぼんやりと百合の花の合間に立っている春香に、一匹だけ雪狼を連れた結城が話しかけた。
「ええ……」
春香の心のいくばくかが解放された今では、庭にあふれていた怪異現象も治まっている。
「狭間に出会うのは、不幸だと感じる人もいますが……それは間違いです。
哀しい出来事は消えませんが、自分に向き合うきっかけになりますから……心が軽くなって、いつか誰かに優しくできますよ」
結城も自分自身にひそむ闇を何度も見ながら、生きているのだろうか。
春香は影になった結城の表情を思いながら瞳を閉じた。
思い出の中で弟の姿がかすむ事はもうない。
西日の中で、弟の面影は鮮やかに春香の心に刻まれた。
(終)
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■ 登場人物(この物語に登場した人物の一覧) ■
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【 3968 / 瀬戸口・春香 / 男性 / 19歳 / 小説家兼異能者専門暗殺者 】
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■ ライター通信 ■
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瀬戸口春香様
お待たせしました!
別れて歳月がたつと、どんなに親しかった相手でも声や表情の輪郭はぼやけてしまいますね。でもそれは仕方ないのだと、最近私も思えるようになりました(な、何の話?)
最後には「楽しかった」感覚だけが残るように思います。
ともあれ、少しでも楽しんで頂ければ嬉しいです。
ご注文ありがとうございました〜!
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