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『幻想風華伝 ― 夢の章 ― 月の下で咲く花』
月の下でその白い花は気高く咲き誇る。
それは貴婦人の如く品のある芳しい芳香を放つとか。
『見て、灯火。これは月下美人という花なんですって』
わたくしを抱きながらあの方は嬉しそうに微笑まれながらそう言われた。
明るい太陽の下で、だけどその花は白い蕾をそっと閉じている。まるでさなぎがじっと蝶となって飛び立つその瞬間を恋い待ち焦がれているかのように。
『明日の朝ぐらいに咲くのかしら?』
小首を傾げながらあの方は蕾を覗き込む。どことなく蕾は恥かしそう。
わたくしはくすくすと笑ってしまう。だってまじまじと蕾を見つめていらっしゃるんですもの。
『―――ちゃん』
呼ばれて、振り返る。そこには20代後半ぐらいの綺麗で落ち着いた女性が居た。
彼女はわたくしを抱く――様の隣にしゃがみこんで、にこりと微笑んで、そっと丁寧に白い花の蕾に触れられた。
『三年、かかったの。この白い蕾を付けさせるまでに』
『まあ、三年も』
わたくしを抱いているからあの方はもう片方の手で口を覆い隠して、驚かれた。
『ええ、そう。三年。三年前の6月にね、挿し木から始めたの。知り合いから貰った月下美人の葉…ああ、葉に見えるのだけど、これは茎なんですって。これをね、挿し木にしてね、それから丁寧に丁寧に手をかけて育ててあげたの。そうしてね、ようやっとこうして蕾をつけてくれたのよ』
とても嬉しそうに彼女は笑って、それからその笑みに釣られるようにあの方もにこやかに嬉しそうに微笑まれた。
『ねえ、志摩さん、明日の朝には咲く?』
きょとんと小首を傾げたあの方。
志摩様はにこやかに微笑まれながら顔を横に振られた。
『ううん。明日の朝まで待たなくとも良いよ。今晩咲くの。月下美人。月の下の美人。この花は一晩にだけ咲くのだから』
あのね、―――ちゃん。良い事、教えてあげる。月下美人にはね、伝説があるの。欠けの無い満月の夜、その明かりを浴びた月下美人は魔法を帯びて、人の願いをひとつだけ叶えてくれるって。
それを聞いた――様はとてもお喜びになられ、そしてその日の晩に咲く月下美人の花をとても楽しみにされた。
だけど身体の弱い――様はその日の晩に熱を出されて、結局はそれを見る事は叶わなかった。
――様。もしも熱を出されずに、欠けの無い満月の下で咲き綻ぶ真っ白な花を見たのなら、あなた様はその月下美人に何を願われたのですか?
――――――――――――――――――
【逢いたいですよ】
長野県の別荘地がある近くのバスの停留所。
そこで停まったバスから彼女は降りる。
灼熱の円盤が青い空の真ん中に陣取る時間帯、わたくしはそのバスから降りた黒髪、紫暗の瞳、全身黒づくめの少女に抱かれていた。
その方の肩には前に知り合ったスノードロップの花の妖精のスノードロップ様が座っていらっしゃる。
スノードロップ様は少々この真夏の容赦の無い暑さにすっかりと参っていらっしゃるよう。
だけど彼女はわたくしを抱いたままさっさとアスファルトで舗装されていない地面が剥き出しの道を歩き始めた。
左右に濃い緑の色の草が生えている、わだちの後がある農道。時折擦れ違う農家の人もどことなく顔が暑そうで、大変そうだった。
「綾瀬様は暑くはないのですか?」
そんな黒づくめの恰好で。
わたくしが小首を傾げると、綾瀬様はひょいっと肩を竦められた。スノードロップ様が危なく肩から落ちそうになられる。
「ん。心頭滅却すれば火もまた涼しだから」
綾瀬様はそう微笑まれる。
わたくしはもう一度小首を傾げる。心頭滅却?
「それよりも、あなたは嫌じゃない?」
「………え?」
「あたしに抱き抱えられて。持ち主様、探しているんでしょう? だから、他人のあたしがあなたに触るのは嫌なんじゃないのかな、って。ごめんね。でも今はまだ昼間だから…」
「あ、いえ。そのような事は。ありがとうございます、綾瀬様。気を遣っていただいて」
わたくしがそう申すと綾瀬様はにこりと微笑みになられた。その笑みを見て想う。ああ、この人はとてもご自分をしなやかに見せているのだけど、本当は誰よりも弱く、人に嫌われる事を恐れているのだと。
「あともう少しで白さんが居る場所に着くから」
「はい」
だからこの人の普段の表情はそういう心を隠すための仮面だから、とても見ていて痛々しいのかもしれない。
そしてそれはわたくしにあの方を想わせた。
病弱だった――様。ご自分の部屋だけが唯一の世界。箱庭。
わたくしはその遊び相手として求められ、あの方はわたくしをとてもお気に入りになって、何でもわたくしに話し掛けてくれた。
―――そう、心に抱く悲しみも。
『ねえ、灯火。私、ママやパパに嫌われていないかなー』
病弱だったあの方はよく身体の調子を崩されて、床に伏せていらしゃったから、だから心配だったのだと想う。そんなご自分がご両親様の負担となっていなかったか。
嫌われる事が怖かったのだ。病弱なあの方には友達はわたくしひとりで、そしてお父上様とお母上様こそが神様であったのだから。
今もよく想う。
もしもわたくしがあの方がご存命の時にこうして心を持って喋れていたら良かったのに、って。
そうしたらわたくしは伝えていたのに。
伝えたかったのに。
大丈夫。お父上も、お母上もあなた様が大好きですよ、と。
わたくしもあなた様が大好きですよ、と。
その想いをわたくしは届けたいから、こうして今にある。
あなた様を探している。
大好きですよ。
大好きですよ。
大好きですよ。
わたくしに宿った心は奇跡。
その奇跡はわたくしのあなた様を想う心が生み出した。
そしてまたもう一度、わたくしがあなた様に出逢えるその奇跡の始まり、わたくしはそう信じ、願い続けている。
農道はやがて終わりを迎え、わたくしたちの視線の先には一軒の大きな屋敷が現れた。
その屋敷の門の前に白様がおられる。
白様はわたくしと目を合わせるとにこやかに微笑まれながら頭を下げてくださった。
綾瀬様が言うにはここで白様がわたくしと話してもらいたいお花の妖精様がいらっしゃるのだとか。
何でもそのお花の妖精様はずっと黙ったままで白様にも心を開かれないそう。
わたくしで役に立つ事ができればよいのですが。
「こんにちは、灯火さん。わざわざこんな場所まで来ていただきすみませんでした」
「いえ、そのような。何かわたくしでお役に立てる事があるのであれば、わたくしはどこにでも行きますから。それは本当にわたくしにとっても嬉しい事ですから」
「ありがとうございます」
白様は優しく微笑まれた。
それから白様はかがこみこまれて綾瀬様に抱かれるわたくしと同じ目線とすると、静かに微笑む顔で頷かれた。
「植物も人も一緒。心があるから、その心の持ち様一つで病気が改善すれば、悪くもなる。これから灯火さんに会っていただきたい花はずっと心を閉じてしまっているのです。それこそ夜に花がその蕾を硬く硬く閉じるように。だから僕は灯火さんに来ていただいたのです」
「どうしてですか?」
「その花もまた置いていかれてしまったから。前に自分を大切にしてくれていた人に」
わたくしの心がとくん、と脈打った。
「そのお花の妖精様もでございますか?」
「はい。その花を育てていらしゃった元の持ち主さんが亡くなってしまわれたそうです。それでその方と仲が良かった今の持ち主さん、僕に治療を依頼してくださったその方が形見分けでもらったそうなんです」
「………そうなのですか。置いていかれるのは辛いですものね」
白様はどこか消えてしまいそうな表情を浮かべられた。まるで前にとても大切で大好きな人に置いていかれた幼い子どものように。
「さあ、ではこちらに」
「はい」
それからわたくしたちは白様に連れられてその屋敷の中へと入った。
「まあまあ、いらっしゃい。あなた方が白さんが仰っていた方々ね。遠路はるばるごめんなさいね。でもどうしてもあの子、元気にしてあげたいの。本当にご無理を言ってごめんなさい。そしてありがとう。お願いしますね、あの子を」
その方は上品に微笑まれると、居間へと案内してくれた。
そしてその居間の床には広げられたシートの上にその懐かしい花があった。
元気の無い月下美人の花。
「灯火さん。あなたの想いを、今あなたがここにあるその理由をあの子に話してあげてくださいませんか?」
「はい、白様」
綾瀬様はそっとわたくしを下ろしてくださり、わたくしは皆様に見つめられながらその月下美人様の傍らにまで行って、そっとその身に触れながら、わたくしの想いを言葉に紡いだ。
「逢いたいですものね」
―――ぴくりと月下美人様がその身を震わされる。
「大好きで、恋しくって、愛おしいから。持ち主様が。ちゃんと心は覚えている。大切にしてもらっていた想い出を」
―――記憶。
真っ暗な闇が光りに包まれたのは箱の蓋を―――様が開けてくださったから。
わたくしを見てとても嬉しそうに顔を綻ばせてくれた―――様。
わたくしを相手にいつもおままごとをしていた―――様。
わたくしの着物を脱がせてしまって、元通りにできなくって、泣いてしまわれた―――様。
あなたと同じ月下美人を見て、とても嬉しそうになされていた―――様。
熱を出してしまって、楽しみにしていた月下美人の花を見る事が叶わなかった―――様。
誰よりも、何よりもわたくしを大切にしてくださった―――様。
わたくしは今もそれをちゃんと覚えている。
ちゃんと覚えているから、あなた様に逢いたくって、逢えなくって、だからわたくしは心を持った。
もう一度あなた様に出逢えるように。
きっとどこかにいるあなた様を探し出せるように。
恋しくって、愛しくって、逢いたくて。だからわたくしは―――様を忘れられない。
忘れたくない。
わたくしは知っている。
わたくしの身体に宿ったこの心を満たす感情の名前を。
それは恋。
わたくしはあの方に恋をしている。
「月下美人様、それはあなた様もご一緒なのでしょう? だから持ち主様がいなくなってしまった事が哀しくって、辛くって寂しくって、心が蒸発してしまいそう」
でも心は蒸発してしまうのを望まないから、余計に苦しい。
心が蒸発してしまったら、あなたをもう想えなくなるから。
―――大好きですよ。
「恋というのは辛いですわよね。でも好きだから、その感情が嬉しい。大切にしたい。持ち主様を好きだというその感情をわたくしは誇りたい」
わたくしは鉢の隣に置かれている栄養剤を手に取り、白様を見上げた。
白様はこくりと頷いてくださり、わたくしはだからその栄養剤を月下美人様が植わっている鉢に刺した。
「好きだという感情が嬉しい。そう想える事が幸せ。幸せだから生きられる。今は持ち主様がいらっしゃらなくって、それは寂しいけど、それでも心は確かに持ち主様の事を覚えているから、それが力になる。そうして生きていける。そしてそうやって生きる姿が呼びますから、奇跡を。必ずあなた様は恋しい持ち主様と出逢えるから。だから生きていきましょう。ね。わたくしもそう信じ、日々を生きています。持ち主様がいなくなられてから今日まで、そしていつか出逢えるその日まで」
奇跡。
それはやはり心が呼ぶもの。
強く未来を願う心が。
月下美人様は持ち直し、
そうして小さな小さな白い蕾をつけられた。
『見て、灯火。これは月下美人という花なんですって』
それを見ているわたくしの頬に綾瀬様の人差し指の先があてられる。
わたくしが綾瀬様を見ると、綾瀬様は優しく微笑まれた。
「涙が頬を濡らしていたから」
わたくしは驚き、それから綾瀬様に頭を下げた。
「灯火さん」
「はい」
「月下美人の花言葉、ご存知ですか?」
そう問う白様にわたくしは顔を横に振りました。
白様は静かに微笑まれ、優しい声でそれを言葉に紡いでくださった。
「儚い美、儚い恋、繊細、そしてただ一度、逢いたくって」
ただ一度、逢いたくって………
逢いたい。
逢いたいですよね。
わたくしはあなた様に逢いたい。
わたくしはそっと月下美人の鉢に抱きついて、しばらくそうしていた。
――――――――――――――――――
【泡沫の夢の世界】
わたくしはまた綾瀬様に抱かれ、綾瀬様は農道を歩いていらっしゃる。
そのわたくしたちの前を行かれる白様は月下美人の鉢を両手で抱え持っていらっしゃって、その傍らを今の月下美人の持ち主様が歩いていらしゃった。
わたくしたちはこの月下美人様の前の持ち主様が暮らしていらしゃった場所へと向かっていた。
でも何故かわたくしはこの道に覚えがあるような気がした。前に一度、見た事があるような。
「どうしたんでしか、灯火さん?」
「いえ、少し、既視感があるような気がしまして」
「デジャブでしか?」
「あら、偉そうに横文字を使って」
綾瀬様がスノードロップ様をからかって、わたくしはくすくすと笑う。
そうしてまたあらためて周りを見回す。
やはり見た覚えがあるような………。
「確かこのまま道を行くと、枝が大きく分かれた木があって、それから」
―――それからその奥に広がる森を行くと、大きな湖があったはず。
『…志摩さん。怖いです』
『もう少し我慢して、―――ちゃん。私を信じて』
『はい』
―――月下美人の花を見られなくって、落ち込んでいた―――様。
志摩様はそんな―――様を元気付けるために、―――様の病状が回復した次の日の夜にこっそりと―――様を連れ出して、この森へと来た。
夜の森の奥、そこにあった湖。
その水面の上を飛ぶ儚くも美しい淡き燐光の乱舞。蛍。
『すごい。すごい。すごい。志摩さん。すごい蛍の数。100? ううん、1000。もっとたくさん。たくさん。何て言えばいいの、志摩さん。この数?』
『無限。無限でいいんじゃないかな。私もこんなにもたくさんの蛍が飛んでいるのを見るのは初めて』
無限の蛍が舞う、夢幻の光景。
まるで本当に何か凄く神秘的な事が起きそうだったそんな光景。
わたくしも感動していた。
とくん。
とくん。
とくん。
とくん。
心が緊張に脈打つ。
何かが起きそうなそんな予感がする。
何かが―――
「灯火」
――――わたくしを呼ぶ、あなた様の声。
「―――様ぁ」
わたくしはあの方の名を呼んだ。
だって森の奥、木の陰から――様がわたくしを見て、手を振るのですから。
わたくしはそちらに瞬間移動をする。
「灯火さん!?」
綾瀬様の驚いた声がしたけれども、でもわたくしは戻れないし、止まれない。
―――様はどんどんと森の奥へと行かれてしまうから。
わたくしはそれを追いかけた。
待って、待ってください、―――様。
わたくしを、わたくしをもう、置いていかれないで下さい―――
瞬間移動を繰り返し、わたくしはあの方を追う。
森は夕方からいつしか夜へとなっていた。
確かに綾瀬様に抱かれて農道を歩いていた時は、ツクツクボウシ、アブラゼミ、ヒグラシ、クマゼミが鳴き続ける蝉時雨であったのに、今はもう静かな夜だった。
まるで沈黙が澱を成して沈殿したかのような静寂な夜。
その夜の森、そこにあった湖。水面の上を舞台にしてあの夜の時のように無限とも思える蛍たちが淡き蛍光の光りを発して、舞い飛ぶ。
あの方はその湖の中心、蛍の光りの群れの中に消えてしまわれた。
わたくしが見たモノは………
「灯火さん、どうしたんでしか?」
「スノードロップ様」
後ろを振り返ると、肩を大きく揺らして荒い呼吸をなされているスノードロップ様がいらした。
わたくしは顔を横に振った。
「すみません。何でも無いのです」
ただ一度、逢いたくって………
―――嫌ぁ。嫌ぁ。嫌ぁ。
ただ一度、一度きりなんて、嫌です。
嫌です、ただ一度きりなんて。
逢いたい。
逢ったらそのままずっといたい。
もう離れたくない。
―――様ぁ。
「そうだね。逢いたいよねぇー。逢いたい。だけど逢いたいのはあなただけじゃない。皆、逢いたい。逢いたいけど逢えなくなって、だから逢いたい。逢いたいから逢いたい。あたしは紫陽花の君。紫陽花の花言葉はうつろぎ。紫陽花は気まぐれ。あたしは紫陽花が土で花の色を変えるように、その人によって、あたしはあたしを変える。あたしは物語の番人。泡沫の夢の世界、そこで皆の夢を叶えてあげる」
風の無い夜だったのに、湖の水面に波紋が湖の中心から外側に向かって走る。風がそのように吹いて、枝や葉が揺れて、海の波のような音色を奏でる。
湖の中心、蛍が舞う中で、佇む少女。
蒼いパラソルをくるくると回しながらその方はとても無邪気に微笑まれている。本当にただただ笑う、という行為を純粋に実行されたような、そんな笑み。
「ひゃぁー。紫陽花の君でし」
スノードロップ様は悲鳴をあげながらわたくしに抱きつかれた。
だけどわたくしは何故かその方を怖いとは想わなかった。
どうしてでしょう?
―――後から綾瀬様に聞いた話では、本当にその方は酷い方だという事でしたが、わたくしにはしかしその話を聞いても、怖いとは思えませんでした。
彼女が抱くのは白様が持っておられたはずの月下美人の鉢。
「人の夢の物語。それが泡沫の夢の世界」
蛍の光りがその瞬間、しかし夜を満たした。
「月下美人の花言葉は、ただ一度、逢いたくって………」
――――――――――――――――――
【約束、しましたものね】
「おや、珍しい。紫陽花の君が良い事をした」
そう言われたのはわたくしの前におられる銀髪のおかっぱ頭さん。
「わぁ、兎渡さんでし」
「やあ、スノードロップ。また会ったね」
どうやらこのお二人はお知り合いのよう。
「あの?」
きょとんと小首を傾げて気付く。
身体が何やらおかしい。感覚が、あるのです。
肌を撫でる夜の風は冷たく心地良くって、
夜の空気はとても澄んだ匂いがした。
そして風に揺れる髪が首筋をくすぐるのがひどく、くすぐったい。
「ひゃぁ、灯火さん、なんでしか?」
「え?」
スノードロップ様は大きなどんぐり眼を見開かれていて、そしてわたくしもそのスノードロップ様の瞳に映るわたくしの顔を見て、驚く。
そう、わたくしは驚くのです。
ただ一度、逢いたくって。
―――逢いたかった。
逢いたかったです、―――様。
わたくしは湖を覗き込む。
水面に映るのは―――様の顔。
―――様になったわたくしの顔。
何故かわたくしはあの方になっていた。
頬を流れる温かい水。
―――ああ、これが涙。
わたくしは嬉しくって泣いている。
あなた様にこうして逢えて、嬉しくって泣けて。
切なくって泣けて。
そして幸せだから泣けて。
「ここは月下美人の花言葉の影響を受けた人の想いが作り出した物語の世界。ただ一度、逢いたくて。逢えるんだよ。ここでは逢いたい人に。儚い恋をする人に。それは儚い美の物語。そういう物語を作り出したこの世界の核である人間以外は」
「え?」
「ここに迷い込んだ者はただ一度、ここで逢いたい人に逢える。でもこの世界を作り出した核の人間は逢えないんだ。それが世界を成す制約だったんだね。世界は優しく、そして惨いから」
兎渡様はそう悲しげに微笑み、そしてわたくしの後ろを指差した。
そこには小さな少女がいた。
わたくしにはわかる。
その方はあの月下美人様だと。
わたくしは月下美人様の前へと行き、そして手を伸ばす。
手を繋ぐ。
「大丈夫。逢えますよ」
「うん」
「行きましょう。帰りましょう」
「うん!」
わたくしたちは手を繋いで走る。
「あ、待ってくださいでし、灯火さん」
わたくしにはもうわかっていた。
ここを作り出す人が誰なのか。
そしてわたくしの既視感はやはり気の迷いではなかった事が。
この月下美人様が、あの月下美人様である事が。
だからわたくしはそこへと走った。
道は覚えていた。
見えてくる。瀟洒な作りの真っ白なペンション。
―――様の母上様のお友達がなされていたペンション。
身体の弱かった―――様はあの夏に、養生も兼ねてここへとやって来た。
わずか数日のここでの夏だったけど、―――様は来年の夏もここへやって来るのを楽しみになされていて…………
そして志摩様も―――
『―――ちゃんが私の子どもだったら良かったのに。大好きだよ、―――ちゃん』
「志摩さぁん。また、また来ましたよ」
「―――ちゃん」
花々に水をあげていた志摩様は如雨露を手から落として、そうしてわたくしを………―――様をぎゅっと抱きしめた。
ただ一度、逢いたくて。
―――逢いたかったのですね。
志摩様も逢いたかったのですね。
そうですよね。
仲良し様でしたものね。
約束なされましたものね。
来年の夏も必ずここで遊ぶと。
月下美人の花を今度こそ見て、
また蛍を見て、
スイカを食べて、
花火をして、
そして一緒に色んな事をして、遊ぶ約束。
『志摩さん、来年も来るね。約束』
『ええ、約束』
『『ゆびきり、げんまん、嘘ついたら、ハリセンボン、のーます。ゆびきった』』
約束、しましたものね。
「志摩さん、約束。遅くなってしまってすみません」
「ううん。いいのよ、―――ちゃん」
わたくしは―――様のフリをする。
わたくしが一番わかっているから、志摩様のお気持ちを。
「あ、月下美人さんが咲きそうでし♪」
スノードロップ様が指差す先、白い蕾が花開く。
一辺の欠けも無い蒼い満月の下で月下美人が咲き誇る。
志摩様と―――様であるわたくしは手を繋ぎ、美しく咲いた月下美人様をいつまでも見続けていた。
そうしてその泡沫の夢の物語は、志摩様の想いが成就されて、物語を終えた。
――――――――――――――――――
【ラスト】
「灯火さん?」
わたくしは兎渡様に現実の世界へと帰されて、そしてそれはあの枝が大きく分かれた木を視界に映した時点でした。
それこそまるでほんの瞬きの間に見た泡沫の夢であったように。
「いえ、何でもありません。綾瀬様」
わたくしがそう申し上げますと、綾瀬様はにこりと微笑まれた。
そしてわたくしたちは誰もいないペンションの前へと行き着いて、そこの庭にあった古いベンチに月下美人の花が植わった鉢を置いて、一辺の欠けの無い蒼い満月の下で月下美人様が美しく優雅に咲き誇る光景を見守った。
あのね、―――ちゃん。良い事、教えてあげる。月下美人にはね、伝説があるの。欠けの無い満月の夜、その明かりを浴びた月下美人は魔法を帯びて、人の願いをひとつだけ叶えてくれるって。
わたくしが祈るのは志摩様とこの月下美人様がまたもう一度、逢えるように。どれだけ時間がかかっても必ず。
そして志摩様が―――様に出逢えますように。
そうしてちゃんとあの夏にした約束が実行されますように。
ただただわたくしはそれだけを祈り続けました。
ひとつと言わずに、その全てが叶いますように、と。
わたくしも、わたくしも自分の足で歩き回り、そしていつか必ずあなた様に逢いに参ります。
月下美人の花言葉。
―――儚い美、儚い恋、繊細、そしてただ一度、逢いたくって。
― fin ―
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■ 登場人物(この物語に登場した人物の一覧) ■
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【整理番号 / PC名 / 性別 / 年齢 / 職業】
【3041 / 四宮・灯火 / 女性 / 1歳 / 人形】
【NPC / 白】
【NPC / 紫陽花の君】
【NPC / 綾瀬まあや】
【NPC / スノードロップ】
【NPC / 兎渡】
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■ ライター通信 ■
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こんにちは、四宮灯火さま。
いつもありがとうございます。
このたび担当させていただいたライターの草摩一護です。
今回はご依頼ありがとうございました。^^
いかがでしたでしょうか?
プレイングに書かれていたPLさまの希望に上手く添えていますと嬉しいのですが。^^
月下美人は私もとても大好きな花で、一度だけ、夜に咲く月下美人の花を見た事があります。本当に私の筆力では上手く表現できぬほどにそれはとても綺麗な花でした。^^
月下美人の花言葉もすごく綺麗で、そして切ないですよね。
この花言葉は本当に灯火さんに相応しいと思えます。
恋しくって探しているあの方への想いにすごくぴったりときますものね。
プレイングを見てすごく嬉しくなったのは、指定されていた月下美人という花が好きだった事はもちろん、その花言葉が凄く灯火さんにぴったりで、色んな物語が浮かんできた事が。その中でも一番喜んでもらえそうだと想い書き綴ったこの物語、本当にお気に召していただけてましたら幸いです。^^
それでは今回はこの辺で失礼させていただきますね。
ご依頼、ありがとうございました。
失礼します。
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