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<東京怪談ノベル(シングル)>


 影を見る



 この屋敷で目に映るのは、小さな背中。
 この屋敷で聞こえるのは、床を蹴って走る足音。
 景色が回る度、貴由は微かな眩暈と戸惑いを感じていた。
 捕まえられそうで捕まえられないあの背中を、知っている気がして。


 胡弓堂の店長に頼まれて訪れた骨董屋で手渡されたのは、銀色の万華鏡だった。ブレスレットと一体になっており、万華鏡の部分には蔦を模した模様が彫られている。
 こんなタイプの万華鏡があるのか、と思いながら骨董屋の主に聞けば、何でも、ジュエリーデザイナーの協力を得て手作りされた物だという。同時に、番号で区別していた製作者が唯一名前をつけた作品でもある――明るいとは言えない蔵の中でも、ブレスレットの内側にぼんやりと文字が並べてあるのを見ることが出来た。
(V……por……bl……何かな?)
 ここで判別するのは難しい。
(唯一名前をつけてもらえた作品、か)
 好奇心が頭をもたげてくるのも当然だ。
 吸い寄せられるように、貴由は腕にブレスレットを嵌め、万華鏡を下から見上げた。
 幾つもの色が交じり合うのを想像していたが――。
 予想に反して、片目分の世界は青と緑の二色だけで閉ざされていた。いや、よく見れば濃さの違う青同士が重なりあっているのがわかるのだが、赤や黄色や白すらないのは何故だろう。
 代りに、視界の端では小さな、やはり青系統の色で纏められた造花が揺れているのが見える。
「万華鏡というより、ただの景色だな……」
 そう呟いて顔を離したとき、貴由は口元に微かな驚きの表情を浮かべなければならなかった。
 ――眼前にあるのが、蔵の壁でも骨董屋の主でもなく、狭い個室だったから。


 そこは初めて訪れる場所だった。
 床全体が果実の皮程の深さの水で覆われ、四方の壁の隅には細い氷の像が天井まで伸びていた。その氷に巻きついて、緑と青の葉と、蒼色をしたコサージュの花が僅かに揺れている。
(これがさっき見えた物か)
 まっすぐ行った先には瑠璃色のドアが一つ。
 部屋の中央、円を描いた部分の床だけが美しい緑青色をしていた。天井には同じ大きさの丸い穴が開いていて、そこから光が漏れ出し、真下を照らしている。
 ――そこに靄を見つけた。
 人型にも思えるそれは、ゆっくりとドアをすり抜けて出て行った。
(私を呼んでいる――)
 貴由も靄を追って個室を出たのだった。

 ――……。
 貴由は静かに息を呑んだ。
 今閉めたばかりのドアは姿を消し、どうやら自分が今いるのは屋敷の中らしかった。
 そして貴由の視線の先には、一人の少年がいたのだ。
(他にも人がいたのか)
 歳は……――小学校低学年程だろうか。
「どうしてここに――」
 貴由が話し終える前に、少年は身を翻して走り出した。
「ちょっ……待って!」
 慌てて後を追う。
 少年を放っておくわけにもいかないし、彼に訊かなければここからどうやって帰ればいいのかもわからないのだ。
(突っかかることもある)
 どうして私はここに呼ばれた?


 見ためは普通の屋敷だったが、廊下を曲がるときや部屋から部屋へと移動するときには視界が弧を描いて揺らいだ。ギシギシする床が壁に移動した――と感じたのもつかの間、よく見れば何も変わっていない。
(気のせい?)
 けれど、やはり少し経てば景色がぐるりと回る。
 まるで万華鏡の中に閉じ込められているかのように、貴由の足元は不安定だった。
(なのに)
 不思議なことに、少年は走ってはいるものの、貴由を振り切るつもりはないようだった。
 貴由が微かな眩暈を覚えて立ち止まるとき、彼もまた足を止める。
 ――待っているのだ。
「何故?」
 言葉にしたが、答えはない。
 ただ薄暗い中で、彼の肩が少しだけ揺れる。隠そうともしていない、無邪気な笑い方だ。


(見覚えがある)
(誰かに似ている)
(……ううん)


 小さな背中に指が届きそうになると、決まって足場が揺れるのだ。
 手を伸ばせば伸ばす程、遠のいていく気がする。
(やっぱりあの背中)
 胸騒ぎと、喉につかえた感じで想像がつく。
(大事な奴なんだ)
 あの身体に触れられれば、もう一度顔を見ることが出来たら、思い出せそうなのに。
 廊下から離れて、庭に出た。
 夜空には瑠璃色の満月が浮かんでいる。
 彼はそこを走っていった。月の光に身体が溶け込んでいくのがはっきりと見えた。
 そこで、少年は貴由を振り返ったのだった。
 唇が、音なく、無言の言葉を弾いていく。

 は・や・く・お・も・い・だ・し・て・ね。

 笑い声が風に乗って聞こえてくる。
 貴由は沈黙し、目を逸らさずに彼が夜に呑まれていくのを眺めていた。
 影のひとかけらも見えなくなって、瑠璃色の光の下にドアが現れても、しばしの間、宙を正視していた。



 机の上に並べた色鉛筆から、ドアに近い色を選んでスケッチブックに線を引いた。
 時折思いつくままにアクセサリーのデザインを絵にしていたが、今日は頭の中で強く浮かんでくる物がある。
 ――骨董屋の主に聞いた話では、あの万華鏡を覗いた人間は、忘れていた記憶の断片、いわば影を目にすることになるという。
 ブレスレットの内側に彫ってある名前も、それが何を意味するのかも、今ならわかる。
 Vous ouvrirez la porte bleue.(貴方は青いドアを開ける)
 ドアを開けるのは簡単だ。鍵となる欠けた記憶は、既に持っているのだから。

 私は何を忘れているんだっけ?

 貴由は迷うことなく線を走らせる。
 気に入ったデザインが出来上がるという、確信に近い予感はあった。




終。