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<東京怪談ノベル(シングル)>


彼方より、此方へ



■手紙

 物部真言 様

 至極丁寧な筆になる表書きがしたためられた手紙の差出人は、もう結構な間帰っていない実家の弟だった。
 どこにでも売っている茶封筒を引っ繰り返してもう一度宛名を見る。間違いなく、己宛てだ。
 今ここで開けようかと迷ったのも束の間、口に突っ込んでいた歯ブラシから泡状になった歯磨き粉が垂れかける。慌てて、真言は封筒を放り出して洗面所へ引っ込んだ。
 郵便屋が来た音がしたからと言って、歯磨きの最中に物を取りに行くべきではなかった。どうせダイレクトメールが大半だからと、いつもならば暫く放置しておくのも珍しくないのに。
 今日に限って、真言は即座に郵便物を取り出しに行ったのだった。
 その結果、見つけたのが弟からの便りである。そう言えば、盆が近かったなと壁にかかった飾り気の無い月めくりのカレンダーを見た。おそらくは帰省を促す内容だろう。一人暮らしを始めてから一度も帰っていないとはいえ、勘当された訳でも喧嘩して飛び出した訳でもない。
 そういった便りがあるのは当然でもある。
 口を漱ぎ手をしっかり拭いて、そっと茶封筒の封を切った。中の便箋は縦書きのごくシンプルなもので、矢張り本文も丁寧な筆書きだった。
 『拝啓 季夏の候、いかがお過ごしでしょうか』
 書き出しもこれまた丁寧で、几帳面なところのある弟が背筋を伸ばして文机に向かっている様子がありありと想像できてしまう。真言はほんの少しだけ、唇を緩めた。
 元気そうだ、と思う。
 内容より何より、文字がそれを伝えてきている。
 文面は予想どおり、盆の帰省を促すものだった。だが真言の胸の内には、否とも諾、ともつかぬ答えが渦を巻く。
 即答できない。
 代わりに、実家の風景が閉じた瞼に浮かび上がってくる。便りが、木々に囲まれた静謐な風を運んできたせいだろうか。あの森には、いつも厳かな空気が満ちていた。
 ――波瑠布由良由良・而布瑠部由良由良・由良止布瑠部。
 蘇るのは、我を忘れて言霊を叫んだ幼い日の己の声だ。必死で、何かに縋る様に、身の裡から迸る言葉を無意識に紡いでいた。
 記憶には残っていないはずの、声だ。
 あの時、真言はただ弟の無事だけを、願っていた。



■癒しの言霊

 その頃、真言と弟は、実家の裏手にある山に入って遊ぶことが多かった。参拝客のことも考えてきちんと整備された表とは違って、裏には最低限の手しか入っていない。獣道じみた細い山道も多く、格好の探検の舞台と言えた。
 さほど奥へと入り込む訳ではない。通い慣れれば子どもでも、危険な場所と遊び場になる所との区別はつくようになる。
 山では真言の方がいつも先を歩いた。細い道を、スニーカーで駆け回る。途中で少し道を外れ、行き過ぎた弟を背後から脅かすこともあった。
 脅かすなよ、と飛び上がる程驚いた後で弟が抗議するが、謝るのはその時だけ。ほとぼりが冷めれば、再び悪戯を仕掛ける。何度も引っかかる弟の素直さが、余計に拍車をかけたのだろう。
 それも、年を重ねるとぐっと回数が減った。中々、引っかかってくれなくなったせいだ。
 この日も、真言は弟をやり過ごそうと道から少し山を登って木の陰に隠れていた。木の隙間から弟の姿をそっと見る。弟の方も心得たもので、兄の姿がどこかに見えないかとあちこちを見回しながら歩いていた。
 真言が弟の背後を取るか、弟が真言を見つけるか。
 いつしか、どちらが先に目的を達するかを競う遊びにすり替わっていた。今のところ、勝率は真言の方が上だ。兄の威厳もかかっている。そう簡単に負ける訳にはいかなかった。
 息を潜めて、弟の様子を窺う。
 ほんの一瞬だった。真言が弟から目を離したのは。
「――!?」
 その瞬間に、弟の姿は細い道の上から消えていたのだ。
 つい先刻まで弟が歩いていた道を思い描き、真言は血相を変えて木の陰から飛び出した。半ば滑り落ちる勢いで道へ降りる。上手く膝を使って道の手前の木に捕まり、速度を殺す。
 その細い道は、山の下側が急な斜面になっている。
 足元をおろそかにしたせいで、落ちたのだとしたら。
 忙しなく道の周囲を見回した真言は、斜面の縁に見慣れた弟のスニーカーが片方、転がっているのを目に留めた。
 途端、自らも斜面に身を躍らせる。
 急だとは言っても、下りる事は可能だ。足場さえ、見誤らなければ。
「落ち着け、落ち着け……!」
 呟きながら、今にも爆発しそうな心臓を抱えて斜面を下る。
 大人に知らせなければ、という常識的な判断など、頭から吹き飛んでいた。
 ある程度下ったところで、弟の名を目一杯のボリュームで叫ぶ。何度か叫んで耳を澄ませば、幸いかな、弱々しくも応答があった。
 必死で声のする方へ行ってみれば、頭から血を流して倒れている弟がいた。
 その後の事を、真言はあまりよく覚えていない。
 気が付けば、血の跡を残して弟の怪我が癒えていたこと。弟の己を見る目がそれまでと少し違っている様な気がしたこと。
 大人に、こっぴどく叱られて裏山への立ち入りを禁止されたこと。
 それらが、半ば上の空で過ぎていった。



■彼方から――此方へ

 結局のところ、弟が真言にどういった感情を抱いていたのか、真正面から訊くことはなかった。訊くだけの勇気もなく、答えが負の感情だった場合に耐えられる自信がなかったのだ。
 そしてまた、自分自身に芽生えた得体の知れない能力が、恐ろしかった。
 結果として弟を助けたことは嬉しい。癒しの力であると、それだけを考えれば良いものであるのかも知れない。
 しかし、果たしてそれだけなのか。真言には、わからなかった。
 癒しをもたらす言霊の力。それは何の為に、真言の身に宿っているのだろう。真言は、どう用いるべきなのだろう。
 ただ単に、そこらに転がっている霊能者のごとく振舞うのだけは嫌だった。癒し、それは単純には「正」「聖」とされる力だ。そうやって単純に受け入れることが、真言にはできなかった。
 だから耐え切れずに、家を出た。
 盲目に癒しの力を「正」だと信じる様に、頑なに己の力を受け入れられなかった。今は少しずつでも受け入れられる形に変わりつつある。単に正しいとするのではなく、頭から拒絶するでもなく、己の力をまず見つめて。
 何故、真言にこの力があるのか。何の為に、使えばいいのか。
 答えは未だ、しっかりとした輪郭を描き得ないけれども。
「どう、すっかな」
 ぽつり、と呟く。
 目を開けると、弟のしたためた手紙が目に映った。
 会いたくない、訳じゃない。それは確かだ。
 最後に見た弟の顔は、やっぱり真言にとっては違和感をまとったもので。瞳に映る色が己を拒否するような、そんな感情であるように思えてならなかった。得体の知れない何か、を見る目つきの様に思えた。
 今は。
 今はどうだろう。
 あの瞳に合ったとして、向き合うことが自分にできるだろうか。手紙を手にしたまま、真言は窓の外に視線を流した。
 盆の近づく夏空の下で、蝉が生命を嗄らして鳴いていた。




[終]