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天使的な悪魔との出会い 〜三年前の追想〜
瞼を刺す光の刺激に丈治は目覚めを知った。と、同時に違和感も。
やけに柔らかいものが、丈治は頭の中で呟いて瞼を開けた。
くー、と穏やかに寝息を立てるのは目を見張る美女。
長いまつ毛だ、丈治は場違いな感想を漏らす。夢だと思って再度眠りについた。
朝日に混じり、すずめの鳴き声がして丈治は二度目の目覚めを知った。
瞼を開く。そこに夢で見た女性を確認。
まず女性の頬をつねり、
「柔らかい…………うおおっ」
ばっと布団を跳ね飛ばして六畳間を転がった。
後頭部を壁に強打し、痛みに悶えながらこれが現実だと痛感する。
「夢、じゃなかったのか」
半ば茫然としていた丈治は、
「思い出せ……そう、あれは俺が三歳の頃、って戻りすぎだろっ」
混乱して支離滅裂なボケツッコミをしつつ、昨夜の記憶を辿っていく。
「いつもどおり仕事に行って、異種格闘技戦で相手を病院送りにして、家に帰って、メシ、風呂、寝る……だよな」
どこにも女性との接点がないことに丈治は頭を捻った。
んん、と甘く鼻にかかるような声に丈治が目を向ければ、目覚めた女性と目が合った。
無言。
なんとも言えない空気が流れる。
女性は起き上がり、笑顔を作って、
「……にっこり」
「口で言うな」
丈治は思わずチョップを入れた。
ひうぅっ、と叩かれた場所をさすり、女性が涙目で、
「ひどいではありませんか」
「やかましい。警察に通報されんだけマシと思えよ。で、お前は何者――」
急に途切れた言葉に女性が不思議そうな顔をした。
丈治は女性の姿に目を奪われていた。
斜めに入り込む朝日に、濡れたように光る黒い髪。吸い込まれそうな金瞳が穏やかに丈治を見つめていた。
一枚布を仕立てた露出度の高い衣服から、こぼれ落ちそうな大きな胸が谷間を作り、どうやって内臓が収まっているのか疑わしいくらい細い腰つき、丸みあるお尻を畳につけて、はだけた服の裾から伸びる白い太腿は美しいの一言。
！ と女性は何かに気付き、
「あ、申し遅れました。わたくし、ノアールと申します」
正座にて居住まいを正し、三つ指をついて頭を下げた。
「つい先日、悪魔学校を卒業したばかりの新人さんです」
「あーそう……本気？」
五秒ほど間をおいて丈治はそう聞いた。
「はい！」
ノアールが天真爛漫とした眩しい笑顔で答えた。
「……」
丈治は眉を詰め、返答に困って閉口する。
はあ、とため息をついた拍子に時計が目に入り。
「ギャーッ！ 遅刻だ！」
顔を真っ青にしてアパートを飛び出していった。
「行ってらっしゃいませ」
手を振って見送ると、あふ、可愛らしい欠伸を一つして室内へ戻る。
そこら中に散乱した衣類や年中敷きっぱなしと思われる布団。キッチンには汚れた食器類が山と積まれ、蛇口から水滴が一滴垂れた。
ノアールはその様子を眺め、ぽんっ、と手の平を合わせた。
○
「なん……」
丈治は見違えた室内に言葉を失った。
脱いだままだった衣類は全て洗濯され、折り目正しくたたまれている。部屋の隅にはほのかに太陽の匂いの香る布団が置かれていた。埃っぽかった部屋の空気も風通しよく清潔感に溢れ、食欲をそそる香りが漂っていた。
玄関から六畳間に足を踏み入れれば、ちゃぶ台には焼き魚をメインにした和食が並べられている。
「お帰りなさいませ。ちょうどご飯の用意が整ったところです。座って待っていてください」
ノアールに言われるまま、丈治は腰を下ろした。
お味噌汁で最後です、とノアールが鍋ごとちゃぶ台へ運び、お椀に盛り付けた。
湯気の立つ夕食に丈治の喉がごくりと鳴った。
はい、ノアールから箸を渡される。
丈治は焼き魚を一口。
「うまいっ」
そう言って、猛然とご飯を食べ始める。
ノアールは満足そうに微笑んで、料理に箸をつけた。
「魂刈りに東京にきて早々、なんだかいい感じにキまっていた危ない人に絡まれまして、咄嗟に逃げ出したわけです。何分、初めてのことばかり。右も左もわからない東京砂漠でわたくしは精も魂も尽き果てようとした、まさにそのときです。胸にきゅんとくる何かに引かれて、このアパートに辿り着いたというわけなんです」
「ほう……」
「失礼とは思いましたが、わたくしも余裕がありませんでしたし、ご厄介になりました」
「……まあ……大体の事情は飲み込めた」
食後のお茶をすすり、丈治が言った。
対面に正座するノアールは、
「これからよろしくお願いします」
深々と頭を下げた後、朗らかに笑んで見せた。
「あら？」
パタン、閉じられたドアに向かってノアールは首をかしげた。
「どこの病院から逃げてきたか知らんが、騒ぎになる前に帰れ」
ドア越しのため、丈治のくぐもった声。
「えっと、あの、ちょっと、話を聞いてくれたではありませんか」
ノアールがドアを叩きながら声を上げる。
「近所迷惑だから程々にしてくれよ」
その言葉を最後に丈治からの声が途切れた。
ノアールは叩くのをやめ、仕方ないとばかりに吐息をついた。
「季節柄増えるとはいえ、そんな時期じゃないはずだが」
丈治は頭をかきながら振り返り、
「締め出すなんて、ひどいではありませんか」
外にいるはずのノアールと目が合って、瞳を丸くした。
「聞いています？」
「うおおっ、おま、どうやってえっ？」
丈治は動転して、扉を開けた。そこにノアールの姿はなかった。
ノブを握ったまま固まった丈治に、
「物質透過は基本です。昨夜もこの方法で入らせてもらいました」
明るい声をかけるノワールが壁をすり抜け、ドアからひょっこり顔を出した。
「これで私が悪魔だって信じてくれましたか？」
おまけとばかりに背からコウモリに似た翼を広げ、丈治に触れようと手を伸ばし。
肉を打つ乾いた音。
「さ、触るなっ」
丈治は恐怖に顔を歪ませ、ノアールの手を払っていた。
あ、という言葉が口から吐息と共に出た。ノアールが茫然として、赤くなった手を見つめた。
丈治は咄嗟に出た己の行動が信じられないように舌打ちして、手を引っ込める。視線を外して床を見つめた。
気まずい雰囲気の中でノアールが、
「え……っと。そう、ですよね……すみません、自分の都合ばかりを押し付けてしまって……図々しい、でしたね」
悲しげな口調で言った。
丈治は思わず顔を上げ、その顔に何も言えなくなってしまった。
すがるような金の瞳が丈治を非難しているようで。
でもその表情は迷子の子供のように泣きそうに歪んでいて。
「ごめ、なさ……」
「待てっ」
背を向けてベランダへ向かうノアールに丈治は手を伸ばし。
しかし届かず、ノアールの体はガラスをすり抜けて夜空へ舞っていた。
拳を握り、くそっ、丈治は吐き捨てるように言って、裸足のまま家を飛び出した。
○
当て所もなく丈治は走る。
足の裏が擦り切れ、血が流れる。石やガラス片を踏みつけ、裂傷を刻み、血痕を地面に残した。荒い呼吸で唾を飲み込んだ。肩が激しく上下し、心臓がストライキを起こす寸前。
闇雲に走り、心に引っかかりを感じて足を止める。
十階建てのビルが目の前にあった。
「ここにいるのか……？」
半信半疑に囁き、丈治は力任せに鍵を弾き飛ばして屋上を目指した。
○
果たして、フェンス越しに街を見下ろすノアールの後ろ姿を発見した。
「ノアールッ」
丈治の大声にノアールが肩を震わせて振り返った。
その瞳が驚きに瞠った。が、すぐに悲しみに眉尻を下げる。
背を向け、空に飛び立とうとして、
「待てっ、俺の話を聞いてくれっ」
丈治がその手を掴んで止めた。
ノアールは振り返り、戸惑い中でかすかに頷いた。
「さっきはすまなかった。いきなりのことだったから……いや言い訳はしない。すまん」
丈治は深く頭を下げた。
「やめ、やめてくださいっ、貴方が頭を下げる必要なんて――」
「いいんだ」
慌てるノアールに優しく声をかけながら、
「ここからが本題だ」
言った。
「悪魔だって見せられて、情けないことに俺はお前が恐くなった。当然だろ、悪魔なんてマンガだけの世界だって思ってたからな。普通は常識を疑う。でも、お前は悪魔かもしれないけど、初めて東京にきて一人だったんだよな。不安で心細くて、頼るところもなかった……なのに、俺ってヤツは……」
悔やむように唇を噛み締める。
「勝手なことだってわかってる。だが言わせてくれ」
言葉を切り、深呼吸。
真剣な顔でノアールを見つめ、
「俺と一緒に――」
言葉は続かない。
柔らかい感触と甘い香りが鼻腔をくすぐり。
唇と唇が重なっていることに気付いたのは、正面に涙を溜めたノアールの瞳を見たときだった。
「こんな、わたくしを受け入れてくれますか？」
感極まった口調でノアールは言う。
「……こちらこそ、よろしく」
丈治は照れたように笑った。
その笑顔にノアールの瞳から涙が流れた。
暖かく、優しい涙。
冷たく、悲しい涙ではなかった。
○
「……あれから三年か」
感慨深く呟いて丈治は軽く笑った。
「どうしたんです？ にやにやして気持ち悪いですよ」
朝食を運んできたノワールが言う。
丈治は無言の笑顔で額にチョップを入れた。
「ひうぅっ、何をするのですか〜」
「やかましい。人が穏やかな気持ちになっているところに水を差すからだ」
「初めての出会いでも思い出していましたか？」
的を得た言葉に丈治は瞳を丸くする。
ノアールは当然ですといわんばかりに微笑んだ。
「あのときは驚きました。丈治さん、足の裏を血だらけにして死んでしまうかと思いました」
「あれくらいで人が死ぬか」
「それくらいショックでしたよ。仕事柄、仕方のないことかもしれませんけど、怪我には気をつけてくださいね」
あくまで優しい口調であるが、丈治はそこに心配の色が混じっているのをしっかり感じていた。
「お前がいる限り、俺は平気だ」
丈治は自信を持って答え、不安を取り去るようにとノアールを抱き寄せた。
ノアールは力強い丈治の手に自分の手を重ね、
「それでは頑張って堕落してくださいませね。わたくしも誠心誠意尽力いたしますので」
そっと笑いかけるのだった。
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