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それはどこにでもある日々
なんでそちらへと目が向いたのか、理由は今でもわからない。
なんとなく、なのか。それとも、なにかが後押しをしたのか。なにかに選ばれたとすれば、それは運が良いのか、悪いのか。
人を見て逃げ出す体力どころか、威嚇の鳴き声をあげる力も残っていそうにないその小さな生き物と、目があってしまった場合はどうすればいいのだろう。
人気のない公園の隅、昼のさなかだというのに点きっぱなしになっている街灯の根元、普段であれば目もくれることのないその場所に。
──仔猫がいた。
そのまま目を逸らして、公園を抜けてしまえばいい。中途半端に手を差し伸べたところで、どうせ面倒など見きれないのだから。
ふと、そんな考えが浮かんだ。
それがいちばんいいのだろう。衰弱してやせ細った仔猫を食べさせてやる余裕もなければ、病院に連れて行く金もない。
かち合ってしまった視線を外してそのまま前へと進めば、それは過去のことになる。忘れてしまっても、誰も文句は言わない。
そう、答えを出したはずなのに。
気がついたら、仔猫のそばにしゃがみこんでいたのはなぜなのか。
埃と泥で汚れた仔猫が、そばに寄ってきた生き物を認めてほんの少し身じろぎする。それは怯えか、それとも興味なのか。
そんなわずかな動きであらわになった後ろ足に血で汚れた傷を見つけて、心は決まった。
そっと、手を伸ばす。不思議そうな瞳で見上げてくる仔猫は、抱き上げても暴れたりはしなかった。
左腕で仔猫を支え、右手で目立つ傷口を覆う。わずかに意識を集中させて言霊を口に乗せれば、力と魂を得た言葉が仔猫の身体を包んだ。
「……みゃ?」
急に消えた足の傷に、驚いたのだろう。仔猫は先程まで血が滲んでいたはずの場所を、しきりに舐めている。
──こうして。
物部真言は、小さな猫を拾った。
言霊の力で外傷を癒して、おそるおそるぬるま湯で全身を洗う。それだけで、ぼろぼろだった仔猫はだいぶましな姿になった。
そのために真言が払った労力はかなりのものだ。逃げ回る体力もないくせに水はやはり怖いのか、かなり盛大に引っ掻かれもした。おかげで、あちこち絆創膏だらけだ。
それでも放り出すことはしなかった自分を、真言は我ながら忍耐強いと思う。
ようやく仔猫をまともに見られる状態にして一息つくと、今度はエサについてで頭を悩ますことになった。生後何ヶ月かもわからない仔猫がなにを食べるのかなど、当然のことながら真言にはわからない。まだ店が開いていたのを幸い、近所にあったペットショップに駆け込んだのは正しかったと真言は思っている。
そのペットショップで真言は猫用のミルクと食べやすく処理された半生のキャットフード、ドライフードを適当に買った。財布の中身がかなりさみしくなったが、一応まだ何とかなる範囲だ。
拾ってきた仔猫は、どう考えても満足にエサへとありつけている状態だとは思えない。まずは身体に負担をかけないものにしたほうがいいだろう。そう考えて人肌程度に温めた猫用ミルクを用意したら、辺りを警戒しつつもきれいに平らげていた。
満腹になってそのまますっかりくつろいでいるあたり、この仔猫はその外見に似合わず意外とたくましかった。いつから独りなのかは知らないが、そうでなければ──今まで生きてこれなかったのだろう。
「一応マトモにはなったがな……やたら細いな、おまえ」
「みゃ」
引っ掻かれながらも一応の手入れはしたが、毛並みはやはり栄養状態を反映しているのかよろしくない。肉付きも細いと表現できる範囲を通り越して、ガリガリに近かった。
水を嫌がって暴れたことでなけなしの体力も尽きたのか、真言が近くへ寄っても丸まったまま瞳を動かすだけで、逃げようともしない。
人を怖がることすら知らない、ということはないだろう。真言には想像もつかないが、いろいろとあったはずだ。
そっと、小さな頭に触れてみる。ふわふわとは言い難い手触りに、なにかを刺激されたような気がした。
「ネコ缶ってどれくらいから食えるんだろう?」
「……は?」
コンビニにて。
背後から不思議そうな呆れたような声をかけられて振り向いたら、そこには同じシフトに入っているバイトの同僚がいた。
商品陳列棚の整理をしていたら、たまたま目に入ったのだ。棚に並んでいる何種類ものキャットフードに意識が向いてしまったら、どうしても気になって仕方がなくなった。
ここ数日頭を悩ましていたことだったので、知らず口をついて出ていたらしい。気がつけば缶を手にとってまじまじと眺めてもいたが、その無意識の行動に真言も自分で驚いた。
「物部くん、ネコ缶食べる趣味でもあったの?」
弁当の検品をしている最中の彼女は仕事の手を休めないまま、それでもこちらを不思議そうに眺めている。
「好きなら止めないけど、やめたほうがいいわよ。おいしくないから」
「いや、俺じゃない。ほら……あんまり小さいと猫もネコ缶食えないんじゃないかって思っただけだ」
「ああ、そっちね。えーと、どうだったかな。生後一ヶ月半ならいけるかしら……離乳状態にもよるけど」
「……??? ミルクにしとく……」
「牛乳あげちゃだめよ、お腹壊すから」
どうやら、彼女は猫好きだったらしい。
その後バイトの間中、いろいろと猫について聞いていないことまで教えてくれた彼女に、真言は心の中で感謝した。
家に帰ると仔猫が出迎えてくれるようになったのは、比較的すぐだった。
まだ幼いだけあって順応性も高いらしく、帰ってくるなりエサをくれとねだりにきたり、気がついたら布団に潜り込んできて眠っていたりする。うっかり身動きすると潰してしまいそうになって、真言は何度か全身を緊張させたまま朝を迎えるハメになったりもした。
怪我はもうきれいに消えている。ガリガリだった身体もだいぶふっくらとしてきたし、毛並みも少しずつつやつやとしてきた。栄養状態が整えば仔猫はすぐにところ構わずうろつくようになり、そして真言はこのアパートがペット禁止だったことをようやく思い出す。
このままここで飼い続けるわけにはいかない。でも、人の手に慣らしてしまった仔猫を今さら野良に帰すわけにもいかない。
どうするべきなのか。じゃれついてくる仔猫の相手をしながら、思案にくれているとき。
携帯電話の着信音が響いた。ディスプレイに表示されている名前は、猫について教えてくれたバイト先の同僚。
この電話が。真言に、ひとつの解決法をもたらした。
そうして、仔猫は六畳一間のこの部屋からいなくなった。
彼女は猫のことをよく知っているし、なにより責任感があってしっかりしている。きっと可愛がって、ちゃんと面倒を見てくれるはずだ。
「いつでも様子、見にきていいわよ」
仔猫を胸に抱いて、意味ありげにそうささやいた彼女のなにかを企んだかのような笑顔が、真言の脳裏から離れない。
きっと、いつか我慢できずに様子を見にいくのだろう。
そのときに勝ち誇ったような笑みを浮かべられると思うと少し負けたような気もするが、あの仔猫が幸せならそれくらいはなんともない気もする。
別れ際に撫でてやったら、仔猫はうれしそうにすり寄ってきた。それだけ、心を許してくれていたのだと思うと愛しさも募る。
そして。
名前をつけ忘れたな、と。
今頃、思った。
Fin.
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