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指先より想いを込めて
暑さの峠を越えたというものの、まだまだ残暑は厳しい。
だが、日中の間うるさいほどそこら中でしていた何種類も混在した蝉の鳴き声は日に日に減り、代わりに夕暮れになると気の早い蜩の物悲しげな鳴き声が聞こえるようになった。
朝晩はだいぶ涼しくなりエアコンの必要がなくなったというのに跳ね起きると前髪が額に張り付くほど汗がびっしょりと浮かんでいた。
粗い息を整えるように千里は何度か深呼吸を繰り返す。
部屋のカレンダーはすでに全て9月に変えられていた。
それは新学期が待ち遠しいから等という理由では決してない。
ただ、カレンダーを見るとどうしても思い出してしまうからだ。
―――また、あの日が来る。
1年前の夏休みの終わり。
大切な、大切なモノが目の前から突然に消えてしまったあの日がまたやってくるのだ。まるで縋るように、チェーンに通して胸に下げている指輪を握り締めた。
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改札口近くにあるコーヒースタンドでコーヒーを飲みながら時間を潰していた秋穂敬介(あいお・けいすけ)は雑誌から視線を上げた。
壁にかかっている時計は約束の5分前を指している。
―――そろそろ、かな。
空になったカップを乗せたトレーをカウンターの返却口に置き、雑誌を元の位置に戻し敬介は改札正面へと移動した。
俗にゴールデンウィークと言われている5月初めの連休に親の親戚の知人という遠いのか近いのか良くわからない筋から紹介されたお見合いの相手との待ち合わせの場所だった。
彼女に会うのはそのお見合いの日以来2回目―――いや、正確にはお見合いは彼女の実家の広島であったので、そこに行く途中の新幹線で隣同士だったので3回目といった方がいいのだろうか。
今日は平日だが、まだ高校生の彼女は今日が夏休みの最終日であるらしい。
しばらく仕事が忙しかった敬介が久しぶりに代休という名目で休みが取れたのが今日であったので、彼女には悪いがこの日にさせてもらったのだ。
人の波が改札に向かって来ているのに気付いた敬介は、少し目を眇めてその人ごみの中から彼女を探そうとしばらく視線を左右させて、人と人の肩に半分隠れていた彼女の姿を見つけ凭れ掛かっていた柱から身を起した。
「お久しぶりです」
改札を出た月見里千里(やまなし・ちさと)に声を掛けた。
以前肩くらいまであった彼女の髪がとても短くなっていた事に少し驚いたが、そんな様子は微塵も見せずに、
「髪、切ったんですね」
と言うと、
「男の子みたいに見えますよね?」
と、短くなった髪を千里は少し引っ張ってみせる。
「随分短いですけど、男の子には見えませんよ」
と敬介は小さく笑った。
確かに先ほど敬介が人ごみの中から彼女を見つけた時に、一瞬少年のように見えたが、その華奢なそれでいて柔らかい肩のラインや身体つきはどう見ても男のそれとは違っている。
「良く似合ってると思いますよ」
そう告げた敬介に千里はやんわりと口元を緩めた。
「それにしても、すみません。こんな夏休みの最後の日に遠出させてしまって。本当なら誘った僕の方が千里さんを迎えに行くべきなんですけど」
「いえ」
半ば強引に代休をもぎ取ったのは見合いの当日彼女の地元である尾道を案内してもらったお礼に今度は横浜市内を案内するためである。
名目としては散策であるが、まぁ、早い話がデートという事になる。
「一体全体何処から流出したのか判らないんですけどゴールデンウィーク明け早々には僕がお見合いをしたらしいって、噂好きな一部の社員たちの間に広まっていたんですよ」
会社という所は往々にして毎日同じ様な事の繰り返しで刺激に飢えているためか、やたらと噂が出回るのが早い。
―――まぁ、流石に会社の人に相手は現役の女子高生だってとこまでは流石に広まってはいないみたいだからいいんだけれど。
そんな事まで知られようものならそれこそ何を言われるか判ったものではないが。
「ごめんなさい、そんな……迷惑、ですよね」
「気にしないで下さい。まことしやかに流れているだけなんで。みんな退屈なんで、そういう噂なんて、本当か嘘かなんてどうでもいいんですから」
そんな話しをしながら東口から駅を出てシーバスと呼ばれる海上交通船の乗り場へ向かった。
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敬介が考えてきたのはシーバスに乗って山下公園を通って中華街で昼食とかねてお店を見て周り、元町を通って石川町駅から横浜駅を経由してみなとみらい付近を回るという、定番デートコースだ。
「でも、本当にこんなコースで良かったですか?」
「はい。横浜ってあんまり来た事がなかったんで」
デートの締めくくりとして敬介が予約していたランドマークタワーにあるレストランで向かい合いながら食事をしていた。
敬介が予約していた席は窓際で、2人の右側は宝石箱の中身をひっくり返したような一面の夜景が広がっている。
微笑んだ千里の表情を見て敬介は束の間黙り込んだ。
「あの……今日はごめんなさい」
コースの締め括り、デザートが運ばれてきた所で千里は敬介にそう言って俯いた。
「せっかく、いろんな所に連れて行ってもらったのに―――秋穂さん、気づいてました、よね?」
敬介はただ黙って微笑を浮かべていたが、それを千里は肯定ととった。
今日の千里がどこか上の空だという事に気付いていた。
それは今日の相談をするために電話した時から……正確にはこの日を指定した時からだということに。
だが、敬介はあえてそれに気付かないふりをしていた。彼女の気持ちが沈んでいるのなら少しでもそれを忘れられるように、その手助けが出来ればとそう思ったからだ。
彼女のことを好ましいと思った。必死で弱い所を見せまいと頑張っている彼女を少しでも支えることが出来たらという一心だった。
「去年の今日だったんです。彼が……ううん、あたしが彼の中から消えてしまった日が」
でも、今日は秋穂さんと会うのだからと一生懸命それを忘れようと、忘れて楽しもうと思っていたのだが、どうしても心の端に刺さった小さな刺がちくちくとするのを忘れる事は出来なかったのだと。
「そうですか」
「本当はずっと気づいてたんです。秋穂さんがあたしに楽しんでもらおうって頑張っているの」
敬介が頑張れば頑張るほど、優しく接してくれればくれるほど、千里は甘えていいのだろうかと考えてしまった。
「いいのかなって、考えちゃって―――あたし、そんなに強くないから」
その言葉から敬介は千里の真意を感じ取った。
甘えて寄りかかって、そしてまた急にその存在が居なくなることに彼女は怯えているのだと。
「甘えてしまっていいんですか?」
―――彼のことは忘れられないけれど。
ずっとうつ向き気味で話していた千里が敬介の目を真っ直ぐに見てそう問いかけてきた。
敬介は言葉にならなかった千里の台詞を汲み取って、自分に出来る限りの笑みを浮かべる。
「その人の事を思っている千里さんを、僕は守りたいと思ったんです。その気持ちも含めて、僕の知っている千里さんなんです」
あなたが疲れたときに寄りかかれるように、僕はずっとそばにいます。
あなたが僕を望んでくれている限り。
そう続けた敬介に、千里は小さく呟いた。
「アリガトウ」
と。
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レストランを出て、エレベーターの下りボタンを押そうとした敬介の袖を、不意に千里が掴んだ。
少し震えるながら、それでも指先が少し白くなっているくらいに強く掴んで、
「お願い。今夜は、1人になりたくないの」
と千里は告げる。
敬介は少し困ったような顔をして、自分の袖を握る千里の手を取った。
そして、ゆっくりと首を横に振った。
「家まで送って行きます」
あなたが大切だからと、言う言葉は敬介は口にはしなかった。
口にしなくても、きっとこの指先から伝わるはずだから。
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