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<PCシチュエーションノベル(ツイン)>


□過ぎ去る物の語り事□


 呼び声に、焉は顔を上げた。
 傘をずらして空を仰ぎ見れば、一面に広がった灰色から幾千幾万もの雨粒が降りてくる光景だけが目に入る。今日は雨、いや、今日もまた雨だった。
 雨音以外には物音一つ聞こえない、閑静な住宅街。けれどその一角で立ち止まる焉の耳は、確かにひとつの声をとらえていた。
 絶叫ほど切実ではなく、呟きには大きすぎる。そんな中途半端な叫び声を耳にして、彼は薄く笑みを浮かべた。
 そんな焉の傍らを、人が通り過ぎていく。雨の中、傘をずらして空を見る少年に訝しげな視線を送るでもなく、空を伝わる叫びに耳をそばだてるでもなく、まるでそこに少年がいないかのように通行人は過ぎ去っていく。
 それを横目で見送りながら、焉は小さな身体を震わせてククッと笑った。そう、これは自分にだけ聞こえる叫びだ。救いを求める哀切を含んだ響きは、誰からも存在を認められない者が放つ信号。誰か助けて。と、最後の望みをかけて飛ばし続ける声だ。
 傘を戻し、露を払い、焉は再び歩き出す。己の存在を認めて欲しくとも、その方法すら知らないが故にもがき苦しむ存在へ、最後の救いを与える為に。
 にこやかに手を伸ばし、救われたのだと安心させて――――

「どぼーん、ってね」 
 
 呟きと同時に大きく水溜りへと踏み込む。濁った雨水が跳ね上がりばらばらに散っていく様をどこか満足げに見終えると、焉はゆっくりと石造りの門をくぐった。小学校の名を刻んだプレートはどこかしら欠けており、全体的に古い印象を与えるものだったが、目の前に現れた校舎は意外なほどに新しかった。小学校というよりも大学を思わせる、洒落たつくりをしている。
 しかし、焉の視線はその傍らにあるものへとそそがれていた。
 今は珍しい木造二階建て。屋根はかつて鮮やかな赤だったのだろうが、今は錆びた色を雨にさらしている。窓は板で打ち付けられているか、割られていた。
 時代に忘れられ、後は取り壊しの時を待つだけの風前の灯。
 焉はしばらく木造の建物に雨が染み込む光景を見つめていたが、やがてふいと顔を背けて新校舎へと足を進めた。
 
 雨の勢いが、増していく。
 




「おはよう」 
「あ、え……お、おはよ……?」
 
 震える声でどうにかこうにか挨拶を返してきた少年を見下ろし、焉は小さく微笑んだ。ああ、今日の朝届いたのはこの声だった。
 休み時間だというのに遊ぶ者など誰一人なく、黙々と本を読みふけっている。表情は割と大人のように落ち着いていて表情にも乏しいが、胸の中では存在を認めて欲しいとあがいている。誰かこっちを見て、自分がここにいるのだと分からせて。と、無様なほどに。
 
「初めまして、僕は『焉』」 
 
 不自然なほどに柔らかな声を出しながら、焉は手を差し出した。 





 それから数日の間、焉は少年と行動を共にし続けた。
 趣味を聞き、適当に相槌をうち、距離を縮めながらゆっくりと機会を待っていた。手を引きながら登りつめた友情という名の山から、いつ突き落とそうか。重要なのはタイミング。自分を踏み台にして存在感を得られるようになっては元も子もなく、だからといっていつまでも関係に線を引いたままでもいけない。自信をつけ、羽ばたいてしまう直前に己の手に握りこまなければならない。
 そんな焉の考えなど知る由もない少年がおずおずと袖を引いたのは、出会って五日目の事だった。

「あ、あの……さ。きみになら、ぼくの秘密基地に……あ、案内したげてもいいよ」

 つっかえながら、けれど一生懸命に投げかけられる誘いの言葉に、焉が異論などある筈もなかった。すぐさま頷けば、ぎこちない笑顔が返ってくる。
 放課後を待ち、少年に連れられてきた場所を見て、焉は僅かに瞠目した。

「ここさ、きっちり釘打ってあるみたいに見えるけど……」

 少年は旧校舎の裏手に回り、打ち付けられている板の隙間に手を突っ込んだ。軽く力を込めただけで板は外れ、抜け出た釘が雨に濡れる。彼によると、ここは上級生の話を偶然聞いて発見したものなのだという。その上級生も卒業して久しく、この入り口の存在を知る者は少年以外にいないらしい。
 窓の隙間は、大人は無理でも子どもならば十分に入れる程度の狭さだった。揃ってどこかの教室だった場所へと降り立つと、湿った匂いが鼻をつく。腐食した木と雨の匂いが混じり合い、独特の香りとなって校舎を満たしていた。薄暗い中はがらんとしており、椅子や机などの備品は軒並みなくなっている。箱庭のようだ、と焉は心の中で評した。こんなにも狭い場所で日々生徒と呼ばれる男女がひしめきあい、笑い、泣き、固まりを作っていく。そして当然、あぶれる者も出始める。
 学校は社会の縮図と言うが、あながち嘘でもない。焉は前を歩く少年の背中を見つめ、口元を歪めた。
 やがて少年は椅子代わりにしているという、とある階段へと腰を降ろした。埃の目立つ校舎の中で、少年が歩いた場所だけが綺麗に元の姿をさらしているのがいっそ滑稽に見え、焉は笑う。ここはとうに忘れられた場所であり、そこには今を生きる者の居場所などありはしないというのに。
 でも、ああ、だからこそこんな存在に惹かれるのだろうか。
 自分が隣に腰かけているせいか、どこか緊張の色を浮かべて本のページをめくっている少年の横顔を見つめ、焉はぼんやりとそんな事を考えた。もっとも、惹かれると言ってもすぐに握り潰してしまう類のものだが。
 二人して黙りこくってしまえば、後はざあざあ、ざあざあという音だけが世界を支配する。少年は本を読み進め、焉はその隣にい続ける。こんな光景はよくある子ども向け映画の湿っぽいシーンとして使えるかもしれない、などと思っていた矢先、少年の様子がおかしくなっているのに焉は気付いた。
 時折ページをめくる手を不自然な位置で止めたかと思えば、しおりを挟もうかどうか悩むように宙で手をさまよわせ、座り込んだ足をすり合わせている。最初は肌寒いせいかと気にも留めてなかったが、やがて一連の仕草はだんだん大げさなものへと変化していった。

「……………………っ!!」

 唐突に動いた空気に驚き傍らを見れば、唇を噛み締めて立ち上がる少年の姿があった。

「とっ……トイレ、行ってくるね……!!」

 股ぐらの辺りを押さえての台詞に、ああ、と納得して焉は頷いた。先程から続いていた怪しい仕草は我慢のあらわれだったらしい。
 本を小脇に挟み、廊下を歩いていく少年の背はどこか怯えたように縮こまっていた。相変わらず後ろをついて歩く焉は逆に楽しげに笑う。ただでさえ雨のせいで常より暗さが増している上に、ここは自分たち以外の気配が全くない旧校舎の中だ。得体の知れないものが飛び出てきたら、と考え恐怖に陥るのは、それこそよくあることである。
 しかし残念ながらその『よくあること』に全く当てはまらない焉は、そ知らぬふりをして怯える背へと呼びかけた。

「あ。今どこかがギッて鳴ったよ、おお怖い怖い。きっとここには何か得体の知れないものが住んでいるに違いないねぇ、ほら、学校なんて怪談話がなけりゃ嘘でしょ?」
「そういやトイレか、トイレねぇ。トイレといえばハナコさんだかタローさんだかジローさんだかがよくいるって話じゃないか。知ってるかい? 彼らはこういう古びた校舎によく出るらしいよ。……ああ、どうしてそんな顔をしてこっちを見るんだい? 悲しいなぁ。僕は単に頭に浮かんだ事を話しているだけなんだけどねぇ。それともキミは僕の話なんか興味がないのかな? だとしたら悲しいなぁ……」

 片手で顔を覆い首を振るという、わざとらしい上に小学生には似つかわしくない仕草をする焉に、それでも少年は慌てたように詫びた。焉が手の裏側でおかしくてたまらないといった笑みを浮かべているのにも気付かずに。
 すっかり萎縮してしまった少年だったが、それでも彼はどうにかトイレへと辿り着いた。もう限界なのだろうズボンの前を押さえて、青のペンキが塗られた扉の取っ手を掴んで引き、足を踏み入れ――――――――

 雨の音が、消えた。
 
 異変に息を呑む暇もなく視界が縦にぶれる。足元が、いや、校舎全てが振動しているのに気付くまで数秒。雨音の代わりに鼓膜を震わせたのはどこかの窓ガラスが割れる断続的な音と、木々が軋む悲鳴にも似た音だった。バランスを崩した少年は前のめりにトイレへと転がった。扉が全開になり、冷えた空気が流れてくる。
 だが流れ込んできたのはそれだけではなかった。

「……………………!」

 その光景が視界に飛び込んできた瞬間、焉は血を連想した。それほどにその赤色は鮮烈だったからだ。
 だが瞬きをしてすぐに違う事に気付いた。赤は赤でも血のそれではなく、目の前に広がるのはもっと透き通った赤だ。日々を過ごしていて、誰もが当たり前に見る事ができる光景がそこにはあった。
 トイレの窓の向こうで存在を誇示しているのは金と橙と赤色と、暖かな色ばかりを凝縮した丸い丸い夕陽だった。ここ数日見られず、そして焉がここにいる間は決して見られなかった筈のものだった。
 しかしその事実に疑問を抱く間もなく視界が元へと戻った。振動がおさまり、そして今度はけたたましい音をたててトイレの中、置くから三番目の扉が開く。
 唖然とする焉と恐怖に引きつる少年の前で、乱暴に開かれた扉の向こうから出てきたのは、随分とすらりとした脚だった。
 小学校の、しかも男子トイレから出てくるのには全く似つかわしくない脚の主はすぐに姿を現し、そして訝しげに眉をひそめたかと思うと、扉の取っ手を掴んだまま菖蒲色の唇を震わせ咆哮する。
 
「……ちょいっと、全然違うじゃないのよさ!! 大体なんでこっちに出ちまうってんだい!! ええい本当にここのトイレとは相性が悪いったらないよ全く!!」

 そこらの男よりもはるかに男らしいのではなかろうか、焉がそんな風に感心している間に、いつの間にか足元に倒れていた少年の姿は消え失せていた。遠くから聞こえる絶叫から察するに、どうやらひとりで逃げ出してしまったらしい。
 そんなんだから僕みたいなのに囚われるんだよねぇ。とひとりごちると、焉は気を取り直してトイレの中へと踏み込む。去っていった少年の事など、あっという間に忘れてしまっていた。今はこの物珍しいものに興味を引かれていたのだ。
 
「で、一体キミだぁれ?」 

 ひとり憤っていた存在に冷静な声音で問いかければ、それは始めて焉に気付いたかのように首を回し、きつい印象を与える瞳を更にきつくしてだん、と一歩前に踏み出る。

「だーれに向かってそんな下らない事聞いてんだ、トイレの華狐サマってったらトイレ界のみならず、この世全ての常識じゃないかい! ええ?! それともなにかい、そんな常識さえ今のこの世じゃ通用しないとでも言うってのかい? はっ、あたしがトイレにこもってる間に常識とやらも随分と地に落ちたもんだ!!」

 啖呵を切られ、らしくもなく焉はのけぞった。勢いに圧倒されたのに加え、それ以外の圧力を感じたからだ。言動などは妙に人間くさいが、間近に迫った存在から伝わってくるそれは紛れもなく、同類の気配だった。
 
「まずは落ち着いてくれないかな、そうでなけりゃ理性的な話なんてできやしないよ? ええと、まずキミは――――」
「あたしにゃ華狐っていう立派な名があるんだ、あんたみたいなガキにキミなんて呼ばれたかないね!」
「難しい人……いや、妖怪っていうかなんというか、まあいいや。それじゃあ華ちゃん、あのさぁ」
「なんだいその呼び方はっ」
「だって華狐だから、華ちゃん。いいじゃない? 分かりやすいし呼びやすいし」
「へ、変な呼び方すんじゃないよっ! ……そうだ、アンタなんて坊だ坊っ! そんなふざけた風に呼ぶつもりなら、あたしだって坊って読んでやるからねっ!」
「僕はそう呼ばれてもてんで痛くもかゆくもないから、それでいいや。さあて話が進まないから流れを戻して、と」

 物を横に置く仕草をし、焉は改めて自分を見下ろす存在を眺めた。
 年の頃は二十代後半か。はだけた胸元からは肉付きのいい胸の谷間が、これでもかというほど露出している。加えて、滑らかな胸には彫り物が施されていた。顔はややきつめだがそれがまたよく似合っており、全体として妖艶、と言っていい雰囲気を漂わせている。
 だが、と焉は思った。
 
「……世に言う『トイレの花子さん』の年齢とは随分かけ離れているのが、ちょっとばかり気になるとこだねぇ」
「やかましいよこのクソガキ!! 妖怪だって年取るんだよっ。見たところ同類のようだけど、坊だって月日がたちゃあ、あたしと同じように年くってくんだからね!」
「ガキガキ言わないでおくれよ、傷つくなぁ。これでも十七年は生きてるんだけど」
「嘘お言いでないよ。そんななりして、どこが十七だってのさ」

 言われ、己の身体を見てああ、と焉は納得する。

「忘れてた忘れてた、そういや今は小学生ってことになってたんだっけ。……じゃあこれで納得してもらえるかな? 華ちゃん」

 瞬きをする間もなく自分と同じくらいの位置にきた頭を見て、華狐は一瞬だけ目を丸くしたが、すぐに値踏みするような目でじろじろと焉を眺める。

「ふーん、これが坊の普通の姿ってやつかい。随分とまあ古めかしい学生さんだねえ、マントに制帽たぁ……」
「いいでしょ。でもあげないよ」
「誰がいるもんかい、そんなくたびれた物」
「まあ一応予防線としてね。……ああ、また話がそれた。それじゃあお互い正体をさらしたところで、本題といかない?」
「本題も何も、あたしゃ別に用なんてないよ。久々にガキの気配が来たから驚かしてやろうと思っただけなのに、出るとこ間違えてしくじっちまうなんてね……ああくそっ、あたしもヤキが回ったもんだ!」

 夕陽が射し込むトイレの中、茜色に染まりながら華狐は大仰な仕草で溜め息をつく。
 
「それにしても、華ちゃんとやらは何でこんなところにいるんだい。ここにいたって驚かす相手なんて、それこそ滅多に来やしないだろうに」

 人を驚かすのが仕事のような妖怪ならば、人がいない場所に陣取っていたところで時と暇の無駄遣いでしかない。
 焉が抱いた当然の疑問に、華狐は鼻を鳴らして返す。

「そんなもん、あたしの勝手だろう。坊が詮索する事じゃないさね」
「好奇心には勝てないんだなぁ、これが。まあ別にばらしたからって互いのやる事に支障が出るわけじゃなし、いいじゃない。教えてよ」
「やだね。何であたしが」
「年くってる割に心狭いなぁ、そんなんじゃあモテないよ?」
「あたしゃ生涯これ一本でやってくからいいんだよっ! ったく口の減らない坊だねぇ!!」
「おや失言だったかな? そりゃ失礼。でも華ちゃんが出てきたせいで僕だって目をつけてた子に逃げられちゃったんだから、その埋め合わせぐらいしてくれてもバチは当たらないと思うんだけどなぁ」
「ぐっ………………」

 華狐は何事かを反論しようとして、けれど飲み込むように口をつぐんだ。焉はにやにやと笑いながら、噛み締められる肉厚の唇を見つめる。人間相手ではないので、笑顔にもいつもより下卑た色が混じっていた。本性を隠す必要がない同類との付き合いは、こういう時に気が楽だった。
 やがて諦めたように肩を上下させると華狐は「仕方ないねぇ」と言い、手洗い場へと腰を降ろす。視線は焉から外れ、トイレにたった一つだけある窓の外を向いていた。茜色は紫に変わりつつあった。
 
 華狐の話はこうだった。
 実はこの旧校舎はつい数年ほど前まで使用されていた。
 だが新校舎に移行した後、近所に中学校などが多いのもあって旧校舎は格好の溜まり場と化した。ガラスは割られ、雨風は吹き込み、校舎は中からも外からも荒れていった。児童たちの親がうるさい昨今、取り壊しの声はよく上がったが、予算や日程の都合がつかないという理由で延期に延期を繰り返していたのだという。
 
「――――でもさ、この前ヘルメットかぶったおっさんたちが来たんだよ。こっそりあとつけて話聞いてみたらさ、どうやらここもようやく取り壊しが決定したみたいなんだ。日取りまでは分かんないんだけどさ。
 さすがにこうなりゃ今まで驚かしていた中学生の悪ガキとかもう来ないだろうし、あたしもいつ出て行こうかって思ってたんだけど…………」
 
 焉はかつて純白だったのだろうトイレの扉に背をもたれさせ、静かに聞き入る。
 先程までとは打って変わり、静かな時が流れていた。
 
「でも何やかんや言ってここにも結構長い間いたからさ。愛着なんてそんなもんじゃないし、ましてやこの辺のガキはまあ揃いも揃ってクソガキだったから、未練なんてのもないんだけど、こう……執着っていうのかねえ、そういうのが出てきちまったわけさ」
「執着ねぇ、僕にはいまいち分からないなあ。渡り歩くのが常だし」
「ま、同じ妖怪であっても種類が違うから、それも当たり前さね」

 手洗い場の上でくすくすと笑いながら、華狐は脚を組み頬杖をつく。
 
「だがまあ、あたしなりの言葉で言うならこの場所をある程度は『気に入っていた』んだろうさ。だから思ったわけだよ。どうせなら取り壊される寸前まで残ってやろうじゃないか、でっかい機械たちがここをばりばりっと壊しちまう最後の最後まで、迷い込んでくるかもしれない馬鹿なガキを待っていようじゃないかってさ」
「暇人だねぇ、華ちゃんも」
「否定はしないよ。大体、暇でなけりゃこんな妖怪稼業なんざ誰がやるもんかい」
「ふーん」
 
 首を仰のかせ、すっかり黄ばんだ天井を見上げながら焉は呟く。
 
「……ま、そんなもんだよねぇ僕たち。妖怪とか都市伝説とかっていうものは往々にして物好きの暇人だ、まぁ『人』じゃないけれども」
「坊もそんな中のひとりかい?」
「さあ。でも、」

 寄りかかっていた背を離し、すっと立ちながら焉は小首を傾げて笑う。
 
「楽しいのは、事実だよ。……ああ、そろそろ日が落ちる。それじゃあ僕は撤収しようかな。妙な同類に会えて楽しかったよ」
「ったく、口の減らないガキだよ。別れの時ぐらいもっとましな言葉を選んだらどうなんだい?」
「あいにく、物心ついた時からずっとこんな口調なんだよねぇ」
「はいはい分かったからとっととお行き。ついでに段差に引っかかって頭でも打つんだね、そうすりゃちったぁその減らず口も直るかもしれないよ」
「どうしても直したい時はその方法を使わせてもらおうかな。――――そうだ、華ちゃん」
「なんだい」
「僕、色んな学校を巡ってきたから、そこそこトイレ事情にも詳しいんだよね。もし次の住処に迷ったりする事があれば、僕を探してごらん? いつでもご希望のトイレを紹介してあげるよ」
「路頭に迷っている時、うまくあんたに遭遇できりゃ考えるさ」
「いつでも楽しみにしてるよ。それじゃあまた、ね」

 片手を挙げ、踵を返して扉をくぐる。
 そうしてぼろぼろの廊下をゆっくりと歩き出そうとした時、背後から聞こえてきた微かな声に焉は静かに微笑むと、後ろを見ずにもと来た道筋を辿っていく。

『気ぃつけて、帰るんだよ』

 見た目に反して中身は子どもっぽいと思ったが、そうでもなかったと記憶を訂正しておこう。
 呟きと共に焉は再び小学生の姿へと転じ、板の隙間から身を躍らせる。空は既に紫から紺へと変化を遂げていた。遠くでは月が上り、一番星が瞬き始めている。
 低い世界から空を仰ぎ、そして背後の校舎を見た。完成当初はきっと誰もが朽ちる未来など考えなかったであろう物は、けれど確かに朽ち果てて滅びの時を待っている。取り壊しが始まり、整地も済めば跡地にできるのは子どもたちの遊び場か、はたまた学校の施設か。
 旧校舎を知っている者たちは、自分たちの幼い日の思い出と共に時折思い出す事もあるだろう。だがいつしか記憶も薄れ、記憶を持つ者が死に至れば、この建物があった事自体が本当に消え失せるのだ。あたかも最初からそんなものが存在しなかったかのように。
 けれどもそれは当たり前の事だった。時代というものは幾千、幾万もの忘却を重ねて過ぎていく。
 そして、それは焉たち人外の者たちにとっても無関係ではないのだ。妖怪であれ都市伝説であれ、忘れ去られてしまえば意味を持たない。人外の者たちがどんな恐怖を与えたとしても、忘却のいう名の恐れにかなうものなどないのだ。
 だが、それでも焉たちは人々の前から姿を消す事はないだろう。
 
「……さぁて、明日からまた仕切り直しといくかな」 
 
 口元に弧を描き、紺から黒へと移り変わる住宅街へと焉は足を踏み出す。





 ――――――――そうして今日も、世界は回る。







 END.