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夏の日
最初は、ついてない、と思った。
「えー。めんどくさいなぁ」
学校からの帰り、いつも通る道をふさいでいたのは「工事中」の看板だ。
ここを通れないとなると、戻って一本向こうの道から迂回する必要がある。その道を通ったことはほとんどなくて、慣れない道を通らないといけないことに藤郷弓月はわかりやすく不満をあらわにした。
だが文句を言っても、この看板がどいてくれるわけではない。仕方ないから、遠回りすることにして踵を返す。しぶしぶ歩いてきた道を戻り、ここしばらく通っていなかった道へと足を踏み入れたとき、弓月はなぜか冷たい風を感じた。
今は、夏だ。
うだるように暑い日々が続くここ数日、外で冷たい風に遭遇した記憶はない。ぬるいだけならまだしも、吹きつける熱風に何度も顔をしかめたものだ。
「雨、降るのかな?」
首を傾げて、空を見上げる。視界に広がるのは、鮮やかに青い空と、真っ白な雲。……夕立すら、降りそうもない。それに先刻感じた冷たい風は、弓月に心地よさよりも薄気味悪さをもたらしていた。
……なぜ?
「ま、いっか。今はもう、暑いし」
日陰に入ってもじとじとと蒸し暑いこの熱気に安堵するというのも変な話だ。だが深く考えると気味が悪いことになりそうだったので、慌てて首を振って頭からそんな考えを追い出す。
そのまま、家へと向かって足を踏み出そうとして。
弓月は、道の真ん中に佇む女の子の姿に気づいた。
「あれ?」
足が、止まる。
弓月と同じくらいの年頃に見える彼女は、和服に身を包んでいた。
照りつける日差しも肌に張りつくようなじっとりとした空気も気にした様子を見せず、彼女はぼんやりと遠くを見つめている。さらにきっちりと着物を着込んいる彼女は、汗ひとつかいていなかった。ついだらりとしてしまいがちな暑さをはねのけつつ、ほんわりのんびりとした雰囲気を漂わせているところを、弓月は素直にすごいと思う。
そして、考えことをしているのだろうから邪魔してはいけないと、もう一度足を前に出そうとして。
それに、気づいた。
足が……ない。
「……えっ……!?」
きっちりと締められた帯から下へと伸びている布地に包まれた綺麗なラインは、膝下のあたりから色が薄れ、足袋や木履はすでに存在すら確認できない。振り袖の織り柄は背景と化している現代の街並みに溶けて、彼女はふわりと宙に浮いているように見えた。
──もしかして、幽霊?
そんな答えが出た途端、弓月はそのまま回れ右をしたくなる。だって……薄気味悪い。
だがそれを実行しようとしたところで、もう一度彼女の表情を見てしまった。
その眼差しは、悲しそうに見える。だが、どこか幸せそうにも見える。
よく耳にする幽霊のようにおどろおどろしい雰囲気をまとってもいないし、なにより恨みを持っているようにも見えない。ただ悲しんでいるにしては、その瞳はどこか夢見がちにも見えた。
「なんでこんなとこ、いるんだろ?」
逃げるつもりだったのに、弓月は意識を引き寄せられている自分に気づく。好奇心が、最初に感じた薄気味悪さを簡単に凌駕した。
「あの、えーと? そんなところで、どうしたの?」
意を決して、声をかけてみる。
声に振り向いた幽霊の彼女は、弓月の姿を認めると少し驚いたような表情を浮かべて。
「まあ、こんにちは。はじめまして」
ほわほわとした、笑顔を見せた。
彼女とふんわりとした笑顔は、弓月の心の奥に少しだけ残っていた本能的な怖さも薄気味悪さも、軽く吹き飛ばしていった。
「幽霊さん……だよね?」
「はい、そうです。事故だったのですよ、仕方ありませんねえ」
それが消えてしまえば、好奇心を抑えることなどできない。弓月が矢継ぎ早に繰り出す質問に、彼女はにこにこと笑顔で答えてくれた。
「でも、ずっとここにいるんだよね。どうして?」
「大切な方を置いてきてしまいましたの。その方が幸せになることができたのかどうか、どうしてもそれが気になって……」
「え」
心残りがあって、その場から動くことのできない幽霊。確か、地縛霊と呼ばれていた気がする。
今まで怖いイメージしか持っていなかったはずなのに、実際に会ってみたらそれはあっという間に崩れた。それどころか、悲しそうな顔に見えたのはそのせいだったのかと思うと、力になってあげたくなる。
そして。
弓月は、いつでも思い立ったら即実行だった。
「私がその人、探してきてあげようか?」
彼女が、目を瞬かせる。
きっと、思いがけないことだったのだろう。
瞬間驚いた表情を見せた彼女は、今度はふんわりと穏やかに笑った。
「まあ……ありがとうございます」
「お礼なんていいよ。ねえ、この近くに住んでる人なの?」
絶対に探し出してみせると意気込む弓月を、彼女は眩しそうに見つめている。
なかなか返ってこない答えに弓月が焦れて先を促そうとすると、彼女がそっと首を傾げた。
さらりと、肩の上を長い髪が流れる。
触れることのできない、幻のような光景。
「貴方は今、幸せですか?」
しばらく慈しむような眼差しで弓月を見つめていた彼女が口にしたのは、そんな問いかけだった。
「う、うん」
「ご家族も?」
「だと思うよ」
「お祖父様、お祖母様も?」
「うん。元気だし」
「そう……よかった」
彼女の微笑みが深くなり──薄れていく。
微笑みだけではない。彼女をかたちづくる輪郭が、そして色が。
──薄れている。
「え……ええっ??」
「わたくしの言葉を聞いてくださる方をずっと待っていました。来てくださってよかった。可愛らしい方々に恵まれて幸せでいらっしゃる、そうなのですね?」
……どういう意味なのだろう?
弓月にはわからない。ただ、彼女が悲しんでいるわけではないことは理解できる。
一体誰のことをそんなに思っているのかと、口に出して尋ねようとしたとき。
「弓月? どうしたんだい、こんなところに突っ立って」
「あ……お、おじいちゃん!?」
急に背後から肩を叩かれて、弓月は飛び上がりそうになるほど驚いた。
幽霊と遭遇したとき以上に、心臓がばくばくと大きな音を立てている。驚かせた張本人である祖父に文句を言うわけにもいかず、ただ口をぱくぱくとさせていたら、祖父がのんびりと首を傾げた。
「道の真ん中で独り言かい? おまえも変わってるねえ」
「独り言……ええええ?」
祖父には、彼女の姿が見えていないらしい。
先刻ほどはっきりとは見えていなくても、弓月の目にはまだちゃんと彼女が見える。なんて言えばいいのかわからずに戸惑っていると、どこか遠くから彼女の声が聞こえてきた。
すぐ。
近い場所にいるのに。
「お会いできてよかった」
すでに背景が透けて見えるほど薄れた彼女が、ふわりと笑う。
そして。
夏の空気へと溶けこむように、消えた。
「えっ!?」
「弓月……大丈夫かい?」
挙動がおかしい孫の様子を心配したのか、祖父がおろおろと辺りを見回している。呆然と消えた彼女の姿を思い起こし、今こうやって孫の心配をしている祖父へと改めて意識を向けて、弓月はふとひとつのことに思い当たった。
もしかしたら。
「おじいちゃん、幸せ?」
「ん? もちろんさ。当然だよ」
「そっか。なら、よかった」
きっと、彼女の心残りは晴れたのだと。
弓月を呼び寄せて、そして祖父の姿を見ることで、その願いは叶ったのだと。
そう、思うことにした。
Fin.
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