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<東京怪談ノベル(シングル)>


第一話 解き放たれた一つの秘蹟

 爛れたような紅の洪水。
 裏庭で土に落ちたダリアの花びらが、そんな色をしていた気がする。
 むせ返る甘い香りは、土と混じり合い溶けてゆく花びらが最後にこの世界に残したもの。
 ――違う。
   この香りは……。
 僕はまとまりなく漂う意識の中で、考えをめぐらせる。
 ――そうだ、上の奥歯が生え変わる時に感じた……。
   舌の上から鼻へと抜ける鉄錆びた、血の。
 僕の立っている床は流れ伝う血で染まり、歩く度に赤く染まった裾が足にまとわり付く。
 左手に握られた短剣からは絶えず風が起こり、頬に床の血を飛ばした。
 それなのに僕の心は不思議と静かだった。
 『こちら側』は静寂が支配する世界。
 何も聞こえない。
 母の悲鳴も、父の叫びも。
 僕の家族が倒れて、心臓が最後に刻んだ音も。
 ――何も。


 丈高い緑の洞窟の中を伏見夜刀は進んでいた。
 肩口で揺れる黒髪に縁取られた顔は少女のようにも見えるが、快活に輝く瞳は少年らしい未知への冒険心であふれている。
「出ておいでー?」
 蔓棚の影に冒険の相棒を探すけれど、一向に彼女は夜刀の呼びかけに答えてくれない。
 夜刀は半ズボンからのぞく膝が下草で汚れるのも構わず、緑の回廊の中を進んでいった。
 仕立ての良いシャツとベストに所々付いた草の実は、この世界で夜刀が手に入れた財宝の一つだ。
 まだ少年である夜刀の世界は、伏見家の屋敷とそれを階段状に取り囲む庭、父と母、使用人たち――それに相棒の黒い子猫で全てだった。
 夜刀は複雑に入り組んだ緑のアーチを抜け、石造りの獣たちが集う泉まで歩いた。
 大振りの枝角を持つ鹿、立ち上がってこちらを向く熊、たてがみと角を堂々と掲げる一角獣。
 それらが庭にしつらえた鍾乳洞に湧き出る水を求めて集まっている。
 その向こうには、中央に女神ウラニア像、周囲に八体のミューズ像を配した花壇と、八芒星をかたどった別の花壇が広がっていた。
 八はハルモニア観念を示す秘数だという。
 錬金術の神秘を再現したという伏見家の庭園だったが、幼くその知識もない夜刀にとってはいたる所に隠れ場所のある楽しい遊び場でしかない。
 ひそやかに伝えられた魔術を実践する伏見家の子として、夜刀は魔力を感知する金色の瞳を持って生まれた。
 まさに『黄金の夜明け』――待望の一子が澄んだ金の瞳で両親を見上げた時、家族のみならず伏見家に連なるものはこぞって祝福した。
 当時、伏見家の発言権は魔術ソサエティの中でも下降の一途をたどっており、彼らは夜刀の瞳に光明を見出したのだった。
 しかし、夜刀の両親はそのような重圧を息子に押し付けはしなかった。
 あくまで自分たちの子供として、厳しくも慈しみをこめて扱った。
 夜刀自身もまだ魔力を解放・覚醒しておらず、両親が少しずつ教えてくれる魔術シンボルをようやく覚え始めた頃だった。
 意味はわからないながらも、その幾何学模様を覚えるのは楽しかった。
 一つ覚えるごとに母は柔らかなその手で夜刀の髪をなで、父は嬉しそうに夜刀を抱き上げたからだ。
 その日も夜刀は午前中を勉強にあて、午後は相棒と一緒に庭で遊んでいた。
 とりどりの花が四季の色を添える花壇の傍で、夜刀が相棒でもあり一番弟子でもある彼女にその日習った事を教えている時だった。
 ふい、と黒猫は白い足先を緑のアーチに向けて駆け出してしまった。
 気まぐれな相棒の事だから、すぐに戻るだろうと夜刀は思っていた。
が、彼女はなかなか戻ってこない。
 黒猫を探しに庭を探索する夜刀は、噴水が涼やかな水をたたえる傍で一人の男と出会った。
 背が高く堂々とした体躯を三つ揃いのスーツに包んだ男は、珊瑚と貝細工で飾られた八角形の噴水枠のふちに身体を預け、歌うようになめらかなバリトンで夜刀に話しかけた。
「ごきげんよう、夜刀君。
ディアトニカ、ハルモニカ、クロマティカ。君には水の奏でる音楽が聞こえるかね?」
 言葉の意味がわからずに立ち尽くす夜刀を、男は薄い色の瞳を細めて見下ろした。
 そして夜刀の肩に手を置いて身をかがめ、囁いた。
「……ハルモニア・ムンディ――<世界の調和>は君によって完成されるのを待っている」
 男は謎めいた言葉を夜刀にかけて微笑んだ。
 夏の強い日差しの中、男の顔は逆光でかすんで見えない。
 男の手が触れている肩から、じわりと冷たいものがせりあがってくるように夜刀は感じた。
 細く左右に開いた口元だけが赤く夜刀の視界を支配する。
 ――僕は、この人をどこかで……。
「あなたは、どなたです、か……」
 夜刀の意識が朦朧としかけた時、ハイソックスに包まれた足元に温もりが触れた。
「あ、おまえ。探したんだよ?」
 抱き上げた黒猫は夜刀の腕の中で、男に向けて低く唸りながら牙をむき出している。
 相棒の滅多に見せないその姿に夜刀は驚いた。
 薄いシャツの生地を通して、子猫の薄く小さな爪が夜刀の肌に痛みを与える。
「勇ましいお嬢さんだ。
私の結界<秘密の苑>――シャルディーノ・セグレトを破って主を迎えに来たか」 
 クックッと喉の奥を鳴らして男は笑い夜刀から離れた。
「良い使い魔になる」
 使い魔という響きに夜刀は顔をしかめた。ごくたまにその単語を耳にすると、ひどく哀しい気分になる。
 ――僕はこの子をそんな風に思った事なんてない。
「そう睨むな<黄金の暁>。これは私の個人的観測に基づく意見だ」
 男は黙ったままの夜刀の傍を離れて、芝生がきれいに整えられた通路を屋敷へと歩きだした。
「ではまた。後ほど」
 優美に腰を折って一礼し、男は夜刀の前から立ち去った。


 木苺が赤い実をつける茂みの傍に寝転び、夜刀は黒猫を両手で抱き上げて話しかけていた。
「お前が僕を迎えに来たの?」
 両手に収まるような小さな身体を伸ばし、黒猫は「にゃあ」と鳴いた。
 男に見せた敵愾心はすっかり消え、いつも通りの気まぐれな相棒に戻っている。
 そっと黒猫を芝生の上に降ろし、夜刀は男の言葉を反芻した。
 <世界の調和>、<秘密の苑>、そして<黄金の暁>……。 
 どれも理解できない単語ばかりだった。
 ――あの人は僕を<黄金の暁>と呼んだ。
   黄金の……。
 いつか伏見家に集まった人々が、夜刀の瞳を見てはそう話していた気がする。
 ――どうして僕の瞳だけが金色なんだろう。
 屋敷に仕える使用人たちも、伏見家に集う人々も、そして夜刀の両親も黒い瞳だった。
 あの男の言葉が波紋となって広がり、今では夜刀を悩ませている。
 小さな子供が一度は思う、もしかしたら自分は両親と血が繋がっていないのではないかという疑念。
 それが今更ながら夜刀の中に湧き上がる。
 ――僕は父さまと母さまの子供だよね?
 傍らに実る木苺を手に取って口に運びながら、夜刀は物思いに沈んだ。
 人里離れた山中にある伏見家で、子供と呼ばれる年齢の者は夜刀ただ一人だった。
 こんな時、同じ年頃の友人が傍にいれば「気にしすぎだよ」と笑って一蹴されたかもしれない。
 けれど不幸にも――その当時の夜刀にとって唯一の不幸な事に、夜刀は人間の友人を持っていなかった。
「夜刀様、お父様がお呼びですよ」
 涼やかな風にうとうとと眠りかけた夜刀は、そっと手を触れる感触で目を覚ました。
 紺のワンピースに白いエプロンをかけたメイドの娘が、一つに編まれた三つ編みを揺らし夜刀の前でにっこりと微笑んでいる。
「父さんが帰ってきたの?」
 夜刀の父はここ最近家を空ける事が多く、夜刀も、夜刀の母親も寂しがらせていた。
 はじかれたように立ち上がる夜刀に娘は声を立てて笑った。
「ええ、夜刀様に早くお会いしたいと仰って」
「父さまは書斎?」
 嬉しさに駆け出しそうになった夜刀を引きとめ、娘はやんわりとさとした。
「夜刀様は今日も冒険に出られていたのでしょう? 草の実が付いてらっしゃいます。
身だしなみを整えてから、お父様にお会いした方が宜しいのではありませんか」
 夜刀は所々草の実や細かな木の葉が付いた自分のシャツを見下ろした。
「着替えた方がいいよね」
「お手伝いしますわ」
 夜刀は娘と黒猫と共に屋敷に戻った。
 いくつもの調和の女神像が並ぶ回廊を抜け、夜刀は自室へと駆けて行った。
 広い屋敷内とはいえ、家の中を音を立てて走るのはマナーに反する。
 しかし父の帰宅に浮き立つ夜刀の心もわかる娘は、おだやかに「転びますよ、夜刀様」とだけ声をかけた。
 ノックして入った夜刀の自室では、すでに下着姿になった部屋の主が二枚のシャツを手にして思案している。
「どっちの色がいいかな?」
「すみれ色の方が夜刀様には映えますよ」
 娘は水差しから水盤にお湯を流し、オレンジフラワーの精油をたらした。
「でも着替える前に手を洗って下さいね。清潔は何よりの装飾に勝るものです」
行儀良くお湯の中で両手を洗って、夜刀は柔らかなタオルで水滴を拭った。
 そして新しいシャツに袖を通し、クリーム色のタイを締めてもらいながら夜刀はふと娘に尋ねた。
 両親にも聞いた事がなかったのは、全てを否定される答えが返ってくるのが怖かったからかもしれない。
 無意識にだが、夜刀はこの伏見家の生活が、とても脆い薄膜に守られた幸福と感じていたのだった。
 くるくると表面で色を変えるシャボン玉は美しくも儚く、壊れやすい。
「……僕は、父さまと母さまの子供だよね」
 一瞬娘の手は動きを止めたが、彼女は幼い主の言葉にすぐ微笑を返した。
「もちろんです。夜刀様」
 生命の出自は夜刀の両親以外が知るところではないが、娘は迷いない言葉で主に答える。
「夜刀様以外に、旦那様と奥様のお子様はいらっしゃいません」
「……ありがとう」
 夜刀は何だか恥ずかしくなって、小声で娘にそう言った。使用人ではあったが、娘は夜刀に真摯に接してくれる人間の一人だったのだ。
「どういたしまして」
 身支度を整え、夜刀は居間へと足を運んだ。
 細長い廊下は小部屋が連なり、唐草模様の意匠を施された壁が続いている。壁紙の中、複雑に絡まりあう草花はその末端で、<神童>――プットーへと変貌していく。
 変容する世界を端的に象徴した模様は毎日見慣れたものであったが、その日はどこか不安をはらんで夜刀の目に映った。
 ――どうしたんだろう。僕、今日は変だ。
 居間の前には執事がつつましくスーツに包んだその身体を置いていた。
「お父様とお母様、それにお客様がおいでです」
「お客様?」
 執事は恭しく丁寧に頷いて、扉を開ける。
 その先には、庭園で出会ったあの男が夜刀の両親と何かを話しながら笑っていた。
「やあ、ごきげんよう……夜刀君」


 夜刀は父親の隣に腰掛けながらも、居心地の悪さを味わっていた。
 優美な曲線を描くベルベット張りのソファの柔らかさも、運ばれてテーブルに並べられたチョコレートの甘さも申し分ない。
 けれど夜刀は両親が目の前の男と何か会話をする度に、息が詰まりそうな感覚を覚えていた。
「ねぇ夜刀。象がそんなに賢い生き物だなんて、初めて知ったわ」
 母がかけた言葉にも、夜刀は曖昧に頷くだけだった。
 居間にいる両親と男が交わす会話を全く理解できない。
 まるで意味のない音の連なりにしか聞こえないのだ。
 席を外そうかと夜刀が腰を浮かせた時、男が挨拶をして以来初めて夜刀に視線を合わせた。
 薄い色の瞳はかすかに金色を帯びている。
「そうだ、夜刀君にお土産があったんだ」
 大げさに「出すのが遅れてしまった」と男は懐から短剣を取り出した。
 夜刀の手の平ほどの長さのそれは、乳白色のケースに納まっている。
「これは……牡蠣貝かな? 珍しい細工だ」
 黒い凹凸の中に秘められた、なめらかな乳白色の光。
 それをケースにあしらった短剣は骨董にあふれた夜刀の家でも今まで見た事がないものだった。
「ええ、二つと無い物ですよ。この世界にはね」
 感嘆の吐息を漏らす父親が短剣を夜刀にも見せる。
「夜刀も見てごらん。きれいだから」
「……はい」
 夜刀は息苦しさを堪えて短剣を受け取った。
 冷たい感触、どこからか聞こえる潮騒、強い海の香り。
 そして――。
 夜刀の手は短剣を引き抜き、漆黒の刀身を見た。
 全ての光を吸い込んでしまう、暗黒の結晶。
「ハハハッ! ようやく<世界を解く鍵>――クラヴィス・ウニヴェルサーリスは持ち主へと返された!! 長き我が旅もここまでだ!」
 男の笑い声をかき消すかのように、居間は夜刀を――短剣を中心に嵐が吹き荒れている。
「古の時、人魚の姫君が王子を討てと姉たちに渡されたものだ、夜刀!
姫はみなもの泡と消えたが、その短剣は光の届かぬ海底で、真の持ち主に返されるのを待っていた」
 男は身体を震わせて言葉を続ける。
「どうだ、魂の欠片が戻った感触は?」
「夜刀!」
 風に壁際まで飛ばされた夜刀の父が声をかけるが、その声は風に消されて届かない。
 夜刀の父は怯える妻をかばいながら、懐から儀礼用の短剣を取り出した。
 夜刀が手にする物とは対照的に、純銀製の刃は光をたたえて輝いている。
 それを両手で持って夜刀の父は詠唱を始めた。
「……とこしえの敬愛と感謝を我が祖に。
循環する血の道。精神の連鎖」
 風を遮るように翼ある者が彼の前に実体化する。
 天使と称される者よりもまとった雰囲気は力に満ち、その表情は厳しい。
「普遍なる鍵、死を封じる鍵。
願わくば、生ける者の恩寵を我に!」
 その者は手にした槍を夜刀の短剣目がけて投げた。
「……無駄だ。もう『世界は開かれた』!」
 夜刀が手にした短剣を軽くなぎ払うと、翼ある者は風と共に黒い刀身に吸収されてしまった。
 瞳を上げ、両親を見つめる夜刀が口を開く。
「……我が身を水底から引き上げた者はいずこに?」
 しわがれた声は少年のものではなかった。
「夜刀、夜刀!!」
 夜刀の母親が息子の身体に駆け寄った。
 強風に手をかざしながら近付く女に、夜刀――いや『水底の支配者』は微笑んだ。
「そなたか。ならば祝福を」
 水平に払われた短剣が、夜刀の母親の胸元に赤い線を引いた。
 そして驚愕と絶望と悲哀を一度に経験した女は息子の足元に倒れる。
「夜刀!」
 夜刀の父親が妻の身体を抱き起こすがすでに彼女は事切れている。
 そのほつれた前髪がかかる額に、水底の支配者は短剣を向ける。
「そなたにも祝福を」
 振り下ろされた短剣は深く眉間に突き立てられ、見開いた瞳は最後に黒い刀身が映して光を失った。
 夜刀の身体は完全に水底の支配者が動かしていた。
「もう祝福を授ける者は、いないか?」
「ここにおります」
 男は夜刀の前にひざまずき、血塗れた両手を押し抱いて自身の喉に短剣を導いた。
「我が永遠の生に終止符を」
 水底の支配者は冷ややかな視線を男に向ける。
「美しい尾鰭を捨て、望んで人の国の土を踏んだのではないか?
そのような者がみなもに還りたいと申すか」
「今でも私の耳には、あの黒き海原が見えているのです。どうか……」
 水底の支配者は男から手を引き、短剣を乳白色のケースに収めた。
「同胞を裏切った者に、還る場所はない」
「そんな……! 私はずっと、この時を!!」
 水底の支配者――夜刀は金色の光をたたえた瞳を閉じ、ゆっくりとその場に倒れた。
 部屋を吹き荒れていた嵐も同時に止み、居間は瓦礫と化した調度品が積み重なっている。
「また、次の者が生まれ変わるまで、私は生きねばならないのか!?」
 男はまだ夜刀が握り締めている短剣を手に取り、乱暴に引き抜いて血の海に横たわる少年の喉元に振り下ろそうとした。
「痛っ!」
 男の手の甲に細い赤の線が刻まれ、それは小さく盛り上って赤い血の玉を結んだ。
 夜刀の前に、小さな身体を精一杯大きく見せようと毛を逆立てた黒猫がいる。
 その牙も爪も、今は薔薇の棘より小さく弱い。
 それでも黒猫は主の為に命を投げ出そうとしていた。
「……ただの獣ではないのか」
 ――二度までも結界を破る、その力はどこから来ているのか。
 男は自分の分が悪いと認めると、短剣を懐に収め、初めて夜刀に姿を見せた時と同じように歌い上げるようなバリトンを響かせた。
「<黄金の暁>、お前の世界は開かれてしまった。
いずれお前が<世界の調和>を奏でる時、再び会おう」
 男はそう言い残して姿を消した。
 かすかな潮騒の残響と、潮の香りを残して。


 子猫の鳴き声と、頬をなめるざらりとした舌の感触を遠く感じながら、夜刀の心はゆっくりと『水底の支配者』から解放されていった。
 今では深海に沈む船のように、支配者の意識と呼ばれる物は沈黙している。
 おぼろげに見えていた世界は、ただ紅かった。
 音はなく、それが夜刀を不思議と落ち着かせていた。
 まるで遠い異国のニュースのように、現実味のない悲劇。
 ――そうだ、僕はこの手で……。
   この手で?
   僕が何をしたんだろう?


 むせ返る血の匂いの中で、夜刀は意識を取り戻し――真の世界の姿を、見た。

(終)