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<東京怪談ノベル(シングル)>


私の事を、忘れないで


 仕方がなかったのだ。
 この日は確かにめずらしく仕事を入れていなかったから、暇ではあった。昨晩、友人・知人・想い人、思い当たる人間にはとりあえず連絡を入れて予定を聞いてみたのだが、あいにくこの日暇を持て余すことになっていたのは藍原和馬本人ただひとりであった。
 だから、仕方がなかったのだ。
 客など一週間に数える程度の骨董品屋『神影』、彼はそこの店番を命じられた。
 べつに『神影』の仕事が嫌いであるわけではない。ただ、せっかくの暇だというのに、『神影』の店番をするということは、その暇の暇でつぶすということになる。なにか――そう、勿体ないような気持ちもしたのだ。貴重な時間を浪費するのだから。
 ――貴重、ねえ。
 カウンターで頬杖をついて、見慣れた木造の床や天井をながめ、その板の数をぼんやりと数える。木目を見つめて、その中に人の顔を見い出そうともしてみた。音でも流そうかと棚の奥から引っ張り出した、一応売り物の鉱石ラヂオは動かなかった。動かないものでも平気で売る店、それが『神影』。
「はあ……今度テレビでも買ってくっかね……こう、ちっせーやつさ」
 誰に意見をうかがったわけでもない。ただの独り言だ。
 せめて客のひとりやふたりでも相手に出来ればいいのだが。和馬はまたため息をついて、何気なく背後を振り返り見た。
 雑然。
 つい先日片付けさせられたような気がするのだが、倉庫の入口付近はひどい有り様だった。倉庫の中もきっと大騒ぎなのだろう。覗かなくともわかる。
「……」
 何も見なかったことにして、和馬は店内に目を戻す。
 誰も、いない。
「……」
 もう一度、和馬は背後を見た。
「ったく、まぁ……」
 どうせ客など来はしない。もし来たとしても、和馬のするどい聴覚と嗅覚が、来客の旨を伝えてくれるだろう。和馬はカウンターの裏から倉庫の入口に行き、だまって片付けをはじめた。
積み上げられているものは古書や資料の類がほとんどだった。『神影』の売り物は無節操と言えるほどに多種多様だが、古書や資料は「骨董品屋」ではなく「古書店」が扱うべきものではないだろうか。それらが要るものか要らないものか判断できず、和馬は仕方なく本をそろえてビニール紐でまとめ、倉庫の中に積み上げておくだけにとどめておいた。
「師匠、なんか調べてたのかね……って、オイオイ!」
 資料の山の下から和馬が発掘したのは、見覚えのある表紙の『本』だった。
「な、なんでこんなとこにあンだ?!」
 次から次へと発掘された分厚い『本』。埃と、過ぎ去った時間の匂いがする。それは藍原和馬の、アルバムだった。


 存在を忘れていたわけではない。
 和馬はどこか、弁解していた。
 決して、忘れられるものか。
 だが、なぜ自分のアルバムが『神影』にあるのか、はじめのうちは理解できなかった。布張りの表紙の一冊を手に取り、適当にページを開いたところで――和馬は、アルバムがここにあった理由をぼんやりと思い出した。
 自分は決して、時間に殺されることはないのだ。骨董品屋『神影』もまた、おそらくはなかなか死ぬことがない。藍原和馬には、『永遠』の呪いがかけられている。彼は歳を取って死ぬことを赦されていない。非常に頑丈な身体を持っているので、病や傷に斃れるのもむずかしいだろう。寿命をむかえた太陽の爆発にまきこまれ、地球そのものが消滅してしまえば、或いは死ぬかもしれない。それほど大袈裟な死因が、藍原和馬には必要であり、お似合いだ。
和馬が住んでいるマンションも、どこかの会社の信頼できる金庫とやらも、いつか必ずなくなってしまう。和馬はアルバムを預ける場所として、『神影』を選んだのだ――はっきりとは思い出せないが、相当、昔に。
 ――最近は撮ってねェなア……。
 いまはデジカメを持っている。散らかった自室の床の上に、メモリースティックが今日も散らばっているはずである。撮ってはいるのだ。しかし、フィルムに風景を収めることはなくなっていた。
 紺の表紙のアルバムには、セピア色の写真が詰まっていた。
 撮った日時などは、どうでもいい。和馬にとって、年月など意味を持たないものだ。その写真を見るだけで、和馬は写真の中に封じこめられた会話と匂いを、ありありと思い出すことが出来た。
 忘れているはずもないのだ。
 たとえ写真ではセピア色になってしまっていても――もとよりモノクロの写真だったとしても――その中にある少女の髪の色と目の色、彼女のまわりで咲き誇る躑躅の色が、和馬のパノラマの中で色褪せることはない。
 ああ、あの赤! 黒と、翠!
 知らず、和馬は静かな笑みを浮かべて、かたいページをめくっていた。

 和馬が写してきたものは、けっして少女や花や思い出ばかりではない。写真の中に閉じこめられたものは、いまはそのセピア色の世界と、和馬の記憶の中だけに存在している。シャッターを切ったあの瞬間は、もう目に映るカラーの世界の中には残っていないだろう。きらめくような笑みの少女も、酒を片手に笑う青年も、もういない。もう……生きては、いない。思い出の中で生き続けるさ、とはよく言うが、残酷な真実を和馬は知っている。かれらはもう生きてはいない。自分だけが取り残されている。
 それは、とてもつらいことだ。決して、慣れることはない。出逢うたびに和馬は思う。いつかは必ずこいつと別れ、俺が先にこいつを悲しませることはないのだろうと。和馬は自分が永遠のものだということを公言することもなかった。だから他人はおかまいなしに和馬と出逢う。ほとんどの場合、和馬の苦痛を知る由もない。
 けれど彼は、あきらめたのか、悟ったのか――
 いつからか写真や絵画に思い出を残すようになった。わざわざかたちにしなくとも、脳髄が覚えていてくれることを知っているというのに。


「わたしね、英吉利に行くことにしたの」
「え、何だって?!」
「英吉利」
「どうしてまた!」
「今行くしかないって、思ったの。あなた、まえに言ったでしょう。『いま出来ることはいまやっておけ』って。……あなたが言うこと、とても重いわ。その言葉の意味を知っているから。わたしはね……、永遠ではないから……。いま出来ることを、やっておくわ。ありがとう。決心できたのは、あなたのおかげよ」
「英吉利にゃ、躑躅はねェぞ。桜もねェし、梅もねェってのに。いいのか? 花……好きなんだろ」
「英吉利にだって花はあるわ。英吉利にしかない花も、あるでしょう?」
 ――おまえは花みたいに笑うやつだよ。
「ねえ」
「んあ?」
「わたしのこと、わすれないでね」


 アルバムは一冊だけではすまなかった。減ることなどないから、増える一方だ。それでも、いまの名前でいまのような仕事をするようになってから、なかなか写真を撮らなくなっていた。
 仕方がなかったのだ。
 決して、忘れていたわけではない。
 ただ、いまを生きることが、とても大切で、とても楽しかったのだ。
 ――でも……、悪かったな。こんなとこに、ずっと置きっぱなしで。
 一冊だけでも重さはそこそこだ。和馬はひょいと十数冊まとめて抱え上げ、それを倉庫ではなくスタッフルームに持っていった。埃を払い、机に置いて、彼は椅子に腰を落ち着ける。アルバムの中には、ページの中に収めきることが出来ず、ただ挟んであるだけの写真を抱えているものもあった。
 どうせ暇なのだから整理でもするか、と――はみ出した思い出を手に取り、眺め、微笑んで、和馬はセピア色の世界を覗いていた。
『おまえこそ、俺のこと忘れんなよ』
 セピア色になってしまった彼女たちに、和馬はそう言い返してやっただろうか。
 ――まア、どっちでもいいさ。

 知らず和馬は、倉庫の中から使えそうなカメラを探し出して、アルバムの傍らに置いていた。




<了>