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<東京怪談ノベル(シングル)>


夕闇の刻


 逢魔ヶ時に御神木に近付いてはいけないというのは、誰が云った事であっただろうか。さもないと御購物として数えられ、他界へと連れ去られてしまうのだという口伝を、何故だかとても鮮やかに記憶している。
 
 バイト先の店長が、めずらしく定時に帰らせてくれた。何時もは”次のシフトの子が来るまで”だとか”どうせ帰っても閑なんだろう”だとか、散々な理由をつけて残業を命じてくるのだが、今日ばかりはいやにすんなりとあがらせてくれた上に、お疲れさんと云いながら、ペットボトルの水を一つ土産にと持たせてくれた。
 真言はペットボトルの入ったビニール袋を片手にぶら下げて、バイト先のコンビニから自宅までの帰路を歩んでいる。
 空は鮮やかな真紅色に染められ、細長く伸びる雲もまた朱に染められている。
 街路樹に張り付いている蝉は忙しなく鳴き続け、それはまさに文字通りの蝉時雨の如く真言の上に降りかかってくるのだった。
 見渡す限り、夕闇の真紅に染まっている。風も、揺れる葉陰も、大気までもが朱で満ちているような気がする。
 ほんの数歩離れた場所でさえもが夕陽にさえぎられ、映らない。聞こえるのはどこまでも蝉の鳴き声ばかり。
 真言は、ふと足を止め、不審気味に周りを確かめた。
 先ほどから、車の一台も通り過ぎていないのだ。それどころか、人一人見当たらない。否、それどころか、周りに在る家並みでさえも、まるで絵画のそれであるかのように、どこか遠く、虚ろだ。
「……」
 眉根を寄せ、周りを見渡した後、真言は小さな舌打ちを一つつく。
 ――――どうやら踏み入る場を間違えてしまったらしい。
 それに気付き、改めて周りを確かめる。見れば道の脇に細長く続く石の階段の姿があった。 階段の上部を見上げてみるが、その先は夕闇の朱で覆われ、確認出来ない。
 歩き慣れた道なのだから、無論、ここに階段の存在などは無かったはずだと認識出来る。  が、しかし。階段は確とそこに在り、真言を呼び込むように佇んでいるのだ。
 
 風が低い唸り声をあげた。 
 ゴウと鳴るその声に、真言はふと風のものではない声を聞いた。
 織り交ざり、ともすれば消え入りそうなその声は、耳を澄ませば幼い子供のそれだと判別出来る。声は、階段の上部から洩れ聞こえてきていた。
 ――――呼ばれているのかもしれない。いや、もしかすると、この場が尋常ならざる他界であると思うこの心こそが誤りなのかもしれない。夕闇が人影や車の影を覆い隠しているだけで、その独特の空気が、自分の心を惑わせただけなのかもしれない。
 気付けば、真言の足は階段をのぼっていた。存外に急斜なそれを、足元を確かめるように一段一段踏みしめる。程なく眼前に広がったのは、鄙びて人気のない社であった。

 逢魔ヶ時に御神木に近付いてはいけないよ。
 ふ、と。いつの頃であったか、誰かに云われた言葉が浮かび、色を強める。
 社へと近付いて進めば、真白な玉砂利がざらりと転がった。
 子供の声はいよいよ大きなものへと変わり、遠くなり近くなり、唄を歌っているかのように響き渡る。
「誰かいるのか――――?」
 周りを確かめながらそう訊ねるが、応じる声は聞こえない。返事に代わり、歌声ばかりが社を囲む鬱蒼とした林に木霊する。
「遊んでいるのか? もう帰らなくちゃいけない時間だろう?」
 声を張り上げてそう訊ねかけ、玉砂利を踏みしめる。ざらり、ざらり、ざらり。砂利が転がるその音は、静まり返った社の中に、やけに大きく響いている。
 唄は風に乗って流れる。気付けば、その歌声は複数の子供の声が重なり出来たものへと変わっていた。
 ざらり、ざらり。砂利を転がし、歩く。風が、ゴウゴウと小さな音を響かせた。
「おぉい、誰か――――」
 何度目かの声を張り上げかけて、真言ははたりと足を止める。
 ゴウゴウと風が鳴っている。
 ざらり、ざらり。真白な玉砂利が音を立てる。
 真言は黙したまま、己の足元へと目を向けた。
 玉砂利のひとつひとつが、痩せ細った子供の腕や眼へと変容し、真言の足首をがしりと掴み取っていた。

 風が凪ぐ。鳴り止んだその音の代わりに、ケタケタと愉しげに嗤う声が耳を撫ぜた。

 真言の黒い双眸が、真白な砂利――今や子供の躯へと入れ替わったそれを見とめ、ゆっくりと細められる。そこには怖れの色もなく、驚愕の色でさえも浮かんではいなかった。
 足首を掴み取っている真白な腕は、その数を徐々に増やしつつある。ぬらりと伸びたそれらは、這い登る蛇か蚯蚓のように、じわりと、真言の腰までを絡め取っていく。
 真言はそれをしばし黙したままで見据えていたが、やがてついと口を開き、ひどく静かな口調で、ゆっくりと言葉を”成した”。
「高天原の天つ祝詞の太祝詞を持ちかがむ呑むでん。祓へ給ひ清め給ふ」
 ささやくようにそう述べて、ビニール袋にいれていたままの水を取り出す。それから蓋を開けて息を吹きかけると、ゆっくりと、その水を周囲へと撒き散らした。
 社はどこか物憂げで薄暗く、夕闇の朱に染まった空は刻を留めているかのように虚ろで、風は無く、空気はどこか淀んでいた。
 その中にあって、撒かれたその水は仄かな輝きを放ち光った。ぬらりと伸びた腕や指は再び玉砂利へと戻り、流れていた唄はひたりと凪いで止まった。
 真言は、場の空気がしばし鎮まったのを確かめて、更に言葉を”成した”。
「波瑠布由良由良而布瑠部由良由良由良止布瑠部」
 息を静め、水火(いき)を鎮める。
「ゆらゆらとふるべゆらゆらとふるべ、ゆぅらゆぅらとふるべ」
 言葉を成す事で、己の内も静まり、落ち着いてきているのが判る。真言は軽く睫毛を伏せて、ゆっくりと言葉を続けた。

 どれほどの時が流れただろうか。空の色はやはり朱であり、おそらくは数分と経ってはいないのだろう事が見て取れる。
 ――――いつのまにか、子供の声は止んでいた。
 凪いでいた風が再びゴウと鳴り、社を囲う林道はざわりざわりと揺れている。
 足元を確かめる。そこにはやはり腕や眼は見当たらなかったが、代わりに転がっていたものを見遣る事で、真言は静かに目を見張った。

 真白な玉砂利は、玉砂利ではなかったのだ。
 そこに無造作に転がっていたものは、それは真白な骨の砕けたものだった。

 風が鳴る。ゴウゴウと鳴っていたそれは、気付けばか細げな笑い声とも泣き声ともとれるものへと変わっていた。
 
 逢魔ヶ時に、御神木に近付いてはいけないよ。さもないと、他界へと連れていかれっちまうからね。
 誰に聞いたとも覚えていないその声が脳裏をかすめ、浮かぶ。
 真言は再びゆっくりと睫毛を伏せて、耳を撫ぜる風に向けて言い聞かせるように、ゆっくりと言葉を成した。

 風が凪ぎ、それにも関わらず、木立ちがざわりと揺らぐ音がした。
 閉じた瞼の向こうで、揺らぐ木立ちが大きな腕となって真言を掴み取ろうとしているのが視えた。
 瞼を持ち上げ、それを睨み据えようとした、その刹那。
「            」
 声を成してはいない声が、真言の耳を掠めた。
 真白な砂利を、ざらりと散らす音がして、
 
 次に目を開けると、そこは見慣れたいつもの道路の上であった。
 階段はどこにも見当たらない。それどころか、階段のあった急斜でさえも、周りのどこにも見当たらない。
 空は僅かに翳りを帯びて、真紅だったその色は柔らかな紫色へと移り変わっていた。
 しばし呆然と佇んでいる真言の横を、家路を急ぐ車が数台通り過ぎていく。

 その辺りにはかつて小さな社が在り、神隠しと呼ばれる現象が度々起きていたのだという事を、真言はその数日後に知った。
 コンビニの常連客でもある老婆は、しみじみとそう話した後に、落ち窪んだ小さな両目で真言を見上げ、こう言葉を締め括るのだった。

「逢魔ヶ時にあの辺りを歩いてちゃあダメなのさ。さもないと、むかぁし連れていかれっちまった子供等が、天狗と一緒に遊びに来ちまうからねえ」


―― 了 ――