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悪魔の力 〜想う心〜
「最近、仕事の方は順調ですね」
朗らかに言ったのは長い黒髪、金瞳のノアールだった。
「そうだな。思い切って転向したかいがあったってもんだ。それじゃ、今日も行ってくる」
黒の短髪、山本・丈治は玄関で靴をはいて肩にザックを担ぐ。
「行ってらっしゃいませ」
ノアールが手を振り、笑顔で丈治を見送った。
ドアの閉まる音一つ。
「では、洗い物を済ませてしまいましょう」
ぽん、と手を打ち、ノアールはぱたぱた、と足音を立てて洗濯機を回し始めた。
洗濯機を回している間に食器類を片付ける。それを洗い終えると、ちょうど洗濯機が終了を音で伝えた。
「はいはい、今行きますよ」
洗い物を取り出し、カゴに入れてベランダに干す。
「ん〜いいお天気です」
昼前の青い空。輝かしい太陽の光に目を細め、ノアールの頬に笑みが作られた。
洗濯物を干し終えた後は部屋に掃除機をかける。
「〜♪」
鼻歌交じりによどみなく手を動かす。まるで魔法のように美しく変わる部屋。それは単純にノアールの技量を現していた。
インターホンが鳴ったのはそんな時だった。
「あら、お客様でしょうか?」
音に気付き、ノアールが掃除機の電源を切る。ドアを開けると、郵便局員が、郵便です、と言った。
ノアールは礼を言って封筒に入った手紙を受け取る。宛名にノアール様へ、とあった。
「誰でしょう?」
差出人不明だが、自分に宛てられた物に首をかしげた。封を切って確かめた。
と、
『このバカもんが!』
大声が手紙から飛び出した。
『ことの経緯は既に調査済みだ。仕事に出てっきり、連絡もなく音信不通。行方をくらませ、ようやく見つけたかと思えば、人間を堕落させるどころか、懐柔される始末。まったく嘆かわしい』
「まあ、声が。最近の手紙は凄いですね」
『違うだろ! と、お前がボケた返答をするのはわかっている。用件を伝える。今夜0時に返事を聞かせろ。戻るか、残るか、を。ただし後者を選んだ場合――』
手紙は書かれている内容を一字一句、間違えることなく音声で伝えてくる。
最後まで聞き終え、ノアールは息を呑んだ。もう一度、書かれていた内容を確かめ、間違えでないことに浅く唇を噛む。
そこに丈治が帰ってきた。
「ふぃー、ただい、ま……」
「え?」
声にノアールが振り向いた。時計を見て、思っていた以上に時間が経っていたことに驚く。
ノアールの様子を機敏に感じ取り、眉をひそめた。
「どうかしたか?」
「い、いえ、なんでもありませんわ。あ、晩御飯のお買い物に行ってまいりますわね」
矢継ぎ早に言って、ノアールが丈治の横をとおり、外でに出て行った。
「なんだ、いったい……」
釈然としない様子で顔をしかめる丈治。その目が出しっぱなしの掃除機に止まる。
「……」
何も言わず、掃除機を片付けた。
○
商店街への道をとぼとぼ、と歩くノアール。
「わたくしは……どうしたら……」
呟く声に元気はない。
立ち止まり、空を見る。
茜色に染まりかけた空が、今は少しだけ目に痛かった。
○
ノアールが買い物から帰ってくる頃には、空は茜色に染まり、夜の帳が下りようとしていた。
休む間もなく調理にかかり、ちゃぶ台に料理が並んだ。
二人がいただきますをする。
が、丈治の箸がぴたっ、と止まる。
皿に盛られた目の前の黒い物体が何か、わからなかったからだ。
思わずノアールを見た。すると箸で持ち上げ、頭と思しき部分から口に運ぶ。
バリッ、カリッ、ザリッ、ウひゃルカっ。
なんだ最後の音は……、丈治は青い顔で呟いた。
箸が止まっている丈治に気付いたノアールが、
「食べないのですか?」
「あ、ああ……」
言われ、仕方なく口に運ぶ。
混沌とした味わいだった。
○
時計が0時になろうとしている。
ノアールは隣で眠る丈治の寝息を確認して、そっと布団から這い出した。
音を立てないよう歩き、ベランダへ。
周囲の明かりも落とされ、星空がはっきり見えた。
軽く息を吸い、吐く。
目を閉じて、今までの思い出を振り返った。
そして、時計が0時を指す。
瞬間。
針が止まった。
夜風も停滞し、人の気配が消え失せる。
明かりという明かりが闇に覆われていき、世界は凍りついたように、時を止めていた。
ノアールのいるベランダだけ、円形に切り取られたように明るい。
ともすれば、それは今から裁判にかけられるような構図であった。
ノアールは見えずとも、目の前の闇に誰かがいるような気配を感じ、そっと胸を押さえた。手に力がこもる。
「わたくし、の、答えは……」
血を吐くような声で言った。
「わたくし、は……残ります! ここに、あの人の、丈治さんのところに残ります!」
はっきり決意をこめた金の瞳が、闇を射抜いた。
「たとえ、悪魔としての力を取り上げられようと。わたくしは丈治さんと一緒にいたいのです。ですから、わたくしは、残ります……」
ノアールの言葉は闇に吸い込まれていった。
しばらく、無音が静寂を作る。
そして。
キィッン、と甲高い音が響いた。
あ、と口を開くノアール。全身から力が抜けていく感覚を覚えた。
闇が引いていく。
空気が元へ戻り、星が空を照らし出していた。
闇が消える間際、このバカもんが、と悲しい響きの声が聞こえた気がした。
ノアールは呆けた様子でベランダにいた。
手の平を前に向け、気を集中。しかしなんの反応もない。
魔力を失ったことの実感が、ようやく現実のものとなる。
「……っ…………ふっ……」
まるで半身が欠けたような喪失感。
手すりに寄りかかり、声を殺してノアールは泣いた。
その体に、後ろから誰かの手がまわされた。
「……何があった?」
丈治が優しい声で言った。
「ふ……っ」
ノアールは体を回し、すがりつくように丈治に抱きついた。そのまま胸の中で涙を流し続ける。
丈治はノアールが落ち着くのをじっと待っていた。
どれだけそうしていたか。
ノアールがぽつぽつ、と話す。
昼間の手紙。
魔力を取り上げられたこと。
一語一語、それが嘘でないことを確かめるように言う。
「わたくしは……もう、悪魔ではなくなってしまいました……」
ノアールは悲しい声で、そう締めくくった。
丈治は何も言わなかった。黙って抱きしめている。
「……丈治さん。こんなわたくしでも、一緒にいてくれますか? 悪魔ではなくなったわたくしと……」
きゅっ、とノアールの手に力がこもった。全身を強張らせる。
もし拒絶されたら、という想いがノアールの不安をかきたてた。
が、
「答えならもう出てるだろ。もし俺がお前を突き放すなら、こうして抱きしめて……どこへも行かないようには、してない……」
半分本気で、半分照れた口調の丈治は、照れを隠すようにあさっての方向を向いた。
その言葉にノアールの口から安堵の吐息。体からは硬さが消え、胸が熱いものに満たされていった。
「俺は悪魔だからお前と一緒にいるんじゃない。ノアールだからこそ、一緒にいるんだ。それは忘れないでくれよ」
「……はい……はいっ…………ありがとう、ございます」
ノアールは少しでも温もりを求めるように丈治を抱きしめ、丈治もまた温もりを与えるようにノアールを抱きしめ続ける。
そんな二人を、朝日が祝福するように照らし出していた。
○
いつもの朝がやってくる。
「今日も頑張ってくださいましね」
「おう。ちょいとぶっ潰してくるぜ」
玄関。
笑みを交し合う二人。
「じゃあ、行ってくる」
「はい、行ってらっしゃいませ」
ノアールが手を振って見送り、丈治は片手を上げて仕事に出かけていった。
「では、今日も張り切らせていただきます」
ノアールは腕を捲くる仕草で気合を入れると、洗濯機を回し始めた。
その間に掃除機をかけようとして、ふと外に広がる空を見る。
「今日も、絶好のお洗濯日和ですね」
清々しい青空に白い雲が流れる。
ノアールの心もまた、青い空に負けないほど晴れやかであった。
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