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迷い子(前編)
その少女ははんなりと微笑んでいた。
紫煙をくゆらせ、草間武彦はその古ぼけた写真から視線を外した。目の前には腰の曲がった和服姿の老婆がひとり、座っている。皺の刻まれた顔には、深い悲哀が見てとれた。
「どうか、お願いします」
重ねて下げられた頭に、武彦は煙草を銜えたまま写真を手に取る。
美しい少女だ。
艶やかな黒髪を胸元で切りそろえ、伏せ目がちに微笑んでいる。ふっくらとした幼い輪郭、世の醜さなどまだなにも知らぬげな澄んだ瞳。陶器のような白い肌に、赤い絞りの着物がよく似合っていた。抱えているのは気に入りの人形だろうか。
娘、なのだという。
この写真を撮った直後――十の歳の頃、忽然と姿を消した。
目に入れても痛くないほどに可愛がっていた娘の喪失に、両親はわき目も振らず必死に捜し続けたが、何十年と経った今でも見つからない。
無理が祟って体を壊し、夫は十年ほど前に狭い病室で息を引き取ってしまった。
「どうか――……」
繰り返す老婆に、武彦は手を軽く上げて制する。安堵させるように笑みを向けた。
「できる限りのことはさせてもらいます」
なにぶん五十年以上前のことだ。手がかりなどろくになく、最悪の事態というのはおおいに考えられる。だが、それでも藁にも縋る思いで来たのだろう老婆を追い返すことは、人としてできない。
だれに頼むべきか――武彦は漂う煙を眺め、軽い頭痛を覚えた。
【1】
「五十年以上も?」
眉をひそめたのは、興信所でいつものようにボランティア――もとい、事務作業をしていたシュライン・エマだった。書類を整理していた手を止め、老婆が置いていった写真を机の上から取り上げる。
顔立ちの整った、赤い着物の少女。ひとり娘でこの愛らしさなら、両親はどれだけ慈しんでいたことだろうか。
質の良さそうな着物と簪、そして無垢な笑顔が愛されて育ったことのなによりの証のようだった。
「ああ。手がかりなし、だと」
武彦は短くなった煙草を灰皿に押し付け、新しい煙草に火をつけた。口に咥え、忌々しげに煙を吐く。
「どうにかしてやりたいが――」
武彦の心中を察し、シュラインは宥めるように微笑んだ。
「でも、引き受けたんでしょう?」
「ああ」
「なら、やるだけだわ。できることをね」
片目を瞑り、ウインクしてみせる。
武彦は傍らに立つシュラインを見やり、咥えていた煙草を口から離した。
「――行ってくれるのか?」
「ええ」
「難しいぞ」
「でしょうね……もしかしたら、依頼人をがっかりさせるだけかもしれないわ。でも、やれるだけのことはやってみる」
「そうか……」
助かる、という言葉に、シュラインは、いつものことよ、と微笑んで返した。
そこに、ふと声がかかる。
「何をしている」
見れば、いつからそこにいたのか、草間零に連れられてふたつの人影があった。零が、一応声をかけたんですけど、と苦笑する。
「邪魔しちゃった、かな?」
久しぶりに興信所を訪れた霞優舞は、シュラインと武彦の様子に気まずそうに身じろぎした。一方で、梅黒龍は興味なさそうに鼻を鳴らす。
「あぁ、いやいやいや」
なぜか動揺してむせる武彦に笑って、シュラインがふたりを迎えた。
「そんなことはないわ。いらっしゃい」
「あ、はい……お久しぶり、です」
シュラインの勧めで、ふたりはソファに腰を下ろす。零はその場を任せて、掃除の続きに戻っていった。
「その写真、なに」
黒龍の指摘に、シュラインは持っていた写真を素直に手渡した。思ったよりも古いその写真を見下ろして、黒龍は片眉を上げる。
隣から覗き込んだ優舞も、驚いたように瞬いた。
「これ、どうした、の?」
「捜し人よ」
「……何十年前の話?」
ようやく気を取り直した武彦が、こほん、と咳払いをする。
「まぁ、簡単に説明するとだな……」
「難しいを通り越して無茶だと思うけど」
一通りの話を聞き終え、黒龍が発した第一声はそれだった。
「まぁ、そうなんだがな」
「普通に生きてるなら、もういい歳だろうし、それで連絡なしなら理由あり……でなければ、事件に巻き込まれて、か」
「赤い着物で誘拐は目立つと思うの。やっぱり怪異……じゃないかしら」
「今まで手がかりなし、だもの、ね」
つくづく怪異と縁のある興信所だ。
そう思いながらも、だれも口には出さない。今更なにを、という気もした。
「まず、姿が消えたっていう庭に行くか」
「あ、わたしも、賛成。今も、同じ家で暮らしてる……の、かな?」
家は変わってないらしいが、と武彦が煙草を灰皿に押し付ける。
「行ってくれるか?」
「どうせ暇だからな」
「たしかに難しいかもしれない、けど、やってみなくちゃわからない……でしょ?」
ふたりの言葉に、シュラインは頷いた。
「じゃあ、三人で行きましょう。武彦さん、いい?」
「ああ、頼む」
そうして老婆に連絡を取り、後日、その家に向かうことになった。
【2】
濃い緑が銀の帳に霞んで見える。広さに反して、花の姿はほとんど見えなかった。
屋根を叩く音さえひそやかに、糸のような雨が降りしきっている。
「ここがそのお庭です、か?」
必要以上の音をたてるのははばかられて、優舞はそっと傘の下から問いかけた。縁側に佇む老婆の姿は、年経た家の大きさに包まれて、今にも消えてしまいそうに見える。その顔が小さく頷くのが見えた。
老婆が草間興信所を訪れたのは一週間前。一週間――その間、どんな思いで時間を過ごしていたのだろうか。
――ううん、一週間なんてものじゃない、ね。
五十年もの間、ずっと捜し続けていたのだ。優舞は瞼を伏せ、顔を上げると庭へと視線を向けた。離れた場所には黒龍が立っている。紺色の傘の下、なにを見ているのか首をめぐらせていた。
シュラインは、今は姿が見えない。調べたいことがある、と言ってどこかへ行ってしまった。そう遠くにはいないはずだ。
時代の流れに取り残されたような、古い家だ。建ててからゆうに百年は経っているという。塀に囲まれた庭は家と同じぐらいの広さで、こんもりと茂った草木で覆われていた。手入れはされているのか、雑草はほとんど見当たらない。
細い雨と静寂に封じられ、家も庭もまるで死んだかのようだった。
昔はきっと、美しい花や植物の生気、家族の笑い声で溢れていたのだろうに――
優舞は緑の葉を濡らす木々へと歩み寄り、その冷えた木肌に指を添えた。しっかりと根づいたそれは、当時からここにあったものだろうか。優舞は、愛しい人にするように微笑んでみせた。
「――美穂ちゃんのこと、覚えて、る?」
花が好きだっという娘――なら、庭の植物たちが覚えているかもしれない。なにか、知っているかも――。
優舞は瞼を伏せ、心を木々と繋げる。
沈黙を護っていた木は、静かな想いとともに声を返してきた。優舞はすこし驚いたように、その木を見上げる。
そのとき、がさ、と玄関のほうから音が鳴った。
「待たせたわね」
無地の傘を差し、シュラインが庭へと入ってきたところだった。老婆へと軽く頭を下げ、ふたりに、どう? と声をかける。
優舞が口を開くより先に、黒龍がシュラインを一瞥した。
「なにをしてたんだ?」
「周りを見てきたのよ。昔の地図と今の地図、とりあえず用意してきたけど、実際に歩いてみたほうが頭に入っていいわ」
「そう」
「そっちはなにかわかった?」
シュラインの視線に、黒龍はなにも言わず、縁側をちらりと見た。気づいたシュラインが目を細め、老婆に微笑んでみせる。
「そういえば、お嬢さんが大切にしていたものとか、まだ残っていますか? あるのなら見せていただきたいのですけれど」
「ああ――はい、はい。あります、もちろん残しておりますとも。持ってきましょう。どうか、お上がりになってお待ちください」
皺に囲まれた目をしばたたかせ、老婆は危うい足取りで家の中へと引っ込んでいく。
その姿がすっかり見えなくなると、シュラインはふたりへと視線を戻した。
「それで?」
「あ、あの……」
優舞は木々から手を離し、遠慮がちに声を上げる。
「……連れて行かれた、って」
庭にひっそりと佇む古木は、たしかにそう告げた。庭で遊んでいた娘を引っ張り、連れていってしまったのだ、と。
「連れて行かれた? だれに――」
問いかけたシュラインの声を遮るように、淡い光がやわらかく広がる。振り返れば、黒龍が虚空になにかを浮かべていた。
どこから現れるのか、黒龍の動きに合わせて、ひとつ、またひとつ、支えもないのに爪ほどの大きさの玉が虚空に浮かぶ。それらの玉がある形を作ると、黒龍は胸の前で手を組んで祈るように瞼を伏せた。
時計座――ややあって、シュラインはようやくその形を思い出す。
黒龍がなにか呟いたかと思うと、光が広がり、周囲の景色がゆらりと歪んだ。雨が唐突に途切れる――いや、降っている。傘にはたしかになにかが当たっているのに、視界に雨粒が映らない。
それはなにかを通したような、すこしぼんやりした風景だった。
美しい花が咲き零れる庭。光の差し込む明るい家。天から注ぐ陽光に、緑が淡く輝いている。
その風景の中央に、人形を抱えて花を眺めている少女の姿を認めて、優舞は危うく声を上げかけた。
音は聞こえない。
けれど、その美しい少女は笑っていた。花に声をかけ、目を細め、なにかの妖精のように笑みを咲かせる。
縁の下でその娘を眺めているのは、かつての老婆だろうか。白髪ではなく、豊かな黒髪を頭の上で結った母親。
やがて、来客でもあったのか、母親は玄関へと顔を向けて家の中へと消えていく。
娘はそれを見送り、すぐに花へと視線を戻した。ふと、なにか見つけたのか空を仰ぐ。
その背に、突然黒い腕が伸びた。
毛むくじゃらで、長い爪を持ったその腕。虚空を裂いて現れ、娘の襟を捕らえるとそのまま引きずり込む。
驚いた娘は人形を取り落とし、声を上げる間もなく――
さぁぁあああ
音が蘇った。同時に、ぼやけていた風景がかき消え、雨に濡れる暗い庭が戻ってくる。
「今の、は……?」
優舞は何度も瞬き、周囲を見回した。
「――マイナーな星座にしては、上出来だな」
黒龍はそう呟いた。気づけば、虚空に浮かんでいた玉が消えている。
「連れていかれたのは間違いないな。何者かは知らないけど」
「……さっきの腕――あれが犯人ね」
シュラインの言葉に、黒龍が頷く。時計座は、時間を遡って過去を映すことができる。虚空から現れた腕は、空想の産物などではありえない。
そうしているうちに、物音がした。老婆が戻ってきたのだ。
三人は顔を見合わせ、どちらともなく頷いた。老婆にはまだ、黙っていたほうがいい。
どうぞお上がりください、という声に促され、三人は庭から居間に上がりこんだ。
老婆が持ってきた木箱の中には、あの人形が収められていた。
写真の中で抱かれていた人形。そうして、庭で娘が落としてしまった人形。
艶やかな黒髪が腰のあたりで揃えられた日本人形で、だいぶ色褪せてはいたが、花柄の着物を身につけていた。
「娘が大切にしていた人形です……あのとき、これだけが庭に落ちていて」
語る老婆の口調は暗い。
老婆を気遣いながら、シュラインは口を開いた。
「娘さんが行方不明になられたのは、いつのことですか?」
「……夏の終わり頃でした。よく晴れたいい天気で」
庭にはダリアが大輪の花を咲かせていた。
娘は大振りのその鮮やかな花が好きで、娘の簪もダリアを象ったものだったという。
特に、赤い花が好きだった。
「もともと、私も花を育てるのが好きでしたから……ご近所の方に株を分けてもらったりもして」
「そうですか……他に、近くでこういった事件が起こったという話は?」
「さ、ぁ……川に子どもが落ちた、とか、森に迷い込んで……というのは、たまに聞きますけどねぇ」
もともと、この老婆はこの地で暮らす者ではなかった。結婚し、違う場所からここに嫁いできたのだ。
神隠しの噂を聞いたような気もしないではなかったが、娘を捜すので精一杯で、よく覚えていない、という。
「娘さんが着ていた着物や簪は、どこで購入されましたか? それと――だいぶ古い家のようですけど、建ててから何年ぐらい経っているのでしょう」
一度に思い出そうとなさらなくても大丈夫ですから、と宥めるように告げる。
老婆は目を細め、沈んだ記憶を手繰り寄せるように遠くを見つめた。
「……着物は、代々この家に伝えられていたものでした。数代前の娘さんのために仕立てたものだったとか……簪は、夫が貯めたお金で買ったものです。この近くにあった骨董品のお店で――今はもう、潰れてしまいました」
代々伝えられてきたこの家は、築百五十年だという。何度か改築をし、今に至るのだ、と。
思案するように黙り込んだ三人を前に、老婆が不安げな表情を浮かべる。
「あ、あの、お願いします……お願いします、どうか」
縋るように手を合わせられる。
「――大丈夫です。きっと、なんとかしてみせますから」
自信はあまりなかったが、態度に出しても仕方ない。シュラインは強い笑みを返した。
【3】
一通り家を見せてもらった後、三人は老婆の家を辞した。
運良くインターネットを完備した図書館が地元にあると聞き、そこへ足を向ける。あとは地道に調べていくしかない。
手分けして、神隠しの噂やダリアに関わる逸話があるかどうかを確認する。
最近建て変えられたというその図書館にある資料は膨大で、その中から探すのは骨の折れる作業だった。
「なにかあった、の?」
書籍をあたっていた優舞が、黒龍が睨むパソコンの画面を覗き込む。それは、どこかの掲示板だった。
「これ」
黒龍が示す先を追って、優舞は、あ、と声を上げる。
『――のあたりには、神隠しがあるらしいですよぉ! ドキドキ』
『なにソレ、だっせぇ』
『昔話にあるやつ? 隠し鬼ー♪ って』
地名は、まさに今三人がいる、このあたりだ。
「隠し鬼……?」
優舞が首を傾げると、背後でシュラインが机にどさりと本を置く音がする。
「それって、これのことかしら」
優舞と黒龍が振り返ると、シュラインが今しがた棚から持ってきたらしい山の中から、一冊の本を取り出した。
民話集、と書いてある。
このあたりに古くから伝わる昔話をまとめたものだ。
シュラインがページをめくると、『かくしおに』のタイトルが現れた。
「ええと、内容は……」
昔々その昔、優しい鬼がおりました。
けむくじゃらのその鬼は、ひとりぼっちでいつも寂しがっておりました。
村の子どもたちと一緒に遊ぼうとすると、「鬼が出たぞ」と逃げられてしまうのです。
寂しくて寂しくて、鬼はいつも泣いておりました。
そんなある日、赤い着物の女の子がやってきました。
「おにさん、おにさん、どうしたの?」
「泣いてるの」
「どうして泣いているの?」
「さみしいんだもの」
「どうしてさみしいの?」
「だって、だれも遊んでくれないんだもの」
「じゃあ、わたしが遊んであげる」
優しい女の子は、笑って鬼の手を取りました。
鬼は喜んで、女の子と毎日毎日遊びました。
けれども最後の日、かくれんぼをしていた鬼は女の子を見つけることができませんでした。
おいおい泣いた鬼は、あちこち探して回りますが、どうしても女の子を見つけることができません。
女の子はとうとう見つからず、鬼はひとりぼっちになりました。
「そうして鬼は、子どもを見つけるとその女の子と勘違いをして連れていってしまうようになったのです……」
読み終え、シュラインは本を閉じる。
解説の項には、子どもが遅くまで出歩かないようにしつけるため、親によって作られた話だろう、と書かれていた。
「赤い着物の、女の、子」
行方不明になった少女は赤い着物を着ていた。
その話だけなら、ただの子どもに聞かせる民謡だが――。
「隠し鬼といえば……塚があったわね」
思い出したように、シュラインが懐から地図を取り出す。机の上に広げ、一点を指差した。
「ここ。近くを歩いたときに見たの。なにもない塚だけど、鬼之塚、って彫ってあってね。変わった塚だと思ったわ」
あの家からは、そう離れていない。
「塚か……」
黒龍は呟くと、キーボードになにか叩き込む。再び画面とにらめっこを始めた黒龍を横目に、優舞は邪魔にならないようにそっと離れた。
シュラインはシュラインで、書物の山と格闘している。
優舞は自分も手伝おうか、と机に歩み寄りかけて、ふと立ち止まった。視界の端に、新聞を読みふける老人の姿がある。
たぶん、地元の人だろう。
すこし考え、優舞はその老人のほうへと歩いていった。驚かさないように、控えめに声をかける。
「あ、の……」
老人は気づかない。
ためらった後、優舞はそっと老人の肩を叩いた。
「ん?」
「あ、あの……ちょっと、いいです、か?」
驚いたように瞬く老人に、内心申し訳ないと思う。だが、そんな優舞の心配をよそに、老人は皺だらけの顔に人のいい笑みを浮かべた。
「おお、なんじゃなんじゃ、べっぴんさん」
「え、あ、ええ、と」
隣の席を叩かれ、勧められるままに腰を下ろす。
「地元の方です、か?」
「おお。生まれも育ちもここじゃ」
「あ、じゃあ……鬼の塚、って知ってます、か?」
「鬼? あー……ああ、あれじゃな。知っておるよ。なんでも、昔にそこで鬼が死んだという話じゃが」
「死ん、だ?」
「おう。そういう言い伝えじゃな。詳しいことはわからん」
だから鬼の塚、なんだろうか。
後はシュラインや黒龍が調べてくれていることだし、と思い、優舞は話を変える。
「じゃあ……えっと、ダリアについて、なにか言い伝え、とか」
「ダリア?」
「えっと……」
簡単に花の説明をすると、老人は思い出したように頷いた。
「ああ、あの花か。ダリアっちゅーのか。昔はけっこう、あちこちに生えておったぞ」
「そうなんです、か」
「おう。あんまり縁起のいい花じゃないんだがの」
老人の言葉に、優舞は首を傾げる。少なくとも優舞は、ダリアにまつわる不吉な噂などは覚えがない。
「なんでも、毒があるとかで……それを食った娘が昔、死んだそうじゃの」
本当に毒があるかどうかは知らないがのぉ、と老人は禿げ上がった頭を撫でた。
「そうなんですか……かわいそう、ね」
「そうじゃのぉ。言い伝えでは、年端もいかん娘だったそうじゃよ」
頷く老人に、優舞は、ありがとうございました、と頭を下げる。老人は気にしていないように朗らかに笑った。
「いいってこった。若者の役に立てるならなぁ」
再び新聞を広げる老人から離れ、優舞は机に戻る。区切りがついたらしいシュラインが彼女を出迎えた。
「なにかわかった?」
シュラインの問いかけに、すこしだけ、と優舞は聞いた話を口に出す。
「そう……私が見つけたのも、だいたいそんなところね。死んだ鬼の祟りを恐れて、塚を立てたって書いてあるわ」
見つけた記事を指でなぞり、シュラインは次いで黒龍へと視線を投げた。
「そっちは?」
「――ちょっとした心霊スポットになってるみたいだな。掲示板で噂になってる。鬼が出る、って」
「花は――ダリアは、関係あるの、かな」
「きっかけになった可能性はあるけれど……確証はないわね」
「それと……調べてみたんだが、このあたりでは昔から神隠しが多いらしい。ここ数十年はそうでもないらしいが、昔はそれなりに頻発してたそうだ」
気づいていたか? と黒龍が問いかける。
「このあたりは、赤い服を着てる子がいない」
その指摘に、ふたりは、はっとした。図書館を訪れている子どもたちの中にも、鮮やかな赤を着ている子はいない。
「神隠しにあうのはことごとく赤い服を着た子どもなんだ。それで、そのうち赤い色は疎まれるようになったらしい。今では、地元の店に赤い服や生地は置いていないそうだ」
町の人はそれに慣れてしまって、もう疑問にも思わない。
伝統のある古い町らしい、閉ざされた習慣だ。
他の町から移ってきたという老婆がそのことを知らなかった可能性はおおいにあり得る。
「でも、あの着物は……昔から、あの家にあった、って」
「ずっとしまってたんじゃないか。見つけた娘にでもせがまれたか、もったいないと思って着せてやったかは知らないが」
「後でもう一度聞いてみましょうか」
「そう、だね。――塚、行ってみる?」
他に手がかりがあるわけでもない。
「そうね。行ってみましょう。朝行ったときにはなにも見当たらなかったけど――なにか、あるかもしれないわ」
頷くと、三人は情報収集を一度切り上げ、その塚へと向かうことにした。
【4】
逢魔が時。
薄く紫をぼかしたような空の下、三人はゆるやかな坂を下っていった。昼過ぎまで降り続いていた雨は止み、水溜りも乾いて見当たらない。
古びた家を囲むように、小奇麗な家が立ち並ぶ閑静な住宅地だ。
近くの社に巣でもあるのか、ときおり、空に蝙蝠の影が見えた。
「ここよ」
シュラインが立ち止まると、その先の道端に埋もれるような古い塚がひとつ、立っていた。風化して丸くなった角や、磨り減った文字が年月を物語る。
立てられた石板に、鬼之塚、とそれだけが記されていた。
周りは塀ばかりで、なぜこんな場所に、と思ってしまう。
「古いな」
「少なくとも百年はここにあるらしいわ。もっと古そうだけれど」
「だれもいない、ね……」
見回すが、猫一匹見つからない。色を濃くしていく闇の中、町ごと沈んでしまったかのようだった。
寒気を覚えて、優舞はぶるりと肩を震わせる。
「特になにもないわね……」
シュラインは塚に歩み寄り、そっと指先を硬い石に触れさせる。冷たい感触と、それとは別に、なにか背筋を這い上がるようなかすかな感覚が襲ってきた。
眉をひそめ、手を離す。なるほど、心霊スポットだというのはあながち外れでもないらしい。
とんっ
ふと背後になにかがぶつかり、シュラインは反射的に振り返った。見下ろすと、黒髪の女の子が驚いたように目を開いている。
「あら、お嬢ちゃん、ごめんなさいね。走ると危ない――」
笑いかけて、その顔を凍りつかせた。
少女の髪には、花の簪。夕闇に溶ける赤い着物――
「シュラインさんっ! その子――!」
「…………!」
気づいた優舞と黒龍も驚愕に顔を歪める。
美しい少女。その顔は。
「まさか――」
三人が驚きを露にすると、逆に少女は落ち着いたようだった。不思議そうにシュラインを見上げ、その手をくぐり抜けて離れてしまう。
「みんなが待ってるの。お人形さん、とってこなきゃ」
鈴を転がすような声でそう言うと、少女は着物を着ているとは思えないような軽やかな足取りで駆けていく。
衝撃から立ち直った三人は、慌ててその後を追った。
写真と同じ顔の少女。
同じ簪、同じ着物。
「――どういうこと、なの!? だって……!」
あれは五十年以上も前の写真で。
優舞への答えを、ほかのふたりは持っていなかった。いくつもの角を曲がり、少女の背を追いかける。
おかしい。
まだ幼い少女にしては、足が速すぎる。その背は見る間に小さくなって、距離は広がる一方だ。なのに、少女はほとんど足を動かしているようには見えないのだ。
息を切らせ、三人がようやく辿りついたときには日はとっぷりと暮れていた。
肩で息をしながら、黒龍は悪態をつく。咄嗟のことなので思わず走ってきてしまったが、よくよく考えれば、玉に乗って空を駆けてくればよかった。そのほうが速かったろうに。
額に浮かんだ汗を拭いながらシュラインが顔を上げると、そこには見覚えのある家があった。
「……依頼人の家ね」
夢中で追ってきたが、少女が本当にここに来たという自信はない。家に入る姿を見る前に、見失ってしまった。
だが、扉はいましがただれかが通ったというように、隙間を開けている。
「……入ってみましょう」
シュラインの言葉に頷き、三人は一応声をかけてから家の中へと入った。老婆は出かけているのだろうか、しんとして人気がない。
歩くごとに、ぎし、と床が軋んだ。
「だれかいる、の?」
おそるおそる、優舞が声を上げる。暗闇に沈む古びた家屋は、それだけでどこか恐ろしい。
居間を覗いたシュラインが、その足を止めた。表情に険しいものが混じる。
違和感を感じて駆け寄った優舞と黒龍は、シュラインの視線を追ってそれぞれ息を呑んだ。
空の木箱を足元に、佇んでいるのはあの少女だった。大事そうに人形を抱え、微笑んでいる。
その少女の傍ら、暗がりにぼう、と異形が立っていた。
大人ほどの背丈の、全身が黒い毛に覆われた化け物。ひょろりと伸びた足と手の先には鋭い爪があった。口は大きく、白く浮かぶ巨大な目はひとつきり。
その表情の窺えない目が、三人を無言で見つめ返してくる。
「鬼……?」
応じる気はないのか、それは無感動に目をそらした。その異形に、少女が可愛らしく笑いかける。
少女の小さな手が異形の鉤爪に伸びるのを見て、優舞は思わず飛び出した。
「だめっ!!」
無我夢中で、少女の華奢な体を腕に閉じ込める。同時に地を蹴ったシュラインは、見事な回し蹴りを異形に叩き込んだ。
追い討ちをかけるように、虚空から現れた巨大な獅子が異形を庭へと突き飛ばす。
気がつけば、黒龍の周囲に獅子座を象った玉が浮いていた。
庭に転がった異形を、獅子が唸り声を漏らして睨みつける。主人の指示ひとつで相手を噛み砕こうとでもするように、牙を剥いた。
異形はのそりと上体を起こし、無表情にそれらを見返す。驚いているのか、怒っているのか、それさえもわからない。
そういった感情がないのか、と疑い出した頃、背後から思わぬ声が上がった。
「――美穂?」
まずい、と三人の体が強張る。
老婆は持っていた買い物袋を落としたことにも気づかず、のろのろと部屋に入ってくる。黒龍は苛立たしげに舌打ちした。
「おい、貴様――」
「待って、黒龍さん……!」
思わず地が出た黒龍を制し、優舞が指差す。見れば、庭にいたはずの異形の姿がない。目標を見失って戸惑う獅子が、主を仰いでいる。
「消えた……?」
庭へと下りて視線をめぐらせるシュラインに、黒龍は嘆息とともに玉を消した。浮かんでいた玉が消えると、金の毛並みに包まれた獅子もまた、かき消える。
優舞の腕の中には、いまもまだ少女が捕らわれている。不思議そうに、あるいは驚いたように、その目は庭を見つめていた。
優舞自信も困惑を覚える。咄嗟に飛び出してしまったが、はたしてこれでよかったのか。
――この少女とあの化け物は一体……。
「美穂……? 美穂なの?」
周囲の心境をよそに、老婆は涙に震える声で少女の傍らに膝をつく。少女の瑞々しい肌に、おそるおそる皺だらけの手を添えた。
「……おばあちゃん、だぁれ?」
少女はようやく老婆を見、不思議そうに問いかける。庭から戻ってきたシュラインが首を振るのを見ると、優舞はそっと少女を封じていた腕を放した。
「美穂なのね?」
「あたしは美穂だよ。でも、おばあちゃん、だれ?」
少女の時間は止まったままだったのだろうか。だとしたら、老いてしまった母がわからないのも無理はないのだろうが――。
老婆はたまらなくなって、少女の体を抱きしめた。その目からはとめどなく涙が溢れている。
「美穂、美穂……! ああ、そうだとも。間違いない、お前だわ。美穂……! どんなに会いたかったか……!!」
少女はされるままに、抱きしめられている。
「美穂、私がわからないかい? お母さんだよ……こんなにしわくちゃになったけど、お前のお母さんよ……」
「……おかあ、さん?」
「そうよ、そうよ……」
「…………」
その言葉が少女にどんな感慨を抱かせたのか、わかる者はいなかった。ただ、美穂と呼ばれた少女はおとなしく老婆の腕の中におさまっていた。抵抗もせず、拒絶もしなかったが、老婆を抱き返すこともまた、しなかった。
「おかあさん、なんで、泣いてるの?」
不思議そうに、そう問うのだった。
【5】
「……そりゃまた、唐突だな」
武彦の感想はそれだった。
釈然としないものの、三人は老婆に何度も頭を下げられ――なにもしていないのに礼をされるのは、どうも落ち着かない――あの家を立ち去った。
少女はごくおとなしくしていたし、一晩見ていたが、異形が現れる気配もなかったのだ。
娘が戻ってきたのなら、もうすることはない。
「……と、いっても――」
腑に落ちない。
なにかが頭の隅に引っかかって、気持ち悪かった。
「でも、娘さんが戻ってきてよかった……よね?」
「それは、そうだろう」
よかったか悪かったかと言われれば、よかったに決まっている。怪我のひとつもなく、娘は無事だったのだ。
沈黙が下りた室内を、紫煙が漂う。
「ま、まぁ、なにかあれば連絡がくるさ」
「そう……よね」
「そうだな」
「でも……」
優舞が言葉を濁らせる。
察して、それぞれの顔に陰が過ぎった。
行方知れずになって五十年。
まだ、あの少女は人間なのだろうか――?
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●登場人物
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【整理番号 / PC名 / 性別 / 年齢 / 職業】
【0086/シュライン・エマ/女/26歳/翻訳家&幽霊作家+草間興信所事務員】
【1574/霞 優舞(かすみ ゆうま)/女/20歳/特殊薬剤調合師】
【3506/梅 黒龍(めい へいろん)/男/15歳/中学生】
(参加順)
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●ライター通信
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参加PL様
大変お待たせしました。
参加してくださいまして、ありがとうございます。
全員共通の内容となっています。
プレイングをすべて反映させる……には足りなかったのですが、それぞれの性格が出ていればいいなぁ、と思います。
さて、前編はこれで終了です。
よろしければ、後編にもご参加くださいませ。
また機会がありましたら、精一杯頑張らせていただきます。
雪野泰葉
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