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予感
男は一人だった。
いや、彼の周りには様々なものが立っていた。彼と同族であるはず人間、もはや人とは呼べぬものと化したもの、そもそも人ではないもの…実に様々な。
しかし、それでも彼は一人だった。なぜならば、その全てが彼の存在というものを消そうとしていたから。
誰一人として、味方と呼べるものなどいない。
しかし、それでも彼は――。
* * *
きっと、そこまで強く想うのは、彼自身生まれて初めてだったのだろう。
純粋に、何かを守りたいと想う気持ち。それが、ただ彼を突き動かしたのだろう。
一つの洞窟があった。その中に、祠があった。
暖かい光が、洞窟の中を照らす。ふっと、安らげる光。
彼は、そこにいた。
何かをじっと見つめ、普段は絶対に見せない表情を浮かべた彼は、どことなく不思議で、そしてあるものに包まれていた。
自分が今までずっと見続けてきたもの。
『死』
彼はまだ生きている。しかし、その死の予感は私の中で沸々と生まれては消えていく。
不思議な感覚だった。
彼は、確かに私の存在に気付いていた。そんな彼が、小さくふっと笑う。
「……見ていてくれ」
その表情は酷く穏やかで。死の予感が消えぬ彼から、私の視線は動かなくなる。
一方的な申し出ではあったけれど、私は小さく頷いた。
しばしの時。音が鳴り響いた。
最初、洞窟に大きな音を響かせたのは、一匹の鬼だった。
御伽噺に出てくるようなものではない、無骨に負のイメージをただ体現したかのような異形。
普通の人間なら、その声を聞いただけで身を竦めそうなその存在に、彼は姿を確認することすらせずに走り出した。
醜悪な叫び声が、洞窟の中を揺らす。振るわれた一撃が、彼の左肩を抉った。
しかし、その痛みに表情も変えず、彼は手を振るう。そうして生まれたもの、彼の魂を削り、敵を滅ぼす光――。
そうして生まれた光が、鬼を一刀の元に斬り捨てた。断末魔をあげる暇すらなく、鬼は消滅していく。
「ぐっ…ぅぁ…」
ただの一撃、しかし魂を削っての一撃は、彼に堪え切れない痛みを与えているようだった。恐らくは、身体的なものではなく、精神的な、己の裡からやってくる痛み…。
しかし、それにすら彼は耐えて、立ち上がった。そうして、またあの不思議な光を放つ祠の前に立つ。
愚直だった。ただ、ひたすら。
その祠を守るためだけに、彼はそこに立つ。何故、そこまでする必要があるのだろうか?
そんなことを思う私の前で、また彼が駆け出した。
見れば、入り口から無数の侵入者がやってきていたのだ。
よくわからない、半透明でただ怨さの声を上げ飛び掛るものたち…所謂怨霊と呼ばれるもの。
一つ一つの力は先ほどの鬼よりに劣るかもしれないが、その数は明らかに多く…しかし、それも関係なしに、彼の刃がそれらを払っていく。
それらが彼に傷つけることがなくても、彼は一人で勝手に傷ついていく。魂を削るとは、そういうことなのだ。
あぁ、一つ振れば痛みに顔が歪み、一つ振れば髪が一房白くなり。
それでも彼は、振るう、振るう、振るう――。
息が上がり、肩で息をする彼の前に、今度は一人の男が現れた。
漆黒の衣、漆黒の髪、闇だけを映す漆黒の瞳。まるで、闇そのもの。
その中で、ただ一つ白いのは、彼の手に握られた短く、機能性だけが磨かれた刃。
キラリと、小さく光る。同時に、彼の耳が削げ落ちた。
殺し屋。ただ、殺す術だけを磨き振るう男が、宙を舞った。それは自分の意思ではなく、彼の意思によって。
白い刃が殺し屋の真ん中を貫き、命を奪う。そして、同時に彼の命をも確実に奪っていく。
「ぎっ…がっ…!?」
あまりにそれを振るい続けた代償か、耐え切れぬ、やまぬ痛みが彼の中を走る。どうしようもない痛みは嘔吐感となり、彼の口から吐瀉物となって吐き出されていく。
しかしそれでも――まるで許されない罪人の如く、彼の戦いは終わらない。
そうして、次に現れたのは、随分と今までとは趣の違う、真っ白な服を着た集団だった。
黒く高い帽子の様なものをかぶり、手には札を構え、何かを唱える。
確か、日本という国に古くから存在すると言われる、連綿と続く異形を狩る者たち――退魔師。彼らがそうなのか。
しかし、彼らの目の前にいるのは、持つ力こそ常人のそれではないが、それでも人間だ。そんな彼に、彼らは容赦なく術を浴びせかける。
かつて、言葉には力が宿るとされた。それは何も間違いではなく、真実だ。そして彼らの紡ぐ言葉は、炎となり雷となり風となり、彼の体を包み破壊していく。
皮膚が爛れ、焦げ、凍り、引き裂かれ――しかし、それすらも彼の動きを止められず、光が舞う。
あぁ、あんなにも多くいた退魔師たちは、その数をどんどん減らされていく。
「ぐぅあぁぁぁぁぁぁぁ!!」
己を鼓舞するための叫びか、それとも裡からくる痛みに耐え切れなくなったか…彼は、雄たけびをあげた。
それは、何処か消える寸前強く燃える蝋燭にも似ていて、私にはただ儚く聞こえた…。
* * *
それからも、『訪問者』は絶えなかった。
ありとあらゆるものが訪れ、彼の前にたつ。そして、その度に彼はあの光の刃でそれらを薙ぎ、斬り捨てていった。
その光景は、まるで世界の全てが彼の死を望み、そして彼がそれを必死に否定しているようでもあった。
ドラゴンと呼ばれる幻想種の鋭い牙が、彼の左腕を引きちぎった。同時に、太く長い首が飛んだ。
魔術師の放つ魔法が、彼の右足の肉を裂き、骨を砕け散らせた。その右足を自ら斬捨てて、魔術師を真っ二つにした。
最早まともに動けぬ彼の両目を、何かが穿った。見えぬ光に未練はないかのように、彼はそれでも刃を振るい続けた。
そうして、無限とも言える一瞬が過ぎていく。
「……」
最後の一つが、消えた。最後まで残っていた、彼の左足と右腕と引き換えに。
最早支えるものがなく、ただ崩れ落ちるだけの彼の体が、私に向かって倒れ掛かってきた。思わずそれを受け止める。血の生ぬるい感触が、服に染みていく。
随分と小さくなってしまった彼を、そのまま壁にもたれかけさせるように寝かせる。
目の前に横たわる彼は、既に他の生き物のようにも思えた。
目は潰れ光を遮り、四肢は裂け散り既にない。出血は止まらず、ただただ赤い流れを大地に描く。
それでも、まだ死んではいなかった。
先が長くないことは、誰が見ても分かること。それでも、今はまだ生きているという事実に、何故か私は少しだけ感謝をしてしまう。
「…随分とボロボロになってしまったのですね」
言わずとも分かりきったことなのに、どうしても言葉にしてしまう。そして、彼はその言葉に小さくふっと笑うのだ。
もう、時間はない。笑うということは、きっとそういうことなのだろう。そこまできて、私は彼に会いにきた本当の目的を思い出す。
「約束は果たしました。魂を頂く約束を果たして下さい」
恐らく、意味はないだろう。彼の魂は磨り減り、ほとんど残ってはいない。そんなことは分かっている。
それでも、それを分かっていても。私はそうしなければならなかった。
それは、彼とは違う場所で交わした約束だから。
彼は、また小さく笑った。あぁ、なんて綺麗な笑みなんだろうか。
「……残りカスで良いのなら、持っていけ」
そういって、彼は先のない右腕をあげた。
小さな光が、彼の腕から宙に舞う。本当に小さな光は、何よりも美しく尊かった。
それは、彼の魂の光。その光が、私の前で儚く消えた。線香花火のように、予告もなく、ふっと。
とすっと、何かが地面に落ちる音が小さく響く。彼の腕が、動かなくなっていた。
彼の体をそのまま横たわらせる。もう動かない体は、ただ小さく見えた。
「…嘘つき」
彼は、結局最後まで約束を果たさなかった。果たさずに逝ってしまった。
そのことが、何よりも腹立たしくて、悲しかった。
きっと今、自分の目から流れているものは嘘ではない。何故流れてしまうのか、不思議だった。
この祠の光は、私にとって暖かすぎる。それに、きっとここには彼以外いてはいけない。そう思えた。
だから、私は彼をそのままに、その祠から飛び立った――。
* * *
「…っ…」
ベルティア・シェフィールドの瞳を、白く強い光が襲った。急にきたそれに、ベルティアは一瞬眩暈のような感覚を覚える。
幾ら彼女が人ではない存在であったとしても、朝は平等なのだ。
「…朝、ですか…」
それまで見ていたものとは全く違う光景を確認しながら、彼女は一人呟いた。
まだ冷め切らぬ頭を揺らしながら彼女は立ち、壁にその身を預けながらあの夢をもう一度考える。
あの夢は、一体なんだったのか。
あんな光景は、今まで一度たりとも見たことはない。
不思議で、暖かくて、凄惨で、綺麗で――。
「あぁ…」
そこで、彼女は思い出す。まだ見たことはないはずなのに、
「地獄とは、あぁいうものなのですね」
何故か、そう思えた。
翼を使い飛び立たずとも、彼にはすぐに出会える。なぜなら、彼女と彼は今一緒の場所で寝泊りをしているのだから。
別段、男女の関係などという色っぽいものではない。成り行きなのだ。
だから、彼女は歩く。彼を見るために。
見るために? 何故見る必要がある。
「そんなこと、最初から分かりきっています」
誰に言ったのか。己に言ったのか。よく分からない呟きをもらし、彼女は歩く。
白い太陽の下、今日も山崎健二は一人草引きをしていた。それが日課であり仕事なのだ。
その彼を見て、ベルティアはハッと思わず息を呑む。
「…なんだ、死神でも見たような顔をして」
「い、いえ…」
「…ならいい」
そっけなく返し、また健二は続きを始めた。そんな彼の傍にベルティアは寄れず、足早にその場を立ち去った。
「ハッ、ハッ……っ」
健二の姿が見えなくなる距離まで歩いて、やっとベルティアは立ち止まった。随分と息が荒く、顔色も悪い。
「何で…」
何か、己の中から湧き上がってくる嫌なものを感じ、ベルティアは胸の辺りを強く掴む。呼吸を落ち着けるように、一度深呼吸を行い、彼女は空を見上げた。
「あれは、夢だったはず…」
独白のような呟きをもらしてもう一度大きく息を吸い、吐いた。
彼女は、健二を見た瞬間に、あの夢の中の感覚を味わったのだ。
即ち、『死』の感覚。
「…そういう、ことなのですか?」
また呟きが漏れる。それに答えるものは、いない。
つっと、一筋の光が彼女の頬を伝う。望んでいたはずなのに。望むべきことなのに。
それが予知だったのか、それとも予感だったのか。それは、彼女自身分からない――。
<END>
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