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<東京怪談ノベル(シングル)>


責任回避および逃亡における、正当なる糾弾。


 秋の気配などまるで存在しない、残暑と呼ぶにはあまりにも暑すぎる東京の九月。
 シュライン・エマは、妙にがらんとしている草間興信所でひとり、ひっそりと溜息をつく。
 立て込んでいた翻訳の原稿を終えてようやく顔を出してみれば、いるはずの所長がどこにもいない。
 行く旨はちゃんと伝えた。
 なのに、いない。
 そして、目についたのは意味ありげに作業用のテーブルの上に乗せられている茶色の封筒。
 封のなされた給料袋が何故そのまま放置されているのか、それについてちらりと浮かんだ疑問は、疑惑に成り代わり。
 シュラインは静かに思考を巡らせる。
 ここのところ、興信所ではそれはそれは見事な閑古鳥が鳴いていた。
 にも拘らず、ここ一週間ばかり朝から連絡が取れない日が続いている。
 しかも、今日が給料日当日にもかかわらず、何故か一切の事務処理の要請が来なかった。
 訝しんで昨日の段階で連絡を取ってみたが、電話口での草間武彦の言動は不自然に浮ついていたように思う。
 彼の机を覗き混めば、そこには実に丁寧に折り畳まれた派手なチラシが一枚。
 つい最近整理したばかりのファイルが、棚から一冊だけ斜めに飛び出ていた。
 そのうえ、どういうわけかカタコトなら言葉を喋れるようになった夕日色のコクマも、定位置の棚から姿を消している。
 以上を推理材料として考えてみると、この部屋がもぬけの殻であるという現状に対する答えは簡単に導き出されて。
 シュラインは自分の推理の正しさを確認したくはなかった。
 だが、彼女の類稀な『探偵としての素質』と『事務員としての義務感』がそれを許さなかったのだ。
 誰もいない。
 何もない。
 嫌な予感は確信に変わりつつあった。
 それでもまだ、彼女はどこかで武彦を信じたかったのだ。
 まさか、そんなはずはないと思いたかった。
 しかし。
 封筒を手に取り、雑多に積み上げられた備品の中からカッターを探し出し、キレイに開封した彼女の目を直撃したモノは――

『すまん! くさま』

 衝撃に、視界が真っ白になる。
 力の抜けた長い指からひらひらと頼りなげに床へ落ちていくのは、あまりにも薄っぺらな一枚の白い紙。
 初めて見たといっても過言ではない代物。
 怒り、などというものではない。
 そんな単純なものではない。
 本来ならば、自分はこんなことでショックなど受けなかっただろう。どこかで、この事務職はボランティアだという意識もある。
 だが。
 だが、やむにやまれぬ事情ではけしてない、それが分かってしまった。
「武彦さん、今どちらにいらっしゃるのかしら?」
 ふふふ、と小さく漏れる笑みに含まれた凄みを見る者がいなかったのは幸いというべきか。
 いまや興信所の古参にして、数ある難事件を解決に導いた優秀なる司令官は、静かなる怒りを燃やしながらその研ぎ澄まされた感性と秀逸な頭脳をフル回転させる。
 武彦の思考、行動のパターンについては長い付き合いの中でかなりのデータが蓄積してあった。
 居場所を割り出すのにそう時間は掛からない。
 あらためて周囲を見回し、必要な情報を拾い上げた上で時計を確認する。
「……午後2時……これなら……そうね。たぶん、そうなるわ……それに、これ……」
 唇からこぼれていくのは、正解に至るまでの思考の僅か一端にすぎない。
 そして、シュライン・エマは床に落ちた白い紙切れを丁寧に折って茶封筒に収め、内ポケットにしまいこむと静かに興信所を後にした。


 そもそも、だ。
 そう、そもそもの発端は3週間前のあの何気ない一場面なのである。
 シュラインはこれまでの調査依頼をひとつひとつ整理しながら、ふとそのひとつに目が留まった。
「あら、これ」
「どうした?」
 思わず漏れた呟きに、武彦が顔を上げる。
 散らかすだけ散らかして、何もせずに煙草をふかしている彼をたしなめるように軽く睨んでから、シュラインは手元の資料を繰っていく。
「小さな事件だからこそ、完全な解決が出来なかったってモノが割りと多いと思って……」
「どういうことだ?」
「これなんかもそうなんだけど」
 そこに記されているのは、早朝から何故か家を空け、夜になるまで帰ってこない日が続く妻の素行調査を依頼するものだった。
 いつもどこで何をしているのか。
 そして気付くと家の中では、いつのまにか高価な品物が消えていて、いつのまにか見たことのないロゴの入った品物が増えていた。
 これが意味するものはなんなのか。
 浮気か。新興宗教か。それとも詐欺なのか。犯罪か。
 結局、『怪奇探偵』絡みで扱う大掛かりな事件に比べ、調査も、そして終わり方も些か地味だったという印象は拭えない。
 だが、それゆえにじわじわと、何ともすっきりとしない、厭な感じがいつまでも付きまとっていたのも事実なのだ。
 彼女は浮気などしていなかった。
 犯罪を引き起こしたわけでも、巻き込まれたわけでもない。
 ただ。
 そう、ただほんの少しだけ、サラリーマンの妻では得られないような『スリルと夢』を見ただけなのだ。
「間違ってもこんな場所にまた行くなんてしないと思うけど……依存って、そうそう簡単には抜けないものなのよね」
 彼女がのめりこんだ店そのものを摘発できたわけではないし、今もあそこでは夜になると誘蛾灯のような光を発して、一夜の夢を目の前にちらつかせている。
 調査はした。
 しかし、解決はしていない。
「また、あの奥さんが行っていたらって。そう思っちゃうのよね……」
「誘惑、だろうな。一度でかく当ててしまえば、期待は募る。一日で一年分のパート代が稼げりゃ普通に働くのがバカバカしくなる」
 閑古鳥の声が聞こえているらしい武彦は、真面目くさった顔でつらつらともっともらしい意見を述べていく。
「例えばソレは夢でもあるわけだよな。宝くじを当てるより容易くて、地道に仕事を探すよりスリリングな楽しみもある。ちょっとした時間で行けるし、当たれば大きいから次こそは、という思いも働き、結局は抜け出せない。心理トリックとしては実に巧みだ。だからこそ魅力的でもあるだろうし」
 珍しく饒舌な彼の言葉に、何故かふと不吉な予感がして。
「武彦さん、興味あるの?」
「……………ん?」
 思わず問い掛けてしまった自分に、彼は微妙な表情を返してきた。
「いや、シュラインが気になるなら、追跡調査でもしてみようかと思っただけだ」
 どうせ、最近ヒマだしな。
 再びぐでぐでと上半身を机の上に伸ばしきって、彼はそのまま眠りに落ちていった。
 だが、不安はそのまま心のどこかに居座り続けて……


「ここしかないわね」
 溜息と共に回想から顔を上げ、掲げられた看板を自分の目で確認する。
 全ての状況証拠が、彼がここにいることを裏付けていた。
 あそこにあったチラシは一枚だけ。
 ちょっとした聞き込みで得た目撃情報も、彼がここに出入りしていることを示している。
 あの時、もっと釘を刺しておくべきだったのかも知れない。
 あるいは、『つい思ってしまったこと』など胸にしまい、何事もなく整頓作業を終えるべきだったのかもしれない。
 そういう意味では、自分は些か軽率だったかも知れないのだ。
 ならば、自分の不始末は自分でケリをつけるべきだろう。
 くしゃりと前髪を掻き上げて、シュラインは、『新装開店』のノボリと花輪で彩られ、きらびやかなネオンで光輝く世界に足を踏み入れた。
 そして。
 電子音とアナウンスと軽快で派手な音響の洪水が、眩い照明の光と共に彼女の全身をわっと包んだ。
 巨大なアミューズメント・パークと化した、そこはギャンブルの楽園。
 ここに来るまでに仕入れた情報を反芻する。
 きっと間違いない。
 シュラインは制服の店員を躱し、充満する紫煙を躱し、ジャラジャラと煩い金属音を躱して、全神経を武彦の存在に集中させる。
 彼の声。
 彼の呼吸。
 彼の鼓動。
 溢れ返った電子音の世界で、ただひとつの音を探り出す。
 そして。
 イライラと煙草を揉み消しながら台に向かう男の背後にそっと近付き、耳元に唇を寄せる。
「見つけたわ、武彦さん」
 瞬間。
「な――シュ……シュライン……どうして……」
 驚愕に見開かれた彼の肩越しに、パチンコ玉がむなしく呑まれていくのが見えた。
 彼の胸ポケットには、キューキュー鳴きながら手をバタバタさせている夕日色のコクマが収まっている。
 ああ、やっぱり。
 疑惑は確信に至り、目の前に提示された事実を前に新たな怒りが沸き上がる。
「早急にお話したいことがあって来たのよ、武彦さん」
 筐体に背を押し付ける武彦の目をしっかりと見据え、威圧感を与えることを意識した微笑みを浮かべて顔を寄せる。
「調査資料、出しっぱなしだったわよ、武彦さん」
 普段から片付ける癖がついていれば、すぐにはばれなかっただろう。
「その子にバラされたくなくて、連れて歩いていたでしょ?」
 いつもと違う行動は、疑惑の強化に繋がる。
「電話の声、妙だったし」
 平静を装えるくらい冷静でいられたら、また違ったかもしれない。
「ここのチラシだけ、丁寧に折って置かれていたし」
 場所を限定されるものは、もっときちんと隠すべきだ。
「素敵なお手紙まで用意してくれて、ね?」
 アレさえなければ、あるいは彼の帰りを待つか、明日出直していたかもしれない。
「せめてミスリードを用意しておくべきだったと思うわ」
 凄みの増した笑みに、彼だけでなく、周囲までがじわじわと恐怖に侵食されていく。
 悲喜こもごもといった雑多な感情のざわめきも、この周辺だけ妙に鎮静化され。
 これからこの男に訪れるだろう哀れな末路に、チラチラと他人事ではない視線が向けられていた。
「ま、待て、シュライン。話を聞いてくれ。あのな、確かにな、ここのところ負け通しだ。正直事務所のアレコレもヤバかった。だけど、な?あんな手紙残したが、これから巻き返せばお前に給料出せるかも知れないと踏んで、だ。それで……」
「武彦さん?」
「はい」
「趣味についてとやかく言うつもりはないの」
「……はい」
「でも、モノには限度があるってこと、学んでくれるかしら?」
 言葉自体は穏やかでも、彼女が滲ませる感情は深く怖い。
 武彦はただただ子供のようにこくこくと頷く。
「それで、いくら負けたのかしら?」
 ここまで嵌るということは、一度は大当たりを引いているはずだ。それからどれだけつぎ込んだのだろうか。
「………ン…円」
「いくら?」
「……20、万、円、です……」
 沈黙。
 そして、シュラインは今日一番深い溜息をついた。
「……取り戻すにはどれだけ必要なのかしら?」
「ああと……」
 答えに窮した武彦の代わりに、隣に座る男がさらりと箱の数を告げた。
「有難うございます」
 そう礼を述べて、夕日クマを彼から取り戻して自分の肩に乗せると、そのまま身包み剥がされる直前まで行った武彦を後ろに置いて席に座る。
「本来、こういうことは好きじゃないんだけど……」
 それきり無言となる。
 真新しい台は、軽快な音と光と映像を過剰なまでに発散させている。
 目で追い、神経を尖らせ、感性を研ぎ澄ませ、耳を傾けて、それからおもむろに手を伸ばした。
 そこから、起こりうる筈のない奇跡が起きる。
 先程とは違う視線が彼女を取り巻きはじめた。
 ジャラジャラと続く雪崩れるような音がいつまでもいつまでも止まることを知らず。
 何が起きたのか。
 何をしているのか。
 何をしたのか。
 我が目を疑う者たちの中で、シュラインはひたすら集中し続ける。
 銀の玉をめいっぱい詰め込んだドル箱の牙城が背後に築かれるまでに、それほど長い時間は掛からなかった。
 頃合を見計らって店員を呼びつける頃には、周囲は異様などよめきと興奮に包まれていた。
「さて、と」
 だが、シュライン自身はそんな羨望と嫉妬の入り混じる視線などモノともせずに、今にも死にそうな表情を浮かべる武彦の腕を掴んだ。
「ねえ、武彦さん。これからのことについて、まずはしっかり話しあっていきましょ?」
 彼女の笑みは、またしてもその場にいた全員を震え上がらせた。
 同時に、彼等はたしかにここで伝説が生まれる瞬間を見たのだ―――


 だが、それで全てが終わったわけではない。
 今月分の給料を取り、売り飛ばされたモノたちを買い直す約束を取り付け、ついでに月のパチンコ代上限を記した誓約書にサインをさせた上で、シュラインの説教は真夜中まで続いた。
 ひと時の夢はあくまでも夢。
 現実を踏まえた上に築かれなければ、所詮砂上の楼閣……なのだと。
 武彦は床に正座して、ひたすらその言葉の重みについて考えさせられる羽目となった。



YOU WIN…?