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<東京怪談ノベル(シングル)>


前兆

 誰かが、俺の目の前に立っている。
 顔は影になり、表情が良く見えない。
 俺がとまどっているのを見て、影の男が楽しそうに笑ったのが何故か分かった。
 彼は一歩一歩、ゆっくり俺に近づいてくる。
 どこか不自然な動きだと、そんなことを場違いにも考えた。
「…───、───え…」
 男は笑みを浮かべたまま、何かを呟いているようだった。
 壊れたレコードのように、酷く耳ざわりに繰り返す。

 ───…!!?

 不意に光の加減だろうか。男の顔があらわになる。
 どこか狂気じみた笑みのはりついたその顔は、酷く見慣れた物で。
 絶句する俺を見て、眼前の男が禍々しい笑みをいっそう深くする。
 彼…───表情さえなければまぎれもなく、俺が二十数年間つきあってきた顔…───は張り付いたような邪悪な笑みを浮かべたまま俺のすぐ目の前で歩みを止めた。
 身動き一つ取れない俺の肩に、軽く手をかける。
 俺の額に、ぶわりと冷や汗が吹き出した。



「終らせてしまえ、全て終らせてしまえば、世界は少しでも良くなる」



 温度の無い声で『俺』に耳元でそう囁かれたところで、唐突に世界がとぎれた。







 そこで、俺…───門屋・将太郎は『起きあがった』。
 あれ、立っていた筈なのに、などと考えてふと我に返る。

「…夢か…」

 妙に鮮明な夢だった。
 夢と現実の間には、いつもなにがしかの一線が引いてあり、夢うつつの区別が付かなくなる事なんて今まで無かったのだが。
 しかし今日の夢はリアルすぎて、境目が分からなかった。
(…まあ、寝ぼけてたんだろ…)
 枕元の時計に目を走らせ、大きく伸びをする。
 ぎりぎり、と言うわけではないが、そうのんびりもしていられない時間だ。

 ───…ま、いっか。早く支度しないと学園に遅れちまう。

 まだ少し、気になるような気もしたがとりあえずは、強引にうち切って。
 俺は慌ただしく身支度を始めた。



 眠気を誘う心地よい、規則正しい振動が体を包む。
 朝の通勤ラッシュの電車の中だ。
 あの後、栄養よりも摂取速度を重視した朝食を摂り、食事後の全力疾走という荒行を終えて駅へと向かった。
 横っ腹は痛むがなんとか電車に滑り込む。
 駆け込み乗車はおやめ下さい…という車掌のアナウンスをとりあえず聞き流して、普通の靴を履いてきて良かったとひとりごちた。
 愛用の健康サンダルでは少し荷が重かっただろう。遅刻確実だ。
 俺は空席を探して車両の中を軽く見回す。
 今日も学校近くの駅を通るこの電車の中は、通学時間からすこし時間をずらしてあるとはいえちらほらと見慣れた制服を身に纏った子供達の姿が目に付いた。
 俺は席所か、立つ場所さえ見付からない車両内を見て半ば泳ぐように扉の側のスペースを確保し、軽く溜息をつく。
 一息ついたところで余裕ができたのか、再び今朝の夢に対する疑問が頭をもたげてきた。
 夢見が悪かった、ただそれだけの事の筈なのに。
 …いや、悪かったというか、もはや意味不明の域に達していたが。

(…終わらせてしまえ、か…)
 どういう意味だったのだろうか。
 あの『俺』は何で、何を言いたかったのか。
(……同じ顔をした、『別人』…。……俺の別の人格、とかか…?)
 そこまで考えたところで、電車が揺れる。俺のすぐ目の前にいたOL風の女性の、ハンドバッグの紐に添えた手の肘が、俺の腹辺りに当たって軽くうめく。
 日常茶飯事だ。
 俺は動じず、軽い打ち消しと共に再び思考を巡らせた。
 極端に言ってしまえば別の人格という物は、(それは例外もあるだろうが)心に耐えられない付加がかかった時、その付加から心を守る安全装置として発生することが多い。
 俺は間違ってもそういった付加がかかる環境下には無かった。
(…それとも、無意識のうちに生み出してしまったのだろうか…。……いや、人格でなくとも俺の潜在意識が…)
 それはもっとあり得ない。世界を終わらせて何か俺が得するとも思えないし。
 俺はもういちど嘆息して軽く頭に手を当てた。
 なあ、どうしたんだよ、俺。

 どこかの駅に着いたらしい。人の流れがおこった。
 俺のいる側とは反対の扉が開き、駅名をつげるアナウンスが入る。
 軽くそれを聞き流しかけて、学生服の子供が駅のホームを歩いているのを見て我に返る。
 人をかき分けるようにしてなんとか電車から抜け出し、俺は大きく息をついた。
 危ない危ない、危うく乗り過ごす所だったぜ…。

 俺は苦笑して学生服の生徒達の波に乗り、学園へと歩き始める。
 乗り過ごすのをすんでの所で回避したせいだろうか、もう俺は夢の事について思考を巡らせてはいなかった。






 その時の俺は知らなかったからだ。

 …俺が、俺でなくなる…───そんな出来事が起こるとは。


     
 俺は笑いながら、声をかけてくる顔見知りの生徒に挨拶を返した。