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<東京怪談ウェブゲーム 草間興信所>


三頭の淋しい虎

 久々にまとまった収入があった晩だった。
 残りの本数を気にせずマルボロに火を点け、ドリッパーから落とした珈琲を水代わりに好きなだけ飲む。
 珈琲サーバーに、本来の使用目的を思い出させてやらなきゃな。
 枯れかけた観葉植物へ気まぐれに水をやる、水差し代わりが最近の仕事じゃサーバーも気の毒だ。
 その夜の俺は、機嫌が良かったのだと思う。
 でなきゃあの忌々しい玄関ブザーを何度鳴らされても、午前二時なんて時間にドアを開けたりしない。
「営業時間は過ぎてるぞ?」
 時折瞬く切れ掛かった照明の下、よく似た雰囲気の二人が肩を寄せ合っていた。
 年齢は二十代といった所か。黒髪と緑の瞳、彫りの深い顔立ちは日本人ではない。
 ――恋人同士? いや兄妹か?
 スーツ姿の男が綺麗に髭の整えられた口元を動かす。日本語だ。
「お休みの所すみません」
 男はこちらの反応を伺うように、慎重に言葉を選んでいる。
 この時ならまだ間に合ったんだ。
「明日にしてくれ」とでも何でも言って追い返せば良かった。
 けれど俺は浮かれていて、女の方が切羽つまった顔でこちらを見るのだから、つい二人を事務所に招いてしまった。
「探して頂きたいのは……」
 テーブルに山積みになった雑誌類をよけて通したソファで、女は黄金の丸いプレートを差し出した。
 メダルと言った方がいいのか。
 手の平に納まるサイズのそれの表面には、図案化された虎が掘り込まれている。
 歴史的価値なんてものは俺の管轄外だ。
「うちじゃなく骨董屋向きの話じゃないか? 紹介するぜ」
 俺は煙管をふかした骨董屋の女主人を連想する。
「実はアンティークショップで、こちらを紹介されたんです」
 あの女、面倒だと思ってこっちにまわしたのか。
 依頼人はもう一枚同じメダルをテーブルに置いた。こちらの表面は何も彫られていない。
「ここから逃げ出してしまった虎を、捕まえて下さいませんか?」


 ――一夜明けて翌日。
「とりあえず、このメダルは金で出来てるようね」
 依頼人の残した二枚のメダルを見比べて、シュライン・エマがそう言った。
 この場所に事務所を開いてからの付き合いになる事務員、というその付き合いは、長いのか短いのかどちらだろう。
 たぶん事務所の中で、物の所在を正確に掴んでいるのはシュラインだけだ。
 何にせよ、世話になりっぱなしなのは確かだ。
「齧ってみたのか?」
「武彦さんの歯形は付いてないみたいね」
 切れ長の瞳を細め、にっこりと微笑むシュラインに言外の威圧を感じて、俺はテーブルの上の灰皿を引き寄せた。
 煙草が吸いたい時に吸える幸福。
 ささやかにそれが叶えられれば、俺は満足なんだがな。
「ここから虎が抜け出したのはいつなの?」
 何も彫られていない――いや、虎の図形のあった部分だけが歳月の埃が付く事なく綺麗に光を反射していた。
「一週間だそうだ。その間心当たりを探したようだが、手掛かりもつかめなかったらしい」
 真偽の程は知らないが、そう依頼人が言うならその通りなのだろう。
「三枚並べてケースに入れていたんだが、いざ他人に譲ろうとして蓋を開けたら虎が消えていた、という事らしい。前日の昼間までは特に変化はなかったそうだ」
 そう、このメダルは譲渡途中なのだ。
 二枚だけでは価値が無いらしい。
 虎は三頭揃って初めて意味のある物になるのだという。
 メダルに彫られた虎は同じ図案で、特に差異のある物ではないと依頼人も言っていた。
 虎が三頭居なければならない理由……。
「どうして逃げ出しちゃったのかしらねぇ」
 ふぅ、とシュラインがため息をつく。
「虎に直接聞いてみるか?」
「え?」
 書類に埋もれた机の上で、黒電話のベルが悲鳴を上げた。
 悲鳴じゃなきゃ、ろくでもない内容ばかり聞かされる不平か? 
 シュラインの疑問に答える前に、俺は気の毒な黒電話の受話器を取った。
「はい、草間興信所……」
「武彦? さっき言ってたメダルの件だが、元々は三枚で1セットだったな、確か」
 黎迅胤、 危ない話専門の便利屋だ。
 危険便利屋のリーダーだけあって、本人が最も危険な男。
 落ち着いた物腰に巧みに隠された内面は意外と烈しい。
 が、情報収集の確かさは信頼の置ける人間の一人だ。
「ああ」
 カチ、と受話器の向うでかすかに鳴る音は、奴の義手が立てたものだろう。
 身体の右半身を義手・義足で置き換えた迅胤だが、直感と叡智で補われたその体術は常人に引けをとらない。
 敵に回したくない危険さだな。
「スペイン・ブルボン家の宝の一つに、『三つ虎の咆哮』という物がある。
王家を守る虎が封じられているという三枚のメダルだ」
 迅胤は通話中もパソコンに向かって情報を集めているらしく、「ああ、あった」と呟いて言葉を続けた。
「王家? 随分また大きく出るな。ガセじゃないのか?」
 昨夜の二人は王室関係者か。
 手元にある二枚が王家の宝だと言われても、正直信じられない。
 そんな大事なものをいきなり俺に貸し出している位なのだから。
 ……ここは信用されているのだと思いたいが。
「闇市場に、メダルが近々売却されるという噂も流れている。
王家の秘宝はいわく込みで価値があるのだろうな」
 そういった人間心理はわからないでもない。
 ポルターガイストの起こる家が一部好事家に好まれるように、不可思議な現象込みで骨董を集める輩もいる。
「へぇ。で、逃げ出した先は絞れそうか?」
「そうだな……ここ一週間、で条件を絞っていくと幾つか怪しいのがある」
 迅胤はモニターでスクロールする情報を目で追っているようだ。
「肝試しに行った高校生が、古寺で虎を見たらしい。
今のところ警察や自衛隊が虎の捜索に出た形跡は無いから、動物園や個人宅から逃げ出した線は薄いな」
 王家が絡んでいるなら捜索も秘密裏に行われているのかもしれないが、危険便利屋の情報網をかいくぐれるとは思えない。
「そうか。その寺には後で俺が行く。
住所と……できれば実際見たっていう高校生にも連絡を取れるか?」
 俺は迅胤の言う寺の住所をメモした。
 うちの事務所からも近いな。
「わかった。それでは、またな」
 受話器を置くのを待っていたように、シュラインが言った。
「直接虎に聞くなんて、どうするつもり?」
「どうするって、そのままさ」
 別にもったいぶって言ってる訳じゃない。そのまま言葉通り取ってくれればいい。
 疑問を顔に貼り付けたシュラインに苦笑していると、控えめなノックの音が事務所のドアの向うから聞こえた。
 玄関ブザーの音を、俺が嫌いだと言ったのを覚えているようだ。感心感心。
「……あの、草間さん。僕にお手伝いして欲しい事って、何でしょう?」
 俺でも見上げる長身を折りたたむようにかがめ、おっとりとした雰囲気の青年がドアから顔をのぞかせた。
 伏見夜刀、魔力を感知する『黄金の瞳』を持っている魔術師見習いだ。
 物にこめられた魔を引き出す稀有な能力を持っている。
 生まれながらに大魔術師となる素質があるのだが、残念ながら自身の能力はまだ引き出せないでいるらしい。その力も、もう一つ使いこなせていないようだ。
 まだまだ場数が足りないんだな。
「もしかして、彼にメダルを見せるの?」
「そう」
 お互いにまだ何をするのかわかっていない夜刀とシュラインが、顔を見合わせて俺に視線を向けた。
 案ずるより生むが易し、って言わないか?
 早速、夜刀に二枚のメダルを渡すと、まずは表面に何も彫られていない方を手の平に乗せて瞳を閉じた。
 肩口まである長い髪と大きな瞳せいで、首から上を見ていると女と間違えそうになるが、190近い身長はどう見ても男の物だ。
 まったく何を食ったらそんなに身長が伸びるんだ青少年。
「……こちらのメダルには、何も……いえ、少しだけ……密林の風景に、何か獣の叫びが聞こえます」
「それは、何の声かしら?」
 シュラインがメダルに意識を集中したままの夜刀に聞いた。
『虎の声?』と聞かなかったのは賢明だと思う。
 素直な人間ほど、言葉に影響されやすいものだ。
「……低く、唸る声が……」
 と、夜刀は瞳を開き、メダルをテーブルに戻した。
「これ以上は、このメダルからはわかりません……」
 もう一枚のメダルを手にし、夜刀は再び意識を集中させる。
「……っわ!」
「大丈夫か?」
 メダルを夜刀は取り落とし、困惑気味に眉を寄せて首を傾げた。
「……すみません。ちょっと、吃驚してしまいました」
「さっきのメダルと何か違ったのかしら」
 シュラインの言葉に夜刀は頷いて、再びメダルに伸ばした手を途中で止めた。
 その指先が細かく震えているところを見ると、怖かったのかもしれない。
「……一匹の虎が見えたと思ったら、大きな声で吠えられてしまって」
「虎が何か考えているか、まではわからなかったか……」
 こめかみの横の髪を指先でかいて息を吐くと、夜刀は大きな身体を丸めて「すみません」と呟いた。
 方法なら他にもある。別に気にしないで欲しいんだがな。
「気にするな。まあ、今のでこれがどんな気配を持ってるかわかったろう。
これから向かう場所で、探し出す虎の気配を感じたら教えて欲しいんだ」
 そう言うと夜刀は安心したように肩から力を抜いた。
「武彦さん、私にも聞こえたわ。虎の声が」
「シュライン?」
 ぐっと強く瞳を閉じ、自分自身の両腕を掴む手に力を入れてシュラインは言った。
「……とても淋しそうな声だった。
離れていく同胞を引きとめようとして、何度も月に吠える虎の声が……私にも聞こえたの」
夜刀の感知能力にシュラインの聴覚が倍化されて、虎の声まで聞こえたのか。
 虎は何を思いながら同胞と別れたのだろう。
 俺は再び煙草に火を点し、深く吸い込んで束の間異国の獣を思った。


 ――更に翌日。
 俺は事務所の留守番をシュラインに任せ、夜刀と一緒に迅胤に教えられた寺を訪ねていた。
 寺の門前に立つのはステッキをついた迅胤ともう一人、学生服の――。
「紫桜? お前が肝試しなんて意外だな」
 桜紫桜は知り合い、というのが一番しっくり来るかもしれない。
 さすがに高校生を友達と呼んでしまうのは、多少気恥ずかしさを覚える。
 最近見かけなくなった、礼儀正しく振舞える貴重な男子学生だ。
 ……『今時』とか『最近の若い奴は』などと言い出すと、途端に自分が老け込んだような気になってしまう。
 俺も微妙な年頃にさしかかったものだ。
「肝試しをしたのは俺じゃなくて、友達ですよ」
「だろうと思ったよ」
 文武両道を旨とする紫桜が、今更度胸試しもないだろうと思う。
 古い寺らしく、前代の住職が他界してからはめっきり訪れる人も減り、くぐった門の向うは草が伸びていた。
 確かに肝試しに向きそうな場所ではある。
「友達本人はどうした?」
「それが、すっかり怖がってしまって」
 苦笑する紫桜の語る所によれば、お堂の中で虎の姿を見たらしい。
 寺に虎がいる時点で不自然なのだが、最初は掛け軸か何かの絵だと思いこんでいたようだ。
 その目が急に光りだし、しかも近付いてくるようだったので逃げ出したという。
「どうだ、何か気配を感じるか?」
「……いいえ、僕にはまだ」
 黙って夜刀は荒れた庭を見ているが、何も感じていないようだ。
 お堂の中に入ってみるか。
 その前に一服しようと、俺は煙草を取り出した。
 マルボロはまだ残っている。
 いつもこうだと俺の調査も気分良く進んでありがたいんだがな。
あいにく貧乏神に気に入られた身でそれもままならない。
「なあ、『三つ虎の咆哮』ってどんな宝なんだ?」
 あくまでゆったりと、しかし鋭い視線を周りに配りながら迅胤が答えた。
「元々は宝物庫の門番らしいな。虎の咆哮を三度聞いた者で、生きて戻った者はいないという伝承がある」
 門番の棲むメダルが売りに出されて人手に渡る、か。皮肉な事だ。
 王家に守る宝は既に潰えたのか。
「それじゃ、中を見てみるとするか。紫桜、お前は帰っても良いんだぞ?」
「俺も中に入りますよ。ここまで来て、ただ帰るなんて面白くないじゃないですか。
これでも自分の身くらいは守れますし」
 紫桜は楽しそうに瞳を輝かせている。
「好奇心は時に危険なものだ」
 たしなめるように迅胤が口を開いた。
 迅胤は情報というものがどれ程危険な側面を持っているか知っている。
「まあ、好奇心が人を他の世界に目を向ける力にもなるとも言うさ、迅胤。四人で行こう」 
 紫桜は武道の心得もあるし、問題ないだろう。
 埃っぽく薄暗い寺の中を四人で進む。仏には申し訳ないが土足だ。
 懐中電灯の明かりだけで進んでいると、肝試しをしているような気分になってくるな。
「……草間さん、ここの奥から……あのメダルと同じ感じがしてきます」
 奥に進むにつれて、夜刀の表情が強張ってきた。
 二枚のメダルは俺のジャケットの懐にある。
 これが預かり物だというのもあったが、夜刀の能力が悪い方に転ばないとも限らない。
 封じられたものに夜刀自信が支配されてしまうと、なまじ魔力もあるだけに厄介だ。
 元は金色の光を纏っていた仏像も、今はくすんで闇に包まれている。
 その、更に後ろの暗がりに。
「武彦、見えたか?」
「ああ」
 一瞬だが、確かに獣の瞳が光を反射して見えた。
 迅胤がステッキを握る手を構える。龍を模した飾りが特徴的な銀色のステッキだ。
 紫桜も指をピンと伸ばした両手を構え、暗闇の一点を見つめている。
 俺は虎の模様が掘り込まれた方のメダルを取り出した。
「仲間が迎えに来たぞ」
 ――グルルル……。
 静かだった古堂に、獣の唸り声が二つ響き始める。
 一つは俺の手の中のメダルから。もう一方は闇の向うから。
「草間、さん……向うは、もう戻らないと言っています」
 夜刀が切れ切れに言った。思ったより影響を受けているようだ。言葉にも力が無い。
「説得は通じそうか?」
「……やってみます」 
 緊張の中、徐々に虎の咆哮は低くなり……。
「!!」
 突然の突風が吹き荒れ、古堂の鎧戸を飛ばして治まった。
 急に明るくなった視界に目が慣れるまで少しかかる。
「逃げられたな」
 迅胤が首筋に手をやりながらそう言った。
 外の光が照らし出す古堂に、今まで満ちていた張り詰めた空気はもう無い。
「すみません、僕の力が足りなくて……」
「気にするなよ」
 夜刀ももう少し自信を持てれば良いんだがな。
「一瞬、出て行く獣の足に触れたんですけど……」
 紫桜が首を捻っている。
「掌底が通じなかったんですよね。確かに当てた感触はあったのに」
 気を込めた打撃にも無傷か。存在そのものがこの世界の理と異なるのかもしれないな。
「……一旦事務所に戻って、もう一度怪しそうな所を調べ直すか」
「その時は俺も呼んで下さい。噂をはっきり確かめたいんです」
 俺の言葉に、紫桜はぐっと握った拳を目の前に突き出した。
 おいおい、堂々と高校サボろうってのか?
「いいけど、高校はどうする? お前学校休むような柄じゃないだろ」
「わからない事がすっきりしないままなのも、嫌なんです」
 なるほどね。
「わかった。連絡するよ」
「ありがとうございます」
 迅胤に引き続きメダルに関する情報を集めてもらうよう頼み、俺たちは古寺を後にした。


 ――更に数日後。
 シュラインが掴んだ情報により、俺たちはある屋敷を訪れていた。
 シュライン、迅胤、紫桜、夜刀、そして俺。
 初対面の人間にこうもぞろぞろ訪れられて、先方の気が悪くならないか内心焦った が、当主は問題を早く解決したいらしく、手を取るように案内してくれた。
「とにかく、怖いんですよ」
 怯える当主の話はこうだ。
 数日前――ちょうど俺たちが古寺で虎らしきものを逃がした日から、この家の衝立の絵に変化が現われた。
 つい最近骨董屋で求めた衝立の絵に元々あった草木の模様、そこに更に虎のような模様が浮き出てきているのだという。
 衝立を置いた部屋から獣の唸り声が聞こえる事もあり、家族はもとより、使用人共々怖がってしまっているらしい。
「ここに入り込んだ虎が、メダルの虎と同じものなのかしら」
 シュラインの疑問ももっともだ。
 東京は――少なくとも俺の周りは、怪異が満ち溢れた世界なのだから。
 探偵業よりもそれで食っている、というのもいささか不本意だけどな。
「……同じものです」
 夜刀が伏せた瞳を上げて答えた。
「シュラインさんにも、聞こえませんか? ……淋しそうな、遠吠えが」
「聞こえるわ。今ははっきりと、ね」
 事務所に残っても良いと言ったが、シュラインは「逃げてしまった理由が知りたいわ」とついて来た。
 そう、単純にメダルに封じ直すだけなら簡単だ。何度でも逃げた先を探して連れ戻すまでだ。
 しかしそれでは根本的な解決にはならない。
 どうして、逃げ出したんだろうな……。
「こちらです。どうぞ」
 震える手で鍵を開け、当主が物入れに使っているらしい部屋に案内された。
 物入れと言っても俺の自室より広いのが癪だ。ああ、探偵に私情は禁物だったな。
 白い布がかけられた衝立らしき物を当主が指差す。
「あれです」
 俺はそれ以上近付けない男が気の毒になり、応接間まで戻ってもらった。
 布越しにも獣の視線を感じる。
 草むらからからこちらを伺う、獣の息遣い。
 そして、懐に入れたメダルからも同じものを感じる。
 姿が見えなくても、仲間の存在が伝わっているのだろう。
「布を取るぞ」
 全員が見守る中、俺は白い布を引いた。
 重なるような草木の間から、虎が実体化する。
 ゆったりと身体を狭い空間から押し出し、虎は長い尾を一振りして静かな瞳を俺たちに向けた。
「闘うつもりはないのでしょうか?」
 いつでも闘えるよう両腕を構えたまま、紫桜が小声で言った。
「そうだと助かる」
 俺は表面に何も彫られていないメダルを取り出した。
「ここから逃げ出したのは何故だ? 言いたくなければ黙ってても良いが、万一解決するかもしれない。また逃げ出すあんたを捕まえるのも面倒だしな」
 虎の瞳は何かに憂いたように光を失い、ひどく人間らしい仕草で細く息を吐いた。
「……我らが『三つ虎』と呼ばれる者だとは、もう知れているのだろう?」
 こちらの反応を見ず、訥々と語りだす。
 その声は明瞭な日本語で、実際の所は直接脳裏に意味が伝えられているのかもしれない。
「ハプスブルグ、ブルボン……幾多の王の宝を守ってきたが、我はもう疲れたのだ。
神のニ千年紀を迎え、秘宝をめぐる略奪が過去の物となった今、我は古の約定からも解かれたい」
 虎が身体を動かせば、その流れるような縞模様に魅了される。
 生きて人語を解する獣を封じたこのメダルも、秘宝の一つだったのではないか。
「『三つ虎』の、他ニ体は貴方をどう思っているのかしら。同じように、逃げ出したいと?」
 シュラインの言葉に、なお一層虎は哀しげにうなだれた。
「……恨んでいるのかもしれぬな」
 俺はもう一枚のメダルを夜刀の手に握らせた。危険な賭けだが、やってみるか。
「このメダルの力を解放するんだ。いいか、何がお前の身体に力を及ぼしても、おまえ自身は変わらない。忘れるなよ」
 夜刀が頷くと同時に突風がメダルから起こり、吹き荒れる。
 夜刀の意識はまだ保たれているらしく、俺を見てかすかに微笑んだ。
 と、もう一体の虎が俺たちの前に実体化する。
「兄上、我と共に戻りましょう。姉上も心を痛めておいでです」
 こちらの虎はやや年若い声に聞こえる。弟か。
「もはや我らが守る王も、その宝もない。
我らもまた宝物の呪縛より解かれても良い頃合だと思わぬか?」
「兄上……」
 頑として聞き入れない様子に、弟の虎も言葉をなくしている。
 それはそうだろう。今まで同じように財宝を守っていたのだから。
「お前たちが使えるべき王はまだ故国にいるだろう?」
「迅胤?」
 それまで沈黙していた迅胤が口を開いた。
「俺が調べた所では、三枚のメダルを売却した金は、干ばつで復旧していない地域に補填される予定だ。
それだけの価値が、お前たちのメダルにはあるという事だ」
 先の干ばつは彼の国に数万人の飢饉者を出した。その後も思うように食糧事情は改善されていないと聞く。
「守るべき宝は民、使えるべきは王か……我は思い違えていたようだ」
 フッ、と場の雰囲気がやわらぎ、二体の虎は姿を消した。
 同時に夜刀も床に膝をつき、シュラインが労わるように肩を抱えた。
「虎は戻ったんですか?」
「ああ、確かに」
 紫桜が覗き込む手の平の中、メダルにはしっかりと虎の模様が刻み込まれていた。


 ――翌週のある午後。
 依頼者にメダルを返してから、俺はしばらく異国で飢えて亡くなっていく人々の事を考えた。
 絶対的、慢性的に食料が無い状況が続く中、あのメダルで購われた金は幾らか人々の腹を満たしたのだろうか。
「私はあの依頼人たちが、メダルに封じられた虎だと思っていたのだけど。違ったのね」
 シュラインが置いたカップの珈琲を口に運ぶと、やや酸味のあるモカの味が舌に広がった。
「そうだな……」
 海の向うまで来て、故国を救う手立てを見つけようと奔走する彼らこそが『三つ虎の咆哮』そのものだったのかもしれない。
 まあ、それは完全な真実でなくとも、事件は解決し俺は依頼料で美味い珈琲が飲めれば問題無い。
 俺の幸福は、そんなささやかな物なのだ。

(終)


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■   登場人物(この物語に登場した人物の一覧)  ■
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【 5653 / 伏見・夜刀 / 男性 / 19歳 / 魔術師見習、兼、助手 】
【 0086 / シュライン・エマ / 女性 / 26歳 / 翻訳家&幽霊作家+草間興信所事務員 】
【 1561 /  黎・迅胤/ 男性 / 31歳 / 危険便利屋 】
【 5453 / 櫻・紫桜 / 男性 / 15歳 / 高校生 】


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■         ライター通信          ■
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シュライン・エマ様

ご参加ありがとうございます!
調査依頼の文章量としては長くなってしまいましたが、どうでしょうか?
東京怪談で文章を書き始めて半年ほどたちますが、今回ほぼ初めて草間氏を書きました(今頃!)
草間氏のイメージが壊れてなければ良いのですが……シュライン様にはその点厳しく評価されそうですね。
ともあれ、少しでも楽しんで頂ければ嬉しいです。