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<東京怪談ウェブゲーム 界鏡現象〜異界〜>


少年禁猟地帯4

●4月16日 夕方 〜渡航前〜
 ロスキールを探しに行く為、隠岐智恵美はUSBメモリーを上條羽海と言う女から3つ入手し、それを裕介達に渡した後、調停委員会の反対派の牽制の根回しをするために戻っていった。
 無論、これ以上売らないようにと、上條と言う名の女には釘を刺すのも忘れない。
 しかし、あの女が本当にこれ以上の売らないとは限らないのだが、さすがにこちらの立場を考えるに身の保証ができなさそうなことはしないだろう。
 手早く仕事を片付け、そうこうしている間に時間は流れ、息子と約束していた時間になった。
 智恵美は約束していた喫茶店――天鵞絨堂茶房にやってくると、そっとドアを開ける。
「いらっしゃい」
 ドアを開けた途端、芳醇な珈琲の香りが鼻を擽る。
 緑茶の方が良いのにと思う気持ちを押さえ、智恵美はマスターに「こんにちは」と挨拶する。
 どこか誰にも――もちろん調停委員会にも邪魔されず、ゆっくりと話し合える場所はないかとユリウスに聞いたのだが、紹介されたのはここで、智恵美は初めて来訪した場所に戸惑っていた。無論、表情には出ず、いつもの通りののほほんとした笑顔だが。
「予約のお電話させていただきました、隠岐ですが〜」
「あぁ、ユリウスから聞いてさかい。場所はこっちやで」
 そう言ったマスターはちょいと隣にあるドアを指差した。
「あ、はい。お邪魔しますわね……あら、マスターは女性だったのね」
「よう男に間違えられんねん。背ぇ高いよって……胸は小さくないんやけどなぁ」
 マスターは笑って言った。
 そしてマスターはキッチンの方を向いて言った。
「ミカ! ミカイーリス、お客さんやで」
「はい、マスター」
 キッチンの奥にいたらしい。
 マスターに呼ばれて返事をした声は小学生か中学生ぐらいの少女のものにも聞こえた。そして、智恵美のその勘が当たり、顔を出したのはウェーブの掛かった長い金髪を背中まで伸ばした小さな少女だった。
――あら〜
 智恵美は苦笑した。
 少女は濃紺のロングワンピースに真っ白なエプロンといったメイド姿である。まだ膨らみきっていない胸がエプロンになだらかな線を描き、ほっそりとしたウェストのあたりをリボンで結んでいる姿はなかなかにスタイルが良い。
 長い睫が青い瞳を縁取り、つぶらで愛らしい瞳が智恵美を見つめていた。
 これからやってくる相手の好みを考えると、メイドと言う点では合格点であろう。
――あの子、どんな反応するのかしら〜。でも、いつもの通りね
 などととりとめも無いことを考え、智恵美はミカイーリスと呼ばれた小さなメイドさんについて隣の部屋に行く。
 中に入り、緑茶と和菓子を注文すると、ミカイーリスは何の疑問も持たずに「はい」とだけ返事をし、再びやってくると茶菓子と緑茶を置いてから去っていった。
 茶菓子を平らげ暫く待っていると、ドアをノックする音が聞こえて智恵美は返事をした。
 ドアを開けてやってきた二つの姿に視線を向けて智恵美は誰かを確認すると、人懐こそうな笑みを浮かべる。
「あらあらあらあら……あなた、封印を解いたのね」
 久しぶりに会った息子に智恵美はニコニコ笑って言った。
「あぁ、まあな。久しぶり」
 ややぶっきらぼうにも思える口調で田中祐介は言う。
 いつもならもう少し取っ付き易い雰囲気があるのだが、今の彼の中はいつもとは違って、深遠のように黒く大きな力が渦巻いている。そのために、少し重苦しい感のあるオーラを放っているかのように思えた。
 しかし、彼の正体を知っている智恵美としては、そんなことは少しも気にならない。
「うーん、久しぶりと言っても数日ぐらいねえ」
「そうか?」
「そうよ〜。あ、そうそう……ここの店員さんはメイドさんなのよ」
「むう……」
 祐介はピクッと反応すると、ドアの方を見遣る。いつもほどには反応していないが、メイドと聞いて様子が少し変わるのだった。
「あらあら。それはそうと、ヒルデガルドさん……厄介なことになったわ〜」
 智恵美はまったくもって困っていないような顔で言う。
 後で立っていたヒルデガルド・ゼメルヴァイスは薄く微笑んで挨拶した。
「あぁ、智恵美……久しぶり。愚弟の過ちを謝罪すべきだが、そんな話をするよりは建設的に対処法の話をしたほうが有意義だと私は思う。よって私はそのような愚を犯したくは無い」
「そうね〜。まあ、良いのじゃないかしら」
「礼を言う」
「いえいえ」
 智恵美は祐介とヒルデガルドをテーブルに誘う。
 二人が着席し、歓談をとも言うべき世間話をはじめた頃、ミカイーリスがティーセットを持ってやってきた。トレーの上にはサンドイッチとスコーン、そしてジャムが乗っている。
「むぅ……」
 ミカイーリスを見た祐介は唸ると微かに何事かを考えるような表情をし、そして何事も無かったようにヒルデガルドに視線を戻す。
「おや? そんなになっても、さすがに反応するのだな。祐介は本当にメイドが好きだな」
 ヒルデガルドはことのほかおかしそうに笑う。
「…………」
「まぁ、よい。ミカ、久しいな」
「はい、我が君。一年三ヶ月十七日と六時間二十四分十五秒ぶりでございます」
「演算処理系と衛星時計は問題無いようだな。しかし、そう呼ぶのは止すが良いよ。お前の主人はここのマスターだ」
「はい」
「あらあらあら〜、ヒルデガルドさんとどういう関係なのかしら?」
 智恵美はサンドイッチに手を伸ばして言った。ペッパーハムサンドを頬張り、じつに美味しそうに食べる。
「私が設計してここのマスターに売ったのだ。組み立てたのはマスターの方だが」
「え?」
「ミカは自動人形(オートマター)、完全オーダーの限定品だ」
 ヒルデガルドは足を組みなおすと智恵美の方を向いた。
「さて、問題の件だが」
「あ〜、はいはい」
 智恵美は口の中に残ったパンを噛み、紅茶で飲み込んだ。
「調停委員会のこと――なんですけどね。ロシア正教づてでヴァチカンに交渉して、私の後釜にユリウスを推すようにし向けているのらしいのよ〜」
「まぁ、当然の行動だろうな」
 そう言ったのは、祐介。
「後はユリウスさんと塔乃院さんにサポートを任せしようかなと思っているのだけど」
「ほう……」
「塔乃院さんを動かせるのか?」
「ロスキールさんが行方不明になった時のゴタゴタをちらつかせれば動いてくれるんじゃないかと思うのよね。……で、それでお願いすることにしようかと〜」
「ふむ……奴なら、何も言わずとも動いてくれそうだがな」
 ヒルデガルドはそう言ってティーカップを手にすると、紅茶を飲んだ。
「そうねぇ」
「手回しは終わったのか?」
「えぇ、バッチリ」
「そうか」
「じゃぁ、そろそろ行くか」
 祐介は立ち上がり、薄地の黒コートを羽織った。二人が立ち上がるのを確認すると、祐介はドアの方へと歩いていく。
 二人も歩き始め、ドアを開けて外に出た祐介の後を追う。
 三人は店を出ると、タクシーに乗って日之出桟橋に向かった。もうすぐ最終渡航が終わる時間だ。辛うじて日の落ちる前にたどり着いた三人は桟橋へと歩いていく。
 ゲート前には誰もいない。
 殺風景この上ないゲートの券売機を覗けば、USBの差込口が三つ並んでいた。
「…………」
 まるで待っていたかのようなその光景に、祐介は溜息を吐いた。
「時間だ」
 ヒルデガルドの声に祐介は頷く。
「さあさあ行きましょう♪」
 どことなく楽しげな母親の様子に終始無言の息子。
 紫色に棚引く雲は薄く桃色に空を染め、北の空へと向かっている。三人は無言のまま船に乗り込むとデッキからすの空を眺めていた。
 ヒルデガルドの真皓き頬を残光が微かにその色に染め、どこかこのもの世のものでないような気に祐介をさせる。
 祐介は歩いてくると感情の篭らぬ声で言った。
「……俺がそっちに行く事は出来ないが、忍んでくるのなら拒みはしない」
 吸血鬼の住まう世界にて、ヒルデガルドがいった言葉への回答であった。
「そうか……では、部屋で待っていてほしいものだ」
 それを聞くや、ヒルデガルドは口角を上げ、嫣然と微笑む。
 捕らえたのはどちらか。今のところは祐介もわからない。ただ、手招くその腕と胸に抱かれるのは心地良いだろうとは思った。

●少女は密やかに笑う
『聞いた?』
 その声は言った。
――真紀子だ。
 独特のイントネーションに訳知り顔な雰囲気を漂わせ、用件を先に言わず、教えるべき情報もも隠して知っているかと聞く親友。
――真紀子だ。
 祥子は口角を上げる。
 湧き上がる愉悦に、祥子は笑みを禁じえない。
「何が〜?」
 ごく自然に聞こえるように、祥子はまるで自分が何も知らない愚者のように振舞おうとした。
 何にも知らない。クラブに出入りする友達もいない、平凡な私。
 そう言う風に振舞って、自分の内心を煙にまく。
『Simoonってゆー店に【黒い子】がいるんだってさ』
 真紀子は言った。
――知ってるわよ。
「えぇ〜〜〜、すっごォーい♪ スクープじゃん!」
 気持ちに反して、祥子の口からは殊更吃驚したような言葉が出て行った。
『あたし、リュウから聞いたんだ』
――へぇ、あんたがハンティングしようとしてるオトコじゃん。
 振り向いてくれないバンドマンに纏わりついて、さも自分の彼氏のように言う真紀子に同情すら覚える。
「勿論、観戦に行くんでしょ?」
『あったりまえじゃん! もしかしたら、白い子になれるかもしれないんだから』
 興奮したように言う真紀子の声を聞くと、祥子はふと微笑んだ。
 ピアスを弄りながら祥子は言った。
「お守り必要なんじゃない? 怪我しないように」
『えー、死んでも白い子は見たいし。モーマンタイ、モーマンタイ♪』
「怪我……しないでね?」
 祥子は笑った。
『へ? あんた、もしかして笑ってる?』
「ううん。弟がちょっかい出してくるから笑っただけ」
 嘘だ。
 弟の雅彦は今は図書館に行っている。
『あー、なんだぁ。そっか……ねぇ、見に行こうよ』
「いいよ〜」
『えー、つまんなーい』
「行ってきなよ。……そうそう、これから頼まれ物買いに行かないと……」
『そーなんだ、残念。じゃあ、報告の電話するね〜』
「うん、ありがとう」
『じゃぁ……』
 それだけ言うと、真紀子は電話を切った。
 ゆっくりと受話器を置くと、祥子は洗面所へ向かった。
 電気もつけずに鏡を覗けば、平凡な造りの平凡な顔が映っている。若年層独特の白く精気に満ちた肌が仄明るく闇に浮かぶ。
 片耳にはピアスが小さく赫闇色に輝いていた。
 愛しげにそのピアスに触れると祥子は歌うように呟いた。
「白い子は私を選んだのよ」
 何て素敵な言葉だろう。
「私は選ばれたの」
 魂に染み込むように言った。
 祥子は洗面所のコップにかろうじて引っかかっているブラシを手に取る。Simoonへと行くためにはまずお洒落をしなければならない。
 祥子は髪を梳き、とっておきの服に着替えると家を出て行った。
 行き先は繁華街。裏道にあるSimoon。
 日常が薔薇色に変わっていくのを祥子は感じていた。


 東京の片隅で戦が起きる。
 夜に散るのは、
 血と命。
 婀娜花は夜に咲いて朝に散るもの。
 遠い闇夜に白い子供が唄う

 王の血筋が来た
 王の血筋が来た

 そして、鮮麗の女王が黒き嵐と共にやってくる……

●花は一つ堕ちる
「あたしの血なんか吸っても美味しくないわよ! もう、乙女でもないしっ!」
 月見里千里はその腕に抱きこまれ、暴れながら一息にそう言った。無論、相手はそんなことを聞いていない。
 ぴちゃっと足元で音がした。床一面に零れている血だ。なのに、この男はそれを気にもかけていない。
「関係ないね、お嬢さん」
 見上げれば、月夜の光を凝縮して象ったような青年の紅い瞳が千里を見つめている。その瞳の奥には典雅さを持ち合わせた獣が住まっているかのような感じがした。自分の願いなど一向に聞いてもらえない――それは直感。
――ダメだ……
 抵抗する力にも限界が来た。
 ちょっと力を出せば、きっと千里のような女の子の腕など簡単に引きちぎる力は持ち合わせているのだろう、そんな気がする。
――遊んでるんだ……
 絶望的な気持ちで見返しても、相手は殊更楽しそうに笑っているだけ。下を向けば、血に濡れる自分の足と血に汚れることもなく立っている、彼の革靴が見えた。また顔を上げる。
――汚れてない? 浮いてる……
 壁に押し付けられ、コンクリートの硬さが更に苦しさを感じさせた。頭は押し付けられた痛みでじりじりする。
「はぁ……」
 千里は頬に吸血鬼の吐息を感じた。
 薄く開いた口からは鋭い乱杭歯が見える。
「嫌よ! 離してッ!」
 そんな声も無視して、ぺロッと首を舐めた。それは子犬がじゃれて舐める仕草にも似て、くすぐったさが千里の心を捉える。軽く甘噛みされれば、全身から力が抜けていくような気がした。そうやってじゃれて遊び、幼い動物が屈託無くその残虐性を見せるように、吸血鬼というものは相手の心を捉えていくものなのであろうか。
 ぴったりと閉じた千里の両脚の間を、吸血鬼は脚で割って押さえつけてくる。春物の短いスカートからほっそりと伸びた千里の脚が開いて押さえられれば、スカートは捲りあがり千里は焦った。
「嫌だ、見えちゃうでしょ!」
「あぁ、僕は気にしないから。レディーは大人しくしていて欲しいな」
 そう言いながら、彼は笑った。
「嫌っ!」
「ここまで抵抗する子って珍しいな」
 春を思わせる茫洋とした口調でその吸血鬼は言う。
「う〜〜〜〜、馬鹿ぁ!」
「おや? どうかしたかな、Fraulein(お嬢さん)?」
 涙が滲んでいる瞳を見下ろして、美しき吸血鬼は微笑む。
 すでに自分が相手に魅了され始めているのだとは、千里は思ってもみなかった。じりじりと追い詰められ、嬲られ遊ばれているうちに、自分が快楽の始まりに追い込まれているのだと気が付かないまま無駄な抵抗を繰り返す。
 次なる刺激が来るのは本能が知っていた。だから抵抗して誘うのだ。それは、誰もが気がつかない、甘く恐ろしい破滅(快楽)への期待。
 再び顔を近づけると、今度は容赦なく吸血鬼は噛み付いた。途端、千里の体が電流を流されたように痙攣する。
「あ、あ、あぁッ!」
 喉の奥から荒い息と共に上がった短い悲鳴は、後に喉が枯れるほどの叫びに変わる。そして……
「ひーぁ……あはは……ふあはぁ……」
 意味不明のものへとその叫びは変わっていった。
 喉を襲った痛みの後、全身の血が一気に干上がり、耳に届く己の声と死への恐怖は甘く痺れる感覚にかき消される。
 足元が覚束なくなり、三半規管がまともに機能していないような感覚さえする。自由にならない体勢の中、血を奪われ快楽に溺れ、千里の思考は完全に停止し、殆ど壊れてしまっているのに近かった。
「あはっ……ふぁ――はあは……」
「おや、イッちゃったみたいだね。これだから人間は脆くって困る」
 死ぬほど吸ってはいないのにと言って、吸血鬼は呆れたように肩をすくめてみるが、千里の方は何事かを無意味に呟き、時折笑っているためその姿をみるものはいない――はずだった。
 しかし、吸血鬼の意識をかき乱す視線が近くに存在しているのを彼は感じている。
 堕ちた千里をゆっくりと地面に降ろし、その吸血鬼は振り返った。薄くぼんやりと浮かぶ半透明の式神の存在を捉えるや、吸血鬼はふと笑みを浮かべる。
「食事の邪魔をするとは……行儀が悪いね。不愉快だよ」
 意識を集中すれば、その式神の空間を捉え、少しづつ圧縮していく。一立方センチメートル内の濃度をたかだか一パーセントも満たないほどに加圧すれば、空間は歪み、その式神は潰れて消えた。
「誰が覗いていたのだか。さて、アシがつくのも厄介だし、僕は早々に退散するかな……おや?」
 独り呟く声は、不意に鳴り始めた音に反応して、誰も聞かぬ短かな問いへと変わる。鳴っているのは携帯だ。吸血鬼は何処から鳴っているのかと視線を彷徨わせるが、音は千里のバッグから聞こえてきていた。
 彼は無言のままバッグを開け、携帯を取り出す。折畳式の携帯をあければ、闇夜に浮かぶディスプレイの文字は『セレスティ・カーニンガム090-****-****』だった。
 その瞬間、彼の表情に浮かんだのは二種類の表情。一つは自嘲、一つは愛しげな優しい笑み。
「運命?」
 彼は笑った。
 千里は正気を失ったまま呆然としている。まだ魅了されたままなのだ。
「君は……」
 彼は言った。
「セレスティと知り合いなのかい? 答えよ……我が下僕」
 その声を聞いて、千里は幽鬼のようにゆっくりと振り返った。
 千里の答えによっては、魅了されているだけの千里を本当に下僕にする気もあったのだが、壊れかけた千里はぼんやりと見つめ返すだけ。
「答えよ」
「あふぅ……あははっ……はぁ〜いー……」
 笑いながら千里は答えた。
 小さくこくんと頷いて、「しりあい」と続ける。
「じゃぁ、出てくれないかな」
 様子をみるつもりで吸血鬼は言った。
「はあ……い」
 千里は言うと、ふらふらとしながら携帯を受け取り、電話に出た。
『もしもし、千里さん?』
 少し焦ったような感がある声は高く澄み、男性のものと考えるにはやや注意が必要であろう、中世的な雰囲気のある声はセレスティ・カーニンガムのものであった。
 千里が居なくなったのを知り、連絡をよこしたのだが、今まで気が付かなかったために少しばかり不安なのであろう。しかし、今の千里にはそれを慮る思考は残されていなかった。
「はぁーい」
『よかった……今、何処にいるんです?』
「……がっこ〜」
『学校? 母校ですか? こんな夜遅くに……何かあったらどうするんですか』
「……」
『千里さん? 情報集めに行ったんでしょうけど、無理はなさらないで下さい。皆が心配しますよ。……ところで、有力な情報でもあったんですか?』
 わざわざこんな時間に出て行くのだから、何か宛てがあったのではないのだろうかとセレスティはふんだのであった。
「んー……」
『誰かと一緒ですか? 一人なんかじゃないでしょうね……』
「しろいこ」
『は? 今なんて……』
「しろいこ きゅうけつき〜 と いっしょ」
 千里は何も考えずに言った。
 その瞬間、吸血鬼の表情が険しくなり、憎悪にも似た視線を千里に投げかけた。そして、千里の手から携帯を取り上げる。
「なんてことだ……本当に下僕にしておけば良かったよ。役に立たない――悪い子だ」
 取り上げられて呆然としている千里は思考の纏まらないままに見上げる。電話からはセレスティの千里を呼ぶ声が聞こえているが、千里にはその声が届いていなかった。
 吸血鬼は座り込んだ千里を踏みつけ、しかし千里は為すがまま。
「お仕置きはあとでだよ……まったく」
 吸血鬼は携帯を耳に当てると、明瞭なる声音でセレスティに挨拶する。
「Guten tag……」
『誰? その声……ロスキールですか?』
「Ya.」
『何故、そこに……貴方が白い子?』
「何のことかわからないよ、セレスティ。実に運命的な出会いだと思わないかい?」
『真面目に答えてくださいね、ロスキール』
「僕はいつでも真面目だよ。出会い頭に君とそんな味気ない会話なんかしたくないだけさ。ちっともロマンティックじゃないしね」
『ロスキール……』
「あぁ、わかっているよ。でもね、知らないものを答えることは、如何な僕でも出来ないって言うものだよ。わかるよね?」
『では……何故、千里さんと?』
「おや。彼女はTissatoと言うんだね?」
『ち・さ・と、ですよ』
「ちさと……ね。どうして一緒だったかということは、プライベートな部分になるけれど」
『プライベート? 私に隠れて出会うような?』
 そんなことを言いながら、セレスティは半分笑っていた。というよりは、その笑みも自嘲か苦笑に近い。
「まぁ、『僕にとっては』隠すようなことでも無いんだけどね。君は人間達の味方のようだし、はっきりというのは……あまりにも酷で直接的過ぎる。スマートではないし、礼を欠くと思っていただけのことさ」
『では、直接的に言えば何なのでしょう』
「餌」
 きっぱりと、いっそ気持ち良いぐらいにロスキールは言った。
『実に直接的です』
「だろう?」
『その関係は餌になる前ですか、それとも『だった』と言う関係ですか?』
「だった」
『はぁ……遅かりしですか』
「僕はお腹が空いていたのさ。僕は嬲られたままだったし、人間のご飯は僕には嗜好で摂るぐらいの域を出ないものだしね」
 食事を出してくれなかったと抗議する声に、セレスティは苦笑を禁じえない。
『それは失礼しました』
「それに、君のいない場所なんか僕には意味の無い場所なんだよ」
 セレスティはそれを聞いて、一瞬、目を瞬き、そして困ったように眉を下げたが、電話ではロスキールにその表情は見えぬわけで、彼がセレスティの胸中を知るには無理がある。
『では、ご馳走いたしますから、千里さんを連れてこっちに来ませんか?』
「ふーん、それでもいいけどね。ちゃんとご馳走してくれるまでこの子は離さないよ」
『おやおや、拗ねているのですか? 大丈夫ですよ……そうですね、私でよければ少し分けて差し上げても良いのですが』
「こっちの水は甘いよってやつだね」
『しかたのない人ですね。可愛がってあげますから、こっちへいらっしゃい』
 拗ねた子猫か子犬をあやすような、魅力的で優しく甘い声。セレスティは甘く誘う。
 ロスキールはちょっとムッとしたのか落胆したのか眉を下げ、溜息を吐くと半ば怒ったように答えた。
「それがどういうことだかわかっているのかい?」
『はい?』
「わからないのなら、思い知らせるだけのことさ」
 ロスキールの声が冷えていく。氷のような声音は、あの吸血鬼たちが住む異世界の城……ロスキールの居城での声と同じ物だった。
 人間味のあるロスキールの声音から、堕天の血を得たあの妖しくも蠱惑的な韻を含むものへと変わっている。
「前にも言ったよね?」
 暗闇たる声が言った。
 氷獄の魔が手招きするような感覚に、電話の向こうでセレスティはソファーの上にへたり込んだ。
 あの感覚が蘇る。
 必死で意識を繋ぎとめようと努力するだけで精一杯だった、地獄のような快楽。
「君は僕の玩具なんだよ」
 絶望的に、決定的に、その声はそう宣言した。
『おもちゃ……』
「そうだよ。誰よりも綺麗で壊れない玩具。大丈夫、声も枯れるほど……憶えさせてあげるよ。君の愛撫のしかえしに、忘れないほどに。では、またあとでね」
『ま……まって……』
 思い出した感覚に、セレスティの心は木の葉のように彷徨い、細く弱々しい声で言った。しかし、無情にも電話は切られ、虚しく電話の向こうでツーと言う機械音だけが響いていた。

●花が落ちる瞬間に
「ちっ……やられたか」
 谷戸和真は式神を討たれたことに気がついて舌打ちした。
 本来ならば、逆凪のように放った式神の受けた攻撃の余波が跳ね返るものだが、それをそのまま引っ被る和真ではない。そんなものは風に触れ優しく頬を撫でる絹糸のような、一瞬の揺らぎのようなものに過ぎない。
 ロスキールが千里の血を吸おうとしている場面を式鬼が捉えたため、式神で攻撃を仕掛けようとしたが、相手も然るもので、そんな式神の空間ごと凍結してしまったのだった。
 和真は立ち上がると店を飛び出した。
 堕ちた神たる自分の飛翔速度ならば、全速で向かえば間に合うはずだ。
 しかし誘蛾灯、というか自らが作ったものとはいえ同居人の守りを薄くしたくない為、己の力の2割ほどを割いて、それなりの戦闘能力を持った式神を残しておいた。
 そうとなれば、すぐさまそこへと飛んでいく。
 距離で言うならば6、7駅先であろうか。それぐらいならそんなにかからない。やっとたどり着いた和真は校庭に舞い降りる。空間を捻じ曲げて式神を破壊した場所を探すため、和真は意識を集中した。
――ん? あそこか?
 少し違った空間の匂いを嗅いで、和真は校舎の中に入っていく。階段を上がり、美術室の方に向かった。
 ドアを開け、和真は中に入った。
「どこだ!」
 静かな教室に木霊する声がじんと鼓膜を揺する。
 探そうと視線を彷徨わせた瞬間、応じる声が隣の部屋に繋がる扉の向こうから聞こえてきた。
「ここだよ」
 のんびりと答えた声は笑いを含んでいる。
「出て来い!」
「まあ、慌てないでくれないか? 僕には有り余る時間ほどの時間があるのだから……」
 そう言って出てきた青年は軽く礼をすると、人懐こい笑顔を和真に向けて「こんばんは」と言った。後から千里がふらっと出てくる。
 それを見るや、和真は眉をひそめた。
「そいつに何をした?」
「別に。大したことじゃないよ。ちょっとしたディナーさ。ちっとも素敵なレストランじゃないけれど、まあそんなものだよね――急に女の子を口説くときって。それより、この感じは……さっきの子鬼の大将かい?」
 ロスキールは揶揄を含んだ声音で言う。
 ことさらそれを気にする様子もなく、和真は軽く頷いた。
 ロスキールと戦うよりも、千里を連れて逃げようと思っているのだが、千里の様子が変だというのが気になってしかたがない。
 千里は正気を失ったように、いつまでもくすくすと笑っていた。逃げるとはいっても、相手の能力や実力がわからない以上、油断せず全力で事に当たる心算であったが、どうも和真は不利なようだ。
「僕はね、会わないといけない人がいるんだよ」
 ロスキールは鬱陶しそうな表情で和真を見遣る。
「じゃあ、倒してからいけ……できるなら」
「あぁ、倒してから行くよ――子鬼の大将?」
「俺は……神だ」
 そう言って僅かに自嘲すると、和真は猛然と飛び込んでくる。かつて神だったことは遠い昔。こんな自分が自分を神だと名乗るのに、もうそんな資格なんて残っていないはず。そう言うべきではない、そう思ってもかつての永い過去(記憶)が消えるわけでもない。
 堕落ちたとて……神。
 その力、見せ付けてやろう。
 和真は『切裂丸』の力を振るった。人神魔関係なく切り裂く、不型、不壊の妖刀。逃れるものは何者も居ない。しかし……
「ハッ! 振るうだけでは切れないよ」
「捉えるのは、何も一方向ではない!」
「よく言う……それッ!」
 襲い掛かる切裂丸を寸前で避け、ロスキールは後方に降り立っている。瞬時に攻撃。凍った空間が細い糸のようになり、和真を襲う。
 冷気に触れたと思った刹那、和真の腕が肩から落ちた。
「くぁあッ!」
「ほーら、言ったこっちゃない」
「甘いッ!」
「くぅっ……」
「ふはは……負けだな」
「そうかい?」
 切裂丸がロスキールの腕を肘から落とした――と思ったのも束の間、瞬時に斬られた腕は再生をはじめていた。コンマ一秒で再生は終了する。
「あぁ、せっかく貰った服なのに」
 そんなことを言いながら、ロスキールはさも悲しそうな顔をする。しかし、その服も彼が手で触れた瞬間に元通りになっていた。
「なぁ、君。僕の邪魔をしないで欲しいんだけどね」
「では、そいつを置いていけ」
「それは出来ない相談だよ」
 空間を凍らせた糸の上にふわりと乗ると、ロスキールは和真の首を狙う。切り落とされた和真の腕も、もう再生している。
 倒すなら首だろうとロスキールは罠を仕掛け、それに気がついた和真はその糸を断ち切ろうと、切裂丸でそれを切断しようと試みた。
 しかし、空間をつなげて作った糸が切裂丸に斬られることもなく、ふわっと避けるばかりだ。
「くそっ」
「まだまだ実力の半分も出してないんだけどね。まぁ、ここまでにしておこうよ」
「それも出来ない相談だろう?」
「君の相手している暇はないんだよ」
 ロスキールはそう言うや千里を抱え上げた。黒いマントを肩から覆えば、抱いた千里の体は半分ほど隠れる。そして、ロスキールは更に後方へと跳び、暗闇の中に立った。音も無く闇に同化すると、文字通り二人は闇に消えた。

●闇の美姫の気紛れ
 黒榊魅月姫は今日も散策を続けていた。
 見慣れた東京都は少し違う街に半ば期待し、そしてその一方では期待してはいなかった。こんなスタンスはいつも同じ。
 多く得ることを望んだりはしないから、あれこれと詮索することはない。
 そしていつも執着せず、自由に行き来していた。
 執着といえばあの少女――そう、『白い子供』と誤解したままの……祥子と名乗った少女は今日も自分の夢に固執しているのだろうか。
 自分はどんな物事もありのまま受け入れるから、彼女がどうして自分の夢を目の前に己が美醜を問うのか魅月姫にはよくわからない。
 まぁ、今後も情報源として期待しているに過ぎないのだ。しかし、彼女の方は如何だろう。
 きっとそれ以上に期待し、色々と妄想の中にいるのかもしれないが、それも個人の自由としておくことにした。執着されたとて魅月姫には痛くも痒くもない。
 それに、そのこと自体に囚われることも無い。半分は如何でもよいし、必要ならばそれなりに守るだけだ。
 先に渡したピアスはある意味で、その証と言える。
 気に掛かるというのもあって、魅月姫は数日毎にあの喫茶店に立ち寄って彼女の話を聞く事にしようと思った。
 そんな事を徒然と思い巡らしながら街を散策する中で、ふと魅月姫は立ち止まる。
 視線の先にはフライヤー。『Simoon』の文字が見える。
――あぁ、あれが言っていた店のことですのね。
 そのフライヤーはブティックの中に貼ってあった。
 そこはなかなか可愛いゴシックファッションの置いてある店で、魅月姫はその服を目当てに店に入った。
 行くとは決めていないがそのフライヤーをぼんやりと眺め、夏物であろう黒い袖なしのワンピースを手にとってみる。その瞬間からフライヤーへの興味は失せ、洋服の方に興味はいっていた。
 黒いレースのワンピースと薔薇のついた帽子型の髪飾りにストッキング、エナメルの靴を買うと、魅月姫は店の外に出る。
 微かに湧き上がる興味から、魅月姫はSimoonの場所をネットで確認するためにネットカフェに向かう。
 そして店内に入ると一番奥の席に座った。
「少し……視る角度を変えてみましょうか」
 魅月姫のこれまでの散策は気の赴くままで、自分の魔力を使ったことは無い。しかし、今回は魔力感知でもして闇の波動を感じてみようかと思うのだった。

●4月17日 〜朝〜
「ちーちゃんがいなくなった? ふ〜ん……」
 隠岐明日菜は千里がいなくなったと聞いて、のんびりと欠伸をしながら答えた。
 いなくなった時には、明日菜はUSBの解析を行っていたため、それを知るのは朝になってからだった。
「そんな……身も蓋も無い」
 三浦鷹彬はシビアな明日菜の一言にがっくりと肩を落とす。
 出かけていない人間は別にして、遅い朝食を食べるために皆はスイートルームに設えられた簡易ダイニングに集まった。本当はバーなのだが、大きいのでダイニングとして使用している。
 いなくなったと聞いても、明日菜は関心無さげな様子。明日菜的には「敵陣かもしれない異界の中で、たった一人で真夜中に行動したちーちゃんが悪い。捜索に時間を割くのも勿体ない」という考えなのである。
 異界に入った時点で死ぬ可能性があると、明日菜はドライな考えを持っている。取り合えず千里の捜索は、用事の間の片手間にやることにした。
「あれ、シュラインさんは?」
「あぁ、おねーさんなら調べ物だって出て行ったぜ」
「早っ!」
「アンタが起きるの遅いからだろ〜」
「うるさいわね。夜遅くまで頑張ってたからじゃないのよ〜」
「俺も頑張ってたぜぇ?」
「あなたはネットサーフィンしてただけじゃないの。知ってるのよ、イラストサイトの漫画読んでたの」
「きゃ〜、お姉さんのえちー」
 鷹彬が両手を口元に持っていってぶりっ子ポーズをする。明日菜は眉を潜め、鷹彬の額にデコピンを食らわした。
「うおッがぁ〜! いってぇ! 何すんだよ〜」
「馬鹿言ってないで、さっさと探しなさいよ。仲間でしょう?」
「えー、姉ちゃんだって仲間だろ」
「あのね〜、自分の始末は自分でつける。これ、戦闘の基本でしょ?」
「情報屋の基本も自己責任だぜ」
「おーおー、言うじゃないの。そんなことよりさ、セレスティさんは?」
「は? あぁ、あの人なら寝込んでるぜ」
 ふいにセレスティのことを言われて、鷹彬は目を瞬いた。
 不意に明日菜は眉を顰め、そして肩を竦めて見せた。
「マジ?」
「大マジ」
「何で?」
「知るかよ。何度声かけたって、ちょっと調子が悪いからって顔見せねーんだもんよ」
「調査はどうするのよ」
「ネット検索中だってさ」
「あ〜〜〜〜〜、まったく」
 明日菜は頭を掻き毟った。
「行方不明者はいるし、帰ってこない放蕩娘はいるし! なんなのよー」
「調子悪いンだからしかたないだろ?」
「お、味方につくか。やっぱ、若い子って顔が良いと男でも女でもいいのかしらね」
「うがー! 俺は男にキョーミないんで、そこんとこヨロシク。つーかさ、あの人体細いんだし――無理させなくても」」
「まー、そうなんだけどさ。いいや、ちょっと顔見に行ってくるわ」
 明日菜は言ってダイニングを出て行く。
 セレスティの使っている部屋の前に立つと、ドアをノックし相手の返事を待つ。
「もしもーし、セレスティさん」
「……はい」
「具合悪いって、本当」
「……はい――ちょっと」
「ふーん、じゃぁ……お邪魔します」
「ま、待って」
 セレスティが弱々しく言うのも無視して、明日菜はドアを開けようとする。
 しかし、そのドアは鍵が掛かっているために開かず、明日菜はハーネスからUSP.40S&Wを引き抜くとドアに銃口を向けた。9mm弾のパワーを補うため、10mm弾用に開発されたUSP.40S&Wは命中精度に優れるドイツの銃だ。
「セレスティさーん、開けないと――撃つよ?」
 明日菜はさらりと言った。
 そんな時でも明日菜が宣言した通りに行動する人物なのは知っている。撃って誰かが駆けつけた後も、調査中の警察だとか何とか言って従業員を丸め込むだろう。
 簡単に言う相手にセレスティはしばし無言だったが、大人しくドアを開けた。
「おはよー……お?」
 元気良く挨拶した明日菜は、ドアの向こうにいる人物の様相を見て絶句した。
「どうしたのよ」
 反応に困った明日菜はセレスティを見つめる。
 セレスティの長い銀髪は青白い頬に張り付き、蒼く澄んだ瞳はどこか虚ろで焦点が定まっていない。シルクのパジャマは寝汗をかいたのか、ぴったりと張り付いて細めのボディラインを強調しているかのようだ。頬は紅潮して、ほんのりと桜色に染まっていた。
「本当に……風邪でもひいた?」
 呆気にとられて明日菜は呟くように言う。なんか過剰に艶かしい。
「風邪では……ありませんよ」
「じゃぁ、何」
「何でも――ないです」
「………それじゃ埒があかないでしょー!」
 明日菜の声にセレスティは力なく首を振った。
「では、風邪ということで……」
「待てぃ!」
 さっさとベッドに戻ろうとしたセレスティを捕まえ、明日菜は憤然と言う。
「心配するでしょ、はっきり言いなよ」
「ダルいんです〜」
「調査は!」
「ベッドでやります〜」
「ちょっと! 風邪ひいてベッドで宿題やる小学生じゃないんだから〜」
「勘弁してください……」
 その声の弱々しいこと。
 明日菜は何処か不憫になって手を離した。
「しかたないなあ。無茶しちゃダメだからね」
「はい〜」
「もォ!」
 それだけ言うと、明日菜はダイニング兼BARに戻っていった。
 ドアを閉めた瞬間、セレスティは力なくその場にへたりこむ。

(君は僕の玩具なんだよ)

 耳の奥で鳴り響く淫靡な言葉が頭から離れない。
――戻ってきた……
 あぁ、あの夜が。
 冷えた闇の中で薔薇の花に埋もれて越えた夜と、底なしの快楽に堕落された記憶がセレスティを捕らえていた。
 震える体は恐怖からなのではなく、歓喜からだ。どうしようもなく心を蹂躙されて立ち上がる力さえ残っていない。自分の何処かが望んでいるのではないかと、セレスティはぼんやりと考える。
 せめて、彼が千里を連れてくるまで皆には黙っているべきなのではと考えた。こんな状態では、余計皆を心配させてしまう。
 多分、昼間に歩けない体なら、夜になったらやってくるだろう。日に日に長くなっていく太陽をセレスティは顔を顰めて見遣る。
 早く夜になって欲しいと、不健康にも思うのだった。
「しかたありませんね……作業をはじめましょうか」
 やっと立ち上がるとベッドに戻り、セレスティは集まった情報を統合しつつ、きっちりと共有データ化の作業をしはじめる。
 『NIGHT CHILDREN RENTAL SHOP』について出てくる噂等の時期と、消えた生徒の事の相互関係について調査を続行した。学生の街中での行動はごく限られていて、然程はみ出した行動もしないようだったが、向こう側と何ら変わることなく不良的行動をするものは消えているわけでもない。白い子供の出現によって、街が少し静かになった程度で、自己主張の強い子供や学生が消えたわけではなかった。それについてセレスティは考えてみるのだが、なかなか自分の中の意見がまとまりそうにはない。
 行方不明者については、『NIGHT CHILDREN RENTAL SHOP』に関わっていると考え、同じと思って調査は続けた。
 しかし、一番気がかりなのは、逃げ出したというロスキールの状態だった。
 血を吸って回復しても、詳しい検査はしていないから、その辺が気がかりなのだ。もしかしたら、あの忌まわしい麻薬の効果は切れていないかもしれない。
 異世界にすむ吸血鬼たちの性質を考えると、此方側に来て仲間の誰かに接触している可能性が低いとは言いがたい。
 しかし、本当のところは誰にもわからなのだ。
 何処に居るのか場所把握の意味も含めて、WGN-55と携帯を使い、仲間と連絡を取る。
 だが、これから自分がどういうことになるのかは、セレスティには未だわかっていないのだった。

●皇騎の憂い
 こちら側の状況を調べる中で、神聖都学園の中で知り合った――正確には向こう側でも会っているのだが、沖田少年から事情を聞いて見過ごすべき事態ではないと覚悟した。
 これから彼に会う予定があるのだが、昨日帰って来なかった千里のことが気になって仕方が無い。しかし、今目の前にある問題を放置するわけには行かないのだ。
 申し訳ないとは思いつつ、調べた情報は必ず送ろうと皇騎は心の中で誓った。
 自分が今ファーストフード店にいることを書いたメールを送信すると、皇騎はWGNーU55をしまい、これからやってくるだろう沖田少年のことを考えた。
 真面目な彼は向こうでは好かれていた。
 こちらの世界では、どうも『白い子供』に付き纏われていることが原因で孤立しているようだ。彼の気持ちを考えると胸が痛む。
 皇騎は眉を顰めた。
 ふと目の前が翳り、顔を上げれば、やや緊張気味の表情を浮かべて沖田少年が立っていた。
「沖田君」
「先生……本当に来てくれたんですね」
「当たり前ですよ」
「よかったぁ……」
 起きた少年はそう言うと涙ぐみ、手で目を擦る。
「何で来ないかもしれないと思ったんですか?」
「だって……奴等が」
 沖田少年は皇騎の隣の席に腰を下ろして言った。
「え?」
「大人だって……否定してるけど怖いんですよ」
「怖い?」
 皇騎はこちらの大人が『白い子供』をどう思っているか知らなかった。そして、それを聞いたことも無い。
 皇騎は辛抱強く沖田少年がそのことを話すのを待った。
 そして、ゆっくりと――辺りを窺いながら、誰かに見られんとしているのかのように首を引っ込めて話し始めた。
「そうですよぉ。子供同士の喧嘩だと……最初は思ったんだと思うんだ。僕だってそう思ったし。だって、『白い子供』だなんて、やけに子供じみた名称で可笑しいじゃないですかぁ。だから、自己主張の激しい奴の、なんて言うんだろう――そういった遊び?そういうものじゃないかって」
 言いながら怖くなったのか、起きた少年はもう一度辺りを見た。そして、安全を確認すると、もう一度口を開いた。
「勉強できないのを言い訳にして遊んでる奴って、そういうの好きだし、自分のニックネームとかってこだわるじゃないですか〜。自分がどう思われてるのかとか、自分はどの位置にいるのかとか、ばっかみたいだけどね。そう言うことばっかりに目がいって、何かミステリアスな遊びとかあだ名とか?……そんなの欲しがったり自慢したりさ。だから、僕はそう思ってる人間の作り出した遊びじゃないか、喧嘩を格好良く彩る暗号みたいに使ってるんだと思ったんだよ。だから、大人の人たちもそう思ったって、ちっとも不思議じゃないし。自分もそうだったんだから。だから、自分の身に起こるまでは噂とか思ってて……」
「そうしたら、本当だったと?」
 皇騎の言葉に沖田少年は頷いた。
「そうなんだよね……。ある日、学校に来なくなって……宮小路先生だって心配してたでしょう? 高井があの日からおかしくなって、突然突き飛ばしたりしてさぁ。最初はちょっとふざけただけだよなぁ、あいつのことだから反省とかしちゃって『ごめんなぁ〜、沖田ぁ』とか、いつもの間延びした声で謝ってくるって思ったし。でも、次の日からそうじゃないって思い知らされた」
 ぽつりと少年は言った。
「次の日から佐藤がおかしくなって、俺のこと虐め始めたから……」
 もう何もかもが昔のことで、終わってしまったんだと――もう二度と戻ってこない年月を思う老人のような声で言った。
「だめだよなぁ」
「沖田君……」
「あいつら、戻ってこないんすよね。どっか、遠くの……向こう岸に行っちゃよー、みたいな。遠くに行き過ぎちゃって、もう僕が覚えてる高井とか佐藤とかって、幻だったんじゃないかって思えてる。ねぇ……宮小路先生」
「なんですか、沖田君」
「先生ってさぁ、本物?」
「え?」
「だってさぁ、みぃ〜んな何もかもが……俺の生活って言うのが変わっちゃって。母さんとか、妹かも俺のこと怖がって近寄らないし。今まで築き上げたものが壊れちゃったような気がしてさ。正直、昨日先生が話し掛けてくれたときも、今朝電話くれたときも夢かなぁ〜って思った。うん、夢って言うのが丁度いいな。そう思ったよ」
「私は……本物ですよ」
 そう言って、皇騎の胸はきりりと痛んだ。
 自分は宮小路皇騎だ、間違いなく。しかし、向こう側の宮小路皇騎なのだ。こちら側の皇騎ではない。
「せんせぇ〜、傍にいてよ……俺、おかしくなりそう。俺、何もしてないもん」
「沖田君が何もしてないのはわかってますよ」
「うん――してない」
 沖田少年は小さな声で言った。
「わかってくれるんだ」
「当たり前ですよ。それより、対策を立てましょう。このままでは本当に大怪我でもしてしまいそうですし」
「うん、いつかきっと僕は死ぬかも」
 皇騎は沖田少年の言葉を聞いて、良い人ぶるつもりは無いが、彼の力にはなれる様に尽したいと思った。
 どこか遠くを見つめたまま、その息が止まるまで細々と呼吸をして生きているような頼りなく細い存在が悲しい。皇騎はそんな姿を見て、唇を噛んだ。手を離したら何処まで飛んで失速すると彼の存在を感じてしまったことが辛い。
「沖田君……学園内で君と同じ状況の生徒はいないですか?」
「え? あー、雛川かなぁ」
「雛川? 2-Cの雛川ですか……彼女は人気者でしたよね」
「うん。でもさぁ、久野が転校して来てから影薄ィ〜よなと思う」
「久野?」
「そう、久野まさみ。1月ぐらいにいきなりドイツから転校してきたやつ」
 それを聞いて少々皇騎は焦った。
 向こう側では久野という子はアメリカから転校してきた生徒だったはずだ。しかも、顔も普通だし頭も並としか言えないほどだった。
 相違が出てきたことに少し焦りを感じつつ、皇騎は何事も無かったように話を聞きつづけた。こうなったら、しばらくの間は学園内から行方不明者の件を調べるしかない。
「雛川の受けた被害とかは?」
「すっげーんじゃないのかな。あんまし想像したくないよ」
「そうですか……」
「先生って……大変だなぁ。こんな状況で僕の話とか聞いてくれるんだもん」
「……沖田君」
「えへへ、今日は先生独占しちゃった♪ なぁ、先生……」
「なんですか?」
「僕のこと――掴まえててよね」
「……」
「どっか、飛んできそう」
「そんなこと言うもんじゃないですよ」
「うん、ごめん。もう言わないよ、雛川に僕からも連絡とってみるし……先生、雛川のこと助けてよ。あいつ、僕のこと庇ってくれたんだよ」
「わかりましたよ。大丈夫です、私の大事な生徒ですから」
「……ありがと。じゃぁ、僕行くね。先生に何かあったらイヤだしさ」
「沖田君、大丈夫ですか?」
「平気平気。宮小路先生から元気貰ったから、大丈夫」
 そう言って沖田少年は立ち上がると走っていった。自動ドアの前で立ち止まり、晴れやかな笑顔を向けてから、振り向かずに走っていく。
 人波に消える少年の姿を、皇騎はずっと見つめていた。
「私が……助けますから……」
 皇騎は呟く。
 生徒から他校の様子も同じなのかを確かめようと皇騎は思った。
 同じ状況なら、その生徒達とも連絡を取って、密かに連係出来るようにすれば被害も少なくなるはずだ。
 こういったときには一人で戦ってはいけない。彼らを励まし助けながら、自分達は平気なのだと信じてもらうことが必要なのだ。
 同時に『白い子供』の動向などを、彼らの視点から捉えようとした方がよい気がした。生徒達の視点で見ることで事件に迫れば、きっと糸口は見つかるはずだ。
「私が助けますから……」
 皇騎は少年が走っていった方向を見つめ、もう一度呟いた。

●Gemini Round 2 〜4月17日 〜昼〜
「皮袋……どっかで聞いた事があるような」
 不動修羅は手頃な喫茶店に足を運び、弟の尊とともに休憩していた。
 昨日の夜からどこから聞きつけてきたのか知らないが、閉口するぐらい人に襲われている。その襲ってくる人間達は戦ったことも無いような弱い学生であったり、粗暴を屈強と勘違いしているようなヤクザであったりした。
 日に五・六回襲われると流石に辟易してくる。溜息を吐きつつ、修羅はアイスコーヒーを飲んでいた。
「皮袋と云う単語をネットで調べてみれば良いんじゃないか?」
 尊が言った。
 修羅は逡巡することなく「頼む」とだけ言って、四肢を伸ばして背もたれに寄りかかった。
「あー、しんどいな。まったく、奴等には飽きるという言葉は無いのかよ」
「あるぐらいなら、とうの昔に俺達は暇になってるよ」
「だろうな……」
 誰かに気付かれないように、そっと外を見れば春の眩しい日差しが街を照らしていた。
「あったぞ、兄さん」
「なんて書いてあるんだ?」
「吸血鬼」
「は?」
「迷信の言葉の一部さ。えーっとな……斯様な膨張した死体としての吸血鬼は、骨が無い者とも考えられ、セルビアの吸血鬼は骨がない血袋のようなものだと言われている――だってさ」
「そうか。でも、反対じゃないか。白い子である自分達以外の人間を皮袋と呼んでいただろ?」
「だから、向こうからしてみれば人間の方が――ってことなんだろうさ」
「じゃぁ、白い子供=吸血鬼という構図で正解なのか」
「かもな」
 今回の事件に吸血鬼が関わってる可能性があると見れば、修羅は尊にコルトピースメーカーという拳銃と銀の弾丸を実体化してもらうことにする。いざ戦闘になったらワイアット・アープを降霊すれば良いと思っていた。前回、噂を流したSimoonにもう一度行ってみるのも良いだろう。
 噂と云うのは時間をおいて広がったりする。前回とは別の種類の人間が集まっている筈だろう。
「おい、ちょっと耳を貸せ」
「何だ、兄さん? 貸したものは返してくれよ」
「冗談言ってないで耳を貸せって」
 真顔で言った尊に対して修羅は呆れたように肩を竦めた。
「俺にちょっとした考えがある」
「へえ、どんな考えなんだ?」
「まあ、簡単なことだけどな……」
 そう言うと、修羅は尊に耳打ちした。
 最後まで話を聞くと尊は一つ唸ってから頷く。
「なるほどな……それは良いんじゃないか? でも、何かあったら――やばいぜ」
「そんなのを気にしてたらやっていけないだろ。じゃぁ、Simoonの近くに行って作戦を立てよう」
「了解」
 残り少なくなったアイスコーヒーを尊は飲み干し、荷物をまとめて立ち上がった。

●合流 〜4月17日 〜PM5:00前〜
 明日菜はこちらの世界のノートパソコンを購入した後、USBの解析をはじめたがさすがに時間が掛かってしまった。自分の世界と違うものならば、これでわかる可能性もあるが、少し時間を取られすぎたようだ。
「うーん……さっきと違った動きするでもなし。どうなってるのかしら?」
 プラスドライバー片手に明日菜は唸った。仕方なくスペルブレイカーと繋げて様子を見る。その間に明日菜はこっちに来た仲間達が、この世界ではどんな性別で、どの様な職業ついているかを調べるために市役所のデータベースの中に入り込むことにした。
 外資系のデータベースよりもセキュリティーがきついのは難点だが、さして困ることなくアクセスできた。
「えーっと、セレスティさんはぁ〜……聞いた通りだわね。名前と住所、性別しかわからないと。ちーちゃんは男の子かぁ。谷戸さんは東京には居ない……のかしらね」
 ぶつぶつと呟き、明日菜は手元にあったコーヒーに手を伸ばす。
 不意に携帯が鳴り響き、明日菜は飛び上がった。その拍子にコーヒーをひっくり返し慌てて電話を取る。
「あちちッ! んもォ〜、この忙しい時に……はい、もしもーし?」
 明日菜はこぼしたコーヒーをティッシュで拭きながら言った。
『あらあらあら〜、明日菜』
「あ、どーしたのよ」
 いきなりかかってきた電話の声を聞いて明日菜は目を瞬いた。義母の
『こっちに来たのよ〜』
「ちょ、ちょっと! こっちに来たって軽く言わないでよ。祐介にでも来させりゃいいじゃない」
『ん〜、祐介も一緒なのよ〜』
「げぇ!」
『一緒にお茶でもしましょうよ。つもる話もあるだろうし』
「つもるも、くもるも何も無いわよ。確かに状況とは話とかないといけないけど、セレスティさんは起き上がれないし、シュラインさんも出かけてるし」
『あらぁ〜、セレスティさんはお怪我でもなさったのかしら?』
「怪我してないわよ、熱でもあるみたい」
『うーん、どうしましょ〜』
「どうするもないわよ。私は連絡終わったら高峰研究所跡に行くつもりだけど」
『あら、高峰研究所跡に何しに行くの?』
「そこに祠があってね、そこのUSBスロットに自分のUSBスティックを差し込んだらどうなるか調べたいのよ」
『じゃぁ、会って情報交換しましょうよ』
「了解。うーん……泉岳寺駅で待ってて。そこに跡地があるから」
『わかったわ、じゃあね』
 義母の言葉を聞き、明日菜は電話を切った。
 自分のモバイルとスペルブレイカーをバッグにしまい、明日菜は立ち上がるとドアの方に歩いていく。そして、ドアを開け、その部屋を後にした。

●She said... 〜4月17日 〜PM7:00前〜
「悪くないな……」
 祐介はベッドに座ったまま、窓の外の夜景を眺めて言った。
 ここは都心部のホテルの一室。昼間に義姉と義母に会って情報交換をした後に急遽ここを自分達の本拠地にすることにしたのだった。しかし、それも隠密裏にであって、他の誰にも教えてはいない。
 千里が帰ってこないと聞いて祐介は溜息をつく。
 調査が難航しているのか、それとも何かあったのかわからないため気になっているのであった。とは言え、千里も無力ではない。大抵のことなら逃げてくるはずだから、今のところは何も起きていないのだろうと思っていた。
 義母たちは街の調査に出かけ、祐介は貴賓の相手を仰せつかったのである。
「何だ、祐介……溜息などついて」
 背後から聞こえた声に祐介は振り返る。
 部屋に設えられたカウンターバーでスコッチを飲んでいたヒルデガルドが、そんな祐介を見ておかしそうに笑っていた。
「いや……何でもない」
「おやおや、忍んで来いというからここに居るというのに」
「全然、忍んできてないぞ」
「どうでも良いではないか。どうせ、祐介の部屋は隣だ。大して変わらない」
「まぁ、な……それで――来ないのか?」
「ん?」
 問いに対してヒルデガルドは小さく微笑んだまま少し首を傾け、悪戯な表情で祐介を見た。そしてグラスを持ったまま近づいてくる。
「ほら、来たぞ?」
 そんなことを言いながら隣に座る。
「今のお前は、前のお前とは少し違うな。さて、どちらが本物なのか」
「どちらも」
「であろうなぁ。私にとってはどちらも変わらぬ、可愛い祐介ではあるがな」
「そういった感想は初めてだ」
「ほう、そうか?」
「あぁ……。ヒルデガルド、惹かれたのは『呪われしもの』の方か?」
「いいや、祐介。どちらでも……そして、どちらも――だ」
 ヒルデガルドは祐介の顎を掴み、祐介の方もそれに抵抗することはない。きっちりと着こなした神父服を乱すことなく、表情もそのままで見つめ返す。
「祐介……すました顔はいつまで続くかな?」
「さぁ?」
 殊更興味のなさそうな声で言う。
 ヒルデガルドは笑った。
「ふふふ……久方ぶりに強き者達に出会うことが出来たのは、神の思し召しか?」
「へぇ、吸血鬼も神に祈るのか」
「さあな。故あらばするかもしれんぞ。まぁ、私達は遠き神より近き快楽だな。随分と経ったが、変わらぬようだ」
「そうか……」
 そう言うや、ヒルデガルドは祐介に向かって手刀を振るう。それを軽く避け、祐介はヒルデガルドの逆手をとってベッドに押し倒した。
「こんな実力じゃないだろう、遊んでるのか?」
「じゃれなければ掛かってこないだろう、祐介は」
「素直が一番だぞ」
「この年になって素直もあったものではないな」
「口はふさいでおいた方が良さそうだが……どうするか」
 そう言って、祐介は何かないかと辺りを見回す。
「声が聞こえないというのも味気無いし」
「余裕だな」
「余裕なのはヒルデガルドの方だろ? あとで啼いても知らないからな……」
 そう言って、祐介は薄い笑みを浮かべた。

●留まりし静の中で 〜4月17日 〜PM5:00前〜
「白い子の噂の出始めが二年前……武彦さん失踪との関係を考えるには、微妙なズレね」
 シュラインは図書館の新聞などで過去の大まかな記事や政治状況を調べていた。
 関係ないかも知れないが、気になるので株価変動等も一応確認している。誰かに邪魔されるのを避け、シュラインは図書館の資料室に本や資料ファイルを持ち込んでいた。
 彼女の真剣な様子を気に留めるものは居なく、静かな部屋の中にシュラインの声だけが響いている。
 二年前からの株価は安定していて、逆に武彦の居なくなった三年前は太平洋側で大雨が降った後に震度6の地震が直撃したことが要因となり、株価の下落が起きていた。
 通常、災害が起きた後の株の安定が起きるのに時間が掛かる。なのに、この時は地震後から異常な安定を保っていた。その原因はわからない。意図的に誰かが干渉した動きが見えなくも無く、シュラインは悩んだ。
 白い子供と黒い子供達に関わる事件がメディアに出てないのもおかしい。何も無いのがかえって異様だ。
 白い子供達だけの集団としても、協力者として何かしら組織と繋がってる可能性を念頭に考えなければならないだろう。不動兄弟から聞いたところから連想すれば、ヤクザ絡みの事件も考えられる。
 シュラインには、ただ噂が突然流れるということは考えられない。元々は我々の世界の何かが、その時期辺りにこちらへの介入法に気が付いて移動したのではないかと思えるのだった。
 避難所なのか、餌場なのか……また遊び場や練習所なのかはわからない。何の意図かは未だもって謎だが、それらのどれかに利用し始めたとも考えられる。
 今出来ることは、昨日手に入れた興信所資料の整理だけ。
 シュラインは白と黒双方の子供たちが関わってそうなものや、各組織だったものの情報を調べた。
 例えば、駆け込み寺のように、向こうの世界に戻りたい人間の駆け込んだ後など無いか、そういうところから入念にチェックすべきだ。そう思って丁寧に調べていったのだが……
「うー……辛い〜。あー、こんなときに零ちゃん居たらなぁ」
 そう言ってシュラインは黙った。
 独りで黙々と仕事をこなし、三年の間、誰も居ない中で頑張ってきた零のことを考えると申し訳ない気がした。
 もう一人の自分。
 三年前に武彦を追って消えた――私。何処に行ったの? 武彦さんは見つけられたの? 見つからなくて、今も何処かの街で途方に暮れているの?
 そんな想いが去来して、どんどんと降り積もる雪のように視界を滲ませていく。行き場を無くした人達が彷徨って消えていくような、そんな想像が自分を捕らえた。
「だめだめっ! しゃっきりしなくっちゃ! えっと〜、何か接点ないかしら……ん?」
 頭を振って雑念を吹き飛ばしたシュラインは、あとで読もうと思っていた雑誌の中に、裏路地の流行店特集の記事を見つけた。その中に不動兄弟から聞いていた『Simoon』と言う店を発見する。
「へぇ、こういうお店なのね。クラブってやつか〜……不良の子とか多そう。あら、こっちのお店は可愛いわね……ケーキが美味しそー」
 雑誌を見て楽しげに言った。
 真っ赤なラズベリータルトレットにショートケーキ、季節はずれのミンスミートパイ。どれもこれもが美味しそうに見える。
「なんか買って帰ろうかしら。うーん、でも帰ってこない人もいるしなぁ……ちーちゃんは何処に行っちゃったのかしらね」
 甘いものが好きな人も育ち盛りの子もいるしと、シュラインは暫く考え込む。
「ま、いいか。買って帰ろう」
 シュラインは立ち上がり、荷物をまとめはじめた。目指すはケーキ屋さん。今からなら日の落ちる前に店に着くはず。買って帰ってもそんなに遅くはならないはずだ。危険に巻き込まれることなんか無いだろう。
 皆でケーキでも食べて一息吐こうと考え、シュラインは鞄を持って資料室を後にすると、ケーキ屋さんへとまっしぐらに向かった。

●手招く闇とその声に 〜PM7:00前〜
 もう、夕方5時を過ぎた頃から作業は進まなくなっていた。
 溜息ばかりで、一向に仕事がはかどっていないことにセレスティは気がついていたのだが、かといってやめるわけにも行かず、ゆっくりと作業を進めるのだった。
 そして、遅々として進まぬ作業と時間の歩みをやり過ごし、セレスティは6時半を過ぎた頃にはWGN-55をしまう。これ以上やっても意味が無い。
「千里さん……帰って来れるのでしょうか」
 ポツリと呟くと、沈みかけている太陽を見つめた。煌く一瞬の残光は遠くへとその矢を投げかけているものの、あと10分もしないうちに日は沈み、世界は夜に生きる者達の時間となる。どんなに頑張ったところで、昼は夜に追いやられるのだ。
 セレスティは切ない溜息を零し、今日と言う日の太陽の死をずっと見つめていた。物思いに耽って時間を忘れ、ふと気がついたときには夜が訪れている。
 セレスティはとうとうやって来てしまった夜に憂いを見せた。
 そして、溜息を制すように、高く澄んだ声が後方から彼を――セレスティを捕らえようと聞こえてくる。
「……セレスティ」
「ロスキールですか?」
 聞こえてきた声は忘れ得ぬあの声――ロスキールだった。
「Guten tag.」
 黒い闇の向こうから聞こえてくるような声音に、セレスティは深遠の淵に立たされているような気がした。凍る世界の端に立って、何処に行けばよいのかわからぬような虚無が自分を襲う。大抵のことには動じないセレスティが恐れながら少し振り返った。
「僕が……怖い?」
 屈託無く氷のような声は言った。まどろむような春の夜の中で、その声だけがやけにくっきりとしているように感じる。
「いいえ……ロスキール」
 小さなランプシェードの光に照らされた仄暗い部屋の中で、セレスティが小さく笑う。
「なら、キスをしてよ……久しぶりに。お目覚めのキスが無いと起きれないのさ」
 その言葉にセレスティは苦笑し立ち上がる。ソファーの向こうにロスキールが居た。足元には千里が座っている。
「千里さん……」
 幼子のような表情で千里は笑った。声をかけても返事をせず、笑う姿は酷く無気味だった。壊れているといえるような状態だ。
「下僕に……なったのですか?」
「あはっ……あはあ……」
 笑うばかりで千里は答えない。千里の貧血状態をセレスティは能力で回復してやった。ロスキールから何か聞けないかと思っていたようだが、今はそれが出来る状態ではなさそうだ。
「その子はね、下僕なんかじゃないよ。、まだ『命じて』いないからね」
「ロスキール、千里さんを解放してください」
「その前にキスしてくれなきゃ――ね?」
「……」
 セレスティはゆっくりと近づくと、ロスキールの頬にキスをする。
「本当はもう少し官能的なやつを所望したいけど、お目覚めのキスだからこれでいいや。……ところで、セレスティ。約束は覚えている?」
「約束?」
「嫌だなぁ〜、ご馳走してくれるって言ったじゃないか」
 笑ってそう言いながら、ロスキールはセレスティの腰に腕を巻きつけて引き寄せた。
「えっ? あ、それは……」
「僕はね、君を噛み殺してしまわないように今まで我慢していたんだよ」
 ロスキールはセレスティを抱きしめ、耳元で囁く。途端に背を快感が這い上がっていく。セレスティはその感覚に身を預けそうになるのをこらえた。
「城では紫祁音が打った薬のお陰で自制できそうになかったし、君に怪我なんかさせたくも無かったしね」
「ロスキール……あなたは」
「大丈夫、今日は気分が良いんだよ。なにも噛み殺したりしないさ」
「や……いや……」
「約束は守ってもらうよ。この子を助けたいんだろう?」
「は、離して下さいっ……」
「嫌だね」
 それだけ言うと、ロスキールはセレスティを抱え込んでソファーの上に引き倒す。腕を掴んで押さえ込めば、首に巻いていたリボンタイを外してセレスティの手首を縛った。
「ち、千里さん助けてっ!」
「あぁ、彼女には聞こえないから」
 いともあっさりロスキールは言った。
 愛しそうにセレスティの痩せた胸に顔を埋め、ロスキールは安堵の溜息を吐き、四肢を弛緩させて寄り添うようにソファーに寝そべる。
 静かな夜の中で安らぐ姿にセレスティは目を瞬いた。
「……ロスキール?」
「セレスティ……君は永い時を生きているのだろう? 姉上とあまり変わらないぐらいだってね。だとしたら、四百年は君のほうが年上ってことになる」
「はい?」
「長く生きていて辛くは無いのかい?」
「……いいえ」
 いきなりそのようなことを聞かれ、セレスティはまじまじとロスキールを見つめた。逡巡したのは答えに困ったからではなく、何を意図しての言葉だかを考えたからだ。
 逃げられない状態で、セレスティはどうしてよいのかわからなくなった。
「そうか、いいね」
「え?」
「なんでもないよ……さぁ、ご馳走しておくれよ。と言っても、強奪させてもらうけどね」
 さっきまでの様子を一転させて、ロスキールは悪戯っぽく笑った。
 不意に力を入れ、セレスティの腕を押さえつけると、ロスキールはセレスティの体の上に馬乗りになる。
「ダメです……離しなさい!」
 足で膝を割られ、セレスティはもがく。力の弱いセレスティではロスキールにかなうわけがない。
「嫌も何もないよ。この期に及んで命令するの? 君だって期待してるくせに……僕は憶えてるんだよ。君が城で嬉しそうに啼いていたことをね」
「あ、あれは……」
「ここをこんなにして言う台詞じゃないね、セレスティ?」
 蠱惑を含んだ声にセレスティの体は反応する。それを見逃さず、ロスキールは含み笑いを浮かべた。乱杭歯が覗き、セレスティはそれに視線を吸い寄せられる。
――あぁ……
 ただ一つの呼吸だけが許され、そしてそれも甘い悲鳴に変わる。まるで振り下ろされた死神の鎌のように乱杭歯はセレスティの喉にその刃を食い込ませ、滲み出る命の雫を奪わんがために深く更に深くと潜り込む。
「――――――――――ぁっ……」
 もう声になどならなかった。
 押さえ込まれた息苦しさなど物の数ではなく、息を吸うのも忘れたようにおおよそ悲鳴とも言えぬ悲鳴を上げる。やっと息を吸っても、喉の奥をひゅうひゅうと鳴らすだけで言葉にはならない。
 視界が滲む。
 泣いていたのかも知れない。
 痛みのためだろうか? もしかしたら、もう見ることも無い太陽を恋しがって泣いたのかもしれない。
 自分にはこれからどうなるのかなどわからなかった。ただわかるのは……奪われていく血の代わりに、終わり無き快楽が与えられる予感だけだった。
 息が喉元に触れるだけで感じていく。
「ひぃっ……」
 その小さな悲鳴にロスキールは苦笑を滲ませ、セレスティの喉から顔を離す。
「まだ始まったばかりだっていうのに……こんなのが我慢できないようじゃ、先が思いやられるね」
「ぁ……」
「安心していいよ、まだ君はこちら側に来れない。徐々に調教してあげるからね? さぁ、そのうちに君の仲間が邪魔しに来るかも知れないから移動しようか」
 セレスティは虚ろな視線をロスキールに向ける。
「僕の城は一つじゃない。また綺麗に飾ってあげるからね……今度は何が良いかな? でもね、もう決めているんだよ。ずっと前に建てておいた場所に君を連れて行ってあげるよ」
 セレスティの思考は纏まらぬまま、ただロスキールを見つめるだけ。
「フフッ……君の仲間は君を――見つけられるかな? 間に合うかね? これって賭けに近いよ、うん。ちょっとは面白くなりそうだよ。僕の願いは一つだから……」
 手首を縛られ抵抗も忘れて見つめ返すだけのセレスティを抱き上げると、ロスキールはなかば部屋着と化していたセレスティのガウンを肩から掛けてやり、そして歩き始めた。
 何も言わず、千里は二人を見つめている。ふと、ロスキールは振り返り、千里に命じた。
「おまえ、ちさとと言ったね。お前の仲間達が邪魔するようなら撹乱するように。お前と僕を繋ぐ糸も切れてはいないから、安心おし……可愛い子猫ちゃん」
 笑う千里に向かってロスキールは優しく笑った。
「あはぁ……あはは……」
「いいかい? 朝になったら君はいつもどおりだ。何の心配をすることも無い」
「あう……いってらっしゃい……ませ〜、ごしゅじんさまぁ」
「あぁ、では行ってくる」
 そして、ロスキールはセレスティを抱えたまま、その部屋から消えた。

●罪な月にて歌え、凱歌を
「準備OKか?」
 修羅は言った。
「うーん。兄さん、ちょっとファンデーションが濃くないか?」
 鏡を覗きながら尊は難しい顔をして答える。
 吸血鬼なのではないかという考えに、尊は白い子に扮装することにしたのだが、買ってきた物を前になんともいえない顔をした。
 一番白いファンデーションに化粧下地用クリーム、粉白粉(ルースパウダー)、アイシャドーとチークは不健康な色合いを用意した。
 無論、それはゴシックファッションの専門店で修羅が買ってきたものだ。
「兄さん、この化粧……怖いぜ」
「我慢だ」
「こんなの我慢したくないな」
 黒っぽいスーツに黒いスプリングコートを着て、それなりにゴシックな格好にしてみたが、尊は着慣れない格好に戸惑っているようだった。
 一応ブランド物なのだが、なんとなく違和感を感じて眉を寄せる。
 吸血鬼対策になりそうなアイテムの実体化し、尊は銀の弾丸とコルトピースメーカー、ニンニク、聖水、小型の鏡を修羅に渡す。白木の杭は邪魔になるので、ちょっと太目の爪楊枝にしてみた。
 修羅はそれらを隠し持っておくことにする。
「じゃぁ、行くか」
「あぁ」
 不動兄弟は再びSimoonに向かった。
 当然、一緒には店に入らず、間を開けて入店する。
 ゲームソフトに登場するヴァンパイアを尊は自分にインストールしていたからあまり戸惑うことは無い。
 尊はこちらから『白い子』だと名乗ったりせずに、まず来客の様子を観察する。
「皆……鏡に映ってるな」
 尊は独りごちた。
 店内の鏡やガラスに注目したのは、姿が映っていないのがいたら吸血鬼であろうと思ったからだ。
 店内で耳を澄まし、黒い子供もしくは白い子供の話しをしている人間を探す。
 自分は白い子供で黒い子供を捜しているから協力して欲しいと言うと、相手は最初のうちは笑って「からかうなよ」と言ったが、データをインストールしてある尊を見れば本物の吸血鬼に見えたらしく、その雰囲気が白い子供に似ていたので喜んで協力してくれた。
 そして、その様子を見ていたものが修羅以外にいた。
 和真だ。
 一応、情報収集もかねてと、和真が鼠型の式鬼をSimoonに潜り込ませておいたのだが、修羅たちはそれに気がついていなかった。
 一時間ほどが過ぎ、尊も修羅も本物の白い子供の登場を諦めていた頃、俄かに店内が騒がしくなった。
 今まで掛かっていた気だるい曲がいきなり速くなり、テンポの良い曲が流れ始める。それにあわせて誰かが拍手し始め、そしてそれも囃す声と共に壮烈なクラップの渦となった。
 それに合わせ、ダンサーが踊り照明が変わる。何かを予感させるムーヴメント。妖しく踊る少女達の滑らかな脚のラインがスポットライトの下できわどく浮き上がり、うねる。
「みんな〜、元気ーぃ!」
「みんな〜、元気ーぃ!」
 手拍子の形作る曲を切り裂くように、少女の声が叫ぶように響き渡る。
 その瞬間、天が割れるような歓声が店を満たす。
「真っ白でぇ、ご機嫌な世界にぃ」
「ご機嫌な世界にぃ」
「真っ黒な色が落ちてるんだな、これが!」
「落ちてるんだな、これが! 六つも!!」

――コ・ロ・セー!

 誰かが叫ぶ。
 その意味すら考えずに、少女達が笑いながら同じように叫んだ。
「六つ?」
 尊は耳鳴りの止まぬ歓声の渦の中で独り呟いた。
 その中に自分と兄がいたとしても、あと四つは何なんだろう。
「うわぁッ!」
 答えを知る前に尊はいきなりライトを当てられ、光の中に投げ出されたような気がした。スポットライトが攻撃するように尊を照らし出す。
 多分、修羅も同じようになっているはずだろう。眩しくて見えなかったが、そんな気がしてならなかった。
「ま、眩しい……」
「隠れたって無駄」
「隠れたって無駄」
「くそぉ……」
「ばれてるんだから〜」
「ばれてるんだから〜」
「だからっ♪ ご飯の時間なのぉ〜」
「ご飯の時間なのぉ〜、美味しそう♪」
 姿無き声は笑った。
「はーい、白い子になりたい人〜。生き残ったら仲間に入れてあげないでもないYO☆ だから〜」
「だから〜……楽しくKilling Go go!」
 その瞬間、誰もかもが尊めがけて襲い掛かる。
 白い闇の中に凶暴な人影が踊った。その死を呼ぶ踊りは殺意の塊。尊はコートを翻して避ける。
「兄さんッ!」
 半ば悲鳴に近い声も客の歓喜の声にかき消される。
 いきなりボディブローを食らい、尊は吹っ飛んだ。顔を上げれば、ライトの下で二メートル近い巨体の男が下卑た笑いを浮かべている。
「うぁぁ……」
 腹を押さえ、尊は睨んだ。
 格闘ゲームをインストールしなかったことをこれほどまでに後悔したことは無い。この状態だと紙くずのようにこの男に扱われるのだろう。
――死ぬ。必ず殺される……
「馬鹿ッ! 立て、尊ッ!」
 修羅が襲い掛かる人間達をなぎ倒しながら走ってきた。
「に、にいさ……」
「行くぞっ!」
 倒れた尊をすぐさま抱き起こすと、修羅は拳銃を片手に周囲を威嚇しながらドアへと向かう。時折、拳銃の存在すら忘れた想像力の無い少年が襲い掛かったが、銃のグリップの角で殴ってやり過ごした。
 そして、店の外に逃げ出すと追っ手がいなくなるまで走り、表通りへと二人は逃げた。

 一方、店に残った白い子供曰く、四つの黒きシミ――その一つは元々が紙で出来た式神だったために踏み潰されてしまっていた。
 残された三つの一つ――シュライン・エマは調査がてらにとSimoonに足を運んだことを後悔していた。ケーキの箱を抱えたまま、まるで地獄を見たかのような表情で舌なめずりする客をぼんやりと見る。
「だめ……もうだめ」
 混乱して恐怖も忘れ、呟いた。
 視界を焼く光に心が凍り、立ったまま動けない。
「ぁ……」
 ゆっくりと近づいてくる人影は死神のようだ。
 誰かが叫んだ。
 走ってくる人々の群れ、生贄はシュライン。
 絶望という意味をシュラインは知った。
 手も足も出ない、心さえも動かない――それが絶望。
「武彦さ……助け……」
 虚ろに紡ぐ言葉は大切に思っている人の名前か。
 ふと、呼吸さえも忘れて立ち竦む彼女の前に空間が出来上がる。足元には人間達。後追って銃声が響いた。空気が震える。
 そして――心が揺れた。
 視線の先に見えたのは、忘れ得ぬ人の顔。
「武彦さん……」
 しかし、その人影はシュラインに逃げる一瞬をくれてやると、後は自分でどうにかせよと振り返らず走っていった。
「ま、待って……待ってッ!」
――こっちの……武彦さんだわ。
 シュラインは直感した。だから叫んだ。
 声をコントロールし、超音波のようにして襲い掛かる人間達に放てば、よろめく間に走り出す。
「待って!! 零ちゃんが……待ってるから――お願い、振り返って!」
 再び襲い掛かる人の中でシュラインはもみくちゃにされる。何かで殴られたような衝撃を受けた気がした。視界が揺れる。
「武彦さ……」
 蹲りながらシュラインは呟いた。
 そして何度も声がかれるぐらいに叫んだ。それは音波なのかただの叫びなのかわからなかった。ただ、何かに向かって叫んでいた。
 肩を抱かれ、揺さぶられているのにも気が付かず、何度も叫ぶ。
「……シュライン、シュラインッ!!」
「……ぁ……」
「血が出てるぞ」
「武彦さ……」
「話は後だ!」
 何度も襲い掛かる人間の足元に、武彦は銃をぶっ放す。威嚇用に借りてきた銃だったが、それなりに役に立ったようで、さすがの暴徒も恐怖の色が隠せない。
 じんと痺れる感覚に眉を顰めながら、武彦はシュラインを抱き起こし、支えながら出口へと後退していく。
 やっとの思いで店の外に出ると、もう一発ブチかまして走れるだけ走った。
 そして店も遠くなり、誰も追いかけてこないのがわかると、念のためにタクシーに乗って逃げる。
 タクシーの運転手に適当に走るように頼むと、武彦は溜息をついた。
「シュライン……一人で行くなよ」
「……んー」
「どうした?」
 虚ろに彷徨うシュラインの視線が自分の手元に注がれているのに気が付くと、慌てたように銃をしまう。
「こんなの……見つかったら大変だな」
 苦笑で誤魔化しつつ、武彦が言う。
 シュラインが大事に抱えているものを見遣り、首を傾げた。
「ん? それは?」
 シュラインの手の中でケーキの箱が潰れていた。握り締められ、原型無く潰れている。
「……けぇき」
 ふと我に返ったシュラインは、じわっと滲む視界の中に見える武彦に向かって言った。
「は?」
「けぇき……買ったのよ。みんなで――」
 その先は聞こえなかった。
 武彦は小さく溜息をつくと、変わらぬ笑顔で言った。
「しかたない……どこかで買って帰ろう」
「…………」
「帰って皆で食おうな?」
 それを聞いてシュラインは頷いた。
 たったその一言が、シュラインにとって何物にも代えがたいものに思える。
 ぎゅっと服の端を掴んで、何度も頷いた。

 ■END■

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■   登場人物(この物語に登場した人物の一覧)  ■
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【整理番号/ PC名 / 性別 / 年齢 / 職業】

0086/シュライン・エマ / 26 / 女 / 翻訳家&幽霊作家+時々草間興信所でバイト
0165/月見里・千里/女/16歳/女子高校生
0461/宮小路・皇騎 / 男 / 20 / 大学生(財閥御曹司・陰陽師
1098/田中・裕介/ 男 /18歳 /高校生兼何でも屋
1883/セレスティ・カーニンガム/男/725歳/ 財閥総帥・占い師・水霊使い
2390/隠岐・智恵美/女/46歳 /教会のシスター
2445/不動・尊/男/17歳/高校生
2592/不動・修羅/男/17歳/神聖都学園高等部2年生 降霊師
2922/隠岐・明日菜/女/26歳/何でも屋
4682/黒榊・魅月姫/女/999歳/吸血鬼(真祖)深淵の魔女
4757/谷戸・和真/男/19歳/古書店・誘蛾灯店主兼祓い屋                                      (PC整理番号順 11名)
 *登場NPC*
 *登場NPC*
 草間零、三浦鷹彬、ロスキール・ゼメルヴァイス、ヒルデガルド・ゼメルヴァイス
 中条祥子、真紀子



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■         ライター通信          ■
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 こんばんは、朧月幻尉です。

 …………今回もやっちまいました(呆)
 どんどんと深みにはまっているよねと言うことは言っちゃダメですよ(笑)
 なんだか凄い展開になっているなと思いつつ、分岐点が多くてヒイコラ言っております。
 我ながら濃いとか思いました。
 ご意見、ご要望、苦情の方はファンメールのフォームからお願いいたします。
 ありがとうございました。

>シュライン・エマ様
 すみません、なんだかかんだか……怪我しております、はい。
 どうなっちゃうんだろう、どうしたらいいのだろうと悩みつつも、可愛らしいシュラインさんにガスッと壺入った馬鹿な私。
 解釈が変でしたら、本当にすみません(平伏)

>月見里千里様
 あー、下僕です(は?)
 ただ今、下僕モードはスリーブ中となっておりますが、皆様が邪魔しはじめたらスイッチオンですよ――きっと(まてまて;)

>セレスティ・カーニンガム様
 意外な展開にしてみました。
 またかよ、ロスキール。飾るの好きね(呆)……とか思って書いていたのですが、ごーめーんなさーいー(のたうち)
 次回は頑張って脱出するなりしていただきたく、多くは語らず、うらーと叫んで消えます(お;)

>田中裕介様
 姐さんが絡みに行っておりますが……まぁ、ああいう人なので。
 好きにしてやってくださいませよ。
 多分、姐さんも好きにしそうですが……(えー;)
 さすがにホテルでバトルは壊滅するので……別な方向で。
 うらら〜と叫んで(以下略)

>隠岐智恵美様
 お母様のご出陣ですね。
 段々、嵐のような展開になりそうな気配です。

>不動尊様
 素敵双子様今回もいらっしゃいませ。
 告知してあった期間が短くって、お手間取らせました。申し訳ないです。
 ちょっと最近、兄ぃ〜が可愛いのです(ぽ)

>不動修羅様
 インストールしてまでヴァンパイアゴスって……なんか嬉しくてセロトニンが異常増殖しそうです。
 化粧させてしまいました。ごめんなさいね。
 完全に趣味に走ってますです。
 ちゃんとバトルさせたくって、ちょっと怪我していただきました。
 頑張れ弟様〜なのです。

>隠岐明日菜様
 今回もとほほな明日菜さんです。
 掛け合いが楽しかったです。
 こっちのPCでちょっと反応してるみたいですので、調べてみてくださいね〜。

>谷戸和真様
 今回もご参加誠にありがとうございます。
 設定を使わせていただきましたが、こんな感じで大丈夫ですか?
 どうやったら格好良くなるのか考えてバトルに持ち込んだんですけど。
 もう、そう言う立場に無いって思ってるのじゃないだろうかとか、説明しきれていないのではないのだろうかと、ひとしきり悩んで書いたのを憶えています。
 書いていてとても楽しいです。
 ねずみの式神さんがお店の中を見ているはずですので、次回はその辺の設定とか、疑問とか使ってプレイングを書けるんじゃないのかなぁとか思いました。
 その辺はご自由に楽しく遊んでくださいませ。

>黒榊・魅月姫
 こんにちはです。
 出来うる限り頑張ってみました。
 上手く話が回ってると良いのですが。

>宮小路皇騎
 長々と生徒さんの会話になってしまいました。すみません。
 どのような状況なのか、おわかりいただければいいな〜と思っています。