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<東京怪談ノベル(シングル)>


あちこちどーちゅーき 〜水の記憶〜

 夏休みが終わったせいだろうか。2両編成でのんびり走る車内には、殆ど人影がなかった。目に付く範囲では、通路を挟んだ二つ向こうのボックス席に、一人だけ。学生風の青年が、熱心に携帯用の時刻表を確認している。
 小中学生より長い大学生の休暇も、そろそろ終わる頃である。夏を締めくくる思い出作りの途中なのだろうか。
彼から視線を外し、桐苑敦己(きりその・あつき)は、古びた窓に両手をかけた。冷房の効いていなかった車内に、爽やかな風がさあっと吹き込む。
 幾分、熱気を含んでいるものの、立秋をとうに過ぎた微風には、微かに秋の気配が紛れていた。
 その空気を楽しむように敦己は心持ち目を細めて、のんびりと景色を眺める。平地を挟む両側の山は、こんもりと緑が色濃い。
 街の中でも、緑豊かな環境の中でも、敦己の感覚をくすぐるものがある。そのささやかな勘で、敦己の行き先が決まる機会は、これまでにも良くあった。
 光の色、草の香り、クラクションの響き。敦己が接するあらゆるものの中に、表裏を占うコインと同じ働きをするものは、たくさんある。
 それは、その先で出会うモノにも繋がる。
ふと、車内に視線を戻すと、通路の向こうの青年は、まだ時刻表とにらめっこを続けていた。確かに、この辺りは交通の便が悪い。事前に行程を確認しておかなくては、予定通りに目的地につけないだろう。
 だが、それもまた良し。元々、敦己の旅は、行く先を定めない気ままなものだ。もし、乗り継ぐ列車がなくなれば、そこがその日の宿となる土地。もしも宿がなければ、野宿すれば良い。夏の終わりのこの時期は、日本のどこでも、雨露さえ凌げれば、それなりに過ごせる。
 そして、敦己は一宿の場に困りはしなかった。どこであろうと、他の人なら見過ごしてしまう、快適に過ごせる僅かな空間を探し出せた。
 けれども、今日はそんな得意技を発揮する必要は、無さそうだ。
 澄んだ青空に心が動き、不意に思い立って降りた駅は、線路脇にプラットホームがあるだけだった。
 うっかりすると見過ごしてしまいそうなくらい、小さな駅だが、町はそれなりに整備されている様子だった。商店街を抜け、川沿いに歩くと、程なく旅館が見つかった。
「少し散歩に行きたいのですが、この町の見所はどこでしょう?」
 まずは、宿の女将に当たり障りが無い尋ね方を試みる。わざわざ聞かなくても、気の向くままに適当に歩けば十分なのだが、怪談めいた昔話を聞きだせる時もあった。
「そうですねえ。1ヶ月ほど前なら、蛍祭りがありましたけれど。まだ紅葉には早いですしね」
「蛍……ですか」
 敦己の声に滲んだ疑問を察したのか、女将はその所以をかいつまんで話してくれた。
 この町は、小規模ながら結構、都会的である。だが、今の状態に整備されたのは、ここ10年程の間らしい。隣接する比較的大きな市のベッドタウンとして開発が進む前は、自給自足で暮らす集落と言って良いような、小さな町だった。
 ただ、蛍だけは近隣で有名になるくらい見事で、この旅館も、当時の避暑客を相手に営まれていたものの、名残らしい。
「今は祭りの時だけ、養殖蛍を放すのです。観光用に川を元に戻そうという話もありますが、なかなか」
「そうですか」
 それから暫く世間話を続けた後、敦己は思い立った方向へ気まぐれに足を向けてみた。
「この川岸に、以前は蛍が飛び交っていたのですか」
 駅へ向かう道を逆に辿ってみる。川とは名ばかりで、最早それは溝と呼んだ方が良いくらいだ。
 さして広くない両側はコンクリートで固められ、申し訳程度に細い筋が底を這っている。
 これでは、蛍は育つまい。
「もう少し早く来れば良かったですね」
 たとえ養殖の蛍でも、それはそれで壮観だっただろう。何気なく呟いて、敦己は踵を返した。
 枯れる寸前の川は、傾いてきた日を受けて、弱々しく輝いていた。

 夕食後、敦己は再び散歩に出た。彼の好奇心を刺激するような、摩訶不思議な言い伝えは、町の人からは聞けなかった。住人の多くが、この数年に入れ替わったからかもしれないが、宿の女将も、怪談話は覚えがないと言っていた。
「まあ、時にはのんびり景色を楽しむだけの旅も良いでしょう」
 他に行くあてもなく、自然と足は例の川縁へと向かう。月明かりに照らされて、虫の音がどこからともなく聞こえてくる。
「あれ?」
 敦己は思わず足を止めた。
 ぼんやりと明滅する小さな光が、ゆらゆらと数メートル先を漂っている。
「蛍? まさかね」
 昼間、さんざん蛍の話を聞いたせいか。祭りの時に放された蛍が生き残っていたとしても、もうとっくに時期を過ぎている。
 だが、敦己を誘うように、小さな灯は、ふうわりと漂い続けていた。
 ざく、と踏み出した足が砂利の感触を伝えてきた。
 光の正体は何だろう? もしも、いるはずがない蛍だとしたら。
 いつの間にか虫の音が止んでいる。頭の奥を、ちり、と掠めた感触があった。けれども、嫌な感じは全くしない。
 ゆるやかに先導する光を追って、敦己はゆっくりと歩き続けた。辺りへの注意は怠らない。もしも、怪異の世界に引き込まれてしまったなら、傍らの川が突如大河に変貌する事もあり得る。
「あっ!」
 目の前に広がった光景に、敦己は息を飲んだ。
 圧倒的な光の洪水。一つ一つは、柔らかで小さな光だが、無限とも感じられる広がりは、怖れを伴う程に幻想的で美しい。輝きも動きも柔らかでありながら、渦に飲み込まれていきそうな感覚に、敦己は暫し立ち尽くしていた。

 翌朝、旅立つ前に敦己は三度例の川に立ち寄った。
 コンクリートの護岸は低く、腹這いになって手を伸ばせば、底に届く。
 昨夜見た幻が一瞬のものだったのか、かなり長い時間引き込まれていたのかは、分からない。
 霊や物の怪に接した経験は数多くあるが、物言わぬ存在には、あまり接していなかった気がする。
 敦己は、あれが幻だとは考えていない。恐らくは、この川、もしくは、この川にまつわる水の神の記憶なのだろう。
 静かに枯れていく川は、自らを死に追いやった人を恨むでもなく、変わり果てた姿を嘆くでもなく。何らかの要求を訴えてくることもしなかった。
 ただ、川は覚えておいて欲しかったのだろう。かつての、神々しいまでの姿を。
 仮に、この先川を自然の姿に返して、再び蛍が舞うようになったとしても、その時流れている水は、はるかに遠い過去から連綿と流れ続けてきたものとは違う。この水の神は、もう居なくなってしまうのだ。
 或いは、既に神は去っているのかもしれない。
 余所者の自分が、事情も知らず闇雲に、自然を破壊してはいけないとは言えない。土地それぞれに、事情はあるのだ。
 望むものと引き換えに、何を失うのか、承知している人は少ないのかもしれないが。
 物言わぬもの達であっても、敦己には見え、聞こえ、時には話もできる。それがひっそりと姿を消していく様は、友人を失うようで寂しい。
 ささやかながら授かった能力で、見えざる者達の望みを叶えてあげられる場合もある。
 しかし、今は指先を掠める涼やかな感触に、そっと語りかけるだけだった。
(忘れませんよ)
 もしも再び、この川が夢見た蛍舞う光景が、現実になったなら。その時、敦己は新しい川に、あの荘厳な記憶を伝えるだろう。新たな川が、目指す姿の希望となるように。