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<東京怪談ノベル(シングル)>


あちこちどーちゅーき〜篁に漂う〜



薄れゆく緑の中に――。



 ゴトンゴトン、ゴトンゴトン。
 腹に響くような重い音をたてながら、オレンジと緑のツートンカラーに塗り分けられた電車が走る。窓の外に広がるのは、真夏の緑から初秋の黄へと変わり始めたばかりの田園風景だ。その都会の喧騒から遠く離れた、のどかな景色の中を電車が走っていく。
 車輪の巡る重い音が響く度に、軽く縦揺れの襲う車内。お世辞にも乗り心地が良いとは言えない席に座って文庫本を読んでいた桐苑敦己は、手の中に向けていた視線を上げて、左手の時計を確認した。
 JR小山駅を出てから、10分と少し。そろそろ、目的地へと着く筈だ。
 そう思った途端、ここまで来るまでの苦労が頭を過ぎり、敦己は小さくため息をついた。
 初めて下車したJR小山駅での事。本日の目的地へと向かう為、栃木県の小山市から群馬県内まで走っているという両毛線に乗り換える事にした敦己は、時刻表を確認し、軽いショックを受けたのだ。
 ……乗り換えの為の電車が、1時間に1本しか、ない。
 小山駅といえば、新幹線の停まる駅ではなかったか? そもそも、関東地方ではなかっただろうか?
 日本のあちこちに足の伸ばしている敦己ではあったが、都心から僅かに(といっても、電車で1時間16分だ)離れただけで、ここまで交通の便が悪いとは思わなかったのである。ここから目的地までタクシーで……とも思ったが、結局の所、駅で1時間待つ事に決め、彼はホームのベンチで時間を潰したのだ。小山駅の中でも、離れた場所にある両毛線のホームは、完全に新幹線の高架の下になってしまっているようで、日が当たらず、ひんやりとしていた。ホームに客の姿は疎らだったが、昼間だったからか、それとも、これが普通なのかは分からない。やがて、敦己の目の前に停まったのは、僅かに4両で編成されたツートンカラーの電車だった。
 これで群馬県の前橋辺りまで走ってしまうというのだから、侮れませんね。
 ガタリゴトリ、と揺れと重低音が続く車内で、彼は、もう1度ため息を付き、手の中の本へと目を落とす。
 本の題名は、『雨月物語』。
 ふらりと出かけた旅の途中で、何の気なしに手に取った本だ。江戸時代に書かれたもので、日本や中国の古典から脱化した怪奇小説9編から成っている。何故、こんな古典文学を手に取ったのか、それは敦己にも分からない。ただ、この本を手に取った事が切っ掛けで、彼はここにいる訳なのだが。
 『雨月物語』の中に、『青頭巾』という話がある。物語の筋は、こうだ。昔、下野国・富田という村での事。この村の住職が、自分が可愛がっていた少年が死んでしまったのを悲しんで、修羅道に落ちてしまった。その坊主を快庵禅僧という旅の僧が諭し、一遍の歌と自分の被っていた頭巾を与えて去った。その後、旅の帰り道、快庵禅僧が再び村を訪れると、坊主は一心不乱に与えられた歌を口にしていた。そこで、快庵禅僧が持っていた杖で坊主をたたくと、その姿は消えて、後には骨と青い頭巾だけが残ったという。
 この『青頭巾』の舞台が、実際に残っている。しかも、話に続きがあって、坊主を叩いた杖を墓印として植えた所、藤の木になってしまったという後日談付きらしい。その話を聞いたから、敦己は今回の旅に出発したのだ。果たして、『青頭巾』の舞台になった寺とは、どんな場所なのだろう……。
 夏の頃に比べると、数段、柔らかくなった陽射しが開かれた本のページを明るく照らす。車輪の巡る音と、ページを捲る音。その二つだけが、話し声のない車内に流れている。敦己の他に客は誰もいない。このまま、何時までも、この時間と空間が続いてしまうのではないかと錯覚してしまいそうになる。
「まもなく、大平下、大平下でぇす。」
 車内を満たしていた静かな空気を破るように、車内アナウンスが響いた。まもなく、駅に着くらしい。敦己は文庫本を閉じると、窓の外を見やった。スピードを落とし始めた電車の窓から、先程とは打って変わって、山と果樹園らしきものが広がっているのが見える。その山の中に、ぽつぽつと見える屋根は、民家のものなのだろうか。ガタンと一際大きく電車が揺れて、電車は大平下駅のホームに停まった。


 大平下駅は、無人駅だった。
 この駅で降りた客がいなかったという意味ではない。いなかったのは、駅員の方だ。ついでに、今時、何処の駅にもあるだろうと思われる自動改札もなかった。その代わりに、普通の改札口に、切符入れと書かれた箱が設置してあるのみだ。またしても、軽くショックを受けてしまった敦己だったが、何人かの客と同じように箱に切符を入れると外に出る。ホームに比べて、新しく思える駅舎を出て、ほんの数段からなる階段を下りた所に、観光用の案内版があった。そこには、大平町の簡単な地図と幾つかのイラストが描かれている。その中に、葡萄を手にしている観光客らしきイラストがあった。どうやら、この町の名物は葡萄であるらしい。
「ははぁ、なるほど。先程の果樹園は葡萄畑でしたか。うーん、ちょっと惜しかったかな。」
 もう少し時期が早ければ、葡萄狩りが出来たかもしれないのに、と思いつつ、敦己はもう1度案内板を眺めた。あの『青頭巾』の舞台が載っているかもしれないと思ったからだ。確か、あの話の舞台になった寺は、大中寺といった筈だ……。
 敦己の目が案内板の上をさ迷う事、暫し。彼は、地図上に目的地の名前を見つけた。方向としては、葡萄畑がある方向だが、山寺であるらしく、名前が書かれているのは山の中腹付近だ。詳しい事は行ってみれば分かるだろうと、敦己は葡萄畑の方へ歩いていく事にした。
 ゆっくりと、早すぎず、遅すぎず、自分のペースで彼は歩を進めていく。秋の日差しは柔らかく、ほわんと敦己の背中を包み込んだ。一度、それなりに広く交通量のある通りへ出て、十字路を渡り、陸橋を越える。陸橋の下は、先程乗ってきた両毛線の線路になっているようだったが、残念ながら電車は走っていなかった。陸橋を越えると、緩やかに左方向へとカーブする上り坂が続く。案内板には、ハイキングコースと書かれていたが、それにしては、かなりアップダウンのあるコースだ。
「やれやれ、まだ登りますか。」
 ふうと息をついて、額に滲んできた汗を拭う。時折、後ろから走ってきては追い抜いていく車が、少し恨めしく思えてきた頃、敦己の視界が一瞬、暗くなった。山間の日陰に入ったのだ。ここが登り道の終点で、この先は下りになるらしい。太陽の光を遮る木々とは反対側に、緑色の水はたまった沼のような池が見える。そして、その池の周りを回る道と登ってきた道がぶつかった所に、青地に白い文字の書かれた案内標識があった。
 見上げると、右方向に書かれた矢印の方に『大中寺』の文字がある。
「大中寺は、この先のようですね。」
 見れば、それは緑の水がヌルリと光る池の方だった。深く深く、底の見えない緑の池。日陰にある為なのか、そこはかとなく寒々とした空気が漂っているように思われる。よく見れば、池の中にある小さな島のようなものには、赤い花を咲かせた木があったりするのだが、それすらも、薄ら寒い風景にしか見えない。
「青頭巾の舞台へ行く途中も、雰囲気たっぷり……といった所なんでしょうが……。」
 過剰なサービスは要らないんですけど。
 ぽつりと呟いて、敦己は更に急になった小道を登る。舗装はされているし、民家が両脇にならんでいるので、普段使われている道なのだろう。だが、なんとも細い道だ。車一台通るのがやっと、恐らくすれ違う事は出来ないに違いない。
 その道を登り切ると、目の前に遠く、山門まで続く杉並木が姿を見せた。かの日光杉並木を思わせる太い杉の木が両側に並ぶ。黙って立っていると、両脇の杉に圧倒され、自分という存在が周囲から聞こえる死に遅れた蝉の声に混じって消えてしまうのではないかと思う。
中央には、山門まで緩やかな石段が続いていた。段差は低いが詰まれた石は、なかなかに大きな石段だ。戯れに敦己が数えてみた所、山門までの段数は40段だった。山門をくぐると、今度は急勾配の石段だ。先程の石段と違い、一段一段が狭くて急なので、よじ登る様にして上がる。石段の左手には、竹林が広がり、頭の上からは緑を透かして日光が降ってくる。山の中なので、平地よりも気温も低いのだろう。ひんやりとした風が、敦己の頬を撫ぜた。
やっとの事で石段を登り、顔を上げると境内にある竹で仕切られた階段らしきものが、目に飛び込んできた。まるで、誰かが登るのを禁じているかのように、本堂前まで続く石段を封鎖している竹竿。何故、こんな事がされているのか、敦己は不思議に思ったが、その理由は直ぐに分かった。件の石段の脇に、『油坂』と書かれた看板があるのに気がついたからだ。それによると、昔、寺の油を盗んだ学僧がこの石段から転げ落ち、以後、石段を登る者には災いがあると言われているらしい。
「そういえば……。」
 この寺には、七不思議と言われる言い伝えがあって、それが有名だという事でしたっけ。
 竹で封鎖された石段を見上げながら呟く。よくよく見れば、人の通らなくなった石段の左手に本堂まで続く、登り道があった。とりあえずは、本堂まで登ってみようと、彼は今現在使われているらしい階段へ向かった。登り口に小さな池があり、石壁を伝って落ちる水音が耳に心地よい。水面に咲いた小さな黄色い水蓮が、妙に印象的だった。


 大中寺の本堂は、緑の中に堂々と建っていた。梁には、見事な龍が彫られている。白木なのは、塗装が落ちてしまったからなのか、それとも元々そうなのかは分からないが、かなり古いものの様に思えた。
「うーん、これは立派なものです……。」
 幾分、圧倒されながら呟いた敦己の傍らで、この寺の由来を伝える案内板があまり知られていないだろう追加情報を語っている。といっても、長いので、彼は右から左に流し読みしただけだったのだが、その案内板曰く。この寺は上杉謙信に縁があるらしい。徳川家康とも関係があるらしい。歴史ファンならずとも、まず知らない人はいないのではないかと思われる名前を前にして、敦己は軽い眩暈に襲われた。こんな有名人と関係がありながら、何故、この寺はこんなにも寂れているのだろう、と。
「……この町の観光協会の宣伝ミス、というヤツなのでは?!」
 『青頭巾』の舞台である事を思えば、断然、人がいない方がいい。しかし。少しばかり胸中に複雑なものを覚えつつ、本堂を見上げていた敦己に後ろから声がかけられた。
「お客人。この寺の本堂で手を合わせてはなりませんぞ。参ると憑かれるそうですから。」
 その声に振り向くと、何時の間に立っていたのか、彼の傍らに袈裟を着た僧がいた。先程まで境内に人の気配はなかったのに、と敦己は内心首を捻ったが、寺の住職であるなら裏手からでも回ったのだろうと思い、気にしない事にした。
「憑くといいますと……?」
「ははは、あくまで噂ですが、霊がね。憑くらしいのですよ。当寺は、七不思議が有名なので、そんな噂がたっているのでしょう。」
 くつくつと穏やかに笑う僧を敦己は静かに見つめた。確かに、そこにいるはずなのに、気配を掴む事ができない。掴みどころがない、とでもいうのが正しいのか…。
「どうかしましたか。」
「い、いえ。」
 不思議そうな顔をした僧に言われて、敦己は慌てて話題を逸らした。
「あの、こちらのお寺に雨月物語の青頭巾に関係する藤の木があると聞いてきたのですけど……。」
「あぁ、そういって来られる方は割りと多いんですよ。お探しの藤というのは、根無し藤の事でしょう。こちらです。」
 先にたって歩き出した僧の後を、敦己は急いで追いかけた。
案内された先は、寺の裏だった。地元の家々のものなのだろうか、幾つもの墓が並ぶ。その中を、僧は上へ上へと登った。
「これです。」
 斜面を登りきった僧が指したのは、今だ枯れぬ夏草に埋もれた一本の藤だった。お世辞にも手入れが行き届いているとは言えない為、恐らく一人では見つけられなかったに違いない。そう思いながら、彼は藤を見上げた。その木は、敦己が予想していたよりも、ずっと小さくて細かった。
「かつて、鬼となって人を食っていた僧を退治した快庵禅僧が、鬼となっていた僧の墓印として立てた杖が、この藤になったと言われています。藤の木の周りにあるのは、代々のこの寺の住職の墓ですよ。」
 木々の下に並ぶ白い墓石を前に淡々と語る僧の傍らで、敦己はただ、じっと藤の木を見あげていた。

「色々とお世話になりました。七不思議、面白かったです。」
 寺の山門の前で、敦己は僧に向かって頭を下げた。結局、根無し藤以外の七不思議まで、僧に案内して貰ってしまったからだ。町の観光協会に申し込めば、ガイドをしてくれるらしいのだが、こちらは集団になってしまうらしいし、何より寺に詳しい人に案内して貰える方がいいに決まっている。
「いえいえ。どうぞ、道中お気をつけて。」
「はい、それでは……。」
 深く頭を下げる僧に、敦己はもう1度頭を下げると踵を返す。と、山門の外へ一歩踏み出そうとした敦己の後ろから、声がした。
 囁くような、呟くような……。

 江月を照らし 松風吹く
     永夜清宵 何の所為ぞ――

  聞こえてきたのは。快庵禅僧が、あの鬼となった坊主に青頭巾と共に与えたという、あの歌だ。
 はっとして、振り向いた彼の後ろには、先程までいた筈の僧の姿は何処にも無く。ただ、風に揺れる篁の中で、法師蝉の声が高く高く鳴り響いているだけだった。



■終■